落語「抜け雀」の舞台を歩く
1.小田原宿(神奈川県小田原市)
江戸を発ち、山王川(さんのうがわ)を渡り国道一号を西へ進むと、北側に小さな公園がある。ここが江戸口見付(山王口)で、ここからが小田原宿(旧新宿町)になる。現在の町名は浜町で国道一号の最も交通量の多い商店街でもある。
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/index.htm
国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所 ホームページより地図と文
2.街道と宿
■並木;慶長9年(1604)、徳川家康の命によって街道に植樹された並木は、江戸時代を通して旅人を風雪から守り、また照りつける陽光をさえぎり、優しい木陰をつくりだすと同時に、道路敷を確保するための重要な役目を担っていた街道施設であった。
■道標;東海道には数多くの道標あるいはそれに類する施設があった。それらは今日の広い意味での「道路標識」で、これから向かおうとする目的地への方向を主に示していた。
■見附;東海道をはじめとする主要な街道の城下町の出入り口には、見付と呼ばれる構造物が存在していた。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見付、京(上方)側にあるものを上方見付と呼んだ。この間がいわば宿場の範囲となる。小田原宿では、江戸口見附が有り、上方見附が板橋見附です。
■高札場;幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設であり、江戸時代6万を越える全国の村々にあまねく存在していた。多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多かった。
■宿駅;もともと街道沿いの集落で、旅人を泊めたり、荷物を運ぶための人や馬を集めておいた宿場のこと。また「伝馬」とは、幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐ、その馬のことをいいます。
■問屋場(といやば);江戸時代の村々には、名主(あるいは庄屋)・組頭(あるいは年寄)・百姓代と呼ばれる村役人が置かれ、領主・代官との折衝や村政の運営を行っていた。同じように宿場にも、宿場を円滑に運営するために、宿役人が存在していた。この宿役人が業務を行うために詰めていたのが問屋場です。
■本陣;宿場において参勤交代の大名、公家、また幕府役人などが公用の旅で宿泊する宿舎が本陣です。本陣職を命じられたのは土地の旧家など由緒正しい家で、いわば幕府公認の大旅館ということになります。
■旅籠・茶屋;江戸時代の宿泊施設としては、各宿場に公用旅行者用の本陣・脇本陣のほか、一般旅行者用の旅籠屋が用意され、また宿場間には休憩施設である茶屋も多くあった。街道を行き来する人が多くなると、「定宿」、「定休所」といったネットワークも出現した。
■傍示杭(ぼうじくい);棒鼻とも言われ、境界のしるしに建てられた標柱のことで、街道施設に限っての名称ではないが、街道筋においては、宿場境や距離の基準点を示す重要な施設であった。杭は木製であるため、残念ながら当時の物を期待することはできず、浮世絵などによって想像するだけですが、描かれた人間や馬の大きさと比較しても、かなり丈の高い木杭であり、そこには、境界を示す文言や里程などが墨書されていた。
■立て場;宿駅と宿駅の間にある村を「間(あい)の村」という。間の村の中で、馬を継ぎ立てたり、人足や駕籠かきなどが休息する場所を「立場(たてば)」といった。
■立場茶屋;立場の中でも、参勤交代の大・小名や一般旅行者などの休憩に供された、茶屋のある立場を「立場茶屋」と称した。
東海道と大山道の分岐点羽鳥四ツ谷。左・東海道、右・大山道入口(神奈川県藤沢市城南二丁目四ツ谷交差点角)
こうした立場茶屋が町場化するようになるのは、元禄・享保ごろといわれる。立場茶屋の繁盛は、茶を給仕する茶立女(ちゃたておんな)を置いて営業する茶屋の出現と、この茶立女の売笑化によるところが大きかった。
■東海道最大の難所、箱根の坂;江戸時代、箱根を越える東海道を一般に「箱根八里」というが、これは小田原から湯本、須雲川、畑宿を経て箱根宿、さらに箱根宿から相豆(そうず)国境の箱根峠までが約4里(約15.6km)、ここから三島宿までの約4里を合わせて合計8里となることによる。
4.言葉
■衝立(ついたて);奥が見えないように腰高で足の付いた移動式目隠し。
■経治屋(きょうじや);経巻の表具をする職人。また、書画の幅または屏風・襖などを表具する職人。経師を職業とする人。表具屋。大経師。
■抵当(かた);支払いが起こるまで貸し主側に置いておく物。借金のかた。担保。
■駕籠(かご)カキ;駕籠を担ぐ人。割増料金を要求したり、要求を呑まないと、途中で下ろしたり、婦女子だと悪さをしたりした悪者がいた。そのため悪い評判が立ち、道中のゴマのハエと同義語として使われた。
■藩主・大久保加賀守(おおくぼかがのかみ);天正18年(1590)の小田原征伐で小田原の後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が関東に入封し、東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主とした。領国は足柄上郡、下郡4万石であった。文禄3年(1594)、忠世が没すると、嫡子忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石を加増された。忠隣はさらに老中として幕閣に入ったが、慶長19年(1614)に幕閣における勢力争いから改易となり、小田原城は破却され、以後5年間は番城となった。
「江戸後期(文久年間)の小田原城域」 国道1号線江戸口跡に建つ地図 現在地と書かれた所から、左下の大久寺までが小田原宿。小田原宿とは城域内に含まれます。
江戸後期に書かれた東海道分間延絵図「小田原部分」 原図は国立国会図書館蔵
「小田原観光図」国道1号線江戸口跡に建つ地図。赤線が旧東海道 番号が下記道中記と重なります。3図共、地図をクリックすると大きな地図になります。
東海道は江戸を出て酒匂川を渡り山王川に架かる山王橋を渡ります。
橋の向こう側に見える木立が、橋を渡った右側の山王神社@であり、朱子学者林羅山(らざん)が井戸に写る星や月があまりにも美しいので詩を読んだ。その井戸が境内に有り「星月夜の井戸」と呼ばれている。そこから神社の名前も星月夜ノ社と呼ばれ小田原の名所になった。覗いたが何も見付からないはずで、神社と一緒に移設されたものですから。
お隣にはA宗福寺があります。
直ぐに国土交通省が建てた日本橋から83kmの道路標柱が見えて、その先「東海道 小田原宿」のモニュメントBが道路の両側に建っています。
その先の横断歩道の右下には「小田原城趾江戸口見附跡」Cが案内板と共に建っています。
道の反対側、左側には小さな空き地の中に「江戸口見附並一里塚址」の碑が建っています。当時はクランク状になっていて、番屋も有り、小田原宿の江戸側入口です。
歩いている所は国道1号線、現在の東海道。「新宿町(しんしゅくちょう)」の石柱が見えます。
江戸前期、東海道が付け替えられたときに新しく出来た町。藩主帰城の折りの出迎えの場でも有り、村民が役所に出向くときに泊まる宿があった。また、小田原提灯を作る家が多かった。
チョットした上り坂の鍋町。小さな町で鍋釜をつくる職人が多く住んでいたという。坂の半ばを右側に曲がると蒲鉾屋が多く、俗に蒲鉾屋通りと言います。
最初に見えてきたのが「万町(よろっちょう)」。飛脚の継立場があり、旅籠も5軒あり、小田原提灯を作る家も有った。老舗かまぼこ田代総本店が左側に出てきます。
その前でキョロキョロしていたら、男の人に挨拶をされ、向のおでん屋に入っていきました。入口の造りが粋で、小田原提灯に屋号を書き込み吊してあります。Dそうです、まだ中食(ちゅうじき)前で腹が急に空いてきました。その男の人はここのご主人「どうぞ」と言われ、入ることに。
これが私のランチ。この他にメインの牛すじ丼が付きます。旨い地元の練り物とビールで気持ちを立て直して小田原宿に。
この小田原宿で泊まっても良いという気持ちですが、何処からも客引きの留め女が現れません。高梨町辺が旅籠の多かった場所で、北に向かう甲州街道の起点でしたから、問屋場(といやば)があり、宿場の中心地に入ってきました。
脇本陣にあった古清水旅館は高齢者用マンションになっていて、2階が資料室ですが、本日は休館。その隣が明治天皇が宿泊したという本陣跡「明治天皇聖跡」が有ります。
小田原宿のもう一つの中心地「宮前町(みやのまえちょう)」
右側には「松原神社」が路地越しに見えます。
ここまで来と、現在の国道と旧東海道が合流します。その合流点に「お休み所」小田原宿なりわい交流館E、小田原についての歴史的観光案内やお茶やトイレのサービスがあります。ここで一息入れましょう。ざっと半分歩いたことになります。
お休み所で展示してあった宿場町の配置図です。宮前町辺りから欄干橋町のういろう屋さんまで辺りが本陣が集まった宿の中心地で、この中に問屋場(といやば)も有りました。
道幅が広くなった国道を味気なく歩きます。
左側に見えるのが、またまた、明治天皇が宿泊したという本陣跡。
右側には「外郎(ういろう)」。ういろうと言う薬屋さんですが、小田原に関した博物館も公開しています。残念ながら本日休館。
欄干橋町、筋違橋町と旧名の町が並びます。筋違橋町を過ぎたあたりに、日本橋から85kmの標識があります。
右に山角天満宮。上がった先には小田原城があります。
左側には歩道橋の下に小田原駅跡の石柱。国鉄東海道線の小田原駅ではなく、人車と言われる6人乗りトロッコ車両を人足が押して、熱海まで開通していました。その駅がここにあって、今の東海道線と大体同じ所を走っていました。明治28年から41年のことです。その後、小さい機関車が導入されて大正12年関東大震災で被災し、終わりを告げます。落語「金色夜叉」に写真があります。
人車の説明を3軒手前の洋品屋さんFが、当時の様子を話してくれます。
東海道線のガードが目の前に迫ってきました。ここは昔「山角町(やまかくちょう)」と言われた所。
ガードをくぐると、左側に大久保加賀守の墓所として大久寺Gが有ります。
大久寺の先が右に入る三つ叉になっています。その交差点が板橋見附跡Hです。現在の国道は直進しますが、旧道は右に曲がって直ぐ新幹線のガードをくぐります。ガード下から箱根方向を見ています。ここ板橋見附で小田原宿は終わります。
あらら、客引きが誰も引いてくれなかったので、小田原宿を出てしまいました。雀を描いた絵師のように戻らないと泊まれないかな。それより、貧相な格好をしていたら、戻っても同じかな。ところで、絵師の泊まった宿は何処に有ったのでしょうか。見落としたようです。
夜のとばりが下りてきました。長い距離一緒に歩いていただき、お疲れ様でした。良ければ小田原城を見て、新幹線で帰りましょう。
2013年4月記 |
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