二代目三遊亭円歌の噺、「高野違い」(こうやちがい)によると。
1.六玉川
(むたまがわ)
井出の玉川は、山城の国の玉川、現在の京都府綴喜郡井出町を流れる川である。山吹の名所であり、浮世絵にも、山吹の咲く浅流を乗馬する様子などが描かれた。
野田の玉川は、陸前国の玉川、現在の宮城県宮城郡母子川の末流で、別名「千鳥の玉川」と呼ばれている。砂浜を飛ぶ千鳥の群れなどが浮世絵に描かれている。
野路の玉川は、近江国の玉川、現在の滋賀県草津市野路にあり、琵琶湖にそそぐ小川で、別名「萩の玉川」と呼ばれ旅人たちの憩いの場だったと言われている。萩の花の咲く川に、月を投影した様子などが浮世絵に描かれた。
調布の玉川は、武蔵国の玉川、現在の東京都調布市の多摩川。綿織物の名産地で、女性が河畔で布さらしをしている様子などがよく描かれている。
高野の玉川は、紀伊国の多摩川、現在の和歌山県奥院大使廟畔の小流である。また、死者生前の罪業を払う、流れ灌頂が行われる川である。鉱毒が流れていて毒水の川と言われた。浮世絵としては高野山中の渓流などが描かれている。
上図;左、北斎「調布の玉川」。中、北斎「高野の玉川」 江戸東京博物館蔵。北斎と広重では雰囲気がずいぶん違います。 2011.10.追記
2.百人一首
『秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ』
■僧正遍昭(そうじょう へんじょう 右図);平安初期の僧・歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。大納言安世(桓武天皇の皇子)の子。俗名、良岑(ヨシミネ)宗貞。仁明天皇の寵を蒙り蔵人頭となったが、天皇崩御後出家、円仁・円珍に天台を学び、京都に元慶寺(ガンギヨウジ)を創設、僧正となる。流暢な歌を詠み、小野小町との贈答は有名。花山僧正。(816〜890)
『あまつ風雲のかよひぢ吹とぢよ乙女のすがたしばしとどめむ』
■周防内侍(すおうないし);平安後期の歌人。周防守平棟仲の女(ムスメ)。本名、仲子。後冷泉・後三条・白河・堀河天皇に仕える。天仁・天永(1108〜1113)の頃没。家集「周防内侍集」。
『春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ』
■赤染衛門(あかぞめ
えもん);平安中期の女流歌人。中古三十六歌仙の一。父は赤染時用(トキモチ)、実は平兼盛と伝える。大江匡衡(オオエノマサヒラ)の妻。藤原道長の妻倫子に仕え、歌で和泉式部と並び称せられた。家集「赤染衛門集」。「栄花物語」正編の編作者説も有力。1041年(長久2)当時、85、6歳で存命。
『やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな』
■右近(うこん);平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛関係があった。960年(天徳4年)と962年(応和2年)の内裏歌合・966年(康保3年)の内裏前栽合(だいりぜんざいあわせ)などの歌合に出詠、村上天皇期の歌壇で活躍した。
『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に入集している。生没年未詳。
『忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな』
『めぐり逢てみしやそれ共わかぬまにくもがくれにし夜半のつきかな』
☆落語の中では超一級の有名歌
■崇徳院(すとくいん);平安後期の天皇。鳥羽天皇の第1皇子。名は顕仁(アキヒト)。初め讃岐院。父上皇より譲位させられ、新院と呼ばれる。保元の乱に敗れ、讃岐国に配流、同地で没す。(在位1123〜1141)(1119〜1164)。
『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ』
落語「崇徳院」
■在原業平朝臣(ありわらの なりひら
あそん);平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一。阿保親王の第5子。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の題材ともなった。(825〜880)
『ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは』 落語「ちはやふる」
3.千住の天王
■千住天王(素盞雄神社。荒川区南千住6−60);開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が御創建されました。 ■蔵前の団子天王(須賀神社。台東区浅草橋2-29);天照大御神の弟で八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治した事でも有名な、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神と祀る。創建壱千数百年を経る古社で、江戸十社に入った神社。素戔嗚尊の別称を牛頭天王と言った。社名も牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社といろいろ呼ばれ、そこから地元の町名を天王町と言われた。また、橋名も俗に天王橋と呼ばれた。明治に入って、神仏分離令によって須賀神社と改名。地名も須賀町となり、橋名も須賀橋となった。
■品川のカッパ天王(荏原神社。品川区北品川2-30)。南の天王祭(かっぱ祭り);和銅2年(709)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高神(龍神)を勧請し、長元2年(1029)9月16日に神明宮、宝治元年(1247)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っています。明治元年には、准勅祭社として定められました。神祗院からは府社の由来ありとされました。現在の社殿は弘化元年(1844)のもので、平成20年で164年を迎えました。 天王祭は、素戔雄尊が水神様でもあり、「かっぱ」が水神様の使いであることから、祭礼に参加する崇敬者たちを「かっぱ」になぞらえ、俗称として「かっぱ祭り」と呼ばれるようになりました。
■調布(ちょうふ);東京都調布市。六玉川では調布に接する玉川(多摩川)。
4.言葉
上記の地図は昭和5年やっちゃばの問屋配置図。下図は大正初期の風景。どちらも街道の説明板より。
■紺屋(こうや);染め物屋。
■紫色;色の一つ。バックの色が近い色(色見本によって若干違う)
■えび茶色;色の一つ。バックの色が近い色(色見本によって若干違う)
■スオウ色;色の一つ。バックの色が近い色(色見本によって若干違う)
■ウコン色;色の一つ。バックの色が近い色(色見本によって若干違う)
■赤;色の一つ。バックの色が近い色(色見本によって若干違う)
舞台の天王社を歩く
北から千住の天王社。正式名称、素盞雄(すさのお)神社。南千住で降りると前の通りが山谷通り(旧奥州道中)、左手に処刑場の小塚原(こづかっぱら)、現在はその跡に回向院が建っています。右手(北)に向かうと、左から来る国道4号線日光街道に合流します。その合流点の向かい側に素盞雄神社が有ります。古くからの神社なので鬱蒼と木立が囲み日光街道の騒音が伝わりません。本殿前には茅の輪が飾られ夏の様相を呈しています。ここは説明板が多くあり、それを読んでいるだけで内容が把握出来ます。
素盞雄神社を出て、北に行くと直ぐの所に隅田川が流れています。芭蕉が船を下りた地であり、また日光街道を渡す橋が千住大橋です。最初の橋は徳川家康が江戸に入って4年目の文禄3年(1594)に、初めて隅田川に架けられた。長さ66間(約120m)巾4間(約7m)の木橋であった。現在の橋は関東大震災復興事業で、昭和2年(1927)架けられ、交通量の増大で隣に昭和48年(1973)新橋が造られ、旧のアーチの付いた大橋は下り専用になった。
橋を渡った右側に、噺の中の「やっちゃば」が有ります。現在「足立市場」と呼ばれ、やっちゃばの青果部門は足立区の北部に移転し、やっちゃば抜きの魚専用の市場になってしまいました。築地市場の規模も商い金額もざっと1/10だと言います。朝の4時ぐらいならマグロのセリも見学自由だと言いますが・・・、起きられるかどうか。
浅草橋にある天王社。正式名称、須賀神社。 浅草橋駅から江戸通りを北に200mも行くと左側にあります。先程の素盞雄神社と比べると(比べてはいけませんが)、小さく境内の奥行きもありません。ここは浅草橋御門から浅草に抜ける幹線道ですから、落語の世界では良く通る道です。江戸時代は浅草天王町と呼ばれ、落語「後生鰻」ではその先、天王橋際の鰻屋の噺です。天王橋は須賀神社の前名の天王社から来ていますが、後には須賀橋と呼ばれていましたが、川が埋め立てられて橋が無くなり、交番の名前にその名が残っています。
品川の天王社。正式名称、荏原神社。品川駅から京急で二つ目の駅、目黒川の上に架かった「新馬場」で降りると、京急と平行に走る第一京浜国道と交差する山手通りを東にはいると、右側に品川図書館があります。その先を右に入って川沿いに東に向かうと荏原神社入口です。図書館の前を行きすぎると、右側に神社の木立が見えますが入るところが何処にもありません。その先の旧東海道から入る事も出来ません。見えるのにな〜〜。目黒川に出て、品川橋を渡らず手前の川岸を入ると、図書館側から入ってきた鳥居が見える入口です。炎天下部外者を困らせる道順です。通り抜けさせたくないための結果でしょうが、根性が小さい。
帰りは旧東海道に出て、品川宿の雰囲気を楽しみながら品川駅に向かいます。
六玉川の調布に行きます。写真取材時は梅雨で天気が定まりません。しかし、最近よく当たる天気予報によると「午前中は雨が残るところもあるが、午後から太陽が覗き熱くなる」ことを信じて出掛けました。自宅を出る時は曇りで雨は予想していませんし、多摩川の川原を歩くので雨に降られたら大変です。電車に乗って調布に近づくに従って路面は濡れているし傘を差す人が居ます。京王多摩川駅に着いた時は霧のような雨です。傘を買いにコンビニまで行くと雨もあがって、取材日和になってきました。天気予報を信じる私ですから、買わずに素通りして土手上に出ると気分は最高、雨が降りそうですが、歩き始めました。
東海道品川新宿入口に建つ案内板より それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
2011年8月記 |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||