落語「蛙の女郎買い」の舞台を歩く

 

 古今亭志ん生の噺、「蛙の女郎買い」(かえるのじょうろかい。別名・蛙の遊び)によると。
 

  昔は浅草から吉原に掛けて大きな田圃がありました。この田圃を突っ切って冷やかしに行ったものです。
<惚れて通えば千里も一里 長い田圃もひとまたぎ>
学校じゃ、あんまり教えないけれど・・・、毎晩冷やかしがゾロゾロ田圃を通り、女の噂を言い合うので、田圃の蛙が覚えてしまい、
「オイどうだい、人間ばかり冷やかしに行くから、蛙仲間もみんなで冷やかしに行こうじゃねえか。殿様、お前は背中に筋があって様子がいいよ。アカも行くか、アオもみんなで行こうぜ、エボ、汚ねえな・・・でも連れてってやろう。人間と同じように後足で立っていくんだ。いいか、はぐれたら踏み潰されちゃうから気ィ付けなよ」と繰り出した。
 ここが吉原だ。綺麗だな。見世に七人の花魁が並んでいるのを見て、
「おう、どれがイイ?」
「俺ァ、上(かみ)から四枚目の女がいいなァ」
「ん~俺ァ違うな、下(しも)から四枚目がいい」
「ああ、なるほど・・・?ん 真ん中だから同じだい」
「どうして、あの女がいいんだい」
「着ている仕懸けが『八橋』だからな、俺達ァ八橋は恋しいよ」
「なんていう名か聞いてみな。おい、若い衆さん、八橋の仕懸けェ着ているのは何てェ名前だい」
「私どもにはいませんよ」
「あすこにいるじゃないか」
「八橋の仕懸け着ているのはお向こうさんですよ」
蛙だから立ってたんで、目が後ろについていた。

 この噺はマクラで使われる小咄です。特に吉原の噺や女郎の噺に入っていく導入で使われます。志ん生も大好きであった小咄なので、今回はこの部分を取り上げて歩きます。

1.八つ橋
 八つ橋、愛知県知立市の東部、逢妻川の南の地名。伊勢物語の東下りにカキツバタの名所として詠まれたところ。丘に業平塚がある。広辞苑

左;「三河の八つ橋の古図」北斎
橋を八つ渡したためにこの名がついたという。

現在この地には、八つ橋史跡保存館」、「かきつばた会館」などがあります。

 有名な『伊勢物語』第九段三河国八橋の情景を描いた硯箱。ここには物語絵にありがちな説明的な要素はなく,主題の本質を鋭く追求する文様構成と装飾材料の大胆な用法が見る者の目を引く。光琳蒔絵の特質をはっきり示した彼の代表作です。

右;「八橋蒔絵螺鈿硯箱」部分 尾形光琳作  縦27.3cm 横19.7cm 高サ14.2cm 木製漆塗 江戸時代 国宝 東京国立博物館蔵

仕懸け(しかけ);遊里で、うちかけをいう。また、小袖をいうこともある。(右図も:広辞苑「うちかけ」)

題名の読み;蛙は「かえる」と読みますが、志ん生の江戸言葉では「かいる」と発音しています。「じょうろかい」は、江戸の言葉では「じょろう」ではなく「じょうろ」と発音します。江戸言葉で言えば「かいるのじょうろかい」です。書いてて、こんがらがってくるのは志ん生だけなのでしょうか。

 

2.吉原
 見世の挌と籬(まがき);籬とは妓楼入口の土間の横にある格子状の桟(さん)の事。この格子から中に並んだ遊女をお見立てする。
 下図にある、入口の籬の状態によってその妓楼の格がだいたい分かります。

左から「大籬」(総籬)、揚代が二分以上の遊女しかいない高級妓楼。
中、「半籬」、揚代が二分以上と二朱までの遊女がいる中級妓楼。
右、「小格子」、揚代が一分以下の遊女しかいない下級妓楼。

 実際の費用は遣り手、若い衆、取り巻きに祝儀を切るので、倍以上の費用が掛かり、飲食費+芸者・幇間の費用が別途掛かります。1両は8万円として、二分=4万円、二朱=1万円

 

 「吉原格子先の図」 葛飾応為画 応為(おうい)は北斎の三女・お栄さんのことです。北斎と二人で生活していたのは有名です。女流画家が吉原を見るとひと味違います。

冷かし;広辞苑では、張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。とあり、「冷かす」で、(「嬉遊笑覧」によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞)登楼せずに張見世の遊女を見歩く。と載っています。また、大言海にも同じような説が載っています。
 志ん生は、「冷やかし」の語源を噺の中で説明しています。「近くに紙すき場があり、紙屋の職人が紙を水に浸して、紙の冷やける間一回り廻ろう、ってんで冷やかしという名前がついたんですな」と。落語の噺なんてまゆつばでしょうと思っていたら、広辞苑にも大言海にもこんなにも堂々と載っているのでは信じるほかありません。
 私は、「ウインドーショッピング」だと理解しております。

 「冷やかし」のことを「素見」(すけん)とも言いました。
 『素見が七分買うが三分なり』 江戸川柳 天明2年
吉原の廓内を歩いている連中の七割が素見、いわゆる冷やかしであった。しかし、その七割が賑やかさを演出したのかも知れません。決して紙屋の職人や蛙だけが冷やかしで有ったのではありません。また、吉原だけではなく、他の岡場所等でも、状況は同じでした。
しかし、花魁から見れば、
 『つらいこと素見にばかり惚れられる』 柳多留
指名して貰って初めてお客様、お客でない相手に惚れられても・・・ねぇ。
 『おかしさは素見の女房りん気なり』 柳多留
吉原に行ったと言うだけで、女房はなんで焼き餅を焼くのでしょう。

 この噺もかわず(蛙)を買わずに掛けて、冷やかしになったというのは、深読みでしょうか。

紙洗い橋;(台東区東浅草1-13と4の間に架かる)吉原の入口横に流れていた掘りを山谷堀といい、吉原の入口に近い橋が「日本堤橋」、その下流が「地方橋」、「地方新橋」、「紙洗橋」と四橋下流の橋がこの舞台です。この下流に五橋架かっていて、最下流の橋が「今戸橋」で、隅田川に合流します。
 今はこの山谷堀は埋め立てられて、山谷堀公園と名前を変えて住民に利用されています。

浅草紙すきがえし紙の下等品。主におとし紙に用いる。江戸時代に、多く浅草山谷や千住辺から産出したからいう。広辞苑

紙漉町;浅草・田原町(現在の台東区雷門一丁目5番地、田原小学校辺り。ざっと浅草寺雷門前西)において江戸時代の延宝期(1670年代)に浅草紙が興ったといいます。紙漉きを業とする者が多く住んでいたので、通称「紙漉町」と呼ばれていた。しかし、その後、浅草で興った浅草紙の生産の中心は、近辺の宅地化、都市化などにより、浅草寺の裏手に当たる山谷掘周辺や橋場方面へ、さらに江戸後期には千住方面、また足立区本木・梅田付近へと北上しながら移動をしていきます。近代製紙工場が出来、手漉き形の零細業者は駆逐され戦後には絶滅します。

 落とし紙(便所紙)などに使われていた浅草紙は、江戸時代の庶民に親しまれていた安価な漉き返し紙。リサイクルペーパー。
 左;王子・紙の博物館のご協力で所蔵品の提供写真(著作権が紙の博物館にありますのでご注意下さい)
「浅草紙」 明治30年(1897)頃/漉き返し紙/約175×235㎜
明治30年代初期の封書の中に入っていたもので、漉き返し紙のため、髪の毛や新聞紙、ゴミなどが混入している。
大量に生産されていたが、使い捨てされてしまうもののため、現存品が少ない。写真をクリックすると大きくなります。

 寺田寅彦は次のように大正10年1月『東京日日新聞』で書いています。
 ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙(あさくさがみ)が落ちている。それはまだ新しい、ちっとも汚れていないのであった。私はほとんど無意識にそれを取り上げて見ているうちに、その紙の上に現われている色々の斑点が眼に付き出した。続きはこちら

 

3.浅草田んぼ(別名、吉原田んぼ)
 遊郭吉原を取り巻く一帯に有った田んぼ地(台東区浅草3~6丁目と同千束1~3丁目の一部)。その南側が浅草寺。遊郭吉原に行くのに、蔵前の方から近道を行くと、浅草寺の境内を縦に突っ切り、浅草田んぼを行けば、その先に吉原の明かりが見えた。落語「唐茄子屋政談」に出てくる勘当された若旦那が、初めて唐茄子を担ぎなが売り歩き、気が付くとこの吉原田んぼに出て、吉原を遠くに見ながらつぶやく場面があります。若旦那の述懐が何ともほろ苦く遊びの世界と現実の世界のギャップをまざまざと見ることが出来ます。 

田町(台東区浅草6丁目)
 吉原と浅草寺の間だの土地。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。安易な町名の付け方ですが、現在この地名はありません。田町とは江戸に(東京にも)同名の町名が他にも有りますが、落語の世界では断りを入れない限り、ここの”田町”が舞台です。
第11話・落語「ぞろぞろ」より孫引き

 

4.蛙(かえる
殿様;とのさま‐がえる【殿様蛙】、中形で、全体緑色または褐色、多くの暗褐色・黒色の斑紋があり、背面中央線に1本の太い緑色または黄色の縦条がある。日本にいる最も普通のカエルで、水田・湿地に多く、5~6月頃、寒天質に包まれた卵を水中に産む。小虫を捕食。金線蛙。

左図;トノサマガエル

アカ;あか‐がえる【赤蛙】、背が赤褐色で中形の一群の総称。ニホンアカガエル・ヤマアカガエルなど。平地や山間の湿地にすみ、背は暗褐色の斑点があるが、種や生息地によって色を異にする。疳(カン)の薬とされた。山蛙。

左図;ヤマアカガエル
 江州伊吹山と丹波篠山で捕れた赤蛙は小児疳の薬として有名で、干肉を丸薬とした「赤蛙丸」が麹町三丁目老舗の助惣本店で売られていた。江戸では行商人が生きた赤蛙を売り歩き、客の前で皮をむいてくれた。焼いて醤油を付けたりして、病人などに食べさせた。その味は鶏肉に似ています。食用蛙のウシガエルも味は鶏肉に似ていますので黙って出されたら判別が付かないでしょう。

アオ;青蛙、背面は緑色、四肢の各指端に吸盤があり樹上生活をする一群の総称。環境に応じて体色を変える。腹面は白色。体長4~8cm。本州・四国・九州・沖縄に産し、樹上または田の畔の土中に白い泡状の卵塊を作る。モリアオガエル・シュレーゲルアオガエル・オキナワアオガエルが代表的。また、広義にはアマガエルのほか、アオガエル科に属する暗褐色のカジカガエルなども含む。

左図;シュレーゲルアオガエル

エボ;いぼ‐がえる【疣蛙】の志ん生の訛り、(いぼが多いから)  ツチガエルやヒキガエルの別称。

つち‐がえる【土蛙】、体長4~5cm。背面は黒褐色、多くの疣(イボ)状突起がある。腹面は灰色で黒点が多い。本州・四国・九州・朝鮮半島などの水辺に見られる。6月頃産卵し、おたまじゃくしのまま越年して、翌春、成体になる。イボガエル。ババガエル。

左図;ツチガエル

ひき‐がえる【蟇・蟾蜍】 、左図。体は肥大し、四肢は短い。背面は黄褐色または黒褐色、腹面は灰白色で、黒色の雲状紋が多い。皮膚、特に背面には多数の疣(イボ)がある。また大きな耳腺をもち、白い有毒粘液を分泌。動作は鈍く、夜出て、舌で昆虫を捕食。冬は土中で冬眠し、早春現れて、池や溝に寒天質で細長い紐状の卵塊を産み、再び土中に入って春眠、初夏に再び出てくる。日本各地に分布。ヒキ。ガマ。ガマガエル。イボガエル。
以上、この項、写真、解説、広辞苑より ツチガエル写真はhttp://www.hkr.ne.jp/~rieokun/frog/tuti.htm より

 以上、蛙の写真をご覧になるとお分かりのように、目玉は頭の上に飛び出してはいますが、決して視線は後ろではなく前に向いています。(それを言っちゃ~お終いよ。ハイ、分かっております)

長崎ドンク、網場(あば)ドンク;長崎地方の方言で蛙をドンクと言います。長崎にもあった蛙の話。そのドンクが繰り広げる噛み合わないおかしさ滑稽さ。
 「長崎と網場の境に日見(ひみ)峠があります。両方から登ってきた蛙が峠の頂上で出合い、自分の目が後ろに付いている事を忘れ、反っくり返って今見ている自分の故郷を、相手の街と勘違いし、さんざんその街をけなして自分の街の方がイイと言ってしまったのです」。この逸話から、論議にならない論や、見当外れの事を「長崎ドンク、網場ドンク」といって笑い飛ばします。

蛙の噺
 蛙、ヘビの毒気をを受けて大いに煩ひ、「とかく蛇の難を逃がれんには、弁天様へお願い申すがよい」と、蛙残らず弁天へ行き、「お使わ婢(しめ)の蛇が、わたしどもの親分へ毒気を吹きかけ、只今は九死に一生でござります。何とぞこの後、構ひませぬよう、お願いに蛙ども残らず参りました」といへば、弁天「成る程、聞き届けた。しかし残らず来たといふが、まだ池で声がするぞよ」、蛙「いや、あれは川垢離(せんごり)をとるのでござります」。
「はなしたり はなしたり水と魚」より“蛙”。安永7年(1778)刊。鳥居清経画
2012.10.追記

 神様にはお使い姫が必ず居ます。弁天様にはヘビ、天神様には牛、お稲荷様には狐のように仕えています。
川垢離=願を掛けるとき、川で身を清める事。



 

 舞台の紙洗橋を歩く

 紙洗橋は山谷堀に架かった吉原から数えて四つ目の橋です。山谷堀は有名な堀で、江戸時代、掘りと言えばこの山谷堀を指したと言います。山谷堀の下流(河口)は隅田川の待乳山聖天(まつちやま_しょうでん)を基点に三ノ輪を抜けて王子の音無川に繋がっています。あの深山幽谷の趣ある音無川がここまで下ってくると俗界に毒された掘になってしまう悲しさを覚えます。
 しかし、現在は隅田川の接点から地方橋上まで埋め立てられて「山谷堀公園」と名を変えています。その上流は堀の面影はなく道や街になってしまいその痕跡すら見つける事が出来ません。
吉原入口の日本堤橋跡は何も残っていず、ただ道が交差して居るのみです。
 右;「山谷堀」 大正5年(1915)5月 改修工事が終わった山谷堀 東京都下水道局資料より
第163話「今戸の狐」より孫引き

 紙洗橋の周辺には当然、紙漉職人の家がある訳ではなく、ごく普通の住宅街に変身しています。
 ここから、吉原大門まで4~500m程で行けますから、冷やかしして、仕事にも弾みがつくでしょう。吉原の見世は昼と夜の二部制ですから夜は時間つぶしに出かけて、帰ってから仕事と言うわけはありません。朝の仕事が一段落して、午後の部の仕込みをしてから冷やけるまで、冷やかしに出かけたのでしょう。

  左のシーンはバージンパルプを手漉きで漉き取っている所です。前回落語「山崎屋」で訪れた日本橋本町3-6小津和紙店で和紙の手漉きの実演です。ここでは素敵な和紙が漉きあがりますが、紙洗橋周辺で漉かれた浅草紙はこんなに上等な紙ではなく、落とし紙に使われてしまいました。しかし、材料は変わってもその製法は同じです。

 浅草紙の規格が現代まで引き継がれたものに
・ティッシュペーパーやポケットティッシュの大きさ。この大きさ
・紙(乾)海苔(浅草海苔)が同じ方法と同じ大きさのスノコで最近まで踏襲されていました。現在は機械で作られ手漉きのような手作り製法は淺草紙と同様、市場から淘汰されてしまいました。
 浅草紙がチリ紙と名を変えてから、いまではティッシュペーパーやロールペーパーに取って代わられ再生紙の出番が無くなってきたようです。

 明治に入って吉原の冷やかしも大分緩やかになって女性でも見学が出来るようになりました。NHK-TVドラマで有名になった十三代将軍徳川家定・御台所となった「天璋院篤姫」も勝海舟とここを訪れ冷やかしを楽しんだと言われます。
 

地図

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写真

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大門交差点(台東区千束4-10)
山谷堀跡、日本堤橋跡より遠望。ガソリンスタンドの前で枝をそよがしているのが見返り柳。右側の奥に繋がる道路が衣紋坂と言い、Sの字状に曲がっていて、入っていかないと仲が覗けないようになっています。
『不(醜)男も坂でつくろうぬき衣紋』
   見返り柳(台東区千束4-10)
上記の見返り柳ですが、通りの向こうには戦前からの木造の由緒ある店が今でも営業しています。天麩羅屋、桜肉料理屋などで、いつ行っても行列が出来ています。
『もてた奴ばかり見返る柳なり』
紙洗橋(台東区東浅草1-13と4の間に架かっていた
何回も言いますが今、堀は埋め立てられて公園になっています。その為に橋はありません。しかし、橋の位置に当時の親柱が残っています。
ご覧のように意外と狭い堀でこの堀を船では行き来せず、今戸の桟橋で下船し土手(日本堤)を歩いて吉原に向かいました。

吉原河岸横(台東区淺草5-58)
吉原田圃は今はどこを探してもありません。吉原の南側を出た通りを南の方向を見ていますがその雰囲気はありません。
千束通り(せんぞく、台東区淺草3-16)
吉原田圃もここにはありません。浅草寺を背中に吉原方向を見ています。当時、浅草寺の境内を抜けて田圃の中のこの道を通ったのです。
蛙たちもこの辺りに巣食っていたのでしょう。

2009年11月記

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