落語「蛙の女郎買い」の舞台を歩く
古今亭志ん生の噺、「蛙の女郎買い」(かえるのじょうろかい。別名・蛙の遊び)によると。 昔は浅草から吉原に掛けて大きな田圃がありました。この田圃を突っ切って冷やかしに行ったものです。
この噺はマクラで使われる小咄です。特に吉原の噺や女郎の噺に入っていく導入で使われます。志ん生も大好きであった小咄なので、今回はこの部分を取り上げて歩きます。 1.八つ橋
左;「三河の八つ橋の古図」北斎
現在この地には、八つ橋史跡保存館」、「かきつばた会館」などがあります。
有名な『伊勢物語』第九段三河国八橋の情景を描いた硯箱。ここには物語絵にありがちな説明的な要素はなく,主題の本質を鋭く追求する文様構成と装飾材料の大胆な用法が見る者の目を引く。光琳蒔絵の特質をはっきり示した彼の代表作です。
右;「八橋蒔絵螺鈿硯箱」部分 尾形光琳作 縦27.3cm 横19.7cm 高サ14.2cm 木製漆塗 江戸時代 国宝 東京国立博物館蔵
■仕懸け(しかけ);遊里で、うちかけをいう。また、小袖をいうこともある。(右図も:広辞苑「うちかけ」)
2.吉原
左から「大籬」(総籬)、揚代が二分以上の遊女しかいない高級妓楼。 実際の費用は遣り手、若い衆、取り巻きに祝儀を切るので、倍以上の費用が掛かり、飲食費+芸者・幇間の費用が別途掛かります。1両は8万円として、二分=4万円、二朱=1万円 「吉原格子先の図」 葛飾応為画 応為(おうい)は北斎の三女・お栄さんのことです。北斎と二人で生活していたのは有名です。女流画家が吉原を見るとひと味違います。
■冷かし;広辞苑では、張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。とあり、「冷かす」で、(「嬉遊笑覧」によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞)登楼せずに張見世の遊女を見歩く。と載っています。また、大言海にも同じような説が載っています。 「冷やかし」のことを「素見」(すけん)とも言いました。 この噺もかわず(蛙)を買わずに掛けて、冷やかしになったというのは、深読みでしょうか。 ■紙洗い橋;(台東区東浅草1-13と4の間に架かる)吉原の入口横に流れていた掘りを山谷堀といい、吉原の入口に近い橋が「日本堤橋」、その下流が「地方橋」、「地方新橋」、「紙洗橋」と四橋下流の橋がこの舞台です。この下流に五橋架かっていて、最下流の橋が「今戸橋」で、隅田川に合流します。 ■浅草紙;すきがえし紙の下等品。主におとし紙に用いる。江戸時代に、多く浅草山谷や千住辺から産出したからいう。広辞苑
■紙漉町;浅草・田原町(現在の台東区雷門一丁目5番地、田原小学校辺り。ざっと浅草寺雷門前西)において江戸時代の延宝期(1670年代)に浅草紙が興ったといいます。紙漉きを業とする者が多く住んでいたので、通称「紙漉町」と呼ばれていた。しかし、その後、浅草で興った浅草紙の生産の中心は、近辺の宅地化、都市化などにより、浅草寺の裏手に当たる山谷掘周辺や橋場方面へ、さらに江戸後期には千住方面、また足立区本木・梅田付近へと北上しながら移動をしていきます。近代製紙工場が出来、手漉き形の零細業者は駆逐され戦後には絶滅します。
寺田寅彦は次のように大正10年1月『東京日日新聞』で書いています。
3.浅草田んぼ(別名、吉原田んぼ) ■田町;(台東区浅草6丁目)
4.蛙(かえる)
左図;トノサマガエル
アカ;あか‐がえる【赤蛙】、背が赤褐色で中形の一群の総称。ニホンアカガエル・ヤマアカガエルなど。平地や山間の湿地にすみ、背は暗褐色の斑点があるが、種や生息地によって色を異にする。疳(カン)の薬とされた。山蛙。
左図;ヤマアカガエル
アオ;青蛙、背面は緑色、四肢の各指端に吸盤があり樹上生活をする一群の総称。環境に応じて体色を変える。腹面は白色。体長4~8cm。本州・四国・九州・沖縄に産し、樹上または田の畔の土中に白い泡状の卵塊を作る。モリアオガエル・シュレーゲルアオガエル・オキナワアオガエルが代表的。また、広義にはアマガエルのほか、アオガエル科に属する暗褐色のカジカガエルなども含む。
左図;シュレーゲルアオガエル
エボ;いぼ‐がえる【疣蛙】の志ん生の訛り、(いぼが多いから) ツチガエルやヒキガエルの別称。
つち‐がえる【土蛙】、体長4~5cm。背面は黒褐色、多くの疣(イボ)状突起がある。腹面は灰色で黒点が多い。本州・四国・九州・朝鮮半島などの水辺に見られる。6月頃産卵し、おたまじゃくしのまま越年して、翌春、成体になる。イボガエル。ババガエル。
左図;ツチガエル
以上、蛙の写真をご覧になるとお分かりのように、目玉は頭の上に飛び出してはいますが、決して視線は後ろではなく前に向いています。(それを言っちゃ~お終いよ。ハイ、分かっております)
■長崎ドンク、網場(あば)ドンク;長崎地方の方言で蛙をドンクと言います。長崎にもあった蛙の話。そのドンクが繰り広げる噛み合わないおかしさ滑稽さ。
■蛙の噺
神様にはお使い姫が必ず居ます。弁天様にはヘビ、天神様には牛、お稲荷様には狐のように仕えています。
舞台の紙洗橋を歩く
紙洗橋は山谷堀に架かった吉原から数えて四つ目の橋です。山谷堀は有名な堀で、江戸時代、掘りと言えばこの山谷堀を指したと言います。山谷堀の下流(河口)は隅田川の待乳山聖天(まつちやま_しょうでん)を基点に三ノ輪を抜けて王子の音無川に繋がっています。あの深山幽谷の趣ある音無川がここまで下ってくると俗界に毒された掘になってしまう悲しさを覚えます。 紙洗橋の周辺には当然、紙漉職人の家がある訳ではなく、ごく普通の住宅街に変身しています。
左のシーンはバージンパルプを手漉きで漉き取っている所です。前回落語「山崎屋」で訪れた日本橋本町3-6小津和紙店で和紙の手漉きの実演です。ここでは素敵な和紙が漉きあがりますが、紙洗橋周辺で漉かれた浅草紙はこんなに上等な紙ではなく、落とし紙に使われてしまいました。しかし、材料は変わってもその製法は同じです。
浅草紙の規格が現代まで引き継がれたものに
明治に入って吉原の冷やかしも大分緩やかになって女性でも見学が出来るようになりました。NHK-TVドラマで有名になった十三代将軍徳川家定・御台所となった「天璋院篤姫」も勝海舟とここを訪れ冷やかしを楽しんだと言われます。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。 2009年11月記 |
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