落語「洒落小町」の舞台を歩く
   

 


 三遊亭円生の噺、「洒落小町」(しゃれこまち)によると。

 

 ヤキモチにはいろいろあって上手く焼かないと真っ黒っくなってしまいます。

 ガチャガチャのお松とあだ名される騒々しい女房が隠居の所にやって来た。
 ご機嫌伺いをして、亭主の悪口をマイペースで、ガンガン言い始めた。隠居も顔をしかめだした。
 あの野郎には愛想もこそも尽き果てたんですよ、あのタヌキ野郎。亭主が近ごろ、”穴っぱいり”して帰ってこないモグラ野郎だと、こき下ろした。
 ある日亭主がソワソワしていたので、黙って出して後を着けて行くと、2町も離れていない家に入って行った。少しして戸を開けて入ると六十がらみのお婆さんが出てきて、グチャグチャ言うので、上がりますからねと言って、上がりかけると亭主野郎が出てきて「何しに来たんだ」と怒るでしょ。その上、私の胸ぐらをドンと押したから転げ落ちでガラスをガチャガチャと割ってしまったんです。亭主は台所に駆け込んで、皿小鉢をガチャガチャと割ったんです。あの野郎には愛想もこそも尽き果てたんですよ。耳が痛くなる隠居だった。
 別れの話をしに来たんだと思ったら、亭主も優しいところがあって、夫婦で無くては分からない良いところがあるから別れられない。で、穴っぱいりしないように出来ないかという。

 隠居は「おまえが四六時中あまりうるさくて、家がおもしろくないので亭主が穴っぱいりする。昔、在原業平が」「あの水の出る業平ですか」、「黙って聞きなさい。愛人の生駒姫の所に毎晩通ったが、奥方の井筒姫は嫌な顔一つせず送りだすばかりか、ある嵐の晩、さすがに業平が外出しかねているのを、こういう晩に行かなければ不実と思われてあなたの名にかかわるから、無理をしても行きなさいと蓑と笠を着けてくれた、と言う。
 嫉妬するのが当たり前なのに、あまり物分かりが良すぎるから、業平は逆に不審に思って、出かけたふりをして庭先に隠れてようすを伺うと、縁側の戸が開き、井筒姫が琴を弾きながら、
 『風吹けば沖津白波たつ田山 夜半にや君がひとり越ゆらん』
と悲しげに詠んだので、それに感じて業平は河内通いをやめたという。その後は仲睦まじく暮らした。
おまえも亭主が帰ったら、たとえ歌は無理としても、優しい言葉の一つも掛け、洒落の一つも言ったら、
亭主はきっと外に出なくなる」と、諭した。

 「いやだイヤだ、家に帰るのがイヤだ。あんな女房が居たんじゃ・・・。あれ?どうしたんだろう。着物を着て帯び締めて、薄化粧しているよ。普段はジャケツなんだし、夏の暑いときは越中褌であぐらをかいている」。「あら、お帰りなさい。お仕事大変だったでしょ。お湯に行ってさっぱりして、お酒も用意してあるし、鍋も湯豆腐もあるし、鯉のアライも有るから・・・」、「夏も冬も一緒になっていらあ〜。ゴチャゴチャ言うな。うるさ〜い」。
 「うるさい? ♪ウサギウサギ何見て跳ねる、十五夜お月様見て跳ねる、ピョンピョン」。
「変な事言うな」、「いうな? 謡曲調で、いうなの〜・・・。チョットお待ちよ。続きが有るんだよ。蓑笠着けて・・・」と背中を押したから、亭主、突き飛ばされてドブにハマってしまった。足止めの歌と思っていた「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」と言ったが、見向きもせずに出掛けてしまった。

 隠居の所にあの歌では効果が無いと掛け合いに行った。
「『恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉』と言ったんですよ」。「そりゃ狐の歌じゃないか」、 「あ、道理で、また穴っぱいりだ」。

 



1.小野小町の歌

  円生の噺の中には有りませんが、洒落小町の題に有るように、この噺には小町の事が出てきます。古今集の六歌仙で紅一点・小野小町が、京に百日も大日照りがあったとき、小町の伝説 『雨乞小町』という謡曲(現存せず)によると、高僧が祈祷をおこなっても効果がなく、帝の勅命で小町が神泉苑(二条城南)で、和歌を詠じた、

 「ことわりや日の本ならば照りもせめ さりとてはまた天(あめ)が下とは

という雨乞いの歌を詠んだところ、七日続いて雨が降ったという「雨乞い小町」の伝説があります。
 つまり、我が国は日の本といいますから、陽が照るのも理屈でしょうが、でも、天(雨)が下ともいいますから、降ってもいいでしょうに、という歌です。

 上方の「口合(くっちゃい)小町」のサゲはこれを踏まえ、亭主が降参して、
亭主「もお二度と茶屋へは行かん!」
女房「ええ?ほんまかいな?嬉しいなあ。エラい効くなあ。ほんなら、百日の日照りがどこぞに無いかな?」
亭主「百日の日照り?どないすんねん?」
女房「ワタイの口合(洒落)で雨降らせますねん。」
上方落語バリバリの舞歌さんに関西弁の言い回しをご教授いただきました。感謝。

 

2.業平橋(なりひらばし)
 (水はけが悪くて)あの水が出る、
と円生に言わせた業平は、志ん生が貧乏のどん底で、逃げるように移り住んだ「ナメクジ長屋」が有ったところです。落語「業平文治」のナメクジ長屋をご覧下さい。

 明治東京名所図会「業平橋」 山本松谷画 下を流れるのは大横川

 上記業平橋左側の絵からはみ出たところにあった「業平天神社」。別当として南蔵院があります。業平天神社は在原業平の墓があったとか、彼が彫った仏像があったからとか諸説入り乱れ、どれが本当か分かりません。この天神社から業平橋の名前が付き、東京スカイツリー駅の旧名業平橋駅名にもなり、町名・業平にもなりました。
 また、江戸時代は美味なシジミが採れて、業平シジミとして名物になっていました。
上図:元絵・「江戸名所図会」より。墨田区が建てた業平橋の説明板より採録。

■狐の巣穴(きつねのすあな);明治の頃まで狐は東京に多く住んでいました。タヌキは今でも郊外に出ると見掛けます。本物の巣穴は私の知っている範囲では、王子の稲荷の社殿の奥に有りますし、上野の森の花園稲荷にも有ります。花園稲荷では巣穴がご神体になっています。

 

3.言葉
■穴っぱいり;浮気。遊廓又は妾宅や情婦のもとへ入りこむこと。狐の巣穴。「狐」は女性器を意味する隠語でもあるため、卑猥な意味もあるのでしょう。

2町(2ちょう);距離の単位。1町は109m。2町=218m、本当に近所です。

恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉
  右図:月岡芳年『新形三十六怪撰』より「葛の葉きつね童子にわかるるの図」。童子丸に別れを告げる葛の葉と、母にすがる童子丸の姿を描いたもの。
 伝説の内容は伝承によって多少異なるが、概略以下のとおりです。
 村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物とされる)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける。童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。

 「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」

 この伝説から、浄瑠璃「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」(葛の葉子別れ)の四段目で、陰陽師・安部保名と夫婦になった雌の白狐が、自分が化けた、夫のかつての恋人が訪ねてきたので、泣きの涙で身を引き、夫と子供を残して去る、 その別れ際に障子に書き残す歌です。
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明です。

 「うらみ」が裏見と恨みの掛詞、「葛の葉」も植物の葛の葉と母親の名前である葛の葉の掛詞です。葛の葉は裏側が白っぽくて、風などで裏が見えるととても目立つそうです。それで裏見の葛の葉とよく言います。「恨み」は悲しみとか未練の意味です。  

右図;「葛の葉」 竹原春泉画

風吹けば沖津白波たつ田山 夜半にや君がひとり越ゆらん ;「風吹けば、桶屋が儲かる」ではなく、この風の強い中、夫はたつ田山を一人で無事超えることができるだろうか、と業平の身を案じていた。
 「伊勢物語」第二十三段中の歌。これを能「井筒」に作り替えた、世阿弥の幽玄能の傑作で、世阿弥自身自信作と考えていた。筋らしいものはなく、全曲がゆったりと進んでいくが、秋の古寺の趣と女の清純な恋情とがしっとりと伝わってくる佳作。この段は田舎人ものに分類されていて、必ずしも在原業平を描いたものとはいえないのだが、世阿弥はそこを敢えて、業平と紀有常の娘の恋として解釈し直した。能はこの娘の立場に立って、業平との恋の思い出を語らせる。

ジャケツ;ジャケットの訛りで、毛糸編みの袖の長い上着。腰丈ほどの上着の総称。

在原業平(ありわらのなりひら);平安初期の歌人(825〜880)。六歌仙・三十六歌仙のひとり。阿保親王の第5子。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の題材ともなった。

 



  舞台の業平を歩く

 

 業平から業平橋に行きます。まずは業平橋の由来から、
 業平天神社(現存せず、現、吾妻橋三丁目6番)は、別当南蔵院(現、葛飾区東水元、昭和元年に転出)の境内にあった神社。江戸時代初期に開かれたといわれ、その由緒は、在原業平が亡くなった場所に建てられた業平塚に由来する(『江戸名所記』)といわれるが、諸説有って定かではありません。

 ここで一休み。南蔵院にある「しばられ地蔵」について、
 江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。
  調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。
  かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。
  頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。
  手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。
  越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。
  以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれました。
 現在、東水元に引っ越した南蔵院と共に、その境内に縄巻になって建っています。(上写真)

 話戻って、業平橋は大横川(現、大横川親水河川公園)に架かる橋で、墨田区業平一丁目より吾妻橋三丁目を結ぶ浅草通りを渡す。創架は寛文2年(1662)と伝えられ、『新編武蔵風土記稿』(巻之二十四、葛西郡之五)には、「業平橋 横川に架す、長七間幅二間の板橋なり寛文二年伊奈半十郎奉行して架け渡せり、業平天神の社辺なるを以て其名とす」と記されている。現在の橋は昭和5年(1930)に架設されたもの。
 東京スカイツリーが開業して、東武・業平橋駅から”東京スカイツリー駅”に駅名が変更になってしまいました。また、ここを通る東武伊勢崎線は「東武スカイツリーライン」という愛称が付けられ、スカイツリー一色になってしまいました。東京スカイツリー駅は始発浅草から最初の駅で、そんなに大きな駅でなく、特急も止まらない駅でしたが、スカイツリーの影響で日光・鬼怒川行きの特急スペーシアも停車するようになりました。駅はリニューアルされましたが、ローカル駅の時と同じです。
 そうそう、紹介が遅れましたが、この駅の南側に建った自立鉄塔では世界一で634mの高さを誇る東京スカイツリーがオープン以来大変な人気で、親会社の東武鉄道にしたら嬉しい誤算です。

 ナメクジ長屋から、いえ、更地から、東京スカイツリーが完成するまでの様子をご覧下さい。

 →  → 

 約4年掛けた工事の続きは、ここをクリック。写真帖全部で4ページあります。

 完成オープンして1年が経つ、東京SkyTree。隅田川の対岸、駒形橋付近からの眺め。2014.6撮影


穴っぱいりの、狐の巣穴を見に行きます。
 上野公園内にある花園稲荷神社に行きます。江戸時代は不忍池に下る斜面にお花畑があったので、その地に鎮座する神社なので花園稲荷神社と呼ばれています。この斜面に狐が住み着き、巣穴を掘って住み着きその穴の上に祠を置いて”穴の稲荷”として狐を敬まわった。昭和3年、大きな本殿が出来て、お狐さんを移し”お穴様”と呼ばれ、最初の巣穴と初期の小さな祠はその所に現在も置かれています。
 丘陵地の斜面に位置しているので、公園側からは赤い鳥居のトンネルをくぐりながら、斜面を下ります。右手に本殿、左手に旧社殿跡は今も同じ形で残っています。狐の巣穴はガラス窓の向こう側に有りますが、巣穴の奥は判別不可能で、覗くことが出来ません。

 あれ?”穴っぱいり”って、狐の穴跡ではなかったんですよね。領収書がなくても伝票を出せば出金してくれる、上方の議員さんと違って、当方ではチト無理なようです。その上、『風吹けば沖津白波たつ田山 夜半にや君がひとり越ゆらん』なんて唄ってもくれないでしょう。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。
  業平橋脇にあった案内板より、南北が逆になっています。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

 

業平橋跡(なりひらばし。大横川に架かり浅草通りを渡す)
 当時の業平橋がそのまま残っています。橋を渡ったところに、SkyTreeが建っていますが、高すぎて広角レンズでも入り切りません。
 業平橋は、大横川に架かる橋で、創架は寛文2年(1662)と伝えられ、『新編武蔵風土記稿』(巻之二十四、葛西郡之五)には、「長七間幅二間の板橋なり寛文二年伊奈半十郎奉行して掛渡せり、業平天神の社辺なるを以て其名とす」と記されている。現在の橋は昭和5年(1930)に架設されたもの。

  

大横川跡(墨田区中央を南北に走る堀川)
 現在、大横川は埋め立てられて、「大横川親水河川公園」になっています。元、川面に花壇や釣り堀、ビオトープ、小川、運動広場などがあります。その為、大横川を渡していた橋は全部、当時と同じ所に同じように架かっています。
 写真は左手に業平橋が見えて、中央にSkyTree、右手写真外にナメクジ長屋跡が有ります。

南蔵院跡(墨田区吾妻橋三丁目6)
 上記業平橋の左(西)側から、浅草通りを見ています。赤茶色のマンションがあるところに業平天神社と南蔵院がありました。南蔵院は葛飾区東水元に引っ越して居ますが、業平天神社は関東大震災で消滅しています。

SkyTree(東武橋上から見る)
 タワーの他に東京ソラマチという商店街が足元に広がっています。ここには水族館、プラネタリウム、東京の名店街が店を出しています
。名店街には飲食店街や生鮮食料品店、お土産店、衣料品からお弁当店まで様々な店が並んでいますので、街に出なくてもここだけで用が済んでしまいます。その為、周辺店舗の売り上げが上がらないと、こぼしています。

花園神社参道(台東区上野公園精養軒南)
 この斜面には、五条天神社と花園稲荷神社が張り付いています。写真の斜面を下ると花園稲荷神社があって、その斜面下に天神社が隣り合わせで並んでいます。

花園稲荷神社旧社跡(花園稲荷神社内)
 穴稲荷は正しくは忍岡(しのぶがおか)稲荷といい花園稲荷の旧跡です。奥のお社は、寛永の初め天海僧正が寛永寺を草創の際に忍ヶ丘の狐の住みかを失ったことを哀れみ一堂を創りその上に祠を建てて祀ったものと言われます。半分薄ぐらい中にお穴様の姿が見えます。

東京SkyTree(隅田川厩橋上から)
 あまりにも近い位置から見上げるタワーよりも、少し離れたところから見るタワーの方が全体像が分かって、その高さを実感することが出来ます。

                                                                  2014年7月記

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