落語「たばこの火」の舞台を歩く
1.この噺
上方では、初代桂枝太郎(1866-1927)が得意にしました。音は故・五代目桂文枝のものが放送された物(私のテープライブラリー)を含め残っています。
今回のこの噺は上方落語を彦六が東京に移植したもの。
2.奈良茂(ならも)
通称奈良茂(ならも)。姓は神田(かんだ)。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。
『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀、2代目勝実、3代目豊勝までの茂左衛門は、霊巌島の裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをしていた言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。
代々、深川黒江町において材木商を営んだ。
5代目は先代から40万両(遺言状から計算すると13万余両)の遺産を受け継ぎ、遊里に出入りしてその驕奢はきわまりなかった。吉原中万字楼の名妓玉菊*を愛した。玉菊は酒を好み、ついにそのために早く亡くなる。
享保元年(1716)、その一周忌追善に、俳諧師乾什に河東節の詞をつくらせ、十寸見河丈、山彦源四郎に作曲させ、これを『水調子』となづけて語らせた。その年の盂蘭盆会に、吉原の茶屋の軒ごとに燈籠を吊って玉菊*の精霊を祀らせた。
のち、上方に遊びに行き、帰途に病を得て、享保10年9月3日(1725年10月8日)に死去した。享年30。
代々黒江町で材木商を営んだとウィキペディアでは言っていますが、霊岸島の東湊町一丁目(中央区新川一丁目南西)に本居を構えたともあり、屋敷地の見取り図まで残っています。
*玉菊、(たまぎく、1702年? - 享保11年3月29日(1726年))は、江戸時代、江戸新吉原の遊女。
角町中万字楼勘兵衛のかかえで、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲など諸芸に通じ、才色兼備、特に河東節の三味線と拳の妙手であった。
吉原中の人々から愛されていたが、大酒のために享年25才という若さで世を去った。
享保11年7月、盂蘭盆に吉原の茶屋は軒ごとに燈籠をかかげて玉菊の精霊をまつった。これが玉菊燈籠で、吉原三景容のひとつとなった。享保13年7月、三回忌に二代目十寸見蘭洲が「水調子」という河東節をかたって、玉菊の追善供養をしたが、中万字でこの曲をひくと玉菊の霊があらわれるとつたえられた。
3.言葉
「亀清楼」、神田川に架かる柳橋、その北側に有る料亭、万八楼が安政元年(1854)亀清楼に名を変えて、現在もビルになって営業。
柳橋遊廓(やなぎばし);かつて東京都台東区柳橋に存在した花街で、新橋の花街が明治にできたのに対し、柳橋は江戸中期からある古い花街です。
■結城(ゆうき)ごしらえ;茨城県西部の市。もと水野氏1万8千石の城下町で織られた織物。結城紬、結城付近から産する絹織物。木藍で染めた細い紬糸で織り地質堅牢。絣または縞織。また、結城木綿をいい、贅沢禁止令が出たため、結城紬に擬して織った木綿縞織物。しかし、高価な物であったので、職人達が身につけることは出来なかった。
■献上(けんじょう)の帯;献上博多の略。
(黒田藩主から江戸幕府に献上したからいう) 福岡県博多で織られてきた独鈷華皿(ドツコハナザラ)と呼ばれる幾何文様に縞文様を織り出した帯地。細い経糸で文様を織り出すのが特徴。
■甲斐絹(かいき);海気・改機・海黄とも書き、
織物の名。慶長(1596~1615)以前に舶来。染色した絹練糸で織った平絹で、無地や縞などがある。羽織裏・夜具・座布団・傘地などに用いる。多くは甲斐国郡内地方から産するので「甲斐絹」とも書く。
■股引き(ももひき);ここでは冬の寒さ除けに用いる下着と違い、着物の下に履き、尻まくりしたときにはチラリと見える粋なズボン状の物。上記の甲斐絹で作られた股引です。職人が履く紺色木綿の作業用とは同名でも旦那の股引とは用途、品格が違います。
■白足袋(しろたび);江戸の道はホコリだらけの道ですから、白足袋を履いたら一回で黒足袋(?)になってしまいます。贅沢な履き方です。
■雪駄履き(せったばき);竹皮草履の裏に牛皮を張りつけたもの。千利休の創意という。のちカカトに裏鉄(ウラガネ)を付けた。同じ履き物でも下駄やワラジより当然高価であった。
■首元には寒さ除けとホコリ除けに紺縮緬の布を巻いた;縮緬は絹織物のひとつ。経糸(タテイト)に撚(ヨリ)のない生糸、緯糸(ヨコイト)に強撚糊つけの生糸を用いて平織に製織した後に、ソーダをまぜた石鹸液で数時間煮沸することによって緯の撚が戻ろうとして布面に細かく皺をたたせたもの。緋色の物は女性の下着に使われた。
■帳場(ちょうば);商店・宿屋・料理屋などで、帳付けまたは勘定などをする所。勘定場。会計場。
■小判と2両(2りょう);小判は金を主材として作られた日本の貨幣。数え方は4進法で、1両=4分(ぶ)、1分=4朱(しゅ)。小判1両は現在の貨幣価値で約8万円。一般の江戸っ子はこれでは金額が大きすぎたので、銭を主に使った。公定で1両=4000文、江戸中期で5000文、幕末になるとインフレが進行して1万文にもなった。金貨の1分は小判と対比させて俗に小粒と言った。喜助は小判や小粒に埋められてタクアンになりかけたのに・・・。で、2両は小判2枚。または小粒8枚。
■吉原の幇間;幇間(ほうかん)=男芸者=太鼓持ち。幇間は吉原の芸者屋に籍を置いていた。来てもらうのには吉原まで行かないと用が足りなかった。
■総揚げ(そうあげ);芸者または太鼓持ちの手の空いている者全員を呼ぶこと。
■柱を背に手酌;お大尽または主客は床の間を背に着座するのが普通ですが、遊び慣れた旦那だからそこを避けて、床の間が見える柱に寄りかかったのでしょう。畳席の寄席では壁や柱を背にすると楽です。
■鬱金(うこん)木綿の風呂敷:うこん染または人造染料による黄色の木綿。着物や赤ん坊の下着あるいは器物を包む風呂敷などに使用。桐の箱を空けると、鬱金木綿に包まれた茶器などが出てきます。
■微塵行李(みじんごうり);微塵は極小の、という意。行李(こうり)は、竹または柳などで編み、衣類や旅行用の荷物などを入れるのに用いるかぶせ蓋つきの入れもの。ここでは小判が100~300枚程度入る大きさの、大型弁当箱程度の行李。
■家督(かとく);家の跡目を相続すること。旧制では、戸主の死亡・隠居などに伴う相続、戸主権を受けつぐこと。多くは直系卑属の家族が相続人とされた。
■四斗樽(しとだる);液体が4斗入る樽。4斗は40升(1.8リットルX40)72リットル。極普通の大きさの樽で、酒樽や漬け物などを漬ける。貧乏長屋では棺桶にも流用する。
■千両箱(せんりょうばこ);小判1000枚を収納する箱。千両箱は、天保小判1千両で約11kgと千両箱が3kgで合計約14kgあった。
■山車(だし);(ダシは「出し物」の意で、神の依代(ヨリシロ)として突き出した飾りに由来するという)
祭礼の時、種々の飾り物などをして引き出す車。または屋台。旦那のご機嫌伺いで出した山車には鰹節で作ったと言っていますが、それは、鰹節の出汁(ダシ)と祭りの山車(ダシ)を掛けています。
神田祭の山車。江戸東京博物館展示品
■木遣り(きやり);木遣り歌。木遣の時に歌う一種の俗謡。祭礼の山車をひく時や祝儀などにも歌う。木遣節。木遣口説(クドキ)。
■芸者の手古舞(てこまい);江戸時代の祭礼の余興に出た舞。もとは氏子の娘が扮したが、後には芸妓が、男髷に右肌ぬぎで、伊勢袴・手甲・脚絆・足袋・わらじを着け、花笠を背に掛け、鉄棒(カナボウ)を左に突き、右に牡丹の花をかいた黒骨の扇を持ってあおぎながら木遣を歌ってみこしの先駆をする。現在も江戸の祭などで見られる。写真下、深川・八幡祭りの町内手古舞。
■囃子(はやし);各種の芸能で、拍子をとり、または情緒を添えるために伴奏する音楽。笛・太鼓・鼓・三味線・鉦などの楽器を用いる。祭礼囃子のほか歌舞伎囃子・神楽囃子・馬鹿囃子などがあります。
浅草・三社祭で御輿の先導としてお囃子の車が来ます。
■御輿(みこし);神幸の際、神体または御霊代(ミタマシロ)が乗るとされる輿。形状は四角形・六角形・八角形などで、多くは木製黒漆、金銅金具付。屋蓋の中央には鳳凰または葱花(ソウカ)を置き、台には2本の棒を縦に貫いて轅(ナガエ)とし、舁(カく)便に供する。おみこし。
神田祭の御輿 江戸東京博物館展示品
舞台の柳橋から木場を歩く
柳橋・亀清楼を出ると目の前には柳橋が架かっています。ここに来ると落語「船徳」の徳さんを思い出して、どうしてもニヤリとしてしまうのです。二人のお客さんを乗せた船を隅田川に出して3回廻って、石垣にへばりついてこうもり傘を差したまま、やっとの思いで漕いで行きます。今はその様な和船は1隻もなく、全てエンジンで動く屋形船がほとんどです。船舶免許が必要ですから、徳さんのような素人には操船は無理です。
橋を渡って、最初の交差点を右に曲がります。駕籠もここを曲がったことでしょう。この道が一つ目通りと言い、間もなく川の上部に高速道路が走る竪川(たてかわ)に出ます。この竪川を渡す橋が一の橋。現在でも東に二の橋、三の橋から、六の橋まで有ります。この一の橋を渡ると、左側に江島杉山神社の参道が現れます。江戸切り絵図で見ると弁財天と有り、将軍綱吉に庇護され鍼術の神様と言われた杉山検校の屋敷に祀られていました。弁財天と杉山検校が祀られたのが、江島杉山神社です。その先、右側の隅田川沿いに今の新大橋まで御船蔵が有りました。この御船蔵には幕府の船と大きすぎて動かせなかったという、安宅丸が係留されていました。
安宅丸(あたけまる。右、想像図。向井将監が管理していた天地丸、これよりズーと大きかった)は北条氏が造船したものでその動力は4百人の水夫が2百本のオールを交代で漕ぎ米4千石(1万俵)と多くの将兵軍馬をのせることができる木造船として最大の軍船であったといわれています。のちに安宅丸は豊臣秀吉の手に渡りさらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永10年(1633)江戸に回航し、この御船蔵につながれました。延宝7年(1679)江戸切り絵図には安宅丸が画かれています。そして巨艦安宅丸は維持管理が困難となり天和2年(1682)解体されました。幕末の頃には船蔵に38隻の艦船が格納されていましたが明治時代となり1隻は政府に他は払いさげになったと記されています。東京都江東区の歴史 - 新大橋一丁目 「安宅丸由来碑」より
新大橋通りを渡ると、右側に芭蕉記念館(江東区常盤一丁目6)が現れます。江戸時代の新大橋はこの記念館南側に架かっていました。今は、その痕跡すらありません。
万年橋の架かる小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河であり、架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていましたが、萬年橋は中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿が愛された。
万年橋を渡り、先程眺めた清洲橋が渡す、清洲橋通りをぬけ、最初の四つ角を左に曲がります。駕籠屋はここを真っ直ぐに行って永代橋の通りに出る前に左に曲がると黒江町ですが、私は寄る所があるので曲がります。
右側の公園が、清澄公園で一般の公園と同じです。その先が都立清澄庭園で回遊式の大名庭園です。ここの歴史に紀文の屋敷があったと書かれていますが??でしょうか。表通りに出ますと、そこが二つ目通りの清澄通りで、横断は出来ませんので右に行った深川江戸資料館の通りを入ります。最初の路地を左に入ると、奈良茂の墓があったという雄松院が有ります。住職に聞きました「関東大震災の折り、墓石が倒れ、その復旧作業の中で奈良茂の墓は無縁墓だったので、探しきれずになった。結局、奈良茂の墓は行方不明になってしまった。先代の住職の時だった」。
最後の最後に書きますが、追いかけてきた、奈良茂も紀文も現在は過去の伝説上の人物になっています。奈良茂の墓もなくなっていますし、紀文の墓にしてもこれだという確証は何処にも有りません。紀文は一代で没落したとも、二代目が使い込んだのかも、確証はありません。清澄庭園の公式解説にも出てきますが、それも確証はないのです。二人とも伝説の領域に入ってしまったようです。
深川閻魔堂前に有った、道路案内板より。右が北側です。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
2013年9月記
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