落語「提灯屋」の舞台を歩く
   

 

 五代目柳家小さんの噺、「提灯屋」(ちょうちんや)によると。

 

 女のチンドン屋から活版刷りの広告をもらった。仲間内のところに持ち込んで広告の内容を考えたが、誰も文字が読めない。食べ物屋ではないかとか、「お二階へご案内」とか、いろいろ出たが誰もなにも解らなかった。そこに隠居が通りかかり、読んでもらうと、
 『この度、唐傘、提灯店を開業しました。多少に関わらずご用命下されたく御願います』。これは、提灯屋が出来たんだな。だれだ、お二階へどうぞ、と言ったのは。続きがあって『7日間の内、お買上の品物に紋所を無料にて書き入れます。万一、書けざる紋が有ったらお望みの提灯無代にて進呈します。柏町一丁目 提灯屋分羅右衛門』。と書かれていた。
 「なまいきだ、字ばっかりだから、解らなかったんだ。提灯の絵ぐらい描けばいいんだ。よーし、丸にケンカタバミだが、タダでもらってこよう。証拠にその広告を貸してよ」。

 提灯屋に来て、弓張り、細、手丸、岐阜、ホオズキ、いろいろ有るが、ブラ提灯に決めた。紋は「鍾馗(しょうき)様が大蛇を胴切りにした。と言う紋を書いてくれ」、「真ん中に鍾馗様を・・・」、「違う。判じ紋だから、判じてくれ」、「それは解りません」、「それじゃ〜もらうよ。ウワバミを胴切りにしたんだから、片っ方はウワ、片っ方はバミ、鍾馗様は剣を持っているから、ケンカタバミだ」、「それなら書けます」、「ダメだ。今書けないと言っただろ」。
 「わ〜い、タダでもらってきたぞ〜〜」、「そうか。判じ物でいけばいいんだな。俺も行ってくる」。

 「提灯屋、広告を回したのはお前のとこだな」、「へい」、「書けなかったらタダくれるな。だったら、ブラ提灯をくれ。この提灯は下取りしてくれるかな」、「いえ。どんなご紋ですか」、「仏壇の地震だ」、「先程も変なこと言ってきた方がありますが、それは書けません」、「仏壇が地震に合うと、リンもドウも崩れるだろう。だからリンドウクズシだ」。
 「わ〜い、俺もタダでもらってきたぞ〜〜」、「じゃ〜、俺ももらってこよう」。

 「紋が書けなかったら、タダで提灯くれるというのはここだな」、「へい」、「ブラ提灯くれ。紋は髪結い床の看板が湯に入って熱い、というものだ」、「それは解りません。それは?」、「髪結い床の看板はみんなねじれているな、熱い湯だからうめろと言うだろ。だからネジウメだ。もらって行くよ」。
 「わ〜い、俺だってタダでもらってきたぞ〜〜」、「4番目で恥ずかしいが、俺も行ってこよう」。

 「提灯屋。お前のとこだな、タダで提灯くれるというのは」、「紋が書けない時ですよ」、「ブラ提灯をくれ」、「ブラ提灯はもうありません」、「その柄の付いた提灯でいいよ」、「これはお高いので・・・」、「いいよ、タダもらうんだから。こっちにかせよ。じゃ〜、もらって行くよ」、「ちょっと、ちょっと、紋が書けないときですよ」、「そうだった。ソロバンの掛け声が81で、商売を始めたんだな。儲かったんだな。持ち付けない金を持ったので道楽を始め、家に帰らないこともあった。そうするとカミさんだって黙っていないよ」、「紋は?」、「これが紋だ。ちゃんと聞けよ。これは男の働きだと言ってカミさんを離縁してしまった。気の毒じゃネェか、と言うような紋だ」、「そんな続き物みたいな・・・」、「ソロバンの81はクク81、商売して利があったからリだ、奥さんが去ったからサル、でククリザルだ。もらっていくよ」、「お、お、お!書けるとも書けないとも言う前に、持って行ってしまった。畜生、悪いところに店を出しちまった」。

 「みんな提灯もらって、今晩は提灯行列だ」、「提灯屋に可愛そうなことしたな。私が埋め合わせをしてこよう」。

 「提灯屋さん。このチラシを配ったのはこちらかな」、「若い連中が来たが、今度は年寄りだな」、「私が読んであげたことで迷惑を掛けてしまったようで」、「お前だな、年寄りで、元締めなのは」、「提灯をもらいたい」、「ブラ提灯はもう無いよ」、「私は高張り提灯を一対」、「高いヤツを、それも二個だと」、「で、紋だが」、「大蛇が胴切りされて、髪結い床が、カミさんを離縁して・・・うぅ」、「提灯屋さん落ち着きなさい。私のは丸に柏だ」、「丸に柏だと、元締めだけあって、無理難題を言ってきたな。丸に柏だと。解かざるを得ないぞ」、「ありきたりの紋ですよ。丸に柏だ」、
「マルにカシワ、解った。スッポンに、ニワトリだろう」。

 


 
1.家紋
ケンカタバミ(剣片喰);家紋のひとつ。代表的な丸に剣片喰。 
 HIDAKA家紋の一覧より http://www.asgy.co.jp/cgi-bin/kmnlist.pl?katabami 多くの片喰紋が有ります。

リンドウクズシ(竜胆崩し);紋所の名。リンドウの葉や花にかたどったもの。池田竜胆・笹竜胆・違竜胆・三つ葉竜胆・竜胆菱・竜胆車など。
 リンドウを一名ササリンドウともいう。これは葉が笹に似ているから。竜胆とは中国語で、根を噛むと苦く、まるで竜の胆のようだというのでこの字を当てた。可憐な花なのに竜胆と大仰な漢字を与えられリンドウも迷惑していることでしょう。

 

 リンドウの家紋を並べましたが、竜胆崩しは見付かりませんでした。お気に入りをお見立て下さい。 ただし、残念ながら提灯を差し上げることは出来ません。

ネジウメ(ねじ梅);梅の花を捻ったようにデザインされた紋。

ククリザル(括り猿);四角の布を縫い綿をつめて、その四すみを足にし、別に頭をつけて猿の形にした縫いぐるみ。小さい丸が頭で、手足を縛られた猿の姿を模す。幟(のぼり)などや絵馬堂、庚申堂などに下げてお守りにしたり、念願の成就を祈ったりした。
 それが紋所になったもの。

丸に柏(かしわ);古くは柏の葉にご馳走を盛って神に捧げた。これに由来して柏が「神聖な木」と見られるようになった。柏手と言う言葉も出来た。柏は神社や神家と深い縁があり、柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だった。右図・左、丸に三つ柏、同右、丸に一つ柏。

 

2.提灯(ちょうちん)

 「提灯屋」 三谷一馬画 江戸見世屋図聚 中央公論新社

小田原提灯;箱提灯と同じ円筒形だが、携帯に便利なようにさらに小型化した提灯(懐中提灯)。「小田原提灯」とよばれ、江戸時代から明治〜大正期に いたるまで旅の必需品だった。
右;折りたたまれた提灯は袋に入れられ、そこにはロウソクが付随していた。江戸東京博物館蔵

ぶら提灯;球形あるいは棗(なつめ)形の小型提灯に、ぶらさげてもちあるくのに便利な棒をつけた「ぶら提灯」は、神事やお祭り、葬送などのときの必需品として庶民に広く愛用された。小型の提灯に吊り下げの棒を付けて、ブラブラ下げて使った。1図左右;右図、「歳暮の深雪」国貞(三代豊国)画 前垂れで頭を覆い右手に徳利を持って左手にブラ提灯を下げ雪の中を急ぐ。

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馬上提灯;ぶら提灯のバリエーションで、武士が乗馬の際に用いる提灯。丸形で、腰に差すように長い柄がある。2図

ほおづき提灯;紅白などに 彩色されて提灯行列などにつかわれる。3図

高張提灯;役所や社寺の定紋、商家の屋号などを書きいれ、長い竿(さお)につけて門前に目印としてかかげる。祭礼や婚礼、葬式をはじめとする行列などの際に、現在もしばしばつかわれている。 4図

岐阜提灯;高級提灯として知られ、江戸時代から主としてお盆につかわれてきた、祭礼のときなどに軒先につりさげられたり、 社寺への献灯としてつかわれる「吊り提灯」の代表格といえる。

弓張提灯;そのほか、弓形にくんだ竹の弾力を利用し、提灯(火袋)が不用意に折りたたまれないようにピンとはることのできる。細、手丸などがあります。

 

 上野鈴本演芸場入り口に飾られた弓張り提灯。それぞれの噺家さんには家紋が入っています。

龕灯(がんとう)提灯;前方だけをてらすように工夫された「龕灯提灯」などもある。龕灯は「強盗」とも表記するのをみてもわかるように、いわゆる夜間の捕り物などのときに利用された。どの様に振り回しても火は消えず正面のみを照らした。
 下図右;「忠臣蔵十一段目夜討の図」部分 国芳画 右下の義士が持つ提灯

   

 左2枚;「提灯屋」 目で見る江戸職人百姿 国書刊行会

 

提灯屋「大嶋屋恩田」商店(台東区駒形2−6−6)にて。http://www.chochin-ya.com/ 

 

3.言葉
柏町一丁目;江戸時代から現在にかけてこの地名は無いので、架空の江戸東京地名として挿入されたものでしょう。

チンドン屋;人目につきやすい服装をし、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らすなどし・三味線・鉦・らっぱ・クラリネットなどを鳴らしながら、大道で広告、宣伝、チラシを配りをする人。

活版刷り(かっぱんずり);活字を組み並べてつくった印刷用の版。活版で印刷すること。また、その印刷物。活版印刷。今までは手書きや、木版刷りがあって読みにくかったと言っています。

識字率(しきじりつ);江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い教育水準であると言うことができる。実際ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率ほぼ100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は40%〜50%程度と推定されている。
 ウィキペディアによる

 江戸中期になると人口だけではなく識字率も世界一と言うことは前項で解説されていますが、武家の子弟は、官学のほか民間の私塾でも学び、国学、漢学、洋学、医学などさまざまな塾が開設されていた。幕府正学とは別に、私学では、独自の教育内容が採られていた。また、商家の小僧は勿論、庶民の子供達も寺子屋へ通わない者は希だった。浪人や下級幕臣がアルバイトで師匠を務める寺子屋の数が、幕末江戸市中で一千ヶ所に達するほどだった。ここでは読み書き、そろばん、かけ算や九九など教えた。また、女子は踊り、唄いなど芸能の手習いも盛んであった。
 授業料は家庭の経済状況に応じて支払われ、場合によっては商売物の物納も許された。さらに、生徒の10人に1人は上級の私塾へ進学した。こうした庶民の学力、教養が、江戸の出版文化の下地を形作っていた。  落語「泣き塩」より孫引き

鍾馗様(しょうきさま);(唐の玄宗の夢の中に、終南山の人で、進士試験に落第して自殺した鍾馗が出て来て魔を祓い病を癒したという故事から) 疫鬼を退け魔を除くという神。巨眼・多髯で、黒冠をつけ、長靴を穿き、右手に剣を執り、小鬼をつかむ。日本でも謡曲に作られ、その像を五月幟に描き、五月人形に作り、また朱で描いたものは疱瘡除になるとされる。鍾馗大臣。右図、文、広辞苑

髪結い床の看板はみんなねじれている; 三色ねじり棒(看板)の赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表し(別説有り)、1540年頃、パリの外科医メヤーナキールが創案し、彼の医院の看板に用いたのが始まりです。その後、理髪店でも用いる様になり、日本では東京 常磐橋の側に在った、「西洋風髪剪所(かみはさみしょ)」で、明治4年に用いたのが最初です。
 と言うことは、この噺は明治になってからの落語になります。

提灯行列(ちょうちんぎょうれつ);祝意を表すため、夜間、大勢の人が提灯を持ち列を組んでねり歩くこと。

マルにカシワ;オチの意味が分かりずらいので、ヤボと承知の上で解説すると、『マル』上方でスッポンのことをこう呼ぶ。『カシワ』ご存じ鶏肉のこと。
 毎回判じ物で紋の絵柄を考えていたが、隠居が言う紋の解答を先に出されたので、何を血迷ったか一生懸命になって謎解きのお題を考えてしまった提灯屋。
 



 舞台の柏木を歩く


 柏町一丁目に行くはずでしたが、この地名は江戸時代も明治以降も架空の場所で実在しません。まさしく、二階に上がってハシゴを外された感があります。どうしよう。都内には2〜30軒の提灯屋さんが有りますので一軒ずつ歩きましょうか。
 また、この柏が付く地名は他には「柏木」しかありません。柏木と付けば「柏木の師匠」と言われた、六代目三遊亭円生師の住んでいたところです。話から外れますが、昭和の大名人と呼ばれた円生師の住居跡をたどってみたいと思います。落語の舞台を歩くで一番取り上げ回数が多い師匠のことですし、亡くなってから34年も経つし、現在住まわれていないのでプライバシーの問題も起こらないでしょう。

 JR新宿駅を降りると東側は歓楽街とショッピング街で賑わいますが、西側はビジネス街で高層ビル(右写真)が建ち並び、東京都庁もこの一角にあります。円生師匠の旧お住まいはこの西側の高層ビル街の北側にあります。ただ、円生師匠の住み始めた当時は、まだ高層ビル群はなく、木造住宅が林立しているような新宿でした。その境目が青梅街道で、この南は広大な淀橋浄水場があって、その跡地に建設された新宿新都心です。北側は今でもその趣が残り、一歩中に入ると小さな木造住宅が肩を並べています。その中にありました。 

 弟子の圓丈師や息子・佳男さんの述懐によれば、かつての圓生師宅は平屋建てで黒板塀に囲まれ庭には石燈籠のある落語家らしい落ち着いた佇まいの家だったとの事で、住んでいたのは昭和32年(1957)から昭和41年(1966)までです。

 志ん生師と同行した大連から戻り、港区三田(現在地名)の住まいから、ここ柏木に移ってきたのですが、移ってきた当時は、ひいき筋にも「円生さんはあんな遠方に住んでかわいそうだ」とよく言われたそうです。現在乗降客数では日本一を誇る新宿駅ですが、ここまで来るとその喧噪さはどこにもなく、新宿と言うより地方都市の古い駅前みたいです。今は西新宿という町名に変わってしまいましたが、それは柏木よりネームバリューが大きく不動産屋を喜ばせる変更だったと言われます。駅から10分か15分の所なのにです。
 青梅街道を下って、新宿鬼子母神を右に見て、その先ルノアールの喫茶店角を右に入ります。左手に区立西新宿中学校の広大なグラウンドが高いフェンスに囲まれて出現します。道の先の校舎前に校門があって、その前に雑居ビルがあります。過日は黒板塀に囲まれた落語家らしい邸宅でしたが、現在は50年以上近く経つ古ぼけた(失礼)旧式のビルで、なんでこんなビルのために、日本家屋の庭付き住宅を、ビルを建てるために明け渡してしまったのでしょう。一説によれば、円生師はマンションの響きがよくて、次の新宿マンションに引っ越します。

 中学校を行き過ぎると左側に、その新宿マンションが現れます。ここも年代物のマンションですから、最近見慣れたコジャラケたオートロックのマンションとは違います。円生が引っ越した当時は最新のマンションで立派だったことでしょう。道を挟んだだけで七丁目から八丁目に変わります。売り払った家はここからでも見える距離です。
 昭和46年(1971)11月、5年間住み慣れたところから、お隣の中野区に転居します。

 中野区と言っても神田川を挟んだ西側で、柏木の新宿マンションとはゆっくり歩いても10分とは掛からないでしょう。やはり柏木周辺が気に入っていたのでしょう。
 青梅街道に出て、神田川に掛かる淀橋(右写真。淀橋の旧地名はここから出ています)を渡り、細い道を左に右にと曲がり、目指す美野マンションに行き着きます。住宅街で、現在は小さなマンションだらけですし、目印が無いので道案内ができませんし、道が曲がりくねって昔ながらの道が広くなっただけなのでしょう。このマンションも新宿マンションと大差ない風貌と大きさです。
 このマンションが円生師匠終焉の住まいとなってしまいました。ほんとに静かなところです。

 

地図

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写真

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提灯文字書き
 浅草寺にて

うちわ文字書き
 浅草寺にて

チンドン屋
 
深川・木場公園イベントにて

西新宿中学校前(新宿区西新宿7−22)
 当時柏木と言われたところ。昭和32年(1957)3月から昭和41年(1966)7月まで9年間住んだ。黒板塀に囲まれたすてきな住宅だったと言われるが、今は個性の無い道筋になってしまった。右側が中学校に正面、奥が青梅街道に出る。

新宿マンション(新宿区西新宿8−2−34)
 昭和46年(1971)11月まで5年間過ごした。ここに居るとき、柏木から西新宿に町名変更が行われた。
 この新宿マンションの向かって左側の数軒先が、西新宿中学校です。

美野マンション(中野区中央1−29−10)
 柏木とここの間に神田川が流れ、淀橋が架かります。神田川が区境で町名が変わりますが、すぐお隣同士。上記マンションと同じ4階に住んでいた。現在も住宅地の真ん中で静かなところです。

成子天神社(新宿区西新宿8−14−10)
  圓丈さんが師匠円生の柏木の家に通う道筋にあった神社。鎮守の森は無くなって、そこに高層マンションが建設されています。ひさしを貸して母屋を取られた感があります。森も境内も無い殺風景な小さな神社になってしまいました。

                                                        2013年2月記

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