落語「箱入り」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭竜楽の噺、「箱入り」(はこいり)によると。
 

 日本橋の両替商和泉屋さんで大金持ちの一人娘お静さんに縁談が決まった。旦那は心配している。何一つ嫁入り修行は出来ていず、家庭の事が何も出来なかった。母親に言うと心配要りません、私もそうだったから、と澄まし顔です。嫁に来た時ご飯が炊きたいと言ったので焚かせたら水加減が悪く堅くて食べられなかった。3日我慢をしたが絶えられず、出前を食べた。奥様は、私はその日の内に鰻を取りましたと涼しい顔。

 これではいけないと、お静さんに聞いた。「お米の炊き方は分かります。まずお米をといで、手のくるぶしまで水を入れればいいのです」、「それから」、「それから何かするのですか?」、「火に掛けるのだろう」、「ロウソクの?」。いけませんこれでは、と言うので元番頭だった本所の佐兵衛さんに行儀見習いを頼んだ。

 頼まれた佐兵衛さんでは日本橋のお嬢さんが来るというので大変。女中頭のお時さんに任せた。先ずは拭き掃除からと、雑巾掛けをお願いした。が、一ヶ所だけ何回も何回も拭いていた。それではいけないと、翌日には台所に連れて行った。包丁を持たせて叩くのを教えた。千六本を頼んだら「880本まで切った」と言う。お嬢さんの姿が見えないので小僧に聞くと、閑そうだから布団を叩くのを頼んだという。行ってみると、綿だらけの中でお嬢さんが包丁で布団を切っていた。
 お嬢さんに聞かれたくないので、全員蔵の中に集めて言った「お嬢さんに決してものを頼んではいけない。何も考えず言葉通りにやってしまうから、大変な事になってしまう」。小僧が既にものを頼んでいた。「お風呂のお湯を沸かしてください」と。
 なんか焦げ臭くないか。「お風呂の湯を沸かせて、と頼んだのだよな」、「いえ、その様な言い方ではなく『お風呂に火を着けて』と言いました」。大変です、お風呂場が火事です。お嬢さんは火元で一生懸命燃やしていた。佐兵衛さん宅では半鐘に登って火事を告げた。

 それを聞いた日本橋では、本所方向だというので心配をしていた。そこに煤だらけ、着物は焼けこげた姿でお静さんが帰ってきた。心配した両親が聞いたら、すました顔でお静さんが言った。
「カジ手伝いに行ってきました」。 


上図;「ぞうきんぶき」(絵本鏡百種) 影映るがごとく磨きなさいと言っています。やはり一ヶ所だけを拭かないと難しいかな。


1.「箱入り」の事
 この噺は私も初めて聞きます。時間の無い時や、落語を聞く状態でない状況下では、うってつけの前座話なのでしょう。今回のラジオでの公開録音ですから漫才が主役です。演る方も演じにくかったでしょう。
 また演者の三遊亭竜楽(りゅうらく)さんは円楽一門の若手です。http://www.ryu-raku.com/profile.html   若手と言っても昭和33年生まれですから50代のアブラが乗りきった噺家さんで、若手とは失礼。中央大卒。
 深川にあった円楽党若手育成寄せ寄席若竹では二つ目時分の竜楽さんは知っていたのですが、ここで再会とは驚きです。当時の名前で出ているんですね。
 2010年8月、中央大学から公開放送、NHK「キャンパス寄席」より収録。


2.行儀見習い

 
この噺のお嬢さんは特別のように話をしていますが、以外や特別ではないのかも知れません。マクラでも触れていますが、印鑑を押す時に使う”朱肉”を買いにやらせたら、肉屋に飛んでいった。お米をとぐ時に洗剤を使ってしまった。等は実話だと言っています。
 私がコピーを取って、と頼んだら、「重くて持ってこれません」。操作法を教えたら「真っ白な紙しか出てきません」、おいおい、原稿が裏側だよ。餃子を裏表焼いて出してしまったという、新妻を知っていますし、我が家では、息子に吟醸酒の味見に「ちょっと舐めてご覧」と言ったら、杯にベロを突っ込んで舐め始めた。何て事をするんだと叱ったら「お父さんは舐めろと言ったじゃないか」。
 かと言って、落語「延陽伯」(たらちね)のように、言葉使いからして難しすぎるのも困ったものかも知れません。

 Q.究極の選択、美人だが何も出来ない娘、ブスだが何でも出来て、気配りが出来る娘、貴方ならどちらを嫁にする?
 ブスは3日も一緒にいれば慣れると言いますが・・・、美人は慣れても美人だと・・・。さてさて?


3.日本橋
 
日本橋は江戸時代商業地として江戸の中心地でした。落語の世界では金持ちの大旦那は皆、ここに住んでいます。現在の三越、三井本館がある日本橋室町、昭和通りに面した日本橋本町、日本銀行がある日本橋本石町などに当たります。

「江戸名所図屏風」より日本橋部分 實永10年代(1633〜) 江戸東京博物館複製蔵 出光美術館原資蔵

本所(ほんじょ);隅田川の東側の北部、現在の墨田区の西半分に当たります。落語国では志ん生のナメクジ長屋で有名でしたが、現在業平地区で東京スカイツリー(新東京タワー)の工事が進んでいます。
 ここには落語「文七元結」で有名な達磨横丁が有りますし、「業平文治」では業平と本所周辺を舞台にしています。

 明治初年の吾妻橋。対岸浅草寺の五重塔が見えます。こちら側が本所。墨田区緑図書館蔵


4.言葉
箱入り箱入り娘の略。大切に養いかしずいて、みだりに外へ出さない娘。秘蔵娘。広辞苑
外気に触れさせず、悪い虫も寄せ付けず、家の中だけで生活した為、外界の常識がトンと分からない娘。

千六本・繊六本(せんろっぽ);正しくは繊蘿蔔(せんろふ)と書き「蘿蔔」は大根の事で、これを細長く刻んだもの。センロフ(繊蘿蔔)がなまって繊六本になった。千六本はあて字でこう書くところから本来の意味がつかめなくなった。東京の主婦は「今朝のおつけの実はせんろっぽよ」といえば、大根の細切り入り味噌汁だと分かっていた。人参、ゴボウを細く切っても、せんろっぽとは言いません。

半鐘(はんしょう);火事を知らせる為に屋根上や櫓の上に設置した小型の釣り鐘。火事場が遠方の時はゆっくりと間をおいて叩くが、近くになると激しく叩かれた。極近隣だとスリガネと言って、半鐘の内側をジャラジャラジャラと激しくこすった。

 江戸時代でこの噺が本当だったら、失火であってもお静さんは江戸市中引き回しの上火あぶりの刑です。また佐兵衛さんのお店は取りつぶしになって、佐兵衛さん本人は監督不行き届きで流刑か所払いになっていたでしょう。日本橋の実家はどうなるのでしょうか。「火事手伝い」、なんて悠長な事は言ってられず、どんな火事でも重罪です。

写真;「常火消しの番小屋」、四ッ谷・消防博物館展示品

風呂(ふろ);江戸の町家では外風呂と言って、お風呂屋さんに行く事が当たり前でした。内風呂を持っているのは武家だったり、お寺さんだったりします。火事が恐いので内風呂は幕府によって禁止されていたのです。佐兵衛さんの店に内風呂があったなんて、よっぽどの大店だったのでしょう。

 


 

 舞台の本所を歩く


 今、本所のシンボルはダルマ横丁でも、細川屋敷跡のアサヒビールでも、ナメクジ長屋跡でもありません。
 新東京タワーの東京SkyTreeという高さ634mの放送電波塔の建設です。只今634m中、第1展望台より上の438m部分を工事中です。日に日に高さが高まるに連れて、それに比例するかのように人気も上がってきています。観光バスツアーまで出る状態です。見学と言っても、工事現場に入れる訳ではなく、遠くからの見物です。隅田川を挟んだ浅草・浅草寺からの眺め、隅田川沿いの墨田公園、また吾妻橋からの眺めが人気スポットです。浅草側から眺めると対岸が本所です。

 対岸の正面に見える金色のビルがアサヒビールで、ビールジョッキを模して上部にはアワまで乗っています。その右側のウンチのディスプレーが乗った黒い建物がビアホール。左端の丸っぽいビルが墨田区役所。その間に見えるのがSkyTreeです。日々大きくなってくるのが実感できます。カメラを向ける観光客の大部分が金色のウンチディスプレーに興味が湧いて撮ったり、ツーショットでカメラに収めていましたが、今ではSkyTreeが主役です。 
 浅草の観光案内に人力車が大活躍ですが、この人力車が隅田川を渡ってSkyTree建設現場の業平まで出張して来ます。電車でも一駅の距離ですから歩いてもタカが知れています。私はこの吾妻橋を渡ると、先程のビアホールでビールに舌鼓を打ちます。

 今回は日本橋まで足を延ばさなくてはいけないので、寄らずに次の目的地日本橋に・・・。

 上記地図;明治18年発行の東京全図から日本橋区と本所区 部分

 日本橋も本所も大きく見ると日本橋区と本所区です。隅田川を挟んで東側が本所区、西岸が日本橋区です。その間を両国橋が仲を取り持っています。本所区で見ると東京SkyTreeは業平地区にあり、本所区の北端にあたります(地図の右上欄外)。
 両国橋の東側は回向院が有って賑わいの地になっています。また、両国橋の西側は両国広小路と言われ、ここも繁華街です。現在は東日本橋と呼ばれ、元日本橋区にあった地域は頭に日本橋と付けて、日本橋○○町と呼ばれています。橋の日本橋は地図中の左下にあります。

 煤だらけ、着物は焼けこげた姿でお静さんが帰って来たのも、両国橋を挟んだ地域にいたら簡単に戻れたのでしょう。

地図

   地図をクリックすると大きな地図になります。  Googleマップより
写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

日本橋 (にほんばし。中央区日本橋北、日本橋川に架かる橋)
 家康が江戸を開いた時に架橋され、現在の橋は明治44年に完成した。橋銘板は最後の元将軍慶喜の筆、飾りの麒麟は東京の繁栄、獅子は守護を表しています。中央の道路元標は昭和42年に柱からプレートに交換され、文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆です。

日本橋北(中央区日本橋室町)
 日本橋を通る道は中央通りといい、北側の街は三越や三井本館が並んでいます。現在この地区は再開発の真っ只中で、通りの右側には高層ビルが2棟完成間近です。続いて、手前のビル群が取り壊されて、同じような高層ビルに建て替えられます。

日本橋南(中央区日本橋)
 上記日本橋の南側を見ています。落語「黄金餅」では、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目(現・日本橋)へ出まして、中橋(八重洲)、南伝馬町(京橋)、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町(銀座)、新橋を右に切れまして、土橋から・・・。と言っています。
 現在は左手にふとんの西川、先が白木屋があったコレド日本橋、日本橋の交差点を渡り高島屋が見えます。

 

東京SkyTree(墨田区押上・業平再開発地域)
 建設中のタワー足元、東武橋より見るタワー。第1展望台(350m)は姿を現し、その上の第2展望台(450m)に向けて成長しています。全高(武蔵=ムサシ)634mの威容を見るのは2011年12月です。
2010年8月下旬撮影
 

所在地

東京都墨田区押上一丁目1番2号他

敷地面積

約36,900u

施設規模

建築面積

約31,600u(タワー+街区)

延床面積

約230,000u

建物規模

東街区 地上31階、地下3階
西街区 地上7階、地下2階
駐車場台数 約1,000台

東京SkyTree(墨田区押上・業平再開発地域)
 隅田川に架かる吾妻橋。その橋上から見る本所地区のアサヒビールとSkyTree。写真の右側には達磨横丁がありました。
2010年8月下旬撮影、只今438m。

 

東京SkyTree(墨田区押上・業平再開発地域)
 墨田区向島・墨田公園南部から望むSkyTree。街のあちこちからこの様に路地越しに見えるようになりました。
2010年8月下旬撮影

蔵と火の見櫓(江東区深川資料館にて)
 江戸の深川を当時と同じ素材と建築技法で実物大のジオラマ構成された、商家とその裏に続く長屋を現しています。蔵とその右と手前に建つ長屋が見えます。その奥右側には真っ黒い火の見櫓が見えます。15分サイクルで夜明けから日中、夕方と続き夜になると月が出て暗く沈んだ闇が訪れます。今は夜なので、黒い火の見櫓が闇に沈んでいます。

回向院(えこういん。墨田区両国二丁目8)
 明暦3年(1657)江戸には「振袖火事」の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。将軍家綱は、この無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設けたのが回向院の始まり。
 その後、ここで相撲興行、出開帳が行われ賑わった。

                                                 2010年9月記

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