落語「泣き塩」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「泣き塩」(なきしお)によると。
 

 武士を往来で呼び止めて、この赤紙付きの手紙を読んでくれと娘がお願いをした。親は病気だったがこの手紙が来たので心配でたまらないのだが、字が読めないので、読んで欲しいと懇願した。武士は「残念である。手遅れである」。娘は落胆して言葉が出ない。「クヤシイ。無念だ。あきらめろ」と追い打ち。

 それを見ていた外野の二人は、一つ屋敷で奉公していたが、別れられない仲になって、泣いているのだろうと、勝手に判断していた。
 そこに「え〜〜、焼き塩ォ〜〜」と天秤を担いだお爺さんが焼き塩を売りに来た。泣いている二人を見た焼き塩屋は、ただごとではないと思い、無分別なことはしないで私の家に来て心落ち着けなさいと諭した。爺さんももらい泣きをして、三人は路上で泣いていた。
 「残念だ」、「どうしたらいいんでしょう」。

 そこに「お花ぼう」と声を掛けながら、三人の中に入ってきた。「兄さん。田舎から手紙が来たが、読めないのでお武家様に読んでもらったら、『もうだめだ。手遅れだ』と言うので、困っているが、どうしたらいいんでしょうね」。武家から手紙を受け取り、中を確かめると、内容は全く逆で「お袋さんは全快して、お花の許嫁の茂助さんが奉公も終わって店を出すことになった。その為、婚礼を挙げるので早く国に帰ってこい」と言う文面であった。お花は喜んでかけて帰っていった。
 「お武家さん、どうして泣いているのですか」、「残念だ。手遅れだ」、「そんなこと言うからお花ぼうは目を泣きはらしているじゃないか」、「手紙で泣いたのではなく、若き時から武芸はしっかり習得したが、学問はとんとやらなかった。その罰で今、手紙も読めない事を悔やんで『残念だ。手遅れだ』と自分に泣いていた」。
 分からないのは塩屋の爺さんが何で泣いているんだ。「若い二人が不憫でならず、何か手助けをしようと中に入ったが、涙もろくて私も泣いてしまった。私の商売がそうなんです」。天秤を肩に掛けて、
 「泣ァき(焼き)塩ォ〜〜」。

 


1.焼き塩

 写真;行徳塩、製造工程の最終工程「焼き塩風景」 市立市川歴史博物館蔵模型 

 粗塩はニガリ(塩化マグネシウム)が強く直ぐにシケってベタベタになるため、粗製の食塩を焼いて作った純白のさらさらした塩。素焼きのつぼなどに入れて蒸し焼きにすると、粗製塩中の塩化マグネシウムが吸湿性のない酸化マグネシウムに変わるため、苦みがとれ湿気(しけ)にくくなる。また、焙烙(ほうろく)などで煎った塩。炒塩(いためじお)ともいう。

右;素焼き壷の「焼き塩壷と蓋」 江戸東京博物館蔵

「行徳塩釜の図」江戸名所図会より 塩のことを芝居の世界では行徳という隠語を使うことでも知られる通り、江戸時代には、塩の産地として、関東から信州方面まで名をはせていた。昭和初年には塩田は消滅し、埋め立てが進み、宅地化が進んで首都圏への通勤圏になった。

 江戸で消費される塩は隣の千葉県市川市行徳(ぎょうとく)で作られた。

上図;行徳の塩田と塩焼きの煙が立ち上る風景。市立市川歴史博物館蔵

■行徳塩;その歴史は1000年以上有ると言われ、江戸時代、その製塩業は保護のもと大きく飛躍しました。今も本行徳に残る「権現道(ごんげんみち)」は、徳川家康が船で江戸から船橋、東金に「鷹狩り」に向かう途中、行徳で下船し通った道といわれます。その時、家康を大いに喜ばせたのが、海岸に続く塩田と製塩風景でした。当時の文献によると徳川三代将軍までは大金を費やして行徳の塩田を保護し、それ以降の将軍達も「御普請」という形で保護を続けました。二代秀忠は三千両、三代家光は二千両それぞれ投入したと言われます。
 幕府による本格的な整備を受け、大規模化した行徳の製塩業は、関東で有数の生産量を誇るまでに成長し、それに伴って江戸に塩を運搬するに当たって新川、小名木川の水路を開削させます。これにより、行徳から江戸日本橋小網町まで船による大量輸送が可能になりました。この水運はやがて野菜や魚を運ぶようになり、「行徳船」の登場によって、塩だけではなく旅人達も利用できる、成田街道の一部としての便利な交通路へと進化していったのです。江戸川東河岸には行徳河岸が開かれ、新河岸と呼ばれて賑わいました。
 行徳塩は焼き塩後半年近く寝かされ、そのため水分が完全に抜け流通経路での水分蒸発による、目減りが無く上質塩として信用が高い商品となりました。
 現在も地名に「塩浜」、「塩焼」、「本塩」等と残っています。

上図;行徳の新河岸風景 市川歴史博物館蔵  江戸川東岸に設けられた船着き場・新河岸、塩の出荷基地であり、ここから「行徳船」が日本橋まで行き来した。桟橋から上がった左側に現在に残る常夜灯が見える。街道に出た向かい側に有名な「笹屋うどん店」が見えます。

焼き塩屋;浅いザルの中に焼き塩を入れて、それを天秤で担いで多くはお爺さんが売り歩いていた。

右図:原画・職人本『略画職人尽』文政の頃 岳亭五岳画。
『江戸商売図絵』三谷一馬画。


2.識字率

 江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い教育水準であると言うことができる。実際ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率ほぼ100%の武士階級の人口が多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は40%〜50%程度と推定されている。
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 江戸中期になると人口だけではなく識字率も世界一と言うことは前項で解説されていますが、武家の子弟は、官学のほか民間の私塾でも学び、国学、漢学、洋学、医学などさまざまな塾が開設されていた。幕府正学とは別に、私学では、独自の教育内容が採られていた。また、商家の丁稚は勿論、庶民の子供達も寺子屋へ通わない者は希だった。浪人や下級幕臣がアルバイトで師匠を務める寺子屋の数が、幕末江戸市中で一千ヶ所に達するほどだった。ここでは読み書き、そろばん、かけ算や九九など教えた。また、女子は踊り、唄いなど芸能の手習いも盛んであった。
 授業料は家庭の経済状況に応じて支払われ、場合によっては商売物の物納も許された。さらに、生徒の10人に1人は上級の私塾へ進学した。こうした庶民の学力、教養が、江戸の出版文化の下地を形作っていた。

 落語「浮世床」で立て板に水で太閤記を読む(本当は立て板にモチ状態の)職人もいれば、落語「真田小僧」の金坊のように、親を負かすぐらいの知恵者も居ます。また、落語「千早ふる」で百人一首の『千早ふる神代もきかず龍田川からくれないに水くくるとは』を珍解説する横丁のご隠居もいますが、その意味を知りたがったのは娘さんです。落語「桃太郎」では先に親を寝かしつけ、『親というのは罪がない』と、言わしめた御ガキ様もいます。


3.言葉
■赤紙付き手紙;急を要する書状に貼りつけた紙。速達。

許嫁(いいなずけ);双方の親の合意で幼少の時から婚約を結んでおくこと。また、その当人同士。広く婚約者をもいう。




  舞台の行徳を歩く


 江戸川は東京都と千葉県の県境を流れる川です。前回、落語「粟田口」で歩いた市川市は北部でしたが、今回は南部の市川市です。ここ南部の市川市は、その南にディズニーランドを抱える浦安市と境を接しています。行徳の町から見て対岸の江戸川区は目と鼻の先にあります。地下鉄東西線はこの町の中心を縦断しています。東西線が走る所は、江戸時代塩田があった所で、現在も富浜、湊新田の町の上を通過しています。そうでした、東西線はここ市川では地上の、というより高架上を走っていて、都内に入ってから地下に潜ります。東西線のお陰で、宅地化が進んで、都心に一本で行ける最良のベットタウンと化しています。過去に塩田があったなんて、思いも寄らない新住民も多いでしょう。
 行徳の街は江戸川沿いに走る行徳街道が町の中では古い街並みで、南に塩田を持ち、塩田を廃止してからは埋め立てが急速に進み、町が2倍にも3倍にも大きくなりました。それでも海との関わり合いがあって、海苔の生産は、最近まで続けられていましたが、工業化の波には勝てず撤退しています。

 その塩田の名残を見付けたく、歩き回ってもどこにも見付けることは出来ません。それも当然、埋め立てが進んで、みんな宅地になってしまったからです。江戸川べりに残る、新河岸跡の常夜灯、笹屋うどん店跡、加藤邸、田中邸とその前を走る街道に、当時の面影をわずかながら残しています。
 市川市の歴史館に聞いても、現地には何も残っていないと言う返事です。寂しいことです。資料は市川の北部、それも最北端の市川歴史博物館にしかありません。ここの市川歴史博物館で資料や説明を受けました。ありがとうございました。

 旧家の加藤邸の屋根裏には今でも避難用の和船がのっています。江戸時代の行徳・新河岸の絵図を見ると、地面と川の水面とはわずかしか有りません。大水が出れば街中が水没するのは目に見えています。現在は江戸川上流に放水路が出来て海に直接流れ込んでいますし、土手が出来て町を守っています。風情が消えた代わりに、安全が担保されたのでしょう。常夜灯があるところが、常夜灯公園に整備されて、憩いの場になっていますが、殺風景すぎて利用者は多くありません。


地図

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 文化の街かど回遊マップ 行徳・妙典地区編 市川市文化国際部文化振興担当発行のパンフレットより

写真

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笹屋うどん店跡(市川市本行徳36)市川市景観賞受賞
 現在でも安政元年(1854)に建てた店が残っています。笹屋うどんは「快晴の時を選んで干し、味は素晴らしく良く、実に長くてほめ賞すること限りなし」と言われていました。当時の旅人が船を待つ間に笹屋で一休みし、土産に干しうどんを持ち帰った様子が感じられます。

加藤邸(市川市本行徳34)市川市景観賞受賞
 行徳街道に面した塩問屋の加藤邸です。平成22年4月の加藤家住宅・煉瓦塀の歴史的建造物が国登録有形文化財に登録された。平成22年10月、市川市はこの登録の際に文化庁から交付をうけた青銅製プレートを加藤家住宅に設置した。

常夜灯(市川市本行徳34先江戸川土手)
 行徳河岸に開かれた、新河岸にあった常夜灯です。江戸時代の絵にも描かれたもので、江戸の成田講中が文化9年(1812)に航路の安全を祈願して高さ4.3mの常夜灯を建てました。現在この付近を常夜灯公園として整備されています。

新河岸跡(市川市江戸川土手)
 
常夜灯から見た江戸川の上流です。ここが、行徳塩の出荷港、新河岸があった所です。当時の絵図と違って高い土手に守られています。

江戸川(市川市江戸川土手)
 上記同じ所から下流を望んでいます。江戸への船は、ここを下って当代島手前を右に曲がって新川に入ります。

                                                                  2011年5月記

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