落語「金色夜叉」の舞台を歩く
   

 

 
 初代林家三平の噺、「金色夜叉」(こんじきやしゃ)によると。

 

抱介画「三平」 金色夜叉の主人公、間貫一(はざまかんいち)は裸一貫から金持ちになったので明治の文豪はそこからひっくり返して、間貫一と名付けた。
 すごいの。僕の出身学校、第一高等学校は後の東京大学で、その校歌を歌えるのは僕だけ。”♪おいら岬の灯台守は・・・” 大変なんですから。受験も大変で、「良夫ちゃん鐘が鳴ったら部屋に入って落ち着いてテストを受けるのよ」、「大丈夫だよ」。(客席から「うまいぞ」の掛け声)旦那さん何か食べてるんじゃないでしょうね。鐘が鳴って出てくると「良夫ちゃん、どうだった」、「問題は易しかったよ。答えは難しかったので、隣の利口そうなやつの答えをそっくり写して、名前までそいつのを書いた」。発表を見に行くと自分の番号の前後はあったが、自分の番号が抜けていた「泣くな。前後賞が有るかもしれない」。

 間貫一は熱海の海岸を散歩していた。新しい美人の恋人が出来ていた。
 ダメですね。家(うち)のかかぁ、23年一緒に居ると、物価が上がって、下がったのは(胸を叩いて)ここだけ。夏、廊下を雑巾掛けしていると、手が4本有るように見える。私のデコスケ頭が床屋で1200円。犬のプードルを連れて行ったら5000円。こんな矛盾した話はありません。血統書付きのそのプードルが種付けに行って3万円もらって帰ってきた。私が行ったら1万円取られた。くだらねーとヤジが飛ぶ。(絶句しつつスルリとかわして)、

 貫一とお宮の間に入ってきたのが、銀行家のどら息子、親の財産をただ継いだので、富山唯継(ただつぐ)と文豪は名付けた。
 尾崎紅葉を”もみじ”と言い、金色夜叉を”きんいろよるまた”と言ったヤツがいる。三平のことを”みひら”と言い、円鏡の事を”丸かがみ”と言った。

 お宮はカルタ会で唯継に見初められた。
 ”ももひきや古き破れて継だらけ今朝の寒さに出べそ縮まる”さむい。電気猿股を買ってきた。ニクロム線が入っていて、コードが付いている。故障しているのが解らずはいたら「アチチチ、ワワワ」、これがホントのショートパンツだ。
”しのぶれどついに出りけり我がオナラお前のだろうと人の音まで”へー。

 お宮の手の上にダイヤモンドの指輪を付けた唯継の手が光った。お宮がここで変身した。
 ”♪進めライダー、風よ・・・” 坊ちゃん、坊ちゃんのためにやっているんですよ。変身したんですよ。怪獣が出てきますよ。(座布団の上で這い回る)サービス精神が旺盛なのは私ぐらいです。古典落語「源平盛衰記」はお家芸ですが、40分やって、みんなを寝かしつけたことがある。今は大丈夫ですからね。

 そして、貫一とお宮は、別れの夜がやって来た。1月17日、「宮さん来年の今月今夜、再来年の今月今夜、10年後の今月今夜、僕の涙でこの月を曇らしてみせるんだ」。
 貫一は天気予報の元祖だった。気象台に予報が外れると抗議電話が殺到し、「予報課長なにやってんだ、雨が降っただろう」、「すいません。課長はただいま易者の所に行っています」、「所長は」、「所長は裏庭で下駄をひっくり返しています」。明日天気にな〜れ、と下駄を飛ばすと隣に飛んでいって、親父の頭にぶつかった「痛てぇーじゃねーか。バカ野郎!」、「今日は雷だ」。

 

注)この色のあらすじは、物語本題部分。
この色は物語から派生したギャグや小咄部分。なんと多いことか。
似顔絵;福地抱介画「三平」 昭和47,8年頃 三平堂蔵 クリックすると大きくなります。



1.初代林家三平(はやしや さんぺい)
林家三平 本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう)、1925年11月30日生〜1980年9月20日(満54歳没)。落語家。社団法人落語協会理事。 東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸出身。旧制明治中学卒業。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。
右写真;三平の得意ポーズ。三平堂蔵より クリックすると大きくなります

 家族は、 海老名美どり(長女)峰竜太(娘婿)、泰葉(次女)前夫・春風亭小朝、九代目林家正蔵(長男)、二代目林家三平(次男)の芸能人一家である。

 落語は物語(ストーリー)から成り立つ、という固定観念を持つ者には、理解できないどころか耐えられないのが三平落語で、ストーリーもシチュエーションもない。三平落語は、はなから物語を捨てている。

 「よし子さん」、「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」、「どうもすいません」、「身体だけは大事にして下さい」、「もう大変なんすから」、「ゆうべ寝ないで考えたんすから」、お客が後から入場すると「お待ちしていましたよ。ここまで話しましたから、よろしくね」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語で人気を博した。そして、「・・・このネタのどこが面白いかと言いますと、」と現在でいう「スベリ芸」を先駆けるネタも用いた。この噺の中でも随所に出てきます。

志ん生に稽古を付けてもらう三平

 志ん生に稽古を付けてもらう三平 三平堂蔵

 桂小金治は「三平との付き合いは長く、有るとき沈んでいるので聞くと『ある評論家*から、お前の噺は落語では無い』と強く言われた。八代目文楽や円生といき方は違うが、笑わす技量は三平の方が上だ、と言った」。その後、元気を取り戻し三平落語が復活した。
*有る評論家とは、お分かりいただける、あの安鶴こと安藤鶴夫であった。

 三平落語は一見ばかばかしい高座のようだが、お客を掴む術に長け、笑わすことだけに務めた。彼にはオーラがあって、舞台に出るだけで喝采となった。そのうわべだけを真似ても、オーラのない息子達がやったら、上滑りするだけです。基本をみっちりこなして、自分流に崩すのは個性ですが、初めから何も無いところから崩しては、それは無茶です。

 私も、ダジャレと小咄の羅列で、書きようが無い噺運びのため、三平を取り上げなかったが、今回が最初で最後の取り上げとなるでしょう。

 

2.金色夜叉
 尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説。読売新聞に明治30年(1897)1月1日 - 1902年5月11日まで連載された。創作中に作者が逝去したため未完成で終わってしまった。昭和に入って、たびたび、映画、ドラマ化されるようになった。 追いかけて許しを乞うお宮を貫一が蹴り飛ばす、熱海での場面は有名です。

あらすじ
 孤児の間貫一(はざまかんいち)は、亡父を恩人と慕う鴫沢隆三(しぎさわりゅうぞう)に育てられ、お陰で一高で学ぶ身である。貫一は隆三の娘の宮(みや)を恋し、宮も貫一を心憎からず思う。隆三は貫一に学士号を取らせ鴫沢家の婿にと考えている。しかし、宮は、あるパーティーで銀行家御曹司・富山唯継(とみやまただつぐ)に見初められ、そちらに心がなびく。隆三も、貫一を自分の跡継ぎにする意志に変りはないが、宮を富山に嫁がせてくれ、と頼む。諦め切れない貫一は、熱海まで宮を追い、海岸で彼女への思いを伝える。しかし、彼女の気持ちは変わらない。「いいか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから。月が・・・曇ったらば、宮さん、貫一は何処(どこ)かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思つてくれ。」と貫一は叫び、宮の前から姿を消す。

「金色夜叉 熱海の景」 武内桂舟画

 

 

 

 

図;「金色夜叉 熱海の景」 武内桂舟(たけうち・けいしゅう)画 生年;文久 元年(1861) 没年;昭和 17年(1942) 活躍年代;明治 大正 昭和 挿絵画家

 

 四年後、貫一は鰐淵のもとで高利貸しをしていた。ある日、田鶴見(たずみ)子爵邸内の小道で貫一と宮はすれ違う。貫一は涙を浮かべ驚き憤る。宮は恐ろしさと恥ずかしさで一杯である。しかし、宮は今では貫一をどれほど愛していたかを知り、自分が貫一にしたことを悔いている。

 貫一が暴漢から怪我を受け入院したり、鰐淵家が金の恨みから放火され、鰐淵夫婦が焼死するなどの事件が起こる。貫一はそれでも金貸しをやめない。
 宮の夫は外出が多くなった。宮は夫を咎めなかったが、ますます貫一への思いが強まった。ある日、宮は、思い余って貫一をたずねる。「何の用事で来たのか、あの時のことは忘れてはいない」と貫一はつれない。あれこれ言い争っているところに、貫一に気がある同業の満枝がやってくる。満枝に会いたくない貫一は、宮を残して家を出た。宮は悄然と帰っていった。その夜、貫一は奇妙な夢を見た。宮が満枝を刺した後、貫一に詫びながら自分の喉を刺して、断崖から投身自殺するというものだった。その夢の中で貫一は宮を許し、自らも命を絶とうとしていた。
 旅にでた貫一は、西那須野駅から車に乗り、夢で見た風景にぶつかった。宿で、ある男女が心中を図ろうとするのを、部屋に飛び込み助けた。なんでも、女に富山唯継から身請け話が持ち上がっていると知る。貫一は愛する宮を助けることはできないのに、見知らぬ人に施すとは何と馬鹿げたことかと思いながら、二人が抱える借金の肩代わりを決意する。(未完)

 原文は「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000091/files/522_19603.html にあります。

お宮の松と貫一・お宮の像;熱海市東海岸町(国道135号下り車線沿い)、熱海の代名詞といえば、小説「金色夜叉」に登場する 主人公「貫一とお宮」そして「お宮の松」です。
 観光写真スポットでもあるこの場所は海岸の国道沿いにあり、多くの人が訪れます。

貫一お宮の像

熱海の海岸にある「貫一お宮の像」舘野弘青作

 初代「お宮の松」は、昭和初期まで「羽衣の松」と呼ばれていましたが、大正8年(1919)8月「金色夜叉」を記念して、尾崎紅葉の弟子・小栗風葉の句碑「宮に似たうしろ姿や春の月」を建立したことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれるようになりました。
 この「お宮の松」は、台風による護岸の破壊や自動車交通の発展から道路拡幅が行われ、道路中央に松が位置することから海側の枝が切り落とされ、その後、道路舗装や自動車の排気ガス等の影響により次第に衰えてしまったため、ついに昭和41年(1966)11月17日、現在の「お宮の松」を二代目として、当時の「熱海ホテル」より寄贈植栽しました。
 二代目の松も道路舗装や自動車の排気ガス等の影響により「松の葉の先が黄色くなる」「枝枯れが目立つ」「根の一部が枯れる」などの症状を見せていたため、 熱海市では平成10年(1998)度より3年計画で樹勢活性化作業を行いました。
 「新生・お宮の松」は以前よりやや高めに土盛りした斜め後方に移し変えられ、根本には、マンリョウやツワブキ、ハマギクなどを植え込み、隣には自然石を配するなど、日本庭園風に“お色直し”をしました。

 昭和61年(1986)1月17日、熱海ロータリークラブが「貫一・お宮」の銅像(舘野弘青作)を建立しました。
 文;熱海市観光協会

 

 4.言葉
東大校歌;東京大学には応援歌があっても、校歌が無いことで有名。
三平が歌ってる「おいら岬の灯台守は・・・」は、昭和32年の映画「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌で 【作詞・作曲】木下 忠司。東大=灯台を引っかけて歌っています。

熱海の海岸;熱海(あたみ)は東海道線で湯河原の神奈川県を越すと静岡県の熱海市に着きます。その先は丹那トンネルを越して函南、新幹線で行くと小田原→熱海→三島です。熱海は典型的な温泉町ですが、最近は別荘マンションが多くなって、温泉街の趣は少なくなりつつあります。海から観る夜景は、最盛期には百万ドルの夜景だと言われていました。箱根、熱海は東京からの温泉保養地として人気の宿泊地でしたが、老舗の上にあぐらをかいていたので、さびれようは大きいようです。金色夜叉の当時は良き温泉街でした。

熱海の海岸

熱海の海岸。右手前にお宮の松と像、中段にヨットハーバー、半島の先に熱海城。

変身;TV放送された子供向け人気番組「仮面ライダー」で、等身大のヒーローと怪人が対決する「痛快怪奇アクションドラマ」。従来の実写ヒーロー物とは一線を画した「異形」のヒーロー像と、人間ドラマとしての側面を極力抑えた勧善懲悪劇、怪奇ドラマ的な演出、そして颯爽とオートバイを駆って「ライダーキック」などのダイナミックなアクションによる格闘シーンや、多彩な動植物をモチーフとした特異でグロテスクな怪人の登場が特徴。ヒーローが仮面ライダーに変身する。

源平盛衰記;鎌倉中期から後期の軍記物語。48巻。作者・成立年代ともに未詳。平家物語の異本の一つとみられる。源氏関係の記事、仏教説話、中国故事などが増補されている。落語になって壇ノ浦の合戦を描き、平家没落の切っ掛けになった話になっている。春風亭小朝や立川談志がやっていたが、三平も遅ればせながら、談志に教わりその仲間に入った。

 



 舞台の熱海を歩く


 JR熱海駅には新幹線、東海道線、伊豆急が乗り入れている基点になる駅です。駅はJR東日本の最西端駅で、東海道線の東京からの列車はここが終点。乗り継ぐ先、次の駅はJR東海の管轄です。また、熱海は静岡県ですが手前の湯河原は神奈川県になります。

 熱海駅で電車を降ります。平日で有りながら観光客で結構混み合っています。駅前に出ると、さすが温泉街、温泉の湯煙と共に足湯の設備が整っていて、観光客が温泉に足を浸けています。皆さん楽しそう。
 ここで、モタモタしていたら市内行きのバスが全車出発してしまいました。熱海は坂の上に出来た街ですから、車が通れるような広い道は大きく迂回して海岸に下りていきます。後は人だけが通れる階段道がありますが、初めて歩くには道不案内で、タクシーを拾いましたが、そのタクシーも空車待ちが長い列を作っています。

 熱海の海岸に着きましたが、車では、毎回この前を通過するだけで、馬鹿にしていた名所です。今回はここが目的地ですから、写真を撮って、改めて山肌の斜面に出来た熱海の温泉街を眺めると、虫食い歯のようにホテルが撤退した後が無残な様相をさらけ出しています。

豆相人車鉄道

「豆相人車鉄道」 日本国有鉄道・百年写真史

 東海道本線が開通した当時(明治22年東京ー神戸間が開通)は御殿場線経由で運行されていて、熱海は丹那トンネルが完成して初めて最短距離で東海道線が繋がります。
 この金色夜叉で有名になった熱海ですが、小田原から海岸線を6時間かけて駕籠で行きました。地元の有志・雨宮敬次郎が社長となって豆相(ずそう)人車鉄道を明治28年開通させた。これで、日に6往復、4時間で結んだが、この鉄道は6人乗りのトロッコ客車を2〜3人の車夫が押した。急坂に来るとお客も下りて一緒に押した。貫一お宮もこの人車に乗ったことでしょう。その後、明治41年から小さな機関車が引くようになり、軽便鉄道と発展していきます。
 熱海が開け始める端境期でしたが、関東大震災が大正12年に起こり軌道は壊滅的被害を出し、廃線となってしまいました。
 昭和9年に丹那トンネルが開通し、熱海駅が営業を開始します。

 

 根岸に先代林家三平の住まいを訪ねて行きます。三平の住まいは2階が資料館(記念館)になっていて、三平堂と呼ばれています。
 入場料を払って、下足札をもらい2階に上がっていきますが、大きな三平の写真が飾ってあり、「今来るであろうとお待ちしていました」と彼の声でアナウンスされます。会場には小さな高座と、写真や遺品、記念品が並べられています。三平が最後に高座にかけた「源平盛衰記」をデジタルTVで流していますが、彼の中では上出来な噺ですが、この金色夜叉のようにギャグで満ちあふれています。40分ほど滞在しましたが、帰り際にお客さんが階段を上がってきただけで、個室のように彼の生き様を堪能することが出来ます。
 また、ここで三平堂落語会が開かれています。
 近所には書道博物館や子規庵があります。

 

地図

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写真

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三平堂

三平堂(台東区根岸2-10-12)
 入口の様子。3階建ての和風建物の2階部分を三平堂に当てられています。

三平堂内部

三平堂内部
 壁面には写真や色紙。右側の高座には三平の写真ボードが飾られています。写真に手を叩くとギャグが流れてきます。彼の事務机も有り筆記用具などもあります。

熱海駅のホーム

熱海駅のホーム
 東京発の伊豆急の電車がホームに入ってきました。これから伊豆半島の南端下田まで行きます。隣には東京行きの東海道線が止まっています。

熱海駅前の足湯

駅前の足湯
 温泉街だと一目で分かる湯煙と足湯が有り、楽しそうに体験しています。

お宮の松

お宮の松
 熱海駅から坂を下って海岸通りに出ると、街の中心部分に、二代目お宮の松が植えられています。バックは海で、この手前に下記の貫一お宮の像があります。

貫一お宮の像

貫一お宮の像
 有名な像で貫一がお宮を足蹴にしています。今だったら傷害か暴力行為で警察沙汰になるところでしょうが、当時はおおらかだったので、この様な像まで出来てしまった。

2013年4月記

 

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