初代中村仲蔵について 
 

 元文元年江戸深川に生れた。浪人斎藤某の子、また渡し守の妹の子ともいう。五歳にして五代目中山小十郎の養子となる。養母は志賀山お俊。七歳にして中村勝十郎(二代目中村伝九郎)の門に入り、市十郎といい、のちに中蔵と改む。
 廷享二年、十歳にて初舞台を踏む。或は八歳、または十一歳ともいう。寛延三年、十五歳にて子役より若衆方となる。翌年(宝暦元年)古川某の庇護を得て、舞台を退き、一時洒店を開く。翌年、十七歳のとき、実家に帰り、六代目杵屋喜三郎の女お岸を娶る。翌宝暦三年養父中山小十郎を亡(うしな)い、その翌年に養母お俊をも亡った。
 この年(宝暦四年)、妻お岸を二代目お俊と改め、志賀山流の踊稽古所を開かせ、自分は十一月より、中村座へ再勤した。時に一ヵ年の給金七両。この頃、もっとも多難、逆境にあって、ついには隅田川に投身したが、わずかに生を得て、翻然と悟るところがあった。宝暦十年(二十五歳)、中蔵を仲蔵と改む。
 明和二年(三十歳)、実悪の部に入り、この頃より評よく、翌年九月、市村座に「忠臣蔵」の定九郎を新演出によって勤めて好評を博し、出世芸となる。後世、定九郎の演出はすべて秀鶴の型に依るに至る。時に三十一歳。
 安永五年、四十一歳にして、上上吉と評され、座頭に上る。この時、

 其外、座頭ある中にも師匠・親の名を継、又は内縁に寄て大立者の名前を譲り請、座頭になる事也。近年、初代仲蔵は勘三郎秀鶴の弟子にて、芸術執行の力を以て、中役者より其名の儘にて、座頭になりしは当代一人也。中役者にて給金一年三十両も取には余程心掛ねぱ出来ぬ事なるに、其役者より出世して給金八百両の座頭に至りし事、中々容易の事にあらず。(『劇場所話」)

 と評されたが、翌年には給金千両と称された。
 天明四年、四十九歳にて至上上吉と評さる。この年、妻お岸を亡い、後妻さねを娶る。翌五年、五十歳にて、十一月、六代目中山小十郎を襲名し、八代目志賀山万作を襲う。翌六年十一月、再び仲蔵に復帰す。この年、十二月、江戸を立ち、大阪へ上る。翌春、大阪角の芝居に出勤。京に上り、近衛家へ召され、「志賀山一流三ヶ津白拍子」なる御染筆を賜わる。
 八年十月、江戸へ帰り、至極上上吉と評さる。寛政二年四月二十三日、病歿。時に五十五歳。法名、浄華院秀伯善量信士。下谷常在寺に葬る。

 当り役は、法界坊・定九郎・工藤等が最も好評を得、定九郎のごときは一生に七度、釣狐の工藤は八度も演じている。また志賀山流の舞踊の名手として、「関の扉(せきのと)」「志賀山三番」「戻駕」「石橋」「仲裁狂乱」等に、いわゆる、秀鶴の型を後世に残している。
 芸風は、若い頃は「小手のきいた事かな」(「役者闘鶏宴』明和二年正月版)と評され、「黒人(くろうと)好きのするぢゃうぶな仕内」で、拍子ききであったが華が薄いといわれた。天明四年十一月に至上上吉を得て「地芸の上手、所作の妙手」といわれ、実事・敵役・色悪においては、当代二なしとされ、「舞台に幅あって手あつき仕内」と評されている。役柄に対する理解も新解釈もあって、定九即のごとき思いきった写実的な演出も行なったが、しかも風雅滋味を失わなかった。『役者姿記評林』(寛政元年正月版)にも、

 たとへて申さぱ秀鶴ぱ今画く土佐絵のようなものにて古風な中に当流の端子を持前の筆意にあらはるゝ風情と、評されている。

 人物は、幼くして肉親を知らず、早く養い親を失って、苦難の道を踏んだが、これに萎縮することなく、芸道修錬によって磨かれた、斯道稀にみる立派な人格をきずき上げている。孝心厚く「役者道にめづらしき篤実の君子」と、『役者評判記』によってもその人物が賞誉されている。
 専門の技芸の外に、能・鼓を修し、武芸も、やわら・剣術を修業し、手習いも正式に習い、稀にみる文字の教養もあって、『月雪花寝物語』の自伝、『秀鶴雑記』『所作修行旅日記』『秀鶴随筆』等の日記・随筆の著述を残している。
 史的位相についていえば、宝暦期は江戸歌舞伎の・展開期であった。諸文化とともに演劇も上方よりその中心を江戸に移した。五代市川団十郎・四代松本幸四郎とともに仲蔵は、この間にあって、幾多の改革をなし、劇術の豊富を招来せしめた功績があった。
 義太夫狂言を盛んに摂取して楽劇的要素を豊富にしたと同時に、「定九郎」の演出のごとき、写実的芸風をも興している。また舞踊方面では、元来、所作事は女形の専属となっていた旧習を打破して、立役も自由にその技を振うことが出来るようにしたのも、主として彼の力であった。また四代幸四郎の開いた色悪という役柄を大成したのも彼であるといってよい。また演出上にも種々の工夫を残しているが、拍子幕という幕切の手法も彼によって創始されている。
 かく近世演劇史上、大きな足跡を残し得たことは、一つは転回期に遭遇したことも大きな理由であろうが、彼が門閥や家柄を有せずに獲得した実力が、いっそう改革を容易ならしめたと思われる。

 「手前味噌」 三代目中村仲蔵著 郡司正勝校注 青蛙房発行

 図;楽屋の初代中村仲蔵 春章画

 

 

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