落語「たばこの火」の舞台を歩く


   
 

 
 八代目林家彦六の噺、「たばこの火」(たばこのひ)

 


 

 

 駕籠(かご)屋の紹介で、柳橋(やなぎばし)の万八(まんぱち)という料理茶屋にあがった。田舎爺と言いながら、結城ごしらえの上下、献上(けんじょう)の帯をキュッと締めて無造作に尻をはしょって甲斐絹(かいき)の股引き、白足袋に雪駄ばき、首元には寒さ除けとホコリ除けに紺縮緬の布を巻いた、なかなか身なりのいい老人。

 頼み事は男衆に限るからと店の喜助をご指名になった。男衆の喜助に言いつけて駕籠(かご)屋への駕籠代と祝儀2両を帳場に立て替えさせ、風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、さっそく芸者の若い女(こ)や年増の芸者も呼んで、吉原の幇間を総揚げにして、自分は柱を背に手酌で飲み始めた。自分はニコニコ笑って、それを肴(さかな)に飲んでいるだけ。

 

 喜助に帳場から5両の立て替えを頼んで、今来た若い芸者に祝儀をはずんだ。年増の芸者には10両の祝儀を立て替えさせた。15両の立て替えをして幇間に祝儀をはずんだ。喜助を含めて、店の者全員にお立て替えとして20両を頼んだが、初めての客に帳場ではいい顔をせず、断りを入れた。
  いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると「こりゃあ、わしが無粋だった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」。鬱金(うこん)木綿の風呂敷には、微塵柳行李があり、中には小判でぎっしり。これで立て替えを全部清算したばかりか、喜助達にも祝儀を付けて、ざっくりと手に持った金を会計だと払い、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線に祝儀をはずんでおいてお姉さんの伴奏にのせて、小判を残らずばらまいた。
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」。

 

 あれは天狗かと、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は本所から木場の大金持ち・奈良茂(ならも)の屋敷前で止まった。奈良茂なら御贔屓筋で、だんなや番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は分からない。不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方は旦那のお兄さんで、気まぐれから家督を捨て、今は紀州の山奥で材木の切り出しを営む、通称「あばれ旦那」と呼ばれていた。施しもしているのだが、ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

 喜助が今日の事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、ヌカの代わりに小判や小粒で埋めて、頭には千両箱の二つも乗せてもらえたんだ」。


 腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車をこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、頭(かしら)の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、御輿も出て陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。2階から覗いた旦那さん、機嫌が直り、二、三日したらまた行くという。

 

 ちょうど三日目。
 あばれ旦那が現れると、総出でお出迎え。「駕籠屋も遠くで返したので、チョット疲れた。縁台で休ませてもらおう」、「どうぞ」、
「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」、「へいッ、いかほどでもお立て替えを。これが2両、これが5両、これが10両、15両で、20両、30両、40両に50両」、
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」。

 

 

 



 

1.この噺
 この噺は元来は上方の噺で、「莨(たばこ)の火」と言う演題で演じられています。

 上方では、初代桂枝太郎(1866-1927)が得意にしました。音は故・五代目桂文枝のものが放送された物(私のテープライブラリー)を含め残っています。
 上方の噺では、主人公を、泉州・佐野の大物廻船業者で、菱垣(ひがき)廻船の創始者・飯一族の「和泉の飯のあばれ旦那」で演じます。
 和泉・佐野は古く、畿内の廻船業の中心地でした。飯は屋号を唐金屋といい、元和年間(1615~24)に、江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661~73)には、億万長者の海運王にのし上がっていました。
 上方の舞台は、大坂・キタ新地の茶屋・綿富(わたとみ)となっています。

 

 今回のこの噺は上方落語を彦六が東京に移植したもの。
 昭和12年(1937)に八代目林家正蔵(彦六)が二代目桂三木助の直伝で覚え、東京に移植したものです。
 当時三遊亭円楽の正蔵は、東京風に改作するに当たり、講談速記の大立者・悟道軒圓玉(1865-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。
 東京では彦六以後、継承者はいません。 
上記写真;「林家彦六」 国立演芸場蔵 

 

 

2.奈良茂(ならも)
 奈良屋茂左衛門の略称。江戸深川の材木商。
 (4代) 神田勝豊。号は安休。日光社殿の修理で富を積み、紀国屋文左衛門と並称。( ~1714)
 (5代) 名は広りん。弟勝屋とともに先代より多額の遺産を受け、驕奢(きょうしゃ)を極めたという。(1695~1725)
<広辞苑より>

 4代目が一生懸命稼いだ金を、5代目が一生懸命使って財産を無くします。

 

 通称奈良茂(ならも)。姓は神田(かんだ)。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。 『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀、2代目勝実、3代目豊勝までの茂左衛門は、霊巌島の裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをしていた言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。
 4代目勝豊(寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日(1714年7月24日))は、2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、28歳で独立。材木商として明暦の大火や日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門(紀文)に対抗して放蕩の限りを尽くしたともいう。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得て、子孫に残したが・・・。
右図;紀文の豆まきならぬ小判撒き。お互い競争して撒いていたのです。


 勝豊の子である5代目広璘(こうりん=元禄8年(1695年) - 享保10年9月3日(1725年10月8日))と、分家した弟・勝屋の代に遊興で家産を使い果たし同家の経営は衰退したという。
  6代目勝屋は5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようだが、それでも1744年(延享元年)には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられている。子孫は、大正年間(1910 - 1920年代)まで千住で質屋を営んでいたと言われる。

 代々、深川黒江町において材木商を営んだ。 5代目は先代から40万両(遺言状から計算すると13万余両)の遺産を受け継ぎ、遊里に出入りしてその驕奢はきわまりなかった。吉原中万字楼の名妓玉菊*を愛した。玉菊は酒を好み、ついにそのために早く亡くなる。

 享保元年(1716)、その一周忌追善に、俳諧師乾什に河東節の詞をつくらせ、十寸見河丈、山彦源四郎に作曲させ、これを『水調子』となづけて語らせた。その年の盂蘭盆会に、吉原の茶屋の軒ごとに燈籠を吊って玉菊*の精霊を祀らせた。 のち、上方に遊びに行き、帰途に病を得て、享保10年9月3日(1725年10月8日)に死去した。享年30。
<ウィキペディアより> 加筆補完

 

 代々黒江町で材木商を営んだとウィキペディアでは言っていますが、霊岸島の東湊町一丁目(中央区新川一丁目南西)に本居を構えたともあり、屋敷地の見取り図まで残っています。
 しかし、落語の中では本所から深川と言っていますから、永代橋の東側黒江町。霊巌島は永代橋の西側。川を渡って対岸まで行くことはなく、柳橋を渡り両国広小路を南に下っていけばいい話、何処かで混線しています。住居も説によってまちまち、どれが正しく、どれが間違っているのか、私の頭の中は混線状態。
 4代目勝豊は同業の柏木伝右衛門を幕府に訴えて落とし入れ、日光東照宮の檜材を柏木から手に入れ、成功の道を開いた。柏木は家財没収の上、流罪になり、7年後江戸に戻ったが奈良茂は大成功していたので悲観して断食のすえ亡くなった。その上、奈良茂は檜材の支払先がなくなり、ボロ儲けした。紀文と5代目奈良茂は馬鹿げた遊びで蓄財を食いつぶし、紀文は葬儀の金にも不自由したという。
 5代目は約10年で家財を食いつぶしたことになります。遺産を受けたのが20才ですから、人生についても仕事についても、何も分からない良いとこのボンボンです。 墓は雄松寺(江東区白河1-1-8)に有ったが、関東大震災の時、墓は壊れ行方不明になった。遺族もなく無縁墓化されていたので、寺ではそれ以上捜索しなかった。

 

*玉菊、(たまぎく、1702年? - 享保11年3月29日(1726年))は、江戸時代、江戸新吉原の遊女。 角町中万字楼勘兵衛のかかえで、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲など諸芸に通じ、才色兼備、特に河東節の三味線と拳の妙手であった。 吉原中の人々から愛されていたが、大酒のために享年25才という若さで世を去った。 享保11年7月、盂蘭盆に吉原の茶屋は軒ごとに燈籠をかかげて玉菊の精霊をまつった。これが玉菊燈籠で、吉原三景容のひとつとなった。享保13年7月、三回忌に二代目十寸見蘭洲が「水調子」という河東節をかたって、玉菊の追善供養をしたが、中万字でこの曲をひくと玉菊の霊があらわれるとつたえられた。
<ウィキペディアより> 


 玉菊灯籠は時代とともに変化して華美になり、軒に吊された提灯が飾り物に変化していった。7月の前半と後半では飾り物も替えて、吉原の街を飾った。
 玉菊の墓所は元浅草・寿二丁目 永見寺に単独墓として残る。 が、亡くなってから百年後に作られた物だと言われ、本物は何処に有るか・・・、合葬されて無いのか。 
 右絵、「古今名婦伝 中万字の玉菊」豊国画 国立国会図書館蔵

 

 

3.言葉
万八楼(まんぱちろう);柳橋たもとにあった人気料亭「万八楼」(右絵=広重画)。安政元年(1854)創業の江戸前料理の老舗で、「亀清楼」に引き継がれた。渡る橋は柳橋で、右側が隅田川。

「亀清楼」、神田川に架かる柳橋、その北側に有る料亭、万八楼が安政元年(1854)亀清楼に名を変えて、現在もビルになって営業。
落語「一つ穴」、「干物箱」で写真紹介。

 

 柳橋遊廓(やなぎばし);かつて東京都台東区柳橋に存在した花街で、新橋の花街が明治にできたのに対し、柳橋は江戸中期からある古い花街です。
 柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)で、上田南畝の記録によると14名が居住していた。
天保13年(1842)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され、江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚な街として栄えてくるようになる。安政6年(1859)には、芸妓140名から150名に増加した。
 明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。明治時代の客筋は、ほぼ商が5割、髭3割、雑2割(商は実業家、相場師、銀行家など。髭は、政治家、軍人、弁護士など。雑は、俳優、力士、芸人など)。このころは柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった。 昭和3年(1928)には、料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名の大規模を誇り、芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演し披露していた。代表的な料理屋は伊藤博文が利用した現存する「亀清楼」であった。

 

結城(ゆうき)ごしらえ;茨城県西部の市。もと水野氏1万8千石の城下町で織られた織物。結城紬、結城付近から産する絹織物。木藍で染めた細い紬糸で織り地質堅牢。絣または縞織。また、結城木綿をいい、贅沢禁止令が出たため、結城紬に擬して織った木綿縞織物。しかし、高価な物であったので、職人達が身につけることは出来なかった。

 

献上(けんじょう)の帯;献上博多の略。 (黒田藩主から江戸幕府に献上したからいう) 福岡県博多で織られてきた独鈷華皿(ドツコハナザラ)と呼ばれる幾何文様に縞文様を織り出した帯地。細い経糸で文様を織り出すのが特徴。
右;帯地、筑前織物株式会社ホームページより

 

甲斐絹(かいき);海気・改機・海黄とも書き、 織物の名。慶長(1596~1615)以前に舶来。染色した絹練糸で織った平絹で、無地や縞などがある。羽織裏・夜具・座布団・傘地などに用いる。多くは甲斐国郡内地方から産するので「甲斐絹」とも書く。
 甲斐絹を手にとると、非常に軽く、平滑な薄手の生地でありながら腰があり、また独特の光沢とサラッとした風合いを持っている。そのため、甲斐絹は羽織の裏地に用いられる高級絹織物として、江戸時代から昭和初期にかけて盛んに生産されてきました。現在は作られていません。
 甲斐絹ミュージアムホームページより

 

股引き(ももひき);ここでは冬の寒さ除けに用いる下着と違い、着物の下に履き、尻まくりしたときにはチラリと見える粋なズボン状の物。上記の甲斐絹で作られた股引です。職人が履く紺色木綿の作業用とは同名でも旦那の股引とは用途、品格が違います。

 

白足袋(しろたび);江戸の道はホコリだらけの道ですから、白足袋を履いたら一回で黒足袋(?)になってしまいます。贅沢な履き方です。

 

雪駄履き(せったばき);竹皮草履の裏に牛皮を張りつけたもの。千利休の創意という。のちカカトに裏鉄(ウラガネ)を付けた。同じ履き物でも下駄やワラジより当然高価であった。

 

首元には寒さ除けとホコリ除けに紺縮緬の布を巻いた;縮緬は絹織物のひとつ。経糸(タテイト)に撚(ヨリ)のない生糸、緯糸(ヨコイト)に強撚糊つけの生糸を用いて平織に製織した後に、ソーダをまぜた石鹸液で数時間煮沸することによって緯の撚が戻ろうとして布面に細かく皺をたたせたもの。緋色の物は女性の下着に使われた。
 旦那は紺色に染めた肌触りの良い縮緬を首に巻いていた。

 

帳場(ちょうば);商店・宿屋・料理屋などで、帳付けまたは勘定などをする所。勘定場。会計場。

 

小判と2両(2りょう);小判は金を主材として作られた日本の貨幣。数え方は4進法で、1両=4分(ぶ)、1分=4朱(しゅ)。小判1両は現在の貨幣価値で約8万円。一般の江戸っ子はこれでは金額が大きすぎたので、銭を主に使った。公定で1両=4000文、江戸中期で5000文、幕末になるとインフレが進行して1万文にもなった。金貨の1分は小判と対比させて俗に小粒と言った。喜助は小判や小粒に埋められてタクアンになりかけたのに・・・。で、2両は小判2枚。または小粒8枚。

 

吉原の幇間;幇間(ほうかん)=男芸者=太鼓持ち。幇間は吉原の芸者屋に籍を置いていた。来てもらうのには吉原まで行かないと用が足りなかった。

 

総揚げ(そうあげ);芸者または太鼓持ちの手の空いている者全員を呼ぶこと。

 

柱を背に手酌;お大尽または主客は床の間を背に着座するのが普通ですが、遊び慣れた旦那だからそこを避けて、床の間が見える柱に寄りかかったのでしょう。畳席の寄席では壁や柱を背にすると楽です。
 酒席では杯が空になると、周りの者が気を利かせて酒をつぎ足します。それがイヤさに大きな杯で飲む酒飲みや、この旦那のように、自分で注いで飲む手酌が良いようです。

 

鬱金(うこん)木綿の風呂敷:うこん染または人造染料による黄色の木綿。着物や赤ん坊の下着あるいは器物を包む風呂敷などに使用。桐の箱を空けると、鬱金木綿に包まれた茶器などが出てきます。

 

微塵行李(みじんごうり);微塵は極小の、という意。行李(こうり)は、竹または柳などで編み、衣類や旅行用の荷物などを入れるのに用いるかぶせ蓋つきの入れもの。ここでは小判が100~300枚程度入る大きさの、大型弁当箱程度の行李。
右写真;微塵行李 江戸東京博物館蔵

 

家督(かとく);家の跡目を相続すること。旧制では、戸主の死亡・隠居などに伴う相続、戸主権を受けつぐこと。多くは直系卑属の家族が相続人とされた。

 

四斗樽(しとだる);液体が4斗入る樽。4斗は40升(1.8リットルX40)72リットル。極普通の大きさの樽で、酒樽や漬け物などを漬ける。貧乏長屋では棺桶にも流用する。

 

千両箱(せんりょうばこ);小判1000枚を収納する箱。千両箱は、天保小判1千両で約11kgと千両箱が3kgで合計約14kgあった。
写真;江戸東京博物館展示品「千両箱」

 

山車(だし);(ダシは「出し物」の意で、神の依代(ヨリシロ)として突き出した飾りに由来するという) 祭礼の時、種々の飾り物などをして引き出す車。または屋台。旦那のご機嫌伺いで出した山車には鰹節で作ったと言っていますが、それは、鰹節の出汁(ダシ)と祭りの山車(ダシ)を掛けています。

 

 

 

 神田祭の山車。江戸東京博物館展示品

 

木遣り(きやり);木遣り歌。木遣の時に歌う一種の俗謡。祭礼の山車をひく時や祝儀などにも歌う。木遣節。木遣口説(クドキ)。

 

芸者の手古舞(てこまい);江戸時代の祭礼の余興に出た舞。もとは氏子の娘が扮したが、後には芸妓が、男髷に右肌ぬぎで、伊勢袴・手甲・脚絆・足袋・わらじを着け、花笠を背に掛け、鉄棒(カナボウ)を左に突き、右に牡丹の花をかいた黒骨の扇を持ってあおぎながら木遣を歌ってみこしの先駆をする。現在も江戸の祭などで見られる。写真下、深川・八幡祭りの町内手古舞。

 

 

囃子(はやし);各種の芸能で、拍子をとり、または情緒を添えるために伴奏する音楽。笛・太鼓・鼓・三味線・鉦などの楽器を用いる。祭礼囃子のほか歌舞伎囃子・神楽囃子・馬鹿囃子などがあります。

 

 

 浅草・三社祭で御輿の先導としてお囃子の車が来ます。

 

御輿(みこし);神幸の際、神体または御霊代(ミタマシロ)が乗るとされる輿。形状は四角形・六角形・八角形などで、多くは木製黒漆、金銅金具付。屋蓋の中央には鳳凰または葱花(ソウカ)を置き、台には2本の棒を縦に貫いて轅(ナガエ)とし、舁(カく)便に供する。おみこし。

 

 

 神田祭の御輿 江戸東京博物館展示品

 



 

 

 舞台の柳橋から木場を歩く

 

 

 柳橋・亀清楼を出ると目の前には柳橋が架かっています。ここに来ると落語「船徳」の徳さんを思い出して、どうしてもニヤリとしてしまうのです。二人のお客さんを乗せた船を隅田川に出して3回廻って、石垣にへばりついてこうもり傘を差したまま、やっとの思いで漕いで行きます。今はその様な和船は1隻もなく、全てエンジンで動く屋形船がほとんどです。船舶免許が必要ですから、徳さんのような素人には操船は無理です。
 柳橋を渡って、直ぐの広い道が、千葉までつながる京葉道路です。左に隅田川があって、そこを渡すのが両国橋。現在は塗装工事の真っ只中ですから、赤茶色のすっきりした橋の姿は望めません。

 

 橋を渡って、最初の交差点を右に曲がります。駕籠もここを曲がったことでしょう。この道が一つ目通りと言い、間もなく川の上部に高速道路が走る竪川(たてかわ)に出ます。この竪川を渡す橋が一の橋。現在でも東に二の橋、三の橋から、六の橋まで有ります。この一の橋を渡ると、左側に江島杉山神社の参道が現れます。江戸切り絵図で見ると弁財天と有り、将軍綱吉に庇護され鍼術の神様と言われた杉山検校の屋敷に祀られていました。弁財天と杉山検校が祀られたのが、江島杉山神社です。その先、右側の隅田川沿いに今の新大橋まで御船蔵が有りました。この御船蔵には幕府の船と大きすぎて動かせなかったという、安宅丸が係留されていました。

 

 安宅丸(あたけまる。右、想像図。向井将監が管理していた天地丸、これよりズーと大きかった)は北条氏が造船したものでその動力は4百人の水夫が2百本のオールを交代で漕ぎ米4千石(1万俵)と多くの将兵軍馬をのせることができる木造船として最大の軍船であったといわれています。のちに安宅丸は豊臣秀吉の手に渡りさらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永10年(1633)江戸に回航し、この御船蔵につながれました。延宝7年(1679)江戸切り絵図には安宅丸が画かれています。そして巨艦安宅丸は維持管理が困難となり天和2年(1682)解体されました。幕末の頃には船蔵に38隻の艦船が格納されていましたが明治時代となり1隻は政府に他は払いさげになったと記されています。東京都江東区の歴史 - 新大橋一丁目 「安宅丸由来碑」より

 

 新大橋通りを渡ると、右側に芭蕉記念館(江東区常盤一丁目6)が現れます。江戸時代の新大橋はこの記念館南側に架かっていました。今は、その痕跡すらありません。
 その南に小名木川が走っています。そこを渡すのが万年橋。その手前岸に芭蕉稲荷があります。江戸の大洪水で、芭蕉の住んでいた庵の場所が分からなくなってしまいましたが、たまたま芭蕉が好きだった蛙の焼き物が出てきたので、そこを芭蕉庵跡としました。また芭蕉記念館分室のテラスから見る江戸時代にはなかった清洲橋が素晴らしく眺めることが出来ます。

 

 万年橋の架かる小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河であり、架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていましたが、萬年橋は中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿が愛された。

    
左、葛飾北斎画、富嶽三十六景「深川萬年橋下」。右、歌川広重画、江戸百景「深川萬年橋」。

 

 万年橋を渡り、先程眺めた清洲橋が渡す、清洲橋通りをぬけ、最初の四つ角を左に曲がります。駕籠屋はここを真っ直ぐに行って永代橋の通りに出る前に左に曲がると黒江町ですが、私は寄る所があるので曲がります。

 

 右側の公園が、清澄公園で一般の公園と同じです。その先が都立清澄庭園で回遊式の大名庭園です。ここの歴史に紀文の屋敷があったと書かれていますが??でしょうか。表通りに出ますと、そこが二つ目通りの清澄通りで、横断は出来ませんので右に行った深川江戸資料館の通りを入ります。最初の路地を左に入ると、奈良茂の墓があったという雄松院が有ります。住職に聞きました「関東大震災の折り、墓石が倒れ、その復旧作業の中で奈良茂の墓は無縁墓だったので、探しきれずになった。結局、奈良茂の墓は行方不明になってしまった。先代の住職の時だった」。
 戻って南の路地を行き、最初の角を曲がると左側に成等院(江東区三好一丁目6)の紀文の墓が出てきます。墓は小さく見過ごすかも知れませんが、その横に大きな碑が建っていますので、否が応でも目に飛び込んできます。ここは東北の大地震の影響で倒壊の恐れがあるため立入禁止になっています。ベンチがあるように、地震前には入れたのですがね。町名は変わっていますが道一つ隔てた所に、二人の大尽がこんな近くに眠っているなんて不思議なくらいです。もしかしたら、紀文の墓所はここでは無いという説もあります。

 

 最後の最後に書きますが、追いかけてきた、奈良茂も紀文も現在は過去の伝説上の人物になっています。奈良茂の墓もなくなっていますし、紀文の墓にしてもこれだという確証は何処にも有りません。紀文は一代で没落したとも、二代目が使い込んだのかも、確証はありません。清澄庭園の公式解説にも出てきますが、それも確証はないのです。二人とも伝説の領域に入ってしまったようです。 

 

 

地図



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 深川閻魔堂前に有った、道路案内板より。右が北側です。

 

写真

 


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柳橋(神田川に架かる河口の橋)
 広重の絵と同じアングルから見ています。緑の橋が柳橋で、右側に隅田川が有り神田川が合流しています。橋を渡った右前の茶色のビルが、万八楼が有った地に亀清楼が営業をしています。

亀清楼(台東区柳橋一丁目1−4)
 橋を渡ったここは花街として栄えた所で、隅田川に面した一等地に亀清楼があります。落語「干物箱」、「汲みたて」、「不孝者」等で来たことがある料亭です。また、橋の下には大桟橋や向島に出る船宿が沢山ありましたが、今は屋形船が全盛です。

両国橋(隅田川に架かり京葉道路を渡す)
 品の良い旦那はこの橋を渡って本所から深川に向かいました。渡った所が本所、右に曲がって行くと深川。江戸の初期はこの隅田川を境に東を下総国、西を武蔵国と呼び、両国を結んだ橋だから、両国橋と呼ばれるようになりました。

一の橋(墨田区竪川の最初の橋)
 竪川は隅田川がある所から数えて、一の橋、二の橋~六の橋までありました。ここは両国橋を渡って最初の道を南に下ると出てくる橋です。また、この道を一つ目通りと言います。まずはこの道を下ります。

御船蔵跡(新大橋北側の地にあった幕府の船蔵)
 寛永9年(1632)この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し、50年後の天和2年(1682)にいたって解体した。のちここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用、御船蔵と称しました。この付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものです。 正面の橋は新大橋、左手の岸が御船蔵があった跡です。

万年橋(小名木川に架かり一つ目通りを渡す)
 江戸時代、小名木川は塩の道と言われ、行徳、関宿、銚子方向から江戸に物資が運ばれてきました。その為ここに海上輸送の番所が設けられました。葛飾北斎は富嶽三十六景の中で「深川萬年橋下」として、歌川広重は名所江戸百景の中で「深川萬年橋」として取り上げた名橋。

清洲橋(新大橋の下流の橋)
 上記万年橋から眺める清洲橋が一番優雅に見えるところだと言われます。隅田川には遊覧船ヒミコが川を上って浅草に向かっています。

清澄庭園(江東区清澄三丁目3)
 回遊式の庭園で、紀文の住居がここの一部に有ったと言われます。その後大名の下屋敷になっていたが、三菱の創始者岩崎弥太郎が買い受け、整備して三菱の迎賓館として使っていました。大震災の時、多くの人を助け、現在は都の管理下に置かれています。

雄松院(江東区白河1丁目1)
 浄土宗寺院の雄松院は、雄誉上人が開基となり、寛永4年(1627)霊巌寺の開山堂として創建したといいます。奈良茂の墓所があった。しかし、大正の大震災の時、墓が崩れて行方不明になり、現在は所在不明になっています。(住職談)

紀伊国屋文左衛門の墓(江東区三好一丁目6、成等院)
 雄松院から道一つ隔てた所に、両雄は眠っていることになります。正面の石は碑で、墓はその左側に小さくあります。写真を大きくすると、剥離して文字も読めないほどの墓石が建っています。東北の大地震の影響で現在も立入禁止になっています。

黒江町跡(江東区永代二丁目から門前仲町の永代通り左右の街)
 写真は永代通り、門前仲町方面を永代二丁目から俯瞰しています。この左右の街が黒江町と言いました。

黒江橋跡(江東区門前仲町北)
 葛西橋通りと清洲通りが交差する所に、閻魔堂があります。その前方の高所に高速道路が走っています。それは油堀が埋め立てられて道になったもので、そこから幾筋もの堀がありました。永代橋に抜ける、高速道路下に黒江橋がありました。その橋名から町名になったのです。

永見寺(台東区寿二丁目7)
 玉菊さんのことが、百年経った文政期にリバイバルヒット、新たに作られたのがこのお墓です。本堂に突き当たって左側。
盛り上がった「玉菊フィーバー」で酒井抱一らが、八百善で行った盛大な供養会の様子が伝わっていると言われます。
拜墓とは言え、2百年近く前の文政時代当時の吉原の常連達が建てた墓ですので感慨深いものがあります。

                                                           

2013年9月記

 

 

 

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