落語「姫かたり」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「姫かたり」(ひめかたり)
 

 江戸は浅草の暮れの市。今の午後の10時で四つ刻頃。参詣に来ていた女が、実に良〜〜い女。お忍びで来ているであろう何処かの大名の姫君らしく、歳が十九ぐらいで本当の美人、小野小町を彷彿させた。

 この姫君が参詣を終わって歩き出したが、顔色悪くして胸を押さえて、しゃがんでしまった。お伴に手を引かれ、二天門を出た左側に”吉田玄龍”(げんりゅう)と言う医者の看板を見付けて、姫を担ぎ込んだ。医者も様々で、この医者は金を貸し付けては稼いでいた町医者で薮。
 「さる大名の姫君である。お苦しみなので診てもらいたい」、姫君と聞いて儲けが頭の中に浮かんだ。
隣の部屋に入って診察を始めた。美人は苦しがっていても、なお美しく見えた。脈を取っていると、首を傾げて、医者の方に寄りかかってきた。麝香(じゃこう)の香りと白粉、髪油の匂いが混じり合って鼻腔から脳天へ刺激、えも言われぬ色っぽさ。前後を忘れて、思わず抱き寄せようとすると、とたんに姫が「あれーッ!」と悲鳴を上げた。

 隣で控えていた侍が飛び込んで、「何をするか」、「い、いえ、何も・・・」、「無礼だ。姫様、何がありましたか」、「この医者はわらわを抱きしめて・・・」、「不届き至極。これが殿の耳に入ったら、拙者は切腹ものだ。そなたを手打ちにする。そこに直れ」、「そ、それだけはご勘弁下さい」。姫君に粗相をしたのだから仕方がない。「しからば」、「どの様にすれば」、「帰ればこのことが噂になる。みんなに口止めをしなくてはならない。口止め料、200金だ」、「200両ですか」。命に変える宝は無いから、渋々200両をそこに出すと、侍は懐にねじ込んだ。

 その途端、二人の態度がガラッと変わり、「おい、姫君、帰ぇろうじゃねぇか」、「こんなもの着ていると、窮屈でしょうがねぇや」、その着物を脱いで、結城木綿の袷わせに八反の三尺を締めて唐桟の半纏を着て、濃紫の手ぬぐいで頬被りをし、尻をはしょって、「えぇ、とんだ弁天小僧だ。髷も島田に由比ヶ浜って、これか。おい、てめぇ、これから若い娘さんが来たら、変なことするなよ。さぁ〜、出掛けようぜ」。

 表に出ると、浅草は観音の市で大賑わい。新年のお飾りの売り声も「市ぁまけた、市ぁまけた、注連(シメ)か、飾りか、橙(ダイダイ)かぁ〜」と、がなり立てている騒々しさ。それを後ろから聞いていた医者が、見送りながらため息をついていると、「医者負けた。医者負けたぁ〜」と聞こえる。思わず、
「あぁ!、姫(注連)か、かたり(飾り)か、大胆(橙)な」。

 


1.歳の市
『江戸の歳時風俗誌』(講談社学術文庫)を見ると、歳末の有名な歳の市として、
  14、15日    深川富岡八幡宮境内
  17、18日    浅草観世音境内
  20、21日    神田明神社境内
  22、23日    芝神明宮境内
  24日       芝愛宕山権現下
  25、26日    麹町平河天神宮境内
とあります。
 今では開かれなくなった神社が多い中、12月27・28・29日は納めの不動・歳の市といって、川崎大師の東京別院・薬研堀不動院(中央区東日本橋2−6)で開かれます。ここは現在でも近くの洋品店、洋品問屋の歳末セールが道イッパイに開かれます。

 

 「12月18日 歳の市」 江戸名所図会より 浅草観音堂

 「浅草金龍山市の図」豊原国周(くにちか)画

 「東都名所遊観 極月(しわす)浅草市」 歌川国貞画 江戸東京博物館蔵
 この時期雪が降る寒さでお面をかぶる子供が可愛い。また、小僧に土産や火吹き竹を持たせている。

浅草観音(台東区浅草・浅草寺)の歳の市は、
 江戸時代、毎年12月17・18日に正月用品や縁起物を売る店が境内に集まり「歳の市」と呼ばれ、それらを毎年この市で求めることを吉例とした人々で賑わう江戸随一の市としてその名が知れ渡っていた。
 現在この「歳の市」は、「羽子板市」としてその形をとどめて12月17・18・19日に開かれています。
12月18日の「納めの観音」は浅草寺一年の締めくくりの縁日。

注連縄(しめなわ);飾られている室内のお宮さんに掛ける”注連縄”。正月用に新しいのと取り替える。また、新年には門松として飾られる。
お供えの飾りに使う、”お飾り”、”橙”(だいだい)は代々に通じ鏡餅の上に飾られる。
右写真;浅草ガサ市にて、注連縄売り。写真をクリックすると大きくなります

  

2.弁天小僧
 弁天小僧は、日本駄右衛門をはじめとする盗賊団「白浪五人男」のひとりで、女に化けて呉服屋の店先で強請(ゆすり)をはたらく。 「知らざあ言って聞かせやしょう」と彫り物を見せる浜松屋の場と、五人男が勢ぞろいする色彩鮮やかな稲瀬川の場が有名。時代物と世話物の両要素を含む名作。

右錦絵;赤い肌着に赤い鹿の子の髪飾り、タンスに腰を掛け、抜き身の刀を床に刺して、手酌で飲んでいる女装の盗賊。 じつは弁天小僧のオリジナル。
 人気絵師の歌川豊国が、これも人気俳優岩井をモデルにして描いた。この絵を下敷きに舞台に乗せた。

 文久2年3月江戸・市村座で初演時の「青砥稿花紅彩画」における、十三代目市村羽左衛門(後の五代目尾上菊五郎)の弁天小僧。武家娘に変装した弁天小僧は、供侍に扮した南郷力丸とともに呉服商浜松屋を訪れ、万引きしたと店の者に疑わせて額に傷を受け、それをネタに百両の金をゆすり取ろうとする。しかし、その場に居合わせた黒頭巾の武士に男であると正体を見破られる(実はその武士も弁天小僧の一味の日本駄右衛門)。島田髷で振袖という可憐な娘姿から、一転して刺青を露わにし開き直った弁天小僧。
 では、その時の名啖呵をお聞かせしましょう、 

知らざあ言って 聞かせやしょう
浜の真砂と 五右衛門が
歌に残せし 盗人(ぬすっと)
種は尽きねェ 七里ヶ浜
その白浪の 夜働き
以前を言やァ 江ノ島で
年季勤めの 児ヶ淵(ちごがふち)
江戸の百味講(ひゃくみ)の 蒔銭(まきせん)
当てに小皿の 一文字
百が二百と 賽銭の
くすね銭せェ だんだんに
悪事はのぼる 上の宮(かみのみや)
岩本院で 講中の
枕捜しも 度重なり
お手長講と 札付きに
とうとう島を 追い出され
それから若衆(わかしゅ)の 美人局(つつもたせ)
ここやかしこの 寺島で
小耳に聞いた 祖父(じい)さんの
似ぬ声色(こわいろ)で 小強請(こゆすり)かたり
名せェ由縁(ゆかり)の 弁天小僧
菊之助たァ 俺がことだァ。

 

 白波五人男「稲瀬川勢揃いの場」 文久2年 (1862) 三月江戸市村座初演時の役者絵。三代目歌川豊国 画、大判3枚続物。
 左から三代目關三十郎の日本駄右衛門、初代岩井粂三郎の赤星十三郎、四代目中村芝翫の南郷力丸、初代河原崎権十郎の忠信利平、一番右、十三代目市村羽左衛門の弁天小僧菊之助。 

この場面での一人ずつ「渡り台詞」で見得を切ります。菊之助の名台詞、
 「さて其の次は 江の島の、 岩本院の 児(ちご)上がり、 平生(ふだん)着慣れし 振袖から、 髷(まげ)も島田に
 由比ヶ浜、 打ち込む浪に しっぽりと、 女に化けた 美人局(つつもたせ)、 油断のならぬ 小娘も、 小袋坂(こぶくろざか)に 身の破れ、 悪い浮名も 竜の口、 土の牢へも 二度三度、 だんだん越える 鳥居数、 八幡様の 氏子(うじこ)にて、 鎌倉無宿と 肩書も、 島に育って 其の名さえ、 弁天小僧 菊之助ェ」。

 
 3.言葉
■美人(びじん);顔の真ん中に鼻がある女。なかなかこの様な顔の女性は居ない、微妙にどちらかにずれているものだという(志ん生)。「唐土(もろこし)の楊貴妃はなんのその、普賢菩薩の再来か、常盤御前か今朝御前、お昼御前は今済んだ」と言う美人。美人の代表は小野小町にトドメを刺すが、あまたの男をソデにして、晩年奥州で行きだおれた。人間いつまでも若くは無いと悟ったときは遅かった。

 楊貴妃;唐の玄宗の妃(719〜756)。名は玉環。才色すぐれ歌舞音曲に通じて、玄宗の寵を自分のものにし、楊氏一族も顕要の地位を占めた。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。安史の乱で、馬嵬(バカイ)駅の仏堂で殺された。現在の美女の基準と違う豊満な姿態の美女であった。

 普賢菩薩;仏の理法・修行の面を象徴する菩薩。文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍(きょうじ)で、白象に乗って仏の右側に侍す。一切菩薩の上首として常に仏の教化・済度を助けるともいう。普賢菩薩は元々女性であり、そのため女性の姿で描かれることが多い。また、女人往生を説く『法華経』の守護神でもあることから、女性からの信仰を集めた。

右図;東大寺の釈迦三尊像。正面に釈迦如来、左脇侍(向かって右)に騎獅の文殊菩薩、右脇侍に乗象の普賢菩薩を配する例が多い。

 常盤御前;平安末期の女性。もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕。源義朝に嫁し、今若・乙若・牛若を生む。平治の乱に義朝敗死後、大和に隠れたが、六波羅に自訴、子供の命乞いのため平清盛になびき、のち藤原長成に再嫁した。常盤御前。生没年未詳。

 小野小町;平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。出羽郡司小野良真の娘ともいう。歌は柔軟艶麗。文屋康秀・僧正遍昭らとの贈答歌があり、仁明・文徳朝頃の人と知られる。絶世の美人として七小町などの伝説がある。
 右図;狩野探幽画「小野小町」
『色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける』 古今集

町医者で薮(やぶ);町医者と呼ばれる市中で開業している町医から、各藩のお抱え医、幕府お抱えの御典医まで、その種類、身分、業態は様々であった。町医者も歩いてくる徒歩(かち)医者と駕籠に乗ってくる乗物医者がいて、当然駕籠付きの方が薬礼は高かった。普通の職人達より収入が高かったので、なり手が多くいたが、中には未熟者がいて、「あの医者にかからなければ死ななかったのに」と言う医者も出てくる。その様な半人前の医者を薮と言った。

売り声(うりごえ);暮れの歳の市では大きな声で売り子がはやし立てていた。
「市ぁまけた、市ぁまけた。注連か、飾りか、橙かぁ〜」。医者は自分の心もちから、別の意味に捉えた。
「医者負けた。医者負けたぁ〜。あぁ!、姫(シメ)か、かたり(飾り)か、大胆(ダイダイ)な」。
 落語「紀州」で、鍛冶屋の鎚の音を「天下と〜る。天下と〜る」と聞こえて幸先が良いと思っていたら、帰り道「紀州〜」と聞こえた、と言うのと同じです。

麝香(じゃこう)の香り;香料の一種。ジャコウジカの腹部にある麝香嚢(ノウ)から製した黒褐色の粉末で、芳香が甚だ強く、香に用い、薬料としても使う。主に中央アジア・雲南地方などに産する。動物性の香料は非常にセクシーで異性を強く引きつける香りを出す。

二天門(にてんもん);本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建つ。重要文化財指定。本瓦葺、切妻造り、木造朱塗り八脚門に、増長天(左)・持国天(右)の二天を祀り、「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美(さんじょうさねとみ 1837〜91)筆。元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立された。東照宮は焼失し随身門だけ残ったが、二天門として浅草寺の門として蘇った。

右図;「浅草寺 二天門」
酒井不二雄画 1978.3

結城木綿(ゆうきもめん);結城紬に擬して織った木綿縞織物。下野国(栃木県)足利に始まる。結城。足利結城。めんゆうき。

袷わせ(あわせ);裏が付いた着物。裏のない夏着は単衣(ひとえ)。

八反の三尺(はったん_さんじゃく);八端掛。八丈島産の絹織物の一。合せ糸を撚りあわせた綾織。1反の値が黄紬の8反に相当するからの称という。また、仙台から産出した良質の絹糸織。それで出来た3尺の長さの帯。
 右図;火消しが半纏に巻いている帯が三尺。

唐桟の半纏(とうざん_はんてん);唐桟は江戸時代、東南アジアからもたらされた縞木綿のことで、特色は、平織りで、極めて細い双糸を使うことで、木綿でありながら、絹そっくりの風合いを持っています。
 江戸時代、エキゾチックな縦縞の「唐桟」は、粋で、人気を博しましたが、それは大変に値段が高く、庶民には手が届かなかった。 ところが、どうしても紡げなかった極めて細い木綿糸が、産業革命以後の欧米諸国から安く輸入できるようになり、 川越の機(はた)屋に「唐桟」を織らせました。これが川越唐桟のはじまりで、川越唐桟(川唐)といわれ、人気を得た。 現在は桟留縞の総称。

 半纏は、上着の一種で、主として江戸時代から用いられ、職人が着る印半纏の略。羽織に似ているが、実生活むきに簡略化されて、腋(わき)に襠(まち)がなく、丈もやや短めで胸紐をつけず、襟も折りかえさないで着るもの。
右図の火消しが着ているのが半纏。江戸生活図鑑 笹間良彦著 




  舞台の歳の市を歩く


 浅草寺では1年間にわたって、いろいろなイベントを行っていますが、この歳の市が1年最後の納めの市になります。しかし、本堂の裏側で非公式にガサ市が16〜25日(23年実績)実施されています。これは、街中で売られる注連縄飾りの小屋に卸すために開かれているもので、我々一般の観光客(?)用のイベントとは違います。

 歳の市が名前を変えて「羽子板市」として12月17日〜19日まで開かれますが、その初日は小雨がパラツクあいにくの天気です。夜になればもっと条件が悪くなるので昼間に出かけましたが、やはりお客さんの出は芳しくありません。それより、数年前と比べると出店数が少なく寂しい限りで、お客さんも本気で買い求める気が無いようです。それもそのはず、私などは恐くて値段も聞けませんし、羽子板は飾り物ですから、これで羽根突きをやったら、作り物がバラバラになってしまうでしょう。冬の風物詩としての羽子板市になってしまって、生活の中に溶け込めずに店の数を減らしています。
 それよりも、本堂の反対側には食べ物屋の屋台がズラリと並んで、縁日気分を盛り上げています。

 本堂裏側では、注連縄飾りの問屋さんが店を開いています。3年前まではヨシズ張りの小屋の中に注連縄などの正月用品が並んでいました(右写真)が、現在は工事現場で使う、プレハブ小屋の中に全て収まっています。冬の寒さは小屋の中に入ればしのげるが、過日の風情は無くなってしまったと、業者さんも言っています。
 羽子板を売る店は、昔通りのヨシズ張りですが、寒さという敵には負けそうです。

 歳の市はこの噺のような賑やかさはありませんし、「市ぁまけた、市ぁまけた。注連か、飾りか、橙かぁ〜」などという、掛け声は何処からも聞こえてきません。夜は9時半で終わってしまいますから、深夜まで雑踏が続くと言う事も有りません。


地図

  浅草寺公式ホームページより

 地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

宝蔵門(仁王門)
 仲見世の突き当たりに有る、浅草寺の山門。内部二層のうち階上には収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として、大谷重工業・ホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏の寄進により復興再建された。両脇に仁王、中央提灯が下がる向こうに本堂が見える。
夜の宝蔵門

本堂
 本尊の聖観音像を安置するため観音堂。大空襲で焼失し、現在の堂は昭和33年(1958)に再建されたもので鉄筋コンクリート造。間口:34.5m、奥行:32.7m、面積:350坪、その中に御宮殿があり、秘仏本尊聖観世音菩薩、慈覚大師作のお前立ご本尊が奉安されている。
夜の本堂

二天門(浅草寺東門)
 元和4年(1618)に建立、当初は境内にあった東照宮の随身門であった(建立年月については諸説あり)。
同じく元和4年に造営された「東照宮」は寛永8年(1631)と同19年(1642)の二度の炎上後、江戸城内紅葉山に遷座された。
現在の門は、その形式と技法より、慶安2年(1649)頃に建立されたと言われる。「夜の二天門

二天尊
 増長天(左)・持国天(右)(慶安時代作・都重宝)は、四天王に数えられる仏さまである。四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られる。増長天は南方、持国天は東方を守護するとされ、仏舎利を収める仏塔やお釈迦さまの周囲に安置される例が多い。
 元来は全身に華やかな彩色が施されており、今でも顔や鎧(よろい)に古来の鮮やかさが残されている。

浅草寺ガサ市(浅草寺境内裏)
 暮れも押し迫ってから、街の注連縄売りに卸すヨシズ張りのお店が浅草寺本堂裏に並びますが、現在はご覧のようなパックハウスです。一般のお客対象で無く、街中の注連縄売りに卸すのが目的ですから、賑やかさはありません。2階には倉庫代わりに使われています。

羽子板市(浅草寺境内本堂前)
 12月17・18・19日浅草境内で開かれる恒例の羽子板市。文字通りこの歳最後の市で、次のイベントは大晦日の除夜の鐘から正月の初参賀です。

二天門を出た所
 表の通りが馬道だったので、昔は、浅草南馬道町と呼ばれていましたが、現在は浅草二丁目の一画となってしまいました。
 写真奥に二天門が見えます。「夜の雷門」、「夜の仲見世

花川戸(台東区花川戸)
 上記の交差点背中方向を見ています。修学旅行生や都内見学の観光バスが止まる、助六で有名な花川戸という街です。その先には隅田川(見えませんが)を越えて、東京スカイツリーが望めます。

薬研堀不動院歳の市(中央区東日本橋2−6)
 
12月の27・28・29日ですから、行ってきました。雨が降りそうな天気なので、市そのものの客足がイマイチ、寒い中の市です。両国橋西詰め、両国広小路隣にあり、小さなお不動さんですが、地元に密着して愛されています。浅草寺に負けない屋台の数です。

                                                                  2012年12月記

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