落語「宗珉の滝」の舞台を歩く
   
 

 古今亭志ん朝の噺、「宗珉の滝」(そうみんのたき)
 

 

 二代目橫谷宗珉の若かりし時の話。
 江戸時代腰元彫りの名人橫谷宗珉の弟子に宗三郎がいたが、破門されて仕方が無く各地を旅したが、3年後紀州に着いた。
 旅籠岩佐屋に逗留したが、文無しで10日が過ぎて、宿の亭主に露見した。旅籠賃の代わりに、何か仕事をさせようと手を見ると居職で彫金でもやるだろうと見抜き、作品の小柄(こづか)の彫り物を見せてもらう。誰が見ても誉める品だが亭主は小柄の虎を見て、なぜ死んだ虎を彫るんだと詰問。死んだ虎と言ったのは師匠の宗珉とご亭主だけで、破門されたのも死んだこの虎を彫ったからで、ぜひ弟子にしてくれと嘆願した。

 素人の私だが見方が違うので、注意をしても怒らないで聞いてくれたら面倒を見よう。下の六畳二間を貸すから、仕事場と寝る所に使えば良いとお許しが出た。
 だんだんと亭主が気に入るような物が彫れるようになってきた。800石を取る留守居役木村又兵衛が泊まって、このことを聞いた。殿のご機嫌が良いときに紹介しよと言ってくれたが、宗三郎最近は精進が出来なく、酒浸りの生活に戻っていた。殿様から直々に那智山の滝を彫るように依頼があった。精進潔斎し、水垢離をして始めなさいとの意見を聞き入れず、前祝いだと酒を飲み始め、仕事に掛かった。4日掛かって仕上げ、亭主も感嘆しているので、納まったら100両だという。宿賃と授業料だから、全額亭主に差し上げるという。まだもらっても居ないのに。

 殿様それを見たが、沓脱ぎに投げ捨て、再度彫らせるようにと言付けであった。

 宗三郎、再度酒を飲んで仕上げた。前回より素晴らしかったが、殿様受け入れず、泉水に投げ込んでしまった。そして、再度の要請。
 宿に戻って、宗三郎に話すと、分かった、やるから酒を持ってきてくれと言ったので、ご亭主が怒り出した。「俺を一人前にしてくれと言うから面倒を見ているのに、私の言うことも聞かず酒ばかり飲んでいるから納まらない。それは力量があるからではなく、酒を飲まなければ恐くて仕事が出来ないのだ」。
 宗三郎は決心したように、本物を見なければならないと滝壺に下りて行き、三七21日断食するという。滝から上がった宗三郎は死人のようであった。身体をいたわるより、今すぐ仕事場で、身体に入っている滝を彫り上げたいと言い残し、七日七晩一生懸命に彫った。仕上がって部屋から出て、もし、納まらなければ切腹すると言うし、宿の亭主は立派な物なので必ず納まるし、ダメだったら私も一緒に死ぬと約束した。
 でも、仕上がりを見ると先の作品よりマズく見えた。やな事を約束したと後悔したが、仕方が無いので屋敷に持ち込んだ。

 殿様、ジッと観ていたが、求めるという。今回お求めで無いと2人の命が掛かっていたと伝えると、与のために命を賭して仕事をしてくれたか、明日お目通りを許す、との有り難いお言葉。翌日面会をすると100石で宗三郎をお抱えになった。
 岩佐屋には、腑に落ちないことがあった。先の2点は自分が見ても出来も良かったが、最後の作品はそれほどでも無かった。どうしてそれを求められたのか、木村様を通じて聞いてもらった。
 殿様が観ているとじっとりと手が濡れてきた。慌てて紙の上に置くと、紙に湿り気がきたという。すごいでしょう。芸術家とはこの様にありたいという(場内笑いと感激のウズ)。

 それを江戸の橫谷宗珉に知らせると、宗珉は老齢で床に伏せっていた。宗珉は二代目宗珉の名前を紀州に贈ってきた。紀州家の先祖は南龍院と言ったので、龍の一字をとって、一龍斎橫谷宗珉として紀州にその名を留めた。
名人の一代話でした。
 
 



1.初代橫谷宗珉

 寛文10年(1670)に生まれ、享保18年(1733)に没した。63歳(83歳で没したともいう)。
 江戸中期の装剣金工家、橫谷家2代目。後藤殷乗(あんじょう)の門人であった橫谷宗與の子(養子とする説もある)。江戸生まれ。幼名は長二郎、のちに治兵衛、さらに父の没後に宗珉を名乗った。神田檜町に住み、はじめ父以来の御彫り物役として江戸幕府に仕えていたが、後藤家の伝統的な家風に飽き足らず辞職して町彫りとなった。狩野派をはじめ各派の画風や自由な画題を彫り技にとり入れた。また技法にも創意工夫を加え、特に片切(かたぎり)彫りに示される精妙で格調高い独自の境地は、世に絶賛され、当時の彫金界に橫谷の名を一流にした。作品は目貫(めぬき)、縁頭(ふちがしら)、小柄(こずか)など多岐にわたり、獅子牡丹、龍、虎、馬、布袋などの絵彫りを好んで表した。後年には画家・英一蝶(はなぶさ-いっちょう)との交流が知られ、彼の下絵を用いたと伝えられる。一門は宗珉を頂点として柳川直政、石黒政常、大森英秀、古川元珍などの諸家を擁して繁栄し、町彫りの開祖として高い評価を得た。
「日本歴史人物事典」朝日新聞社編より 
右写真;「日本肖像大事典」日本図書センター発行より

 伝えていう、宝永の頃に、紀伊国屋文左衛門が、宗珉に牡丹の目貫を頼んで、手付金10両を贈ったが、3年経っても、まだ彫ろうともしなかった。紀文は待ちわびて、しきりに催促したところが、その仕方が気に食わぬといって、手付けを返し、その後やや過ぎて彫り上げたのを、当時紀文と肩を並べていた富家の某に与えた。某は喜んで50両をもって謝礼とした。以後宗珉は、一輪牡丹を彫らなかった。それでその目貫は、世に一品の名物となったという。
 享保18年癸丑8月6日没し、浅草東本願寺中の等光院に葬られた。宗珉には子がなかったので、橫谷宗寿(英精)の子・宗与(友貞)を養子としたという。
「人物逸話事典」下巻 森銑三編 東京堂発行より

 私の調べでは紀州に渡った、この噺の主人公・宗三郎の2代目橫谷宗珉の足取りは分かりません。
 この噺は元々講談話で、内容や登場人物が少々違っています。講談の最後は、
「やがて彼は紀州家お抱えとなって横谷珉貞と名乗り、名匠の名をほしいままにした」。 講談ですから深く追求しても無駄です。

■落語「浜野矩随」に腰元彫りの説明と腰元彫りの写真あり。

■落語「金明竹」にも出てくる名人です。

英一蝶(はなぶさ いっちょう);(1652-1724)元禄風流の一代表者で、人となり磊落(らいらく)才気に富み、交わるところ其角、破笠、佐佐木文山、仏師・民部の如き同型の人々である。また宗珉と親しく、下絵は主に一蝶の筆による。一蝶の画は狩野流を学んで、機知の意匠に長じて、陳腐の題材を新しくし、市井の風俗を写して、よく人情の機敏を穿ったところが時尚に投じて大いにもてはやされた。一蝶また文章を能くし、見るべきものが多い。
「日本人名大事典」平凡社より 抜粋 右写真も

 

2.神田檜町(かんだひのきちょう)
 日本歴史人物事典にある、宗珉が住んでいた神田檜町は江戸時代にも、明治から現在にかけても、その存在はありません。神田の何処かに住んでいたのか、神田周辺の単に檜町と言う地に住んでいたのか。その様な地名は存在しません。江戸の檜町は赤坂檜町があります。現在地の東京都港区赤坂八丁目、九丁目、南青山一丁目にあたります。その後範囲が狭まり、赤坂9丁目7番地にある檜町公園を中心にした、赤坂九丁目をいいます。

等光院(とうこういん);宗珉の墓所。台東区西浅草一丁目6、東本願寺寺中、等光寺が正式名称。複数の事典を見比べると、大出版社の事典でも間違いが結構あります。

紀州藩(きしゅうはん);紀伊藩の別称。徳川三家のひとつ。江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。家康の第10子頼宣(よりのぶ)を祖とした。石高55万5千石。紀伊家。紀州中納言。

上屋敷;紀尾井町1~3番地、ホテルニューオオタニ東側一帯。24,500坪余

中屋敷;元赤坂二丁目、赤坂御用邸(迎賓館を含む)。134,800坪余

下屋敷;港区海岸一丁目、旧芝離宮庭園。14,700坪余。
及び、渋谷区松濤町一.二丁目北側。29,400坪。
他に、30ヶ所近くの屋敷地を江戸の各所に所持していた。

赤坂の食い違い(食違見付跡。千代田区紀尾井町6、ホテルニューオオタニ北側)
 ホテルニューオオタニ北側から赤坂御所脇を通る外堀通り(紀之国坂)に抜ける所が赤坂の食い違いです。江戸三十六見付の内一番高い地点にありました。石塁を交差させて敵の侵入を防ぐ造りになっていたので食い違いと言います。都心の一等地なのに今でも薄暗く人通りも少なく寂しい所で、円生の言う「首くくりの名所」だと言うのはここです。 ここには首くくりに都合の良い枝振りの松があった。
 紀尾井町は江戸時代ここに紀伊、尾張、井伊三家の屋敷があったので頭文字を取って地名になりました。上智大とホテルニューオオタニを挟む坂が「紀尾井坂」、その最上部の石垣の所が「
食違見付跡」です。

 明治7年(1874)1月14日夜、右大臣岩倉具視が馬車で帰宅途中、この食違見付で数人の刺客に襲われました。負傷したが、馬車から溝に転落。それを見た刺客は暗殺が成功したと思い込み引き上げていった。出来たばかりの警視庁の捜査で犯人は逮捕されたが、時の政府は大騒ぎになった。この事件を「食違いの変」と言います。

 その4年後、それ程離れては居ない所で、「紀尾井坂の変」が起こります。
 明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。明治21年5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が近くの紀尾井町清水谷公園に完成しました。(千代田区教育委員会文化財説明板より)
 紀尾井坂を下った所、清水谷公園には高さ6.3mもの「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建っています。
落語「ちきり伊勢屋」より

 

3.言葉
居職(いじょく);自宅で仕事をする職業、またはその人。裁縫師・木工師・金工師の類。 反対に外に出て働く職人を出職と言います。

腰元彫り(こしもとぼり);「腰元」という言葉は身のまわり、特に腰の回りというような意味で、そこから身辺の世話をする侍女を”腰元”とよんだり、刀剣の付属品を意味するようになった。腰元彫りは刀剣装飾品を彫刻すること、刀剣の付属用品を製作することを言います。鉄・真鋳・銅などを加工するため、彫金術に長けていなければならなかった。
 腰元彫りの名人達は、落語『金明竹』でお馴染みの「先度、仲買いの弥一が取次ぎました道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗三作の三所物。横谷宗珉四分一拵え小柄付の脇差し・・・」 、後藤家はこの祐乗・光乗・宗乗を輩出し、天皇家・将軍の「三所物」を手がけ金工の保守本流であった。
 しかし、江戸泰平の世が永く続くと刀は武器としてより装飾品としての様相が強くなってきた。武士よりも力を持ち始めた町人はこの目貫などの刀の道具を緒締め・紙入れ・帯止め・煙草入れの金具や根付けに使い楽しんだ。その江戸庶民の要望に応えた筆頭が町彫りの横谷宗珉であった。
落語「浜野矩随」より

小柄(こずか);刀の鞘(さや)の鯉口の部分にさしそえる小刀(こがたな)の柄。また、その小刀。落語「金明竹」より

(つば);刀剣の柄(ツカ)と刀身との境目に挟み、柄を握る手を防護するもの。平たくて中央に孔をうがち、これに刀心を通し、柄を装着して固定する。円形・方形その他大小種々ある。図;広辞苑より

 中国のホームページに浪を扱った鍔が出ています。写真左2点、宗珉作「海浪」 台湾の個人蔵
右、宗与作 「鐔(つば)」小笠原信夫著 カラーブックスより

 

水垢離(みずごり);神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること。

沓脱ぎ(くつぬぎ);鍔が気に入らないと、最初に投げつけられた所。玄関や縁側の上がり口などの、はきものをぬぐ所。はきものをぬぐため据えた平らな石を靴脱ぎ石と言います。

泉水(せんすい);庭に設えられた池。

三・七、二十一日断食;食物をたつこと。宗教上の慣習として、また祈願などをする時に、一定の期間食物を食べないこと。日数は、願掛け詣でをして、満願までに要する期日の典型例で7日の倍数を指定する。

腹を切って死ぬ;切腹。死刑の形態の一つで民間人には許されず、武士だけに与えられた刑法。彫金師は紀州藩に抱えられるまでは民間人ですから、切腹はあり得ません。ただし、個人の意思で自殺をするとき、手段は決まっているわけではありませんから、どんな手法を採ろうともその個人の自由です。

留守居役(るすいやく);お殿様は参勤交代で江戸に出ますから、その時藩に残って政務を司る責任者。

 



 舞台の赤坂を歩く

 橫谷宗珉の住まい跡を訪ねます。

 講談に出てくる紀伊の宗三郎ではなく、実在した橫谷宗珉です。日本歴史人物事典の中で語られている住まいは神田檜町ですが、この町名は無いことは既に書き示しています。今回行くのは、檜町(ひのきちょう)で、赤坂檜町と言われる所です。

 もと自衛隊檜町駐屯地は、1874年から2000年まで東京都港区赤坂9丁目7番地にあった防衛庁施設。陸上・海上・航空自衛隊の部隊のほか、防衛庁本庁等が駐屯していた。施設の全てが市ヶ谷に移転し、駐屯地(基地)閉鎖後は民間に払い下げられ、東京ミッドタウンとして再開発された。 六本木のランドマークタワーとして六本木ヒルズと並んでランドマークタワーとして並立しています。
 ここは江戸時代は長州藩・松平大膳大夫(毛利家)の下屋敷があったところで庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていた。また周りに檜が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名の由来にもなった。また、隣接する北側の坂道もこの檜から、檜坂と言われています。
 また、平成21年(2009)4月、ここでSMAPのメンバー草彅剛が、全裸になって騒いでいるところを公然猥褻罪で逮捕され、注目された公園。

 東京でも指折りの繁華街が六本木交差点を中心に広がっていますが、その南側には10周年を迎える六本木ヒルズ、北側には2007年3月にオープンの東京ミッドタウンがあります。
 この東京ミッドタウンの地が檜町の中心地で、檜町公園が毛利家下屋敷跡の庭園です。
 江戸時代の面影は何処を探しても見付からないほど、現代の建築物で覆われています。また、ここを行き交う若者達も、遊びだけではなく、芸能、フッション、TV局も近くにあり放送関係の人達で賑わっています。時代の先端をになっている人達向けの、洒落た飲食店が集まっています。そうそう、東京ミッドタウンの通りを渡った西側には新しく出来た国立新美術館が有ります。
 この地図は六本木ヒルズホームページの案内地図です。


 紀州藩の屋敷跡を探して歩きます。
 まずは上屋敷から。大きな赤坂見附交差点の北側はホテルニューオオタニ、弁慶橋を渡った紀尾井通りの東側の赤坂プリンスホテルの二大敷地があって、赤坂プリンホテル側の地が上屋敷跡です。赤坂プリンスホテルは高層ホテルの草分けで、時代に合わなくなったので取り壊されています。上から順に壊されていきますが、足場で目隠しされて外部からは作業の状況が見えませんが、だんだん下がってきて、今は地面に接して後片付けの段階になっています。あの40階建ての、のっぽが何処に行ったのでしょう。工事現場を右に見てその先に、清水谷公園が現れます。
 ここは日本式の公園で池も作られ鯉が泳いでいます。中央には大きな石碑で、「贈右大臣大久保公哀悼碑」(右写真)が建っています。明治11年5月、現在でいう総理大臣だった大久保利通が清水谷で暗殺されました。一般には紀尾井坂の変といいます。彼の遺徳を偲び、建てられた碑で、高さ6.27mになります。
 先程の道を進むと突き当たり、ここが清水谷で江戸時代は綺麗な湧き水が出ていました。ホテルニューオオタニの角を左に曲がり紀尾井坂を登るとその先、食い違い見附に出ます。

 紀尾井坂の変の4年前に起こった、食い違いの変がここでありました。明治7年(1874)1月14日夜、公務を終え、赤坂の仮皇居から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉具視の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった際、襲撃者たちがいっせいに岩倉を襲った。襲撃者は高知県士族で、もと外務省に出仕していた武市熊吉ほか、総勢9人。いずれも西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人であった。岩倉は襲撃者の攻撃により、眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、一命を取り留めました。 

 その食い違いに立っています。ホテルオータニの正面玄関スロープを見渡せる位置に有りながら、交通量の少ない木の鬱蒼とした場所です。ここは外濠が埋め立てられて、橋ではなく土手のようになり、対岸に渡れました。  
 渡った所が現在の青山御所(迎賓館がある所)で、外濠にそった坂道が紀ノ國坂と言います。御所の塀は江戸時代の塀で、その中が中屋敷だった所です。上屋敷と中屋敷がこんなに近いのも、中屋敷がこんなにも大きいのも徳川御三家だったからでしょう。塀に沿って右に曲がると御門があって、紀州藩の面影を見ることになります。

 下屋敷は渋谷の松濤町に有りました。松濤町は歓楽街の渋谷の直ぐ裏にあって、高級住宅地ですから静かなお屋敷町を形成しています。その町の中央に小さな庭園があって、池を中心に日本庭園の趣を残しています。この公園を鍋島松濤公園と言います。明治に入って鍋島家が買い受け、その後、区立の公園になりましたので、頭に鍋島の名前が冠してあります。この池は今でも地下水が噴き出して、その水が池を形成しています。

 もう一つの下屋敷は、JR浜松町駅東側に隣接していて、江戸湾に面した埋め立て地に造成された回遊式の庭園になっている地です。中央の池は海の水を引き入れ干満による景色の移り変わりを楽しんだといいますが、現在はその先まで埋め立てられて、干満の変化は楽しめません。旧芝離宮恩賜庭園として整備され都立の庭園として一般公開されています。

 

地図


  赤坂の清水谷坂にあった案内地図より
地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

赤坂檜町(あかさか_ひのきちょう。赤坂九丁目全域)
 六本木・旧防衛庁跡地に建った高層ビル・東京ミッドタウンの東に檜町公園として名が残りました。宗珉が住んでいただろう地です。

等光寺(台東区西浅草一丁目6)
 宗珉のお墓があるお寺さん。浅草東本願寺の子院の一つです。この正面の本堂の裏に墓所があります。また、石川啄木の葬儀が行われたことでも有名。

水谷公園(千代田区紀尾井町1~3)
 紀州藩上屋敷跡。敷地跡の中央部に位置する公園。40階建ての赤坂プリンスホテルもこの地にありますが、解体が進んで後片付けの段階に入っています。

食い違い見附(紀尾井坂の上部が濠を渡って紀ノ國坂の接する地)
 落語「ちきり伊勢屋」で、首つりをする所だと不名誉なことを言われています。

迎賓館正門(港区元赤坂二丁目)
 紀州藩中屋敷跡。現在、赤坂御用地として使われています。上屋敷と中屋敷の間は食い違い見附を挟んだ両端にあります。

迎賓館和風別館門(紀ノ國坂門)
 迎賓館には洋館と純和式の日本閣があって、中屋敷当時の重厚な和風門がそのまま使われています。

鍋島松濤公園(渋谷区松濤二丁目10)
  紀州藩下屋敷跡。渋谷の繁華街から少し離れた松濤町ですが、お屋敷町で静けさに囲まれています。その一角の江戸時代から続いている、地下水が噴き出している池を持つ公園。

旧芝離宮恩賜庭園(港区海岸一丁目4)
  紀州藩下屋敷跡。大久保加賀守が作庭し、幕末になって紀州藩の下屋敷になった。回遊式の庭園で池の水は潮の干満で上下し、景色の変化を楽しめた。

                                    2013年7月記

 

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