落語「鼻利き源兵衛」の舞台を歩く
   

 

 五代目三遊亭円楽の噺、「鼻利き源兵衛」(はなききげんべい。別名・出世の鼻)によると。

 

 人間、運が回って来た時、それをつかむか、やり過ごすかで、大きく違って来るものです。

 日本橋の通り一丁目は江戸一番の目抜き通りで、ここに白木屋という呉服屋があって、大勢の人だかりがしていた。店頭に珍しい布が下がっていて、ある御大家が布の名前が知りたくて、白木屋に預けたが番頭では解らず、道行く人にお知恵拝借と展示していた。解ると百両の礼金が出るという。八百屋の源兵衛さん、夕方まで見とれていたが突然の竜巻でその布を巻き上げてしまった。と、その布は一番蔵の折れ釘に引っかかってしまった。店の者は大切な預かり物を無くしたので大騒動、貼り紙を出して「布を探し当てた方には三百両さしあげます」と表示した。源兵衛は知っていたが家に帰ってきた。

 棒手振りでは大きな事が出来ない。大きな事をする人は大きな家に住んでいる。もう棒手振りは止めたと、女房に言い聞かせ、家の物を売り払い十三両の金を持って、日本橋白木屋の真ん前に店を借りた。間口七間奥行き十三間の店であった。白木屋に行って引っ越し挨拶をしながら、失せ物の話をした。十里四方の物は匂いで解ると言うふれこみで、匂いで解ったような顔で、昨日目撃した一番蔵の折れ釘を指し示すと、そこに当然有った。

 柳原で間口が広く一枚物はないので、3枚の暖簾を買い求め、掛けたが「近江屋」「伊勢屋」「松坂屋」となった。翌日、番頭が来て三百両を置いた。布の名前は解ったが、京都の本店の出入りの御所に泥棒が入ってヤタの御鏡が紛失したので、鼻で嗅ぎだして欲しいという。礼金はそれなりにするという。

 京都に来ると、遊びに遊んで見物する所も無くなり、祇園で豪遊していた。せっつかれて、御所を見る事にしたが、平民では入れない。一時的な位・名前を貰った、「左近尉近江伊勢松坂守源兵衛(みなもとのひょうえ)藤原鼻利」となった。邸内を回ったが飽きたので、庭の築山で休もうとたまたま大木を蹴ると穴から泥棒が出てきて全て白状した。逃がしておいて品物を差し出したら大喜び。褒美がもらえるという。千両もらって、小さな店を持って八百屋をしたいという。
「存外、望みが低いのう。なぜじゃ」、
「ハナの命は短うございます」。

 


 

 三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく、本名・吉河寛海=よしかわ・ひろうみ)さんが、10月29日午前8時15分、肺がんで亡くなった。76歳。円楽_若竹最後の口演
 東京都台東区浅草の寺(易行院、現・足立区東伊興4-5)に生まれ、昭和30年(1955)に六代目円生に入門。全生を名乗り、58年に二つ目、62年の真打ち昇進と共に五代目三遊亭円楽を襲名した。
 60年代の演芸ブームでは立川談志、古今亭志ん朝、橘家円蔵と「寄席四天王」と呼ばれた。78年に円生とともに落語協会を脱退、翌年の円生の死後も一門を率い、円楽一門会の名で活動を続けた。
 また、テレビ番組に積極的に出演し、「笑点」は初回から参加。いったん落語に専念するが、82年に司会者となり、2006年5月に勇退するまで、老舗番組の看板として活躍した。
(読売新聞) 合掌。
写真;89年寄席「若竹」さよなら公演 (スポニチ10/31追悼記事より。当時56歳の円楽)

 円楽の著書「圓楽芸談しゃれ噺」(白夜書房)より引くと、師匠とのTV生対談番組で円生が言った「円楽はおしまいです。大喜利なんぞと言うもので人気が出たもんだから、テレビばっかり出て、芸がざらざらしてどうしようもない。そんな安っぽい芸人で一生終わるのか。お前はもう駄目だ」。脂ののる50代のその時に、芸に専念できたなら、「あたしの落語はどれだけのものになったか。それを思うと悔やんでも悔やみきれない」と、自身で書き残している。

 今回は急遽彼の噺の中から(彼の付けた題名)「出世の鼻」を取り上げます。速記本「鼻利き源兵衛」から彼が手を加え構成仕直した噺です。昭和56年(1981)7月東京落語会からの録音。
 今回がネタ下ろしなのでしょう。筋書きに違和のある前後があったり、噺そのものがこなれていません。しかし、オチの仕上がりは原話と比べて良くなった。ここでは円楽の演じたままを要約しました。

 

1.通り一丁目
 江戸切り絵図、文久3年(1863)版によると、日本橋通り南一丁目が正式町名です。白木屋は現在の中央区日本橋1−4「COREDO日本橋」が建っている所にありました。文字通り日本一の繁華街です。
 「日本橋 白木屋の変遷」に写真があります。

名所江戸百景 日本橋通一丁目略図_広重白木屋;京都の小間物・呉服問屋として名が知られていた。寛文2年(1662)に江戸の日本橋に進出し、大村彦太郎によって創業。江戸支店が開かれた。江戸時代初期に小間物商から大呉服店となり、町人から大名・大奥までをも顧客とした。「越後屋(現・三越)、大丸」とならび、江戸三大呉服店の一つになる。
 大正12年(1923)9月1日、関東大震災により日本橋本店は全壊。以降しばらく仮普請のバラック建築にて営業。
  昭和3年(1928)8月、日本橋本店の新館(西館)が完成。社名を「株式会社白木屋」に改称し「呉服店」を削除。
 昭和7年(1932)12月16日、白木屋大火が発生。日本初の高層建築物火災となった。12月24日、火災で営業を休止していた日本橋本店が営業再開。 昭和42年(1967)9月に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続している。その後、売れ行き不振のため1999年1月31日に閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より要約

 跡地にはコレド日本橋(日本橋一丁目ビルディング、地上20階、2004年オープン)が建つ。

白木屋_明治初期白木屋_明治44年 

右上浮世絵;「名所江戸百景 日本橋通一丁目略図」広重画 クリックすると拡大します。
上記左写真;「日本橋通りの白木屋呉服店」古写真で見る江戸から東京へ(世界文化社) 明治初期
同右;「白木屋」 東京証券取引所資料から 明治44年撮影 関東大震災で全壊

 白木観音・白木名水;江戸時代の始め、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいた。
 正徳元年(1711)に、白木屋二代目大村彦太郎安全は、私財を投じて井戸掘りに着手した。翌2年たまたま井戸の中から一体の観音様が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられる。以来、付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。
 白木名水は湧出してから数百年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋一丁目交差点角にあったものを平成16年(2004)ここに移設再現したものです。(東京都指定旧跡)「名水白木屋の井戸」説明板より。

 現出した観音様は、白木屋店内に祠を建て、観音様を祀ったところ、人々の参詣はひきもきらず四万六千日(*1)ご開帳当日の賑わいは江戸名物となった。 この霊水は良水の不足に悩む付近の人々を潤したばかりでなく、この水のおかげで、長年の病気が癒えたという人も出たと伝えられます。
 百貨店閉店に当たり観音様は、浅草寺・淡島堂(せんそうじ あわしまどう)に遷座することなり、白木名水は湧き出してから数百年の時を経て白木屋と共に建物の取り壊しで消失しました。

*1 白木屋の四万六千日(しまんろくせんにち);浅草寺では享保年間(1716〜36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、この日参拝すると46,000日参拝したのと同じ功徳があるという縁日。寛延4年(1751)の『江戸惣鹿子名所大全』によると、浅草寺だけでなく観音を祭る寺々ではやはり同様な開帳や法会がなされていた。明和5年(1768)の『吉原大全』でも「七月十日、くわんおん四万六千日にて、ことさらはんゑいなり」とある。四万六千日やお酉様などのイベントがあると、人出が多く吉原は賑わったのです。安政6年(1859)の『武江遊観志略』には「世俗に四万六千日といふ、浅草寺、本所回向院一言觀音、日本ばし白木や店、三田魚籃、四ツ谷南寺町汐干観音、青山梅窓院泰平觀音、麹町八丁目栖岸院、牛込神楽坂行元寺襟懸観音、大塚護国寺、駒込光源寺大觀音」とあって、各所の観音を祀る諸寺院で同様な法会がなされていたことが分かります。

 白木屋大火;日本の都市災害史に残る大火災の一つ。昭和7年(1932)12月16日午前9時15分頃、4階の玩具売り場で火災が発生。地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼して午後12時過ぎに鎮火した。この火災で逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡し、500人余りが重軽傷を負うなどして、日本初の高層建築物火災となった。

白木屋火事

  日本橋・白木屋百貨店(地上8階建)で発生した火事。最上階や屋上には避難した人が、まだ残されています。 写真;四谷消防博物館所蔵

柳原(やなぎはら);柳原土手と言われ、神田川の南岸万世橋の所にあった、筋違い御門から浅草橋御門までの土手を言った。ここには柳が植えられ並木になっていたので、その名が起こった。この地には古着屋が軒を並べていて、芝日陰町と並んで有名な所でした。神田川は河口を隅田川の両国橋北(上流)で合流しています。柳橋、浅草橋と遡り、万世橋、お茶の水橋、水道橋と都心を東西に横断して、水源の井の頭池(三鷹市井の頭四丁目、井の頭公園内)まで達しています。
 柳原土手の西の始まりにあった筋違橋は、中山道・奥州街道・日光街道の江戸への入り口であり交通の要所だった。また、神田川が運河の機能を持っていたことなどから、柳原土手は人通りの絶えない賑やかな場所であった。浅草橋は水戸街道の入口でもあり、浅草、吉原に抜ける重要な御門でもあった。その間に挟まれた柳原は賑わうのが当然であった。
柳原_歌麿
柳原」歌麿画 吾妻遊び「上巻」 寛政2年(1790年)

2.ヤタの鏡(八咫鏡 ヤタノカガミ)
  八咫鏡とは三種の神器の一つで、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、三種の宝物とは、「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」・「天叢雲剣」(「草薙剣」)のこと。

 記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。そして再び世は明るくなった。天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された。

青銅鏡 咫(あた)は円周の単位で、0.8 尺である。径 1 尺の円の円周を 4 咫としていた。したがって「八咫鏡」は直径 2 尺(48cm 前後)の円鏡を意味する。本来は祭祀に用いる鏡を表す一般名詞であったものが、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。

 八咫鏡の所在には、今も伊勢神宮の内宮に変わらず安置されているとする説、宮中の賢所に置かれていたが、平家の都落ちとともに西遷し安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んだとする説、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれているとする説、そして平家滅亡前に何処かへと遷したものがあるとする説など、諸説がある。

 伊勢神宮の内宮に奉安されている鏡は、神道五部書等によれば「八葉」といい、考古学者の原田大六は福岡県前原市にある平原遺跡出土の内行花文鏡と同じ形のものではなかったかと推定している。この神宮内宮の鏡は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉置されたことになっている。

 宮中では賢所に奉置されていたことから、かつては「かしこどころ」と言えばこの八咫鏡のことを指した。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」というか、またはその通称である「内侍所」といって、これを呼び分けたという。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より要約訂正
 写真;「ダ龍鏡(だりゅうきょう)」 東京国立博物館蔵 青銅製 径38.3cm 古墳時代 重文 

 

3.言葉
湯文字(ゆもじ);女性の腰巻き。女性の下着は、やはり本人が行って買うのが本道でしょう。

蔵の折れ釘蔵の折れ釘;火災や修繕の為にハシゴを固定する、蔵の上部に埋め込まれたL形の釘。

 右図;近隣で火災発生時、扉、窓を用心土で目塗りをしているところ。この蔵の壁面に折れ釘が3ヶ所付いているのが分かります。
右図;四谷・消防博物館所蔵ジオラマから。

暖簾(のれん);軒先に張って日よけとする布で、江戸時代以降、商家では屋号などを染め抜いて商業用とした。看板の替わりとなる軒先に下げる布。
 店の顔になるもの、それがお古で三枚とも違う屋号だなんて。

百両;10両盗めば首の飛ぶ時代の百両、一両8万円として800万円。布の発見報酬300両=2400万円。京都で受け取る報酬千両は八千万円。これには交通費、食事代、遊興費などは含まれていません。これだけの報酬を支払っても、三方丸く収まったのですから、相当の価値があるものだったのです。その通り、神代から伝わる三種の神器のひとつ(?)だったのですから。本物だったら、こそ泥が忍び込んだくらいで盗まれるような所には保管されていません。原話の「定家卿の色紙」の方が信憑性があります。
 


 舞台の日本橋を歩く

 気象庁発表によると、今日は晴れまたは曇り、所により一時雨。おいおい、なんて言う天気なのだ。出掛けは暗いくらいの曇天、雨にも負けず、出掛けます。
 日本橋に着いた頃には、歩道を濡らし始めています。傘もない、カラオケも無い、ここでベコでも飼いたくなります。ま、それは冗談にして歩きますよ。

 日本橋交差点北側の角にあるのがCOREDO日本橋、曲線の外観がガラスで構成されている、独特の形状をしていますので遠くまで異彩を放っています。ここに有名だったデパートの白木屋(後の東急百貨店)が有った所です。私事ですが、我が息子が学生時代に(名前だけのセールではなく本物の)東急百貨店閉店セールにアルバイトで働いた事があります。忙しかったのでしょうが、普段がどれ位なのか分からないので、その混雑の中、最終日まで楽しく頑張ったようです。それが今では、連想も出来ない程の素敵なビルになってしまいました。低層階は東急当時よりグレードが高い店舗群が出店しています。ランチ時は美味い店が多く、行列を作っています。高層部は証券会社さんが使っています。ビルの外壁にはメリルリンチの大きな牛のマークが張られています。

 外に出ると、半数の歩行者が傘を広げています。北側のふとんの西川ビルとの間の小道を入ると、左側にCOREDO日本橋の「アネックス広場」が出現し、その先の小道側に「名水白木屋の井戸」の碑が設置されています。過日は小道の入口白木屋の店舗角にあったものです。観音様のお社もそこにあったように記憶してますが、ぼーっと見ていただけなので正確な状況は頭の中にはありません。その頃はまさかこの様な出会いがあるなんて、夢想だに思っても居ませんでしたから・・・。

 雨が強くなったり、小振りになったり、定まりません。お茶でも飲んで、次の柳原に出掛けましょう。

 浅草橋駅で降りて、雨がないのを幸いに、南に浅草橋を渡ります。交番がある植え込みに、江戸時代には郡代屋敷がここにあったと説明板が建っています。その前の神田川に平行に延びる道が柳原通りだと標識が語っています。通りの両側の並木は痩せた柳の木が並んでいます。江戸時代には柳原土手と言い、土手の前には古着屋の小屋が並んでいました。
 勿論古着も商われていますが、現代の古着屋のイメージとは若干違って、既製品も並んでいたのです。落語「江島屋騒動」で歩いた、芝・日陰(ひかげ)町の古着屋街と双璧をなす古着屋街でした。
 浅草橋が浅草御門と言われ、その西、秋葉原の南に架かる万世橋、当時の筋違い御門までが柳原土手と言われていました。JRで一駅の区間です。そこまではずっ〜と柳並木かと思っていたら、プラタナスや落葉樹が植裁されていて一貫性がありません。当然、古着屋さんは一軒もありません。
 JR山手線のガード手前に江戸の時代から有る「柳森神社」があります。地元の人達がひっきりなしに境内に入っていきます。そんなに御利益があるのだろうかと見回すと、なんと喫煙所になっています。千代田区は路上禁煙ですので、喫煙者にはホッと出来るオアシスなのでしょう。猫までその喫煙者の輪の中でノンビリしています。御利益が重ねて有ったら最高なのでしょうが・・・。
 また小さな雨が落ちてきました。

地図

 日本橋地図 地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

 

柳原通り(千代田区神田須田町二丁目、かんだ岩本町、岩本町三丁目、東神田二丁目、中央区日本橋馬喰町二丁目の神田川南岸)
 浅草橋の南詰めに郡代屋敷があって、その南には江戸の宿場街馬喰町があります。もどって、神田川南端の土手通りを柳並木にちなんで柳原通りと呼ばれ、約1.3km先の万世橋までの道をこう呼ばれました。古着屋の店が並んでいて、ここで不統一な暖簾を買い込んだのです。

神田川

神田川
 柳原の土手を南岸に持つ東京の中小河川としては最大規模の河川。江戸時代は神田上水を取水し、江戸の水道として利用されていた。
 
現在はご覧のように遊覧船が係留され、水上の楽しみをここから船出しています。この先に見える橋が浅草橋、その先が隅田川です。右に見える部分が柳原通りの土手になります。

柳森神社

柳森神社(やなぎもりじんじゃ。千代田区神田須田町2丁目25)  
柳原の土手にへばりついて、おたぬき様の社として親しまれています。室町時代、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社である。 また、おたぬき様と呼ばれる親子狸のお守は、勝負事や立身出世、金運向上にご利益があると信奉されている。

日本橋

日本橋(中央区室町1丁目から)
 道路原標がある日本橋ですが現在はご覧のように橋の上を高速道路がまたいていますので、美的風情はありません。渡った左側こげ茶色の建物が「野村証券」、その奥のレンガ色の建物が「三菱東京UFJ銀行」、その右側、低いビルがふとんの「西川」、奥の大きな建物がCOREDOが入っている「日本橋1丁目ビル」です。

COREDO

COREDO日本橋(コレドにほんばし。中央区日本橋1−4)
 過日白木屋があったところです。日本橋交差点角にあるランドマークタワーで20階建ての威容を誇ります。低層階には33の店舗が入っていますし、高層階にはメリルリンチ日本証券が入居しています。
 左側柱のように見える左側が西川ビルとの間に小径があります。その奥に井戸跡の碑が有ります。

COREDO入口 COREDO日本橋店舗街入口(中央区日本橋1−4)
 上記写真の左側面柱のように見える右側が入口です。その入口から外景を見ています。左が日本橋交差点、その先が高島屋、右に行けば日本橋から三越、三井ビルがあります。この入口正面辺りにあの長い屋号の店があったのでしょう。
名水白木屋の井戸 名水白木屋の井戸の碑(中央区日本橋1−6)
 白木屋当時、日本橋に通じる中央通りの店舗北側にこの碑が建っていましたが、現在は西川との間の道を入るとCOREDOビルの終わる辺りの左側にあります。名水の井戸は表通り近くにあったのかと思っていましたが、碑だけで井戸そのものは別のところにあったようですが、その場所は分かりません。
淡島堂_白木観音 浅草寺・淡島堂(台東区浅草寺境内)
 掘り出された観音様を浅草寺淡島堂まで尋ねました。本堂の正面に座しているのが、和歌山加太之淡島明神勧請「淡島様」で虚空蔵菩薩、その右手(向かって左)立派な御厨子内の観音様が「白木聖観世音菩薩」です。目測でざっと20cm弱の木彫観音で、正徳2年(1712)出現、平成11年(1999)東急百貨店より遷座。開帳されていますが、小さくて内陣からでもそのお姿が良く分かりません。


                                                      2009年11月記 

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