落語「庚申待」の舞台を歩く
   

 


 古今亭志ん生の噺、「庚申待」(こうしんまち)によると。

 

 

 日本橋馬喰町の大黒屋金兵衛という旅籠屋で庚申待の日に、店を休み、町内の人達を集め夜明かしで話をやり続けると云うのが、信心深い金兵衛さんの行い。この日は旅籠は休みにするが、それを承知の人は泊めるので、武士が一人泊まった。

 

 何か話は無いかと言うので口火を切った。

 夜の四つ頃お茶の水に来ると、茶飯屋の流しが来た。そこに現れたのが武士で、「エイっ」と言って茶飯屋の親父に切りつけると、体をかわした親父がお鉢で避けたが飯が飛び散った。これなんだと言うので、「試し斬り」と返事が返ってきたが、「それは茶飯斬り」だと馬鹿っ話をしている。

 

 田舎者だから村の話で・・・、
 金具付きの駕籠に乗るような出世した娘が居た。美人だった上、腕力があって、ちょっかいを出す男連中をひとひねりしてしまう。あるとき、ムジナを捕まえ、ムジナ汁にしたが気味悪がって誰も食べないので一人で平らげた。それを聞きつけた殿様が、屋敷に上げ、そのうち手が付いて男の子を生んで、お世取りを生んだので出世した。「女ムジナ汁を食って玉の輿に乗る」と言うから。

 

 そちらのお侍さんなら何かあるでしょ。拙者が武者修行の最中、旅先で野宿をすることになってしまった。小さなお堂があったので、そこに入ってウトウトとしていると外が騒がしい。覗いてみると大男が若い目の見えない座頭の金を狙っている。連れの男は太鼓持ちで、この若旦那に世話になったので同伴して、京に上って検校の位をもらうための金だからと懇願している。助けようと思ったが「君子危うきに近寄らず」と言うので見ていると、その若者を近くの岩に投げ飛ばし、粉々にしてしまった。太鼓持ちはカタキと飛びついたが、小脇に抱え込まれ、ほほ肉をはぎ取り、座頭を点けて食べた、また(太鼓)モチをはぎ取り、座頭を付けて食べた。モチをちぎっては砂糖を付けて食べた。

 

 「どこまでが本当か分からなくなる」。と云ってるうちに、これは本当の話で、懺悔(ざんげ)話だと云って、熊さんが話し始めた。

 道楽が過ぎて、借りが着物着ているようになって江戸から逃げて旅に出た。江戸に帰りたくなった晩、熊谷の土手で目の前に雷が落ちて、お爺さんが苦しがっていた。身体をさすってあげていたら膨らんだ懐の胴巻きに手が触れた。金無しの自分と比べると、歳も十分生きたし、もう良いだろうと絞め殺したら、200両あった。その金を持って江戸に着いたが悪銭身につかず、文無しに・・・、でも、残るのは爺さんの顔。夜ごと出てきてうなされたが、10年も経つと薄らいで、今は出なくなった。と、ホラ熊さんが話した。

 

 宿屋の主人が泊まっていた侍に呼ばれた。「気にせんで良い。さっきから愉快な話を聞かせて貰っておる。だがな、熊谷で人を殺して金を奪った話はただ事ではないぞ。殺されたのは拙者の父だ。ずっと仇を探しておった。今夜は庚申待だから勘弁するが、明日手打ちにいたすから逃がすなッ。逃がすと全員なで切りだ」。

 

 宿屋の主人はもう一度熊に尋ねるが、嘘ではない本当の話だと強がりを言った。皆んなで熊さんを縛って物置へ閉じ込めてしまったが、それ以降は話をする者もいなくなり、静かになってしまった。そして夜が明けた。

 

 翌朝、武士が発つと云うので、「敵討ちはどうするんです?」と聞くと・・・、
 「何の話じゃ? 拙者の父は健在じゃ」、「では、昨夜の敵討ちの話は?」、
「嘘じゃ」、「昨夜の話の嘘では貴方の嘘が大関です。何でそんな嘘を・・・」、
 「ああ言わないと、やかましくて寝られないからだ」。






1.庚申待ち

 庚申の夜、仏家では帝釈天および青面金剛を、神道では猿田彦を祀って、寝ないで徹夜する習俗。その夜眠ると、人身中にいる三尸(サンシ)が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるともいう。中国の道教の守庚申に由来する禁忌で、平安時代に伝わり、江戸時代に盛行。庚申。庚申会。庚申祭。御申待(オサルマチ)。広辞苑

 志ん生は、江戸時代から伝わる風習で、大黒様の掛け軸を飾り、七色菓子を供え、ロウソクを点けて一晩中、家内中の人が話をしたりして眠らずに朝を迎えた。その晩、泥棒達は公休日となった。江戸中どの家も起きていたから仕事にならなかった。

 

三尸(さんし);道教で、人の腹中に棲んでいるといわれる三匹の虫。隠している過失をも知り、庚申の夜に人の睡眠中に天に昇り、その罪悪を告げるという。三尸虫。広辞苑

 

 落語「疝気の虫」から孫引きしますと、
 「腹の虫が治まらない」、「腹の虫の居所が悪い」、「虫の知らせで駆けつけると」等々使われる腹の虫って、どんな虫なのでしょう。

 道教が説く教えの中の「三尸(さんし)」の事です。生まれながらに人の腹中に棲んでいるといわれる3匹の虫(蟲)。隠している悪事をも知り、庚申の夜、人の睡眠中に天に昇り、その罪悪を告げるという。三尸虫は大きさはどれも2寸(中国の単位で約4cm)で、結構大きい。
 2ヶ月に一度回ってくる庚申待ちの夜は、告げ口をされるのを恐れて、寝ずの一夜をあかします。また、合体なんてとんでもない事です。三年、十八回連続して行なうと満願になって、三尸を退治出来ると言われます。
 天に昇って悪事をばらしている最中に、目覚めてしまったら三尸虫達はどうするのでしょうね。そのドタバタぶりは落語「疝気の虫」以上でしょうね。考え始めたら、夜も眠れません。

 では、どんな形の虫なのでしょうか。人体には三つの霊的中枢が存在していて、頭部に住む上尸、腹部に住む中尸、 下腹部に住んでいるのが下尸という。この中枢に住み老衰や疾病、霊障等をもたらす虫が三尸虫。上尸は青古(導師)といって、聾唖や鼻詰まり、禿頭等の災いをもたらす。中尸は白姑(獣、狛犬のような形)という虫がいて神経衰弱や胃腸障害や心肺の障害等を引き起こす。下尸は血尸(牛の頭が着いた足)という虫で精力減退や足の病等をもたらすと言う。
イラスト;フリーマガジン「R25」より三尸虫。 イラストをクリックすると大きなイラストになります。 

 

甲子待(きのえねまち); 甲子祭に集まり子(ネ)の刻(深夜0時)まで起きて、大豆・黒豆・二股大根を食膳に供し、大黒天を祀ること。この噺では庚申待と甲子待が混ざってしまったようです。

 

■この噺「庚申待」は何処かで聞いたような気がしませんか。そうです、落語「宿屋の仇討ち」のストーリーと後半そっくりです。
 上方から入ってきた噺を江戸前にした、三木助がやっていた「宿屋の仇討ち」は後半がそのままです。
  もう一つは、志ん生がやっているこの噺で、「庚申待」あるいは「甲子待(きのえねまち)」と云う演題でやり、かつて東京では、この型が多かったと言われます。現在では、その風習もなくなり、分かりにくい話になってしまいました。

 

庚申;干支(えと)の組み合わせの一つで、十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を甲子、乙丑、丙寅、丁卯・・・と組み合わせると全部で60種類の組み合わせができます。これを日にちごとに順番に割り振ったもので、庚申の日は60日に一度やって来ると言う訳です。年でも同じように数え、60年に一度巡ってきます。これを振り出しに戻ると言って、還暦と言います。赤いちゃんちゃんこを着て60歳を祝うのはここから来ています。

 

 

2.日本橋馬喰町(ばくろちょう、中央区日本橋馬喰町)
 この辺りは、古くから定期的に馬市(馬を売買する為の市)が立っていて、伝馬用の馬を供給していました。町名は、幕府の牛馬の売買や仲介をおこなう博労頭たちが住んでいたことによります。博労頭の富田半七、高木源兵衛等がいたため博労町としていたが、後に馬喰町に改めた。 現・馬喰町一丁目9&14には「初音の馬場」が有り、また、ここから浅草御門(今の浅草橋)にかけて郡代屋敷がありました。浮世絵を出版した書店も多く、馬喰町二丁目の西村寿堂は東錦絵を多色刷りで出しました。
落語「勘定板」より孫引き
 江戸で宿泊すると言えば、旅籠の有る馬喰町と幕府の命で決まっていました。

右図;名所江戸百景「馬喰町初音の馬場」広重画 クリックすると大きくなります。

 

お茶の水;(JRお茶の水駅北側の神田川に架かる橋一帯)またはこの付近。

 江戸名所図より「聖堂」 手前の川が神田川で現在はこの南(手前)にお茶の水駅があります。この西(左)側が本郷になります。

 

 お茶の水は、お茶に最適な良質の水が湧いていたが、神田川(外堀)を開削するときに消滅し、名前だけが残った。現在、お茶の水の町名は有りませんが、御茶ノ水駅を中心に、愛着を持って一帯をこう呼ばれています。

 

庚申塚(こうしんづか);豊島区巣鴨4−35、「猿田彦大神」。中山道の庚申堂。

 江戸名所図より「巣鴨庚申塚」茶屋風景 絵の右隅に庚申塚が見えます。

 

 旧中山道に有る庚申塚は、江戸から最初の宿・板橋宿まであと少しの所に有る立場*に有った。立場にはヨシズ張りの茶屋が有りそこに庚申塚が有った。戦災により堂は焼失したが現在のように再建され、庚申の日には縁日が開かれ、近くのとげぬき地蔵と共に賑わう。

 

*立場;宿駅と宿駅の間にある村を「間(あい)の村」という。間の村の中で、馬を継ぎ立てたり、人足や駕籠かきなどが休息する場所を「立場(たてば)」といった。そこに有った茶屋を立場茶屋と言った。

 

 

3.言葉
夜の四つ;今の夜10時。

 

茶飯屋(ちゃめしや);葉茶の煎じ汁で炊いた飯。塩で味をつける。それを商う店。
 川崎宿の手前に有った、当時万年(屋)と言う奈良茶飯しで有名な茶屋が有った。 奈良茶飯とは塩を少し加えた茶飯に炒り豆や焼き栗などを混ぜて、濃い煎茶を掛けて食べるもの。

 

試し斬り;落語「試し切り」をご覧になってください。

 

ムジナ;(狢・貉)アナグマの異称。混同して、タヌキをムジナと呼ぶこともある。混同してムジナ汁=狸汁。狸汁は大変旨かったようです。

名称

ニホンアナグマ

生息地

本州・四国・九州

体の大きさ

体長:オス56〜68cm、メス52〜59cm、尾長:オス12〜17cm、メス13〜18cm、体重:オス5.9〜13.8kg、メス5.2〜10.5kg

えさ

雑食性で、昆虫、軟体動物、カエル、ミミズ、果実などを食べます。

特徴

毛色は薄茶をベースにした黒茶褐色です。中には黒味の強い個体も見られます。四肢と、のどから腹にかけては濃いこげ茶色をしています。顔面は白っぽく、目をおおうかたちでたてに模様があります。ムジナ、ササグマ、マミなど、地方によって呼び名がことなります。

東京ズーネット、動物図鑑より

お世取り(およとり);跡取り。世継ぎ。相続人。武家の世界では世襲制でしたから、男の子供が居るのが絶対条件。その為には養子をもらったり、側室に子供を産ませたりした。武家では、町娘でも男の子を産むと玉の輿に乗ることになります。

 

「女ムジナ汁を食って玉の輿に乗る」;「女は氏無くて玉の輿に乗る」のもじり。女は生まれがよくなくても、容姿や運しだいで金持ちや貴人の妻になることもできる。

 

太鼓持ち(たいこもち);幇間(ほうかん)。餅の一種ではありません。

 

座頭(ざとう);盲人。当道座(盲人の官位をつかさどり、その職業を保護する組合)に属する剃髪の盲人の称。中世には琵琶法師の通称ともなった。近世には琵琶・箏・三味線などを弾じて、平曲などの語物(カタリモノ)を語り、歌を歌い、一方で按摩・鍼治・金融(座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた)などを業とし、官位は実際上売買された。噺の中でも検校になるためにお金を持って行く、といっています。これも砂糖とは違います。

 

検校(けんぎょう);当道座の四官(検校・別当・勾当・座頭)の一つで、最上位の位。15万石の大名に匹敵した権威と格式を持っていた。

 

懺悔(ざんげ);罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること。過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと。

 

敵討ち(かたきうち);主君・近親・朋友などの仇(アダ)を討ち果すこと。江戸時代に最も多かった。仇討。復讐。

 

200両;現在の価格にすると、1両=8万円として約1600万円です。それは大金です。

 

手打ち;「手討」とも書く。 武士が、家臣や町人など目下のものを手ずから斬ること。

 

貴方の嘘が大関;相撲の世界に置き換えて1番だと言った。当時の相撲の序列は横綱は名誉称号で、大関が最高位であった。

 

 


 


 舞台の馬喰町を歩く

 

 浅草橋の駅を東口で下りると、正面の大通りが”江戸通り”です。「人形買い」で来たし、浅草への出発点ですから「蔵前駕籠」や「松葉屋瀬川」等でも、何回もこの前の道路を歩いています。
 また、正面の町は柳橋(町)ですから花柳界に関した噺はここが舞台になって「包丁」、「不幸者」、「一つ穴」、「干物箱」・・・、等があります。
 今回はこの町には入らず、この江戸通りを南下します。

 

 外堀としての機能を持っていた神田川に架かる浅草橋。江戸時代は浅草見附が有った所で、役人が常駐して江戸の守りに目を見張っていました。見附はここで敵の侵入を防ぐのも目的の一つですが、敵や悪人を見付けることが目的で、見附の名があります。浅草見附は水戸街道の喉首に辺り警備はキツかったと言い、浅草、吉原に抜けるメインの街道ですから人通りも多かったと言います。
 この橋の下流(東側)には柳橋(町)の地名の元になった、隅田川に接する”柳橋”が見えます。その間に見える船宿には屋形船が繋がれていますが、落語の話の中では向島に花見や雪見に出掛けたり、浅草寺詣りや、その先の吉原に向かう船が出た所です。あの徳さんがお客を乗せて隅田川を三度回ったり、石垣にこうもり傘を刺したまま浅草に出発した所です。

 

 橋を渡ると、右側には小さな植え込みと隣に交番があります。そこに郡代屋敷跡の説明板があります。江戸の深川・本所の干拓や町造り、代官として各奉行所で処理できないものなども、ここで審理させました。江戸市中にも多く貢献していたので、江戸の人々から讃辞をもって迎えられていました。
 裁判沙汰になると、地方から出てきた人々は、ここ馬喰町に長逗留する事になりました。

 

 先程の交番前の川と並行した柳並木の道が、柳原土手道で、江戸時代は古着屋が並んでいた所です。今は川も見えないほどのビルがぎっしり建ってその様な面影は全くありません。日本橋女学館も、この土手上に建っていることになります。

 

 江戸通りは直ぐ二股に分かれますが、右側の方に向かいます。東西に走る靖国通りと交差する所に出ます。靖国通りは右側に、都心に入っていき皇居北側を抜けて市ヶ谷・新宿に繋がります。左はここから道路の名前が変わって京葉道路となり、両国橋を渡って千葉に向かいます。この交差点・浅草橋を渡って、馬喰町一丁目に入るととたんに衣料品関係の商店、問屋が町中を占めます。中には小売りしません、とか、素人お断りの看板が下がっています。この界隈、お隣の町まで衣料品関係の店で、ここに来れば何でも揃うでしょう。
 下着から上着、帽子から靴下まで、化粧品からアクセサリー、包装紙から名入り袋まで、地方発送の宅配便もあります。
 旅籠の町であったのが、現在は見付けるのに骨が折れるほど宿泊施設のホテルは多くありません。しかし、ここから東京駅まで二駅で行ける交通の便利さから、十数年前から比べると多くなったと感じられます。 

 

 

 地図

 


  地図をクリックすると大きな地図になります。 

 写真

 


 それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

馬喰町(柳原土手跡)
 日本橋女学館の校舎が見えるこの道を柳原土手と言った。浅草橋際から秋葉原まで神田川に沿った南側の土手には古着屋さんが多く軒を連ねていた。着物は反物で売買されるが、仕立てられた物も含め、古着と一緒に売られた。

馬喰町(郡代屋敷跡)
 
馬喰町は旅籠屋の町でもありますが、浅草橋南より、この靖国通りをまたいだ郡代屋敷が有り、幕府の年貢管理、訴訟を扱っていた。江戸深川の開墾にも大きく関与していた。

馬喰町(馬喰町交差点)
  馬喰町の中心となる、馬喰町交差点。この地一帯が衣料品の問屋街になっています。柳原土手の古着屋さんが発展したとも言われます。今、ホテルの数では衣料品店に当然負けています。

御茶ノ水跡碑(御茶ノ水駅西側)
 慶長(1596-1615)の頃までこの地にあった高林寺と言う禅寺の一角から名水が出ていた。時の将軍にも差し上げお茶の水の名を与えられていた。外堀(神田川)掘削の折、その名水は残念ながら消滅した。

御茶ノ水駅
 写真右側の御茶ノ水駅は、中央線、総武線の乗換駅で、また、学生街の駅ですから終日混雑しています。神田川に架かる聖(ひじり)橋が優雅な姿を見せているその先を、地下鉄丸ノ内線が神田川を渡るため、一瞬顔を出しています。

湯島聖堂(文京区湯島一丁目4 )
 上記写真の聖橋を左に割った所にある、孔子を祀る所です。明治の初め、ここを大学として使われた。

都電庚申塚駅(豊島区西巣鴨二丁目)
 踏切が旧中山道。左に行けば板橋宿から京都。右に行けば、最初の交差点に庚申塚と、ジジババの原宿、とげ抜き地蔵と巣鴨駅があります。

庚申塚(豊島区巣鴨四丁目−35)
 江戸の庚申塚が今に残る珍しい塚(お堂)。都電の駅名にもなるほどの塚です。

 

                                              2013年6月記

 

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