吉原・両国地図

 吉原の江戸後期地図(切り絵図)部分。右下に伏見町が見える。
 江戸末期の新吉原の見取り図。右のくねった道は「五十間道」とも通称される「衣紋坂」で、日本堤と遊廓とをつなぐ唯一の連絡路。入口の脇には「見返り柳」が見える。「大門」をくぐった先が吉原遊廓で、「おはぐろどぶ」に囲まれた、閉鎖された区域であった。大門を入ると廓内は、中央に仲之町、突き当たりが水道尻、あばら骨のように左右に町があった。
 衣紋坂を含め、道路のつくりはほぼこのとおりに現存していて、地図で容易に確認することができる。地図は見易いように約45度傾けてあります。
 寛文8年(1668)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。 これが伏見町の始まり。

  現在の旧吉原地区。堀もなく、大門もなく、遊廓も茶屋もありません。有るのは当時の道路とその面影だけです。


 現在の両国近辺の地図。勝海舟生誕の地前にあった案内地図。
赤穂浪士は吉良邸で討ち入り成功し、態勢を立て直すために西隣の回向院に集合を掛けたが開門を 許されず、その西の両国橋東詰めに集合、渡ろうとしたが幕府管理の橋のため渡れず、一の橋を渡って 南に進路を取って永代橋を渡った。

 伊能忠敬作図の地図。右が北で隅田川に両国橋が見えます。その下に水色で囲まれた回向院、その下の
白く作図されていない所が吉良邸跡。隅田川を下って最下流に永代橋があります。その下に佐賀町があり、
そこに乳熊(ちくま)屋味噌店が有ります。お熊さんはここで主税と再会したのです。

 

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