五代目三遊亭円楽の噺、「鼻利き源兵衛」(はなききげんべい。別名・出世の鼻)によると。
三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく、本名・吉河寛海=よしかわ・ひろうみ)さんが、10月29日午前8時15分、肺がんで亡くなった。76歳。 円楽の著書「圓楽芸談しゃれ噺」(白夜書房)より引くと、師匠とのTV生対談番組で円生が言った「円楽はおしまいです。大喜利なんぞと言うもので人気が出たもんだから、テレビばっかり出て、芸がざらざらしてどうしようもない。そんな安っぽい芸人で一生終わるのか。お前はもう駄目だ」。脂ののる50代のその時に、芸に専念できたなら、「あたしの落語はどれだけのものになったか。それを思うと悔やんでも悔やみきれない」と、自身で書き残している。
今回は急遽彼の噺の中から(彼の付けた題名)「出世の鼻」を取り上げます。速記本「鼻利き源兵衛」から彼が手を加え構成仕直した噺です。昭和56年(1981)7月東京落語会からの録音。
1.通り一丁目
■白木屋;京都の小間物・呉服問屋として名が知られていた。寛文2年(1662)に江戸の日本橋に進出し、大村彦太郎によって創業。江戸支店が開かれた。江戸時代初期に小間物商から大呉服店となり、町人から大名・大奥までをも顧客とした。「越後屋(現・三越)、大丸」とならび、江戸三大呉服店の一つになる。
跡地にはコレド日本橋(日本橋一丁目ビルディング、地上20階、2004年オープン)が建つ。
右上浮世絵;「名所江戸百景 日本橋通一丁目略図」広重画 クリックすると拡大します。
白木観音・白木名水;江戸時代の始め、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいた。
現出した観音様は、白木屋店内に祠を建て、観音様を祀ったところ、人々の参詣はひきもきらず四万六千日(*1)ご開帳当日の賑わいは江戸名物となった。
この霊水は良水の不足に悩む付近の人々を潤したばかりでなく、この水のおかげで、長年の病気が癒えたという人も出たと伝えられます。
*1 白木屋の四万六千日(しまんろくせんにち);浅草寺では享保年間(1716〜36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、この日参拝すると46,000日参拝したのと同じ功徳があるという縁日。寛延4年(1751)の『江戸惣鹿子名所大全』によると、浅草寺だけでなく観音を祭る寺々ではやはり同様な開帳や法会がなされていた。明和5年(1768)の『吉原大全』でも「七月十日、くわんおん四万六千日にて、ことさらはんゑいなり」とある。四万六千日やお酉様などのイベントがあると、人出が多く吉原は賑わったのです。安政6年(1859)の『武江遊観志略』には「世俗に四万六千日といふ、浅草寺、本所回向院一言觀音、日本ばし白木や店、三田魚籃、四ツ谷南寺町汐干観音、青山梅窓院泰平觀音、麹町八丁目栖岸院、牛込神楽坂行元寺襟懸観音、大塚護国寺、駒込光源寺大觀音」とあって、各所の観音を祀る諸寺院で同様な法会がなされていたことが分かります。
白木屋大火;日本の都市災害史に残る大火災の一つ。昭和7年(1932)12月16日午前9時15分頃、4階の玩具売り場で火災が発生。地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼して午後12時過ぎに鎮火した。この火災で逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡し、500人余りが重軽傷を負うなどして、日本初の高層建築物火災となった。
日本橋・白木屋百貨店(地上8階建)で発生した火事。最上階や屋上には避難した人が、まだ残されています。 写真;四谷消防博物館所蔵
■柳原(やなぎはら);柳原土手と言われ、神田川の南岸万世橋の所にあった、筋違い御門から浅草橋御門までの土手を言った。ここには柳が植えられ並木になっていたので、その名が起こった。この地には古着屋が軒を並べていて、芝日陰町と並んで有名な所でした。神田川は河口を隅田川の両国橋北(上流)で合流しています。柳橋、浅草橋と遡り、万世橋、お茶の水橋、水道橋と都心を東西に横断して、水源の井の頭池(三鷹市井の頭四丁目、井の頭公園内)まで達しています。
2.ヤタの鏡(八咫鏡 ヤタノカガミ) 記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。そして再び世は明るくなった。天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された。
咫(あた)は円周の単位で、0.8
尺である。径
1 尺の円の円周を
4 咫としていた。したがって「八咫鏡」は直径 2 尺(48cm
前後)の円鏡を意味する。本来は祭祀に用いる鏡を表す一般名詞であったものが、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。 八咫鏡の所在には、今も伊勢神宮の内宮に変わらず安置されているとする説、宮中の賢所に置かれていたが、平家の都落ちとともに西遷し安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んだとする説、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれているとする説、そして平家滅亡前に何処かへと遷したものがあるとする説など、諸説がある。
伊勢神宮の内宮に奉安されている鏡は、神道五部書等によれば「八葉」といい、考古学者の原田大六は福岡県前原市にある平原遺跡出土の内行花文鏡と同じ形のものではなかったかと推定している。この神宮内宮の鏡は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉置されたことになっている。
宮中では賢所に奉置されていたことから、かつては「かしこどころ」と言えばこの八咫鏡のことを指した。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」というか、またはその通称である「内侍所」といって、これを呼び分けたという。
3.言葉
■蔵の折れ釘;火災や修繕の為にハシゴを固定する、蔵の上部に埋め込まれたL形の釘。
右図;近隣で火災発生時、扉、窓を用心土で目塗りをしているところ。この蔵の壁面に折れ釘が3ヶ所付いているのが分かります。
■暖簾(のれん);軒先に張って日よけとする布で、江戸時代以降、商家では屋号などを染め抜いて商業用とした。看板の替わりとなる軒先に下げる布。
■百両;10両盗めば首の飛ぶ時代の百両、一両8万円として800万円。布の発見報酬300両=2400万円。京都で受け取る報酬千両は八千万円。これには交通費、食事代、遊興費などは含まれていません。これだけの報酬を支払っても、三方丸く収まったのですから、相当の価値があるものだったのです。その通り、神代から伝わる三種の神器のひとつ(?)だったのですから。本物だったら、こそ泥が忍び込んだくらいで盗まれるような所には保管されていません。原話の「定家卿の色紙」の方が信憑性があります。 舞台の日本橋を歩く
気象庁発表によると、今日は晴れまたは曇り、所により一時雨。おいおい、なんて言う天気なのだ。出掛けは暗いくらいの曇天、雨にも負けず、出掛けます。
日本橋交差点北側の角にあるのがCOREDO日本橋、曲線の外観がガラスで構成されている、独特の形状をしていますので遠くまで異彩を放っています。ここに有名だったデパートの白木屋(後の東急百貨店)が有った所です。私事ですが、我が息子が学生時代に(名前だけのセールではなく本物の)東急百貨店閉店セールにアルバイトで働いた事があります。忙しかったのでしょうが、普段がどれ位なのか分からないので、その混雑の中、最終日まで楽しく頑張ったようです。それが今では、連想も出来ない程の素敵なビルになってしまいました。低層階は東急当時よりグレードが高い店舗群が出店しています。ランチ時は美味い店が多く、行列を作っています。高層部は証券会社さんが使っています。ビルの外壁にはメリルリンチの大きな牛のマークが張られています。
外に出ると、半数の歩行者が傘を広げています。北側のふとんの西川ビルとの間の小道を入ると、左側にCOREDO日本橋の「アネックス広場」が出現し、その先の小道側に「名水白木屋の井戸」の碑が設置されています。過日は小道の入口白木屋の店舗角にあったものです。観音様のお社もそこにあったように記憶してますが、ぼーっと見ていただけなので正確な状況は頭の中にはありません。その頃はまさかこの様な出会いがあるなんて、夢想だに思っても居ませんでしたから・・・。
雨が強くなったり、小振りになったり、定まりません。お茶でも飲んで、次の柳原に出掛けましょう。
浅草橋駅で降りて、雨がないのを幸いに、南に浅草橋を渡ります。交番がある植え込みに、江戸時代には郡代屋敷がここにあったと説明板が建っています。その前の神田川に平行に延びる道が柳原通りだと標識が語っています。通りの両側の並木は痩せた柳の木が並んでいます。江戸時代には柳原土手と言い、土手の前には古着屋の小屋が並んでいました。 地図
写真
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