落語「提灯屋」の舞台を歩く 五代目柳家小さんの噺、「提灯屋」(ちょうちんや)によると。
■リンドウクズシ(竜胆崩し);紋所の名。リンドウの葉や花にかたどったもの。池田竜胆・笹竜胆・違竜胆・三つ葉竜胆・竜胆菱・竜胆車など。
リンドウの家紋を並べましたが、竜胆崩しは見付かりませんでした。お気に入りをお見立て下さい。
ただし、残念ながら提灯を差し上げることは出来ません。
■ネジウメ(ねじ梅);梅の花を捻ったようにデザインされた紋。
■ククリザル(括り猿);四角の布を縫い綿をつめて、その四すみを足にし、別に頭をつけて猿の形にした縫いぐるみ。小さい丸が頭で、手足を縛られた猿の姿を模す。幟(のぼり)などや絵馬堂、庚申堂などに下げてお守りにしたり、念願の成就を祈ったりした。
■丸に柏(かしわ);古くは柏の葉にご馳走を盛って神に捧げた。これに由来して柏が「神聖な木」と見られるようになった。柏手と言う言葉も出来た。柏は神社や神家と深い縁があり、柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だった。右図・左、丸に三つ柏、同右、丸に一つ柏。
2.提灯(ちょうちん)
「提灯屋」 三谷一馬画 江戸見世屋図聚 中央公論新社
■ぶら提灯;球形あるいは棗(なつめ)形の小型提灯に、ぶらさげてもちあるくのに便利な棒をつけた「ぶら提灯」は、神事やお祭り、葬送などのときの必需品として庶民に広く愛用された。小型の提灯に吊り下げの棒を付けて、ブラブラ下げて使った。1図左右;右図、「歳暮の深雪」国貞(三代豊国)画 前垂れで頭を覆い右手に徳利を持って左手にブラ提灯を下げ雪の中を急ぐ。
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■馬上提灯;ぶら提灯のバリエーションで、武士が乗馬の際に用いる提灯。丸形で、腰に差すように長い柄がある。2図
■ほおづき提灯;紅白などに
彩色されて提灯行列などにつかわれる。3図
■高張提灯;役所や社寺の定紋、商家の屋号などを書きいれ、長い竿(さお)につけて門前に目印としてかかげる。祭礼や婚礼、葬式をはじめとする行列などの際に、現在もしばしばつかわれている。
4図
■岐阜提灯;高級提灯として知られ、江戸時代から主としてお盆につかわれてきた、祭礼のときなどに軒先につりさげられたり、
社寺への献灯としてつかわれる「吊り提灯」の代表格といえる。
■弓張提灯;そのほか、弓形にくんだ竹の弾力を利用し、提灯(火袋)が不用意に折りたたまれないようにピンとはることのできる。細、手丸などがあります。
上野鈴本演芸場入り口に飾られた弓張り提灯。それぞれの噺家さんには家紋が入っています。
■龕灯(がんとう)提灯;前方だけをてらすように工夫された「龕灯提灯」などもある。龕灯は「強盗」とも表記するのをみてもわかるように、いわゆる夜間の捕り物などのときに利用された。どの様に振り回しても火は消えず正面のみを照らした。
左2枚;「提灯屋」 目で見る江戸職人百姿 国書刊行会
提灯屋「大嶋屋恩田」商店(台東区駒形2−6−6)にて。http://www.chochin-ya.com/
3.言葉
■チンドン屋;人目につきやすい服装をし、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らすなどし・三味線・鉦・らっぱ・クラリネットなどを鳴らしながら、大道で広告、宣伝、チラシを配りをする人。
■活版刷り(かっぱんずり);活字を組み並べてつくった印刷用の版。活版で印刷すること。また、その印刷物。活版印刷。今までは手書きや、木版刷りがあって読みにくかったと言っています。
■識字率(しきじりつ);江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い教育水準であると言うことができる。実際ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率ほぼ100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は40%〜50%程度と推定されている。
江戸中期になると人口だけではなく識字率も世界一と言うことは前項で解説されていますが、武家の子弟は、官学のほか民間の私塾でも学び、国学、漢学、洋学、医学などさまざまな塾が開設されていた。幕府正学とは別に、私学では、独自の教育内容が採られていた。また、商家の小僧は勿論、庶民の子供達も寺子屋へ通わない者は希だった。浪人や下級幕臣がアルバイトで師匠を務める寺子屋の数が、幕末江戸市中で一千ヶ所に達するほどだった。ここでは読み書き、そろばん、かけ算や九九など教えた。また、女子は踊り、唄いなど芸能の手習いも盛んであった。
■鍾馗様(しょうきさま);(唐の玄宗の夢の中に、終南山の人で、進士試験に落第して自殺した鍾馗が出て来て魔を祓い病を癒したという故事から)
疫鬼を退け魔を除くという神。巨眼・多髯で、黒冠をつけ、長靴を穿き、右手に剣を執り、小鬼をつかむ。日本でも謡曲に作られ、その像を五月幟に描き、五月人形に作り、また朱で描いたものは疱瘡除になるとされる。鍾馗大臣。右図、文、広辞苑
■髪結い床の看板はみんなねじれている; 三色ねじり棒(看板)の赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表し(別説有り)、1540年頃、パリの外科医メヤーナキールが創案し、彼の医院の看板に用いたのが始まりです。その後、理髪店でも用いる様になり、日本では東京 常磐橋の側に在った、「西洋風髪剪所(かみはさみしょ)」で、明治4年に用いたのが最初です。
■提灯行列(ちょうちんぎょうれつ);祝意を表すため、夜間、大勢の人が提灯を持ち列を組んでねり歩くこと。
■マルにカシワ;オチの意味が分かりずらいので、ヤボと承知の上で解説すると、『マル』上方でスッポンのことをこう呼ぶ。『カシワ』ご存じ鶏肉のこと。
JR新宿駅を降りると東側は歓楽街とショッピング街で賑わいますが、西側はビジネス街で高層ビル(右写真)が建ち並び、東京都庁もこの一角にあります。円生師匠の旧お住まいはこの西側の高層ビル街の北側にあります。ただ、円生師匠の住み始めた当時は、まだ高層ビル群はなく、木造住宅が林立しているような新宿でした。その境目が青梅街道で、この南は広大な淀橋浄水場があって、その跡地に建設された新宿新都心です。北側は今でもその趣が残り、一歩中に入ると小さな木造住宅が肩を並べています。その中にありました。
弟子の圓丈師や息子・佳男さんの述懐によれば、かつての圓生師宅は平屋建てで黒板塀に囲まれ庭には石燈籠のある落語家らしい落ち着いた佇まいの家だったとの事で、住んでいたのは昭和32年(1957)から昭和41年(1966)までです。
志ん生師と同行した大連から戻り、港区三田(現在地名)の住まいから、ここ柏木に移ってきたのですが、移ってきた当時は、ひいき筋にも「円生さんはあんな遠方に住んでかわいそうだ」とよく言われたそうです。現在乗降客数では日本一を誇る新宿駅ですが、ここまで来るとその喧噪さはどこにもなく、新宿と言うより地方都市の古い駅前みたいです。今は西新宿という町名に変わってしまいましたが、それは柏木よりネームバリューが大きく不動産屋を喜ばせる変更だったと言われます。駅から10分か15分の所なのにです。
中学校を行き過ぎると左側に、その新宿マンションが現れます。ここも年代物のマンションですから、最近見慣れたコジャラケたオートロックのマンションとは違います。円生が引っ越した当時は最新のマンションで立派だったことでしょう。道を挟んだだけで七丁目から八丁目に変わります。売り払った家はここからでも見える距離です。
中野区と言っても神田川を挟んだ西側で、柏木の新宿マンションとはゆっくり歩いても10分とは掛からないでしょう。やはり柏木周辺が気に入っていたのでしょう。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。 2013年2月記 |
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