落語「紫檀楼古木」の舞台を歩く
   

 

 林家彦六の噺、「紫檀楼古木」(したんろうふるき)によると。
 

 今の東京に四人しか居ないと言う時代になってしまいました。それがラオ屋キセル屋さんです。キセルを使うより紙巻きタバコになってしまいました。紙巻きと違ってキセルは持ち方によって味わいが出てきます。
 ラオ屋さんは箱を背負っていて、箱の三面に「ラオ屋キセル」と書かれていた。字の読めない人もいるので箱の上に、鋸や才槌、万力、小刀などを飾り、竹の先に大きな雁首を掲げて看板としていた。「ラオ屋ァ〜〜、キセルゥ」と声掛けながらやって来た。

 ある御宅で声が掛かり、銀のキセルの掃除を頼まれた。降ろした箱から小さな腰掛けを出して、どっかり腰を下ろし、仕事に取りかかります。今戸焼きの小さな火鉢を取り出し、その中にタドンがいけてあります。熱くなっている灰の中に雁首を入れ、ジュージューヤニが溶け出したのを見計らい、取り出してボロ切れでラオを巻いて雁首は樫で出来た万力に挟んで回すと外れる。吸い口も同じように外す。雁首と吸い口を掃除し、サイズの合った新しいラオを暖め雁首にはめ込み、吸い口もはめ込み才槌でキツく一体化する。接合部の漏れを確認するため、火皿を指で押さえ吸い口から2.3回パッパっと吸って「ハイ出来ました」とお女中に渡した。

 御新造さんに、「汚たな爺が吸い口を吸ったから、お湯をかけてきます」とご注進におよんだ。
「そんなに汚い爺さんなの」、「汚な国から汚いを広めにきたようなお爺さんです。ウソだとお思いだったら、窓の下にいますからご覧なさい」、「本当にねェ〜」。
 それを聞いていたラオ屋さん、スラスラと筆をとって、女中に手渡した。
それを見た御新造さん、いい手だと誉めておいて、読むと、
 「牛若の御子孫なるか御新造が我をむさしと思い給ふは
「私がね、爺さんのこと『むさい』と言ったので、牛若になぞらえて詠んだもので、見事なもんだわ」。
御新造も墨を擦って返歌を詠んだ。
それを見た古木もいい手だと誉めておいて、読むと、
 「弁慶と見たはひが目か背に負いし鋸もあり才槌もあり
「わしの道具に引っかけたのは上手いものだ」と、その即詠に感じ、また返したのが、
 「弁慶にあらねど腕の万力は、きせるの首をぬくばかりなり  ふるき」。

 それを見た御新造さん、”ふるき”の署名を見てびっくり。ただのラオ屋さんでなく狂歌の大宗匠だとビックリ。このまま返すのは失礼であるからと、陽気が寒くなってきたことだし、亭主のための綿入れの羽織を着て貰おうと女中に持たせた。

 追いかけて、古木に渡そうとすると、丁重にお礼を述べ、「御新造によろしく伝えてくれ」と伝言し、
「羽織を着ていなくても、この荷さえ有ればなぁ充分、『(売り声で)はおりやァ〜〜、きてェ〜るゥ』」。

 


1.紫檀楼古木(したんろうふるき。1767〜1832)
 狂歌師。姓は藤島氏、通称伊勢屋古吉。明和四年に生る。霊岸島白銀町または内神田に住み、大工職であつたが生計立たず、羅宇竹(らおだけ)のすげ替を業として市中を歩いた。狂歌を朱樂菅江(あけら かんこう)に學び、また近隣に住む六樹園の門人らと交通した。奇人で家事に頓著せぬため赤貧であつたが狂歌にのめりこみ、遂に妻から離別を要求された。彼は直ぐ次の狂歌を詠じた。
 「凧のぼり長き糸巻さるきらぱ、さぞや子供のなきや明さん」。
この事、蔵前の十八大通の一人に聞え、同情金を贈られ夫婦が仲戻ったという。天保三年十月八日歿、年六十六。
日本人名大事典(新撰大人名辞典)第三巻 平凡社より

 また、紫檀楼古木は、
 浅草の蔵前通りに伊勢屋という羅宇竹の問屋を営んでいましたが、風流人で狂歌が巧く、紫檀楼古木とはその方の戯号であります。家業を奉公人任せにして、そんなことにぱかりうき身をやつし、落語が流行って来ると自分も立川金馬の門人になって寄席へ出ました。立川金馬というのは本所松井町の人で、通称が日吉善蔵、やはり焉馬の門人で、後に二代目むらくになりました。その金馬の弟子となり、同じく紫檀楼古木の名で出演、狂歌咄という看板を出し、落語の題を求めて即席に作り、そのサゲヘ狂歌を即吟でつけようという趣向、それだけの才がなくては出来ない芸ですから、大いに受けそうなものだが、当時の寄席のお客様にはちと趣味が高尚すぎて、よくわからなかったのかも知れません。一向に評判になりません。とうとう落語を止めて剃髪し、号も古喜(ふるき)と改めましたが、モウその頃には蔵前の店もうまく行かないで遂に潰れ、人手に渡してしまう始末、天保三年十月八日六十六で没し、深川亀住町玄信寺に葬り、紫檀楼迎誉浄雲居士と申します。
 「六道の辻駕に身はのり(法)の道、念仏申して極楽へ行く」
というのがその辞世でありましたが、この人が風流のため家産を傾け、晩年を落ちぶれた末路は、一篇の落語となって今も高座にくり返されております。
 何しろ以前が羅宇問屋でありましたから、身を落して挿替(すげか)え屋になり、羅宇屋きせえると呼び歩く身となりましたが、好きな風流は貧苦の中にも忘れません。ある時日本橋で夕立にあって、
 「双六(すごろく)の日本橋から雨にあひ、ぬける程ふる鞘町の角」
と詠んだりしました。
吟醸注;道中双六振り出しと、北鞘町なので抜けるほどの雨と鞘を掛けた。
 またある寒い夕方、呼び止められたのは医師の家で、その妻君が煙管の挿替えを命じたのですが、古喜のヨボヨボした薄汚ない姿を見ると御新造は眉をよせて、なぜあんな汚ならしいお爺さんを呼んだのだと下女を咎めましたのを、耳にした古喜が怒りもせず矢立(やたて)の筆を端紙(はがみ)へ走らせ、
 「牛若の御子孫なるか御新造の我をむさしと咎め給ふは」
と詠みましたところ、この妻君も同好の趣味があり、
 「弁慶と見しはひが目かすげ替の才槌もあり鋸もあり」
と返歌をよみました。古喜もその即詠に感じ、また返しましたのが
 「弁慶にあらねど腕の万力は、きせるの首をぬくばかりなり  紫檀楼」。
これを見た御新造びっくりし、さてはかねて噂に聞く、古喜宗匠の成れの果てかと気の毒がって羽織を与えようとしますと、古喜は首をふって辞退をしながら「イエイエそれは頂かずとも、これこの通り、はおりやきてえる(らをやきせえる)」というサゲ、趣のふかい上品な落語であります。

「本朝話人伝」 野村無名庵著 中央公論新社より

 紫檀楼古木は本業が大工であったり羅宇竹の問屋であったり説が分かれます。また、二代目もいたようで、二代目も高座に上がっていたようです。
 彦六、円生、上記解説、共に狂歌の言い回しが微妙に違っています。本意は同じなのでそのまま記します。

■玄信寺;江東区深川2−15−20に古木の墓があります。お寺さんのご意向で、境内、墓での写真撮影は禁止となっています。伺うと、古木の末裔が今でも墓を守っていますし、故人を尊ぶ意味からも撮影したり、書物などに掲載する事を禁じていると言います。

■紫檀;マメ科の常緑高木。インド・スリランカ原産。高さ10m。葉は3〜5枚の羽状複葉。黄色の蝶形花を総状につける。材は暗赤色で質堅く重く、黒檀に並ぶ銘木・器材として賞用。古くは材の紅色色素を染料として用いた。類似の数種も含めて紫檀材とされることがある。


2.
羅宇屋(ラオヤ)
  羅宇とはラオスから渡来した黒斑竹を用いたからいう。煙管の火皿と吸口とを接続する竹管。ラオと言い、ラウとは訛ったもの。
 ラオ屋は羅宇をかえること。また、それを業とする人。私の小さな頃はピィピー蒸気を鳴らして「ラオ屋〜キセル」といいながら街を流していたものです。その蒸気でラオの中に詰まったタバコのヤニを取って歩いていたものです。 彦六がこの噺を演じた頃の4人は、最近、全く見かけません。絶滅したのでしょうか。
 

「羅宇屋」明治13年(1880) 江戸東京博物館蔵  写真をクリックすると大きな写真になります。

万力(まんりき);機械工作で小さい工作物を口に挟み、ねじで締め付け、簡単にしっかりと固定させる器具。
彦六の説明だと、樫の棒を2本ピンセット状にし真ん中をネジで締め付けると先端が絞まる。先端に鹿革が貼ってあって、雁首を挟んでも傷は付かない。 これでクルッと回すとラオを抜くことが出来ます。

才槌(さいづち);小型の木の槌。胴の部分がふくれた形をしている小槌。


3.キセル(煙管)

上は、一般的な持ち方で、鉛筆を持つように軽くつまみます。
下は、手のひらを上に向けて、親指と中指でささえ、人差し指を雁首の下でささえる。「やにさがる」という持ち方です。

  たばこと塩の博物館資料より

 左図 ;キセルの名称  右図;キセルの持ち方  

やにさがる【脂下がる】;キセルの雁首を上にあげ、脂(ヤニ)が吸口の方へ下がるようなかたちでタバコをふかす。 転じて、気どって構える。得意気になって、にやにやする。広辞苑より

■浮世絵 「江戸自慢程好仕入 ほぐぞめ」 歌川国芳 嘉永元年(1848)
  コヨリを使ってキセルの手入れをしています。
江戸時代のキセルはラオが長いのが特徴。時代が下がるにしたがい短く細身になりました。

左・右図をクリックすると大きな写真になります。

 ■八代目桂文楽はタバコ入れのコレクターでも有名でした。ある事情で100点近くのコレクションを手放してしまいました。その一部40点近くがたばこと塩の博物館に収蔵されています。
  文楽が愛したタバコ入れを収納するのに特注で作らせた引き出しが付いたからくり箪笥(ケース)と自宅での文楽(モノクロ写真)とコレクションの一部。
たばこと塩の博物館出版「蔵出し!コレクションあれこれ」より
 

4.薬研堀(やげんぼり。中央区東日本橋2丁目辺り)
六代目三遊亭円生はご新造さんのお宅を薬研堀としていました。

 薬研掘は薬研の形、すなわちV字形になった底の狭い堀。両国広小路に平行して南側(東日本橋)にあり、左に”L字”に折れて、「元柳橋をくぐって」隅田川に接していた堀割。南側の平行した部分は文政(1828)の頃にはみられたが安政(1854)の頃には埋め立てられて無くなり、元柳橋が架かった部分は後まで残った。その場所は、現在の地理で言うと「日本橋中学校」校庭から右側の歩道橋の手前付近にかけて、ほぼ江戸時代全期間から明治26年まで約300年、薬研堀と呼ばれる堀があった 。
 元柳橋は北斎の浮世絵の題材にもなっている。薬研堀には不動堂があり、また付近は芸者、中上流の医師が多く居住していた。
 現在、薬研堀は参道に名前を残すのみで、全て埋め立てられて元柳橋共々その痕跡すら有りません。


両国橋のジオラマ」 江戸東京博物館展示品 
 両国広小路の様子を表していますが、薬研堀に架かった元柳橋はこの手前にありました。ジオラマの左手には薬研堀不動尊、舞台のご新造さんのお宅が有りました。

浮世絵=北斎の絵本隅田川両岸一覧 「大橋の網引 元柳橋の子規 広小路の群衆」 より、
  薬研堀に架かった元柳橋、隅田川に架かる橋は大橋(新大橋)右が下流で東京湾。左が両国広小路で両国橋、その上流が淺草、吾妻橋。


  舞台の薬研堀を歩く

 両国橋の両橋詰めは広小路として賑わっていました。特に西広小路は単に両国広小路として、小屋掛けの演劇や軽業、演芸等が行われていました。また、周辺では飲み物屋、茶店、お土産屋などの小屋が並んでいました。落語の中にも「四つ目屋」、「ガマの膏」、「幾代餅」などで何回か歩いた所です。
 薬研堀はL字に曲がった掘りでしたが、南北に長い掘りは江戸時代の半ばに埋め立てられて町屋に変身していました。L字の底辺の部分東西にのびた部分が永く薬研堀として残っていました。東の部分で隅田川に繋がりその部分に架かっていた橋が元柳橋(難波橋ともいう)と言います。
 丁度この掘りは日本橋中学校の南半分に当たります。南北に走る道路に架かる歩道橋が丁度薬研堀の口元になり、そこに元柳橋が有ったのでしょうが今はその痕跡すら有りません。

 その元柳橋に当たる所から両国橋を眺めれば、目と鼻の先ですがその賑やかさはありません。南を眺めれば隅田川に架かる新大橋が眺められるのですが、その手前に首都高速道路が横切っていますので、風情ある眺めは期待出来ません。

 薬研堀の名前を残しているのが、開運厄よけの薬研堀不動院です。ここは大本山川崎大師東京別院で、目白、目黒と並んで江戸三大不動として有名です。また、暮れの27〜29日には納めの歳の市が開かれ、正月用品の他、近隣の衣料問屋の大出庫市が開かれます。半値以下の名札に大勢の人出があります。

 また、毎月28日は講談の日として、本堂で無料の奉納講談を聞く事が出来ます。

 紫檀楼古木はこの地薬研堀で帰り道に、ついうっかり売り声を上げたが為御新造さんに捕まってしまいました。円生は冠木門が付いた小粋な建物で、芸者や医者と言うより妾宅のようであったと言います。当然旦那様が狂歌に精通していて、御新造さんもその影響で狂歌には力を持っていたのでしょう。
 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

玄信寺(江東区深川2−15−20)
紫檀楼古木の墓がある所です。今回はお寺さんの意向によりお墓や境内の写真はありません。

薬研堀(やげんぼり。中央区東日本橋 1丁目10)
右側のうす茶色の建物が区立日本橋中学校。
この道路の突き当たりが隅田川。この小さな交差点を左に曲がると薬研堀不動院参道で薬研堀不動院にでます。

薬研堀(やげんぼり。中央区東日本橋 1丁目10)
区立日本橋中学校校庭。グラウンドの左半分(見える所)が旧薬研堀があったところです。

元柳橋跡(中央区東日本橋1丁目10)
区立日本橋中学校校庭前歩道橋 。土手に並行して走る道路に架かったこの歩道橋の辺りに薬研堀の出口があった。そこに架かった橋が元柳橋です。

薬研堀(中央区東日本橋2丁目 9.10辺り)
薬研堀不動院参道の右側が早い時期に埋め立てられた薬研堀跡の街並み。写真突き当たりに見える手前左側に薬研堀不動院が有ります。写真を撮っている手前右側が日本橋中学校。

薬研堀不動院( 中央区東日本橋2丁目−6)
ここが薬研堀不動院。暮れに掛けての納めの縁日は大層な賑わいです。川崎大師の別院で、落語「大師の杵」で訪れた所が本院です。

両国橋
ジオラマに対応した現在の風景。江戸時代の木造の両国橋は今の橋より手前に架かっていました。歩道橋の上(元柳橋)から撮影しています。当時と比べて大違いなのが分かります。

新大橋
浮世絵に対応した現在の風景。上記と同じ歩道橋の上(元柳橋)から撮影しています。隅田川の下流を見ていますが、新大橋は手前に出来た高速道路橋に阻まれ全景を見ることが出来ません。
船の奥に見えるのが新大橋。

                                                                  2009年1月記

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