落語「柳の馬場」の舞台を歩く
二代目三遊亭円歌の噺、「柳の馬場」(やなぎのばば)
■検校(けんぎょう);当道座の四官(検校・別当・勾当・座頭)の一つで、最上位の位。15万石の大名に匹敵した権威と格式を持っていた。
■惣録屋敷(そうろくやしき);江戸時代、江戸にあって関八州とその周辺の座頭を支配した、検校の座順の最古参の者。執行機関として惣録役所が置かれた。関東総録(惣録)と言いその屋敷。元禄5年(1692)本所一つ目に土地を拝領、杉山和一(すぎやま
わいち)検校が取り仕切った。下図;明治東京名所図会より「一つ目弁天」
杉山和一の献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その答え通り(?)に同地(本所一つ目)を拝領した。綱吉のお付きの者のウイットに富んだ対応が見事。
「本所一つ目弁財天社」 江戸名所図絵より
杉山検校は名を和一といい、慶長15年(1610)伊勢藤堂家の家臣の子として生まれました。しかし幼くして失明し、家を義弟重之に譲り、江戸に出て鍼術を山瀬琢一の門に学びました。のち師の門を追われますが、努力工夫を重ね、さらに江の島の弁天の祠に詣で、断食祈願なども繰り返し、ついに杉山流管鍼を創案しました。さらに京都にいき、入江豊明について鍼術を学び、この道の奥義を究めました。
2.馬場 武家屋敷内の馬場を除くと、江戸名所図絵には、馬喰町馬場、采女ヶ原馬場と高田馬場の3つが描かれ、嘉永2年(1894)の切絵図では15ヵ所みられるが、馬喰町馬場や高田馬場のように、江戸時代を通じて存続したものは極めて少なくて、大部分は火災後に新たにつくられたり、馬場だったところが、武家地となって消えたりもしている。
馬場の管理はまちまちで近くの町に預けるもの、町奉行らが直接管理するものなどがあった。幕末に町預りになっていたものは、馬喰町馬場、采女ヶ原馬場、等がある。町預りについて、馬場のある町とまったく無関係な役所の者が管理するのとでは馬場に対する親しみが違っていた。もちろん町が預った馬場で、町の子供が遊べないわけはなかった様子で、馬術の行なわれない馬場は、子供たちの格好の遊び場で、江戸名所図絵の馬喰町馬場には、子供が遊んでいるところが描かれている。
■馬喰町(ばくろちょう)馬場;現在の中央区馬喰町一丁目9&14辺り、 初音の馬場ともいわれ、関ヶ原の戦いのとき馬揃をしたところと伝えられ、明暦大火後に一筋の馬場になったという。江戸でもっとも古い馬場で、明治まで続いた。落語「勘定板」、「しびん」、「紺田屋」、「宿屋の富」、「御神酒徳利」、「江戸の夢」、「馬大家」に詳しい。
下図;江戸名所図会より「馬喰町」。初音の馬場と火の見櫓。
■采女ヶ原(うねめがはら)馬場;享保9年(1724)までは松平采女正定基の屋敷があったところで、焼失後、馬場とし、火除地も兼ねた。天明5年(1785)まではもっと広かった。明治まで馬場として残っていたが、明治2年に町家となった。いまの築地の国立ガンセンターの北、采女橋のあたりにあった。采女ヶ原馬場は木挽町が管理していた。馬場の修復や清掃、行き倒れの人があったときの処置は、この町の役目とされた。そのかわり馬場の周辺に助成地を与えられ、講釈師、手踊、矢場、鳴物入見世物、菓子商などに貸していた。その貸料で馬場の手入れ、清掃人夫賃をまかなっていた。したがって采女ヶ原馬場は890坪あっても、実際馬場として使われたのは半分ぐらいで、他は両国広小路などとよく似たヨシズ張りの小屋でにぎわっていた。 「采女が原」 江戸名所図絵より 現在地、中央区銀座五丁目15
一説に、この地が家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の別荘地であったことから、高田の名をとって高田馬場としたとする。だが、それ以前に、この一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたため、その名を冠したとの説、その2つの由来が重なったためとの説もある。 ■江戸の馬場 采女が原馬場、馬喰町馬場、高田馬場以外には、 ・桜馬場(湯島昌平坂);文京区湯島一丁目東京医科歯科大学南部
3.言葉
■剣術は一刀流(いっとうりゅう);江戸時代の代表的な剣術の一派。伊東一刀斎景久を祖とする。小野派一刀流・唯心一刀流・甲源一刀流・北辰一刀流などもその流れ。
■柔術は真楊流(しんようりゅう);柔術の一派。磯又右衛門正足が開いた柔術の流派。起倒流とともに講道館柔道の基盤となった流派として知られる。正式には天神真楊流(てんじんしんようりゅう)と言う。
■槍術は宝蔵院流(ほうぞういんりゅう);槍術の一派。奈良興福寺宝蔵院の僧、胤栄(1521~1607)を祖とし、鎌槍を用いたので鎌宝蔵院流ともいう。
■弓術は日置流(へきりゅう);弓術の一派。室町中期、大和(一説に伊賀)の日置弾正正次が始めたと伝える。
■馬術は大坪本流(おおつぼほんりゅう);馬を乗り馴らす術で、馬術の最大の流派。室町初期の大坪式部大輔慶秀(号、道禅)を祖とする。他に小笠原流、調息流、神当流、鎌倉流、賀茂悪馬流等がある。
■一鞍責める(ひとくらせめる);馬を乗りこなすこと。
■3寸(3ずん);1寸は約3.03cm。3寸は約10cm弱。チョットまたは極僅かと言う定型語。
■千丈(せんじょう);長さの単位。丈=尺の10倍、約3m。千丈は1丈の千倍。非常に長いこと。
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馬場跡に再度足を向けます。
銀座の馬場、「采女が原馬場」跡も同じようにビルになっています。江戸名所図絵より眺めると、牧歌的な雰囲気が伝わってきますが、それは昼間の景色で、夜になるとヨシズ張りの茶屋も店じまいし、人っ子一人いない真っ暗なところで、追い剥ぎが出たと言う程の所でした。しかし、現在は大違い。築地川は水は一滴も無く、川の底は舗装され首都高速道路になって、水の流れよろしく車がひっきりなしに流れています。そこに架かっていた橋は万年橋と言い、銀座と築地をつないでいます。橋を渡った右側のビルは、中央区築地4-1 東劇ビルの松竹本社ビルです。図絵から見るとアーチ型の橋は水平な橋に変わり、松竹も無く、その先には築地本願寺の屋根が望めますが、その屋根も近くにあるビルに妨げられて見ることは出来ません。目線を元の万年橋に戻し、画面を左右に横切る路が現在の幹線道路の晴海通りです。通りの向こう側には最近建て変わった歌舞伎座の建物が見えます。左に行くと、繁華街の象徴、銀座の四丁目交差点になります。
続けて行くのは「桜馬場」跡です。お茶の水と言われた名水が湧いていた所でしたが、外堀が戦略上掘られ、その名水は場所も不明になって、堀の中(?)に没してしまいました。その外堀に架かった橋がお茶の水橋とその下にある駅がお茶の水駅です。JR中央線は外堀にしがみつくように走っています。駅を出て、お茶の水橋を渡ると道は突き当たり左右に堀に沿って走る外堀通りとなりますが、橋の突き当たりの、東京医科歯科大学の付属病院の敷地に馬場が有りました。その馬場が桜馬場と呼ばれた所です。
本郷菊坂馬場跡は文京区西片一丁目南部の菊坂通りを下った所に、元山王馬場跡は千代田区平河町二丁目北側の平河天満宮南部道路沿いに、馬場(本所亀沢町)跡は墨田区両国四丁目33&34、JR両国駅と京葉通りに挟まれた地に有りました。また、十番馬場跡は港区東麻布三丁目南部の地に有りました。十番馬場は麻布十番の地名として残っています。
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