落語「寛政力士伝」の舞台を歩く
   

 

 春風亭小朝の噺、「寛政力士伝」(かんせいりきしでん)
 

 江戸の相撲取りで人格、技量ともに優れた力士に横綱谷風梶之助がいた。温厚でまず怒った事がなかったが、人生でただ一回だけ怒った事があった。

 伊豆の下田に大巌(おおいわ)大五郎という素人だが強い相撲を取る男がいた。取り口も汚く相手を負かし、人を殺めた事もあったが、バックに地のヤクザが付いていたので手出しが出来なかった。有頂天になった大巌は「江戸の相撲取りと一番やりたいが、恐くて箱根を越えられないだろう」とうそぶいていた。この声を谷風が聞いた。そこで小田原で3日興行を打って対戦する事になった。

 当日の賑やかな事、初日は頭突きの鯱(しゃちほこ)清五郎であった。頭突きでは敵う者が居なかった。その二人が対戦し大巌の胸に頭付きを食らわした。普通の人間だったら血反吐を吐いて倒れる所だが、さすがの大巌受け止めた。行司に見えないように指で目つぶしを食らわしたが、鯱もう一度頭突きを掛けたが、見透かされ体を変わして投げ飛ばされて、沼津まで飛んでいった。

 これを見ていた谷風、これほど強いとは思わず、宿に帰って思案していると、親子連れが入ってきた。母親が言うには、亭主は奉納相撲で大巌に汚い相撲で投げ殺された。その遺恨を晴らして欲しいという嘆願。年端もいかない息子も家の鶏が産んだ卵50個あるから必ず勝ってよと置いていった。
 それを襖越しに聞いていた雷電が、ものの順番として私が取りましょう。谷風からOKが出ると、この卵は私のものですよね、といって丼に割り込んで飲み込んでしまった。

 2日目木村庄之助が呼び上げた、大巌、こなた雷電。雷電は197cm、169kg有ったという、大巌はそれより一回り大きかった。軍配を上げると、誰しもぶつかると思っていたが、雷電両手を上げてバンザイの形になった。大巌驚かず二本差してガブッた。さしもの雷電も土俵際まで追いつめられたが、ここで両の腕を下ろして、カンヌキの形に入った。大巌の両の腕が内側に曲がり、血の気が失せてブルブルと震え始めた。その時「ブキッ」と異様な音がした。続けてもう一度響いた。雷電両腕を上げると大巌の腕がブラリと垂れ下がっていた。後々の事があると言うので、雷電張り手で大巌の顔面を張った。後年雷電の張り手は禁じ手になったほどスゴかった。それを左右連続で張ったからたまらない、顔が3倍にも膨れあがってしまった。後は廻しと肩を持って投げ飛ばした。場内割れんばかりの興奮が収まらなかった。
 谷風、雷電の師弟が親子のあだを討ったという、小田原相撲の一席でした。


1.雷電為右衛門 (らいでん_ためえもん)
 明和4年(1767)- 文政8年2月21日(1825年4月9日)は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。本名:関太郎吉(爲右衛門)。力士生活21年、江戸本場所36場所中(大関は27場所)で通算で喫した黒星がわずかに10、勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、古今未曾有の最強力士に推す意見も多い。横綱免許は受けなかったが富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。現存する雷電の手形は、長さ23.3cm、幅13cmあった。
 谷風の弟子で、197cm、170kg(現役時)。17歳で各界入りし初土俵で無敗の初優勝をし、豪快な投げで人気を得た最強力士であったが、たまたま上覧相撲の機会が無く横綱の称号は受けられなかった。横綱の称号は地位ではなく、将軍拝謁用に考案された力士の正装です。
 右絵図;「雷電為右衛門」勝川春亭画、江戸東京博物館蔵

 通算で優勝に相当する成績を残すこと28回(柏戸との優勝同点の都合上25回ともいわれる)のうち全勝が7回という驚異的なものであった。優勝回数は年2場所制の時代にこれを上回るものはついに現れることがなく、年6場所制に移行した現在であってすらも大鵬(32回)と、千代の富士(31回)の二人が上回ったにすぎない。全勝記録は2場所制では双葉山(8回)が追い抜いたのみで、6場所制でも大鵬(8回)だけが越え、北の湖(7回)と千代の富士(7回)も追いついたものの抜くことは出来なかった。
 閂(かんぬき=きめ出し)で八角政右エ門の腕をへし折ったと伝えられている。これらの逸話は多くの相撲講談で語られ、相撲について書かれた多くの本にも記載されている。あまりの強さに「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「閂(かんぬき)」「鯖折り」を禁じ手とされたという逸話が有名である。

  

  

  上段左から雷電為右衛門の化粧回し。松平藩から贈られたもの。 中、右「化粧回し姿 雷電為右衛門」勝川春亭画。
 下段左、「雷電・陣幕の取り組みの図」勝川春英画。 中、「雷電・花頂山の取り組みの図」勝川春英画 花頂山は雷電を2度破った唯一の大関。 右、「大名上覧相撲取り組みの図」勝川春英画 大名上覧相撲の形を取っているが、実際は寛政3年(1791)将軍上覧相撲の様子を描いている。この時、雷電はのど輪で陣幕に敗れた。
 以上6点相撲博物館蔵。 クリックすると大きくなります。

 文化8年(1811)2月の全休を最後に44歳で現役を退き、松江藩相撲頭取に任ぜられる。この時、後の7代目横綱稲妻雷五郎を見出した。文化11年(1814)大火で焼失した報土寺*の鐘楼と釣鐘の再現に尽力するが、この鐘の形状などが幕府上役の不興を買い、江戸払いに処せられる。文政2年(1819)に相撲頭取職を解任。晩年は妻八重の生地下総国臼井(現千葉県佐倉市)で永く暮らし、文政8年(1825)江戸で没した。享年59。墓所は港区赤坂7−6の報土寺。

  * 報土寺の梵鐘は、文化11年(1814)に雷電為右衛門が寄進したものが有名。竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍(へそ)に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は16俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。現在の鐘は、明治41年(1908)に鋳造されたもの。

 

 

 


 
 錦絵左・谷風、右・雷電
 「大童山土俵入り」部分 写楽画


谷風梶之助(たにかぜ_かじのすけ);関脇谷風梶之助(33)が63連勝という大記録を更新中であった。大阪から下ってきた若手小野川喜三郎に(25)に土を付けられた。それ以降小野川人気が上がり、この二人が江戸の相撲人気に火を着けた。寛政の名勝負と称され現役時、谷風189cm、169kg、小野川176cm、131kgで共に勝率9割を越えていた。その後、2人はそろって横綱免許を受け、大関位についた。
谷風については落語「佐野山」に詳しい。

 

写真;上、「天明八戌申歳江戸大相撲生写之図屏風」凌雲斎豊鷹画 天明8年(1788) 相撲博物館蔵 
 天明8年頃は谷風・小野川が全盛な時です。永代橋上を行く関取衆はこの二人を中心に描かれています。左から2曲目大柄な関取が谷風です。小野川はもう一方の屏風(落語「幸助餅」)に描かれています。

写真下;左、谷風梶之助使用の横綱。 右、谷風梶之助の化粧回し(複製) 相撲博物館蔵

鯱和三郎(しゃちほこ_わさぶろう); 明和9年(1772) - 天保4年2月9日(1833年3月29日)は筑後国(現、福岡県久留米市)出身の元大相撲力士。所属は小野川部屋。最高位は東前頭3枚目。初土俵・新入幕は寛政9年(1797)10月場所。文化元年(1804)3月場所で引退。 寛政12年(1800)10月初日(東幕下3枚目) 最高位前頭3枚目、雷電戦通算は1勝3敗、幕下3枚目は現在なら十両。雷電の最多連勝44を止める。雷電これに勝っていれば81連勝に達していた。 噺の中の鯱清五郎はこの鯱和三郎をモデルにしたのであろう。


2.小田原
(神奈川県小田原市)
 東海道、日本橋から9っ目の宿駅です。ここを通過すると天下の嶮、箱根の山に入って行きます。江戸から普通に旅して2泊目の宿になるでしょう。小田原城を中心に水産物もあがり、大変賑わいのあった街です。ここで相撲巡業が開かれたのです。
 下図;東海道五十三次「小田原」部分 広重画 箱根の山を背景に街並みとお城が見えます。


■沼津
(ぬまづ);(静岡県沼津市)東海道、日本橋から12宿目の街です。今でも魚介類の水揚げではトップクラスで、マグロの水揚げでは特に有名です。小田原から箱根をまたいで、三島の次の宿駅で、実際はそんな事はありませんが、「遠くまで飛んでいったよ」というオーバーな形容です。下図、東海道五十三次「沼津」 広重画

下田(しもだ);(静岡県下田市)現在の伊豆半島の南端にある街。江戸の後期、アメリカの艦隊ペルリが上陸した事でも有名です。風光明媚、温暖で観光のメッカ。皇室の下田御用邸もここにあります。いま伊豆急行の電車で、苦労無しで行けますが、山が海岸まで迫っているところが多いので、陸上交通の便が悪く、中央に出るのも難儀し、船による海上交通が便利でした。下田からだと伊豆半島の付け根、小田原が一番の大都会です。

 右;「横浜力士の誉」(文久元年) 下田・了仙寺蔵 外国人を投げ飛ばす日本の相撲取り


3.言葉
■頭突き(ずづき);相撲技で、額で相手を強く押す事、押すと言うより頭で相手を打ちのめす事。一般人の胸に当たれば肋骨が折れるでしょう。

目つぶし;相手の目の中に指を突っ込む事。目は鍛えられないので反則技になり、見付かれば即負けになる。

カンヌキ(閂・貫木);相撲技で、もろ差しになった相手の両腕を、下から絞り上げる事。強くやると腕が逆に曲がって折れてしまう。勝負がついた場合、「きめ出し」または「きめ倒し」という。

張り手;相撲技で、両手の平で相手を左右から張る事。左右から真横に顔面を張るとビンタになってしまい、喧嘩相撲です。どちらにしろ、激しくたたけば顔などは腫れ上がってしまうでしょう。

卵50個;鶏卵は当時貴重な滋養剤です。それを50個飲み込んだのですから、力が付いたのでしょう。




  舞台の赤坂・報土寺を歩く


 地下鉄千代田線の赤坂駅で降り地上に出ると、毎回方向音痴になる私ですが、今回はなんとかクリアーできたようです。ここは”TBS”の放送局がありますので、TBSの門前町を形成し、オシャレな店とオシャレな人々が行き交っています。赤坂通りに出ると区が設置した近隣の案内地図板があります。ここで見付けてしまったんです。何が・・・と言うと、勝海舟が住んでいた住居跡が近隣に2ヶ所もあるのです。まずは自分の持っている地図に書き写し、目的の雷電の墓がある報土寺に向かいます。

 南に向かい、2っ目の信号「赤坂五丁目交番前」の交差点を右に曲がります。曲がったその先、突き当たりの所にあるお寺さんが報土寺(右写真。以下写真をクリックすると大きくなります)。道は直角に曲がって、スゴい勾配で登っていきますが、自動車は当たり前のような顔(?)をして登っていきますが、バイクはスゴい排気音をさせながら、ヒイヒイ登っていきます。この坂を「三分坂(さんぷ(PU)んざか)」と言います。

 三分坂について港区の説明によると「急坂のため、通る車賃が銀三分(さんぷん=sanpun・百円余)増ししためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説も。」 と説明しています。三分(ぶ=sanbu・6万円位)というと3/4両になるので間違わないようにと注意書きがあります。

 その三分坂に沿って、報土寺の塀が連なっています。練った土の間に瓦を挟んで丈夫な作りになっていて、見た感じも素敵な塀で、その塀を練塀と言います。

 「港区の文化財 報土寺 築地塀(ついじべい。練塀)」の標識の説明によると、(右写真)
  報土寺は、慶長19年(1614)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永9年(1780)に三分坂下の現在地に移転してきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。
 築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。

  平成10年9月1日 東京都港区教育委員会

 報土寺の山門を入ると、直ぐ右側に鐘楼があります。
 ここも港区が建てた標柱による解説から読み下すと、 

 港区の文化財、報土寺の梵鐘は、文化11年(1814)3月に雷電為右衛門が寄進したものが有名です。 竜頭の部分は雷電と小野川が四っに組んた姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍(へそ)に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形てあったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。現在の鐘は、明治41年(1908)に鋳造されたものです。

 早い話が、現在のはごく普通の鐘だという事です。
 庫裡のわきから奥に進むと、道路との境の塀に背を向けて「雷電の墓」があります。誰が参拝したのか、お花が生けてあり、人気というか、温かい心の人が居るのです。

 さぁ! 先程の勝海舟邸跡を尋ねる事にします。まずは、海舟が江戸から明治元年まで住んだ住居跡、赤坂六丁目10−39を尋ねます。先程の赤坂五丁目交番前交差点に戻り、真っ直ぐ渡り、その先Y字路を左に曲がると右側に見えます。(右写真)
  中央白いマンションの塀部分にステンレスの説明板と、その上に木柱の標識が建っています。ソフトタウン赤坂管理自治会・伊波新之助氏がまとめた労作を要約すると、
 江戸無血開城に尽力した勝海舟が36歳から9年間、安政6年(1859)〜明治元年(1868)ここに住んだ。
  当地に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取・咸臨丸艦長として、上司の軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ渡航、日本の艦船として始めて太平洋横断に成功した。また、文久2年(1862)刺客として訪れた坂本龍馬を門下生とし、その後の歴史に大きな影響を与えた。明治元年には西郷隆盛と談判し、江戸の無血開城を成し遂げ、江戸を戦火から守った。
と記されています。

 次に行くのが、晩年76歳で亡くなるまでここに居住した、海舟邸跡地 赤坂六丁目6−14です(右写真)。上記の屋敷からは1〜2分の所です。海舟は赤坂が好きだったのでしょう。新婚当時、やはりこの近くの赤坂の借家に住んでいます。
”P”の看板の敷地側にある碑と説明板から拾うと、
  45歳の時、後徳川慶喜に従って静岡市に移ったが、明治5年(1872)に上京し49歳から満76歳で亡くなるまで氷川武道場の所に居住した。参議・海軍卿・枢密顧問官・伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。  

 ここからほど遠くない氷川神社、港区赤坂六丁目10−12に参拝しましょう。(下写真)

 東京都教育委員会の説明を要約すると、平安時代の天歴5年(951)、現在の赤坂小学校付近に創建されたとする古社です。 八代将軍徳川吉宗はこの神社の近くの紀州藩邸で生まれたことから、氷川神社を深く崇敬し享保15年(1730)に現在地に移して社殿を造営しました。現在の拝殿がこの時のもので、豪華さは有りませんが、質素倹約政策を打ち出した徳川吉宗らしい造りです。

 この境内は、説明板によると、史蹟「浅野土佐の守邸跡、赤坂氷川神社境内、浅野内匠頭夫人の幽居せる里方にて南部坂雪別れとして宣伝せられし所なり。昭和18年3月東京都」 とあります。

 ここの塀も、報土寺と同じ練塀です。

 歩いて回ると、赤坂は町名にも”坂”の字が付くぐらいですから、とても坂が多いところです。戦争で被害が出なかった所なのでしょう。都心だというのに、細い道が入り組んで、その上、坂道ですから歩いていても、2倍にも3倍にも疲れます。そうでした、自転車をあまり見掛けないのは、そのせいでしょうか。

 話変わって、本場所は年に6場所あります。通常3月場所は大阪で開催されます。開催されますと言うより、八百長問題で、開催が中止になってしまいました。地方巡業ではあることですが、本場所が中止という不祥事は40年ぶりだと報道されています。早くすっきりさせて、来場所の開催に向けて動いてください。今回の「寛政力士伝」もこれに合わせて書き進めてきたのに、肩すかしを食って沼津まで飛んでしまいました。
 根本には、八百長が良いか悪いかではなく、興行かスポーツかと言うことでしょう。プロレスを真剣勝負とは誰も思っていません、興行だからです。相撲興行と言われますが、今後、協会がスポーツと興行どちらにウエートを置くかにかかってきます。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

両国国技館(墨田区横網一丁目−4)
 正面玄関に掲げられている「国技館」の看板。
写真をクリックすると正面の全景が見られます。

相撲風景(2011年春場所13日目)
 春場所の結果は白鵬が14勝1敗で優勝。千秋楽前日で優勝を決めています。強いと言うより大関陣がだらしない。そのせいか、満員にはならず七分ぐらいの入りでしか有りません。当日券でも9時過ぎに行っても、正面の席が取れるくらいです。

報土寺(港区赤坂七丁目−6)
 慶長19年(1614)、永受法師によって開かれたと伝えられる寺で、現在の本堂は戦後に再建されたもの。
 この鐘楼は大東亜戦争の時に供出した梵鐘が帰山し再建されたものです。ここに落慶法要を厳修し陣幕親方(横綱千代の富士)の初鐘により十方響流を誓願のものです。平成3年10月20日 咲柳山報土寺

雷電の墓(報土寺)
 
庫裡の左側から塀に沿って墓地にはいると、塀を背中にして建っています。もっと大きい墓かと思っていたら以外と質素な墓でしたが、ちゃんとお花が添えられていました。墓面には雷電為右衛門と入っています。

富岡八幡宮(江東区富岡一丁目)
 境内奥には有名な横綱力士碑があります。その正面の大石の裏には歴代横綱の名が刻まれていますが、一番左上、欄外に「無類力士 雷電為右衛門」と刻まれています。

雷電稲荷神社(新宿区新宿四丁目4)
 この神社は昭和3年4月に花園神社に合祀されたため、その旧地を示すものです。この神社については、源義家が奥州征伐に行く途中、この付近ではげしい雷雨にあったため、小さな祠の前で休んでいると、一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、雷雨がたちまち止んだので、義家は無事北進できた。その後、村人はこの社殿を雷電神社と呼ぶようになったという伝承がある。 雷電信仰は恐ろしい雷神を祀り、その被害からまぬがれようとするもので、各地に雷電神社が建てられている。現在地にはわずかに不動尊の石像や力石があるだけです。また、この神社の前を鎌倉街道が通っていたともいわれているが、詳しいことは明らかでない。(新宿区の文化財より)
と言う事は、雷電為右衛門とは関係ないかな。

                                                                  2011年3月記

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