大前田英五郎・国定忠治・清水次郎長はウィキペディアより要約
3.言葉
■「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」;この歌は、鎌倉初期の僧で、浄土真宗の開祖親鸞(しんらん・1173〜1262)の作と伝わる和歌です。明日を待っていると夜中に嵐が吹いて、桜が散ってしまうかもしれない、この世は無常だから、明日があるという保障はどこにも無いですよ、と歌った。
これは親鸞聖人の幼少期、9歳で出家得度して比叡山に入山されるとき、桜が満開の季節に青蓮院というお寺で得度を受けることになった。遅く寺に着いたので、得度式は明日にしようとなったときに読んだ歌といわれています。9歳でこの歌、おませというのか、私が錆びているのか。
■寄席(よせ);都市において落語・浪曲・講談・漫才・手品などの技芸(演芸)を観客に見せるため席亭(興行主)が経営する常設の興行小屋。昭和の初め頃までは各町内に1軒ずつぐらいの寄席があった。
かつては落語以外の講談や浪曲や色物など各分野それぞれの寄席が存在したが、現在では落語寄席がほとんどである。落語寄席では当然落語が主であり、それ以外の演目は色物と呼んで区別する。最後の演目は基本的に落語であり、その演者は主任(トリ)と呼ばれ、その名前は寄席の看板でも一番太く大きな文字で飾られる。都内には現在4軒の寄席が有り、上野 鈴本演芸場、新宿 末広亭、池袋演芸場、浅草演芸場が有ります。他に国立劇場 演芸場が有ります。
立川談志は、こんなバカバカしい落語をよくやりますねと言われるが、私は好きなんです。と言っています。談志は舞台を両国広小路で夕立に遭い、雨宿りのつもりで入った寄席で、この噺が掛かっていた設定になっています。
円生が書き留めた話、日本橋の南側、今の日本橋コレドが有った地に木原店(だな)が有りここには飲食街・食傷新道が有った。ここに有った寄席「木原亭」を書き綴っています。
ここは、圓朝も出た寄席で、明治の初期は客がずいぶんと来た。周りは、大店があって奉公人も大勢居たし、魚河岸も有り、兜町には株の取引所が有り、米の先物取引所も有ったので、人も多く、流行るのが当たり前。でも、円生が子供の頃には客が激減していて、ツ離れしない(9人以下の客)時が多かった。席亭も家族も無愛想でニコリともしない。これでは客は来ない。大震災で焼けて、再建されなかった。
常盤木倶楽部、日本橋南・万町、布団の西川がある二軒隣に有った貸席。ここで初めて落語研究会が開かれた。当時、崩した落語が流行っていたので、その様な落語家が大勢出て、真の落語家が絶えてしまうのではないかと落語研究会が始まった。時、明治38年3月第一回が開かれた。
「江戸散歩・上」 三遊亭円生著 朝日文庫より要約

舞台の松平出羽守屋敷を歩く
出羽守は夕立勘五郎と時代を同じくした、七代・松平治郷(はるさと。号・不昧(ふまい))。知行18万6千石の大名であった。財政が再建されて潤った後、
茶人としての才能に優れていた治郷は、値一万両といわれたこの茶入を、材木商冬木家の家運が衰えわずか1500両で手放した、天下の名器「油屋肩衝(あぶらやかたつき)」(写真右。重文、13世紀栄時代、畠山記念館蔵)をはじめ300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化したと言われるが、幕府からにらまれるのを嫌って、わざとやったとも言われる。
茶人としての才能は一流であり、石州流を学んだ後に自ら不昧流を建てた。さらには「古今名物類従」や「瀬戸陶器濫觴」など、多くの茶器に関する著書を残している。不昧によって築かれた茶室は菅田菴(寛政2年(1790年)築、国の重文)や、塩見縄手の明々庵(安永8年(1779)築)が残る。茶の湯につきものの和菓子についても不昧が茶人として活躍するに伴い、松江城下では銘品と呼ばれるようになる物が数多く生まれた。この為、松江地方では煎茶道も発達した。
こんな小さな茶入れが、1500両もするのか。あ、品物の大きさで金額が変わるのではなかった。反省。
不昧の松江藩は茶器にこれだけ財産を傾けるほど集めたので、さぞや素晴らしい所に江戸藩邸を構えていたのでしょう。
まずは、上屋敷を訪ねます。
地下鉄・赤坂見附駅、永田町駅に囲まれた、衆参両議員議長公邸と赤坂東急ホテルの地が上屋敷跡です。約一万坪強有りました。両議長公邸の広いこと、建物は2階建ての瀟洒な建物ですが、玄関前の車寄せと広場が広い。ガードマンが目立つだけで後は日章旗が高々と揚がっています。青山通りに面した正面を抜けると、道路の反対側に、江戸時代の赤坂見附跡の石積みが残り見附跡の碑が建っています。坂道を下り赤坂見附交差点に出ると、左側に赤坂東急ホテルが長い防波堤のように建っています。ここまでが松平出羽守上屋敷跡です。
青山通りの反対側には1955年10月に開業した40階建て超高層ホテル、赤坂プリンスホテルが、2011年3月末日で営業を終了し、解体作業の終盤にさしかかっています。今後増えるであろう高層ビル解体の一つの手法を示しています。ここは上層部に足場を組んで上から解体しながら下に降りてきますので、見る度に背が低くなっていきます。
写真;交差点から見る解体されている赤坂プリンスホテルと手前右側の赤坂東急ホテル。右写真、解体前の赤坂プリンスホテル。http://ginjoaruku.web.fc2.com/10-11/10-11g.htm クリスマスのイルミネーションを施した最後の赤坂プリンスホテル。11月16日付け
中屋敷に向かいます。
ここから約2km弱。地下鉄でも行かれますが、都心を歩くのもたまには良いでしょう。外堀通りを赤坂見附交差点から赤坂東急ホテルを左に見ながら日枝神社(山王さま)を同じく左に見て、山王下交差点を右に曲がります。この通りが乃木坂通りです。右にTV局のTBSを見て道なりに歩きます。途中右側の交番の右奥に報土寺(港区赤坂七丁目−6)が見えます。ここは落語「寛政力士伝」で訪れた所です。反対の左に入れば、勝海舟邸があった所に出ますが、今回曲がらずに真っ直ぐ進みましょう。
桑田記念児童遊園が左に出てきたら、そこの奥が中屋敷の三角形敷地の東側の頂点です。ここから西に乃木坂通りの一軒ほど中に引っ込んで平行した屋敷の境界がありました。西の終わりは乃木神社の会館前を入る細い道があります。入るとすぐに突き当たり敷地というか空き地を回り込みますが、その敷地までが屋敷地でした。その空き地は宗教法人の生長の家境内地です。
元に戻って乃木坂通りを渡ると、通りの名前になった乃木神社があります。乃木希典邸が有った隣に神社が建ち、参拝客を集めています。赤坂らしからぬ木が鬱蒼とした神域に迷い込み、神前結婚式の真っ最中。
外苑東通りを左に曲がると、左には防衛庁の後に開発された東京ミッドタウンの超高層ビルが有り、通りを渡ると、国立新美術館があります。ここも楽しみの一つとして歩くときは頭に入れておいてください。
赤坂に有った道路案内図より
地図をクリックすると大きな地図になります。
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松平出羽守上屋敷跡(千代田区赤坂見附交差点北側)
写真は246号線青山通りに面した衆参両院議長公邸。写真の左外側には参院議長公邸、写真が衆院議長公邸、その右に見えるのが下記赤坂東急ホテル。この区域が上屋敷跡です。 |
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松平出羽守上屋敷跡
赤坂見附交差点北側、赤坂東急ホテル。この東側を含めた地域が上屋敷跡です。 |
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松平出羽守中屋敷跡(港区赤坂九丁目4&5&6の内)
赤坂の一当地にまだこの様な空き地(?)が宗教団体の所有として残っています。この地がまさしく中屋敷跡で、当時の姿をそのまま残しているような雰囲気です。乃木坂の表通りから少し入った所になります。 |
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松平出羽守中屋敷跡隣(赤坂八丁目11、乃木神社)
乃木坂通りを挟んで北側の乃木神社。日清戦争に参加、日露戦争で司令官として出陣、戦後学習院院長となり、明治天皇葬儀の日、後追い自殺をした乃木希典を祀る神社。 |
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上野 鈴本演芸場(台東区上野二
丁目7)
落語協会の落語家さんが出演する寄席。上野の表通りに面し、足の便も良いので、客足は絶えない。
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新宿
末広亭(新宿区新宿三丁目6 )
写真でも分かるように昭和に建てられた、寄席全盛期を忍ばせる寄席。客席も中央は座席になっていますが、左右の席は一段高くなって畳席になっています。 |
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浅草演芸ホール(台東区西浅草二丁目15)
浅草の六区にある演芸ホール。浅草の地にありますから、お上りさんや参拝帰りのお客さんで、混んでいます。 |
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池袋演芸場(豊島区西池袋一丁目23)
今までは、ツ離れしないので有名な寄席でしたが、客席が小さいせいか満員になっています。そーなんです、出来る噺家が出ればお客さんも入るのです。 |
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両国広小路(中央区東日本橋、両国橋西詰め) 談志が言う、噺の舞台・両国広小路に有った寄席。江戸東京博物館にある、ジオラマの両国橋の賑わいと寄席小屋。 |
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日本橋(中央区日本橋一丁目) 円生が言う、木原亭が有り、常盤木倶楽部がここに有りました。左の焦げ茶色の建物が野村證券ビル。画面の左外に日本橋が有ります。中央、三菱東京UFJ銀行。右側、ふとんの西川。その右外側に白木屋→東急百貨店、現在は建て直され日本橋コレドが有ります。 |
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2013年6月記
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