落語「加賀の千代」の舞台を歩く
   

 

 三代目桂三木助の噺、「加賀の千代」(かがのちよ)によると
 

 暮れも押し詰まって大晦日。それなのに金策が出来ていない甚兵衛亭主の尻をたたく女房。無いものはないとケロッとしている亭主に、ご隠居さんの所で借りておいでとけしかける。
 「ご隠居さんはお前が可愛くてしょうがないから、貸してくれるよ」、「子供でも無いのにかい」、「犬や猫を可愛がる人は膝に乗せたり胸に入れたり子供以上だ。生き物だけでなく植物だって同じで、朝顔だって同じだよ」、「植木鉢を膝に乗せたり胸に入れたり?」、「昔、加賀に千代という歌の上手い女性が居た。お殿様の耳に入り伺候(しこう)する事になった」、「四光は難しいぞ」、「花札と違うよ。殿中に上がりお殿様と対面したら、着物の紋が目に入った。紋は梅鉢であったので句を詠んだ『見やぐれば匂いも高き梅の花』。たいそうお褒めの言葉をいただいた。そのぐらい歌が上手かった」、「朝顔は何処に」、「ある朝、水を汲みに入ったら、井戸端に朝顔が巻き付いて花を咲かせていた。水が汲めないので近所に水をもらいに行った、その時に詠んだ句が『朝顔につるべ取られてもらい水』、朝顔だって可愛がる人が居る。ご隠居さんがお前を可愛がるのに不思議があるか」、「俺は朝顔か」。

 「どれだけ借りてくれば良いんだ」、「20円」、「20円もか。ホントはいくらあれば良いんだ」、「8円5〜60銭有れば良いんだが、20円と言って『そんなには貸せないから半分』と言われても何とかなるだろが、それを10円貸してくれと言って半分の5円では”帯に短しタスキに長し”だろ。特に今日は手土産の饅頭を持っていかないとね。手土産を持ってこられたら手ぶらでは帰せないだろ」。出来た女房に追い出されて、ご隠居の所に。

 待っていたから上がれ、上がれと歓待するご隠居さんです。「様子を見れば分かる。いくら欲しい」、「今月はいつもと違うので、ビックリするな、20円」、「ビックリするなと言うと120円か」、「話の分からないご隠居さんだな」、「では、220円か」、「怒りますよ」、「足りなければ本家に電話するから。で、本当はいくらなんだ」、「8円5〜60銭」、「バカ野郎。それなら最初から8円5〜60銭と言いなさい」、「それは素人。最初から8円5〜60銭と言って半額の5円になったら”帯に短しタスキに長し”になってしまう」、「では10円」、「アリガトウ。やっぱり朝顔だ」、「その朝顔とは何だ」、「『朝顔につるべ取られてもらい水』だ」、「チョと待ちなさい。『朝顔につるべ取られてもらい水』?解った。加賀の千代か」、
 「う〜〜ん、嬶(かか)の知恵」。  



1.加賀の千代
 
元禄16年(1703)〜安永4年(1775)9月8日。江戸中期の女流俳人(右図)。加賀国松任(今の白山市)に生まれる。経師表具師福増屋六兵衛の娘。母は村井屋の娘つる。幼名はつ。号は素園、草風。12歳ごろ同国本吉の北潟屋に奉公に出、主人岸弥左衛門(俳号は半睡、のち大睡)に俳諧を学ぶ。17歳の享保四年(1719)北陸地方巡遊中の芭蕉十傑の一人、各務支考*1(かがみしこう)に教えをうけ、秀句を詠んで人々を驚かせたという。
 18歳で金沢藩足軽福岡弥八と結婚、一児をもうけ早く夫と子に死別したというが確証はなく、未婚説もある。
 23・4歳のころ京に上り、さらに伊勢に麦林舎乙由*2(ばくりんしゃ_おつゆう。中川乙由)を訪ね師事する。25歳で実家に戻ったという。とかく伝説が多く、確証のあるのは少いが、美女であった。
 宝暦3年(1753)50歳の時、剃髪して千代尼と呼ばれ、素園と号した。また画を越後の呉俊明に学び一家をなした。「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」に代表されるように、理知的で平俗な作風で名声を得た。生前に刊行した『千代尼句集』(宝暦13年)、『四季帖』(自選70句収載、明和5年)、『松の声』(同8年)の句集がある。千代の作と伝えられる「渋かろか知らねど柿の初ちぎり」、「蜻蛉釣り今日はどこまで行たやら」、「ほととぎすほととぎすとて明けにけり」などは良く知られているが、いずれも伝説的なもので、夫との死別後に詠んだという「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さ哉」の句は千代の生れる九年前に遊女浮橋の句とされている(『其便』元禄7年)。「ほととぎす・・・」の句は『蓮の実』(元禄4年)、『伊達衣』(元禄12年)に見られる調和の句「子規子規とて寝入りけり」が付会されたものであろう。安永4年(1775)73歳で死没。法名は釈尼素園。墓所が不明なため、24年後、寛政11年(1799)松任町聖興寺に辞世の句碑が建った。追善集に『長月集』、『後長月集』がある。
 「日本女性人名辞典」日本図書センター発行より。年号、読み等は付記した。

 *1 各務支考(かがみしこう)。寛文5年(1665)〜享保16年(1731)。享年67歳。美濃の生まれ。芭蕉一門の論客として俗語平談を旨として風姿風情を平易に説き蕉風の地方普及に尽力。美濃派の祖となった。元禄7年(1694)10月大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で、芭蕉の遺書を代筆するなど、臨終を看取る。
 「鳥のねも絶ず家陰の赤椿」(炭俵)
 「卯の花に扣ありくやかづらかけ」(炭俵)
 「夕貌の汁は秋しる夜寒かな」(炭俵)
 「杉のはの雪朧なり夜の鶴」(炭俵)
 「うき恋にたえてや猫の盗喰」(續猿蓑)

  *2 麦林舎乙由(ばくりんしゃ_おつゆう。中川乙由)。代表作「浮き草や今日は向こうの岸に咲く」、遊女に実がないさまをいう。その日その日で愛想を振りまき相手がころころ変わる。商売女というのはそもそもそういうものなのであるから、嫉妬するのは了見違いというもので、だますが稼業の女郎だ。川柳でなく俳句にするなんて・・・。

千代女の代表的な句を
 「朝顔に つるべ取られて もらい水」(35歳の時に、朝顔や〜 と詠み直される)
 「あさ顔や蝶のあゆみも夢うつゝ」
 「朝顔や宵から見ゆる花のかず」
 「あさがほや帯して寝ても起はづれ」
 「朝がほや宵に残りし針仕事」
 「月も見て 我はこの世を かしく哉」 辞世の句
 「蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら」 まるで一茶を連想させます。
 「行春の尾のそのままの杜若(カキツバタ)」
 「稲妻の裾をぬらすや水の上」
 「池の雪鴨あそべとて明てありり」
 伊勢参道にて 「口紅粉をわすれてすずし清水かげ」 
 「何となき物のいさみやほととぎす」
 「昼顔の行義に夜は痩にけり」
 「あらたまりぬるいしぶみの御まへにささぐ」
 「石にしむことばのたねや梅の雨」
 「おなごども押してのぼるや山ざくら」
 「蝶々の何を夢見て羽づかい」
 「夕暮をよそにあづけて紅葉哉」
 千代女は生涯に千七百句を残しました。

千代女の里俳句館;(石川県白山市殿町57番地1) http://haikukan.city.hakusan.ishikawa.jp/index.html 

深川芭蕉記念館;(江東区常盤1-6) http://www.kcf.or.jp/basyo/index.html 

「朝顔に つるべ取られて もらい水」の舞台
 元和7年(1621)に麻布狸穴に開創された薬王寺は、寛文元年(1661)に現在の場所(三田4−8)に移転して来ました。俳人加賀千代は、諸国歴遊の途中に薬王寺の井戸水が霊水であるとの噂を耳にし、ここへ立ち寄りました。千代はここで、「朝顔に 釣瓶取られて もらい水」(朝起きて外へ出てみると、井戸の釣瓶に朝顔がからみついて咲いているので、それをちぎって水を汲むには忍びないと思い、そのままにして近所からもらい水をした)と詠みました。その井戸は現在も残っています。

 

2.加賀の殿様
 織田信長によって能登1国を与えられていた藩祖前田利家が、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に越中が与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された。
 加賀国石川郡にある金沢城(金沢市)に居城。外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍の偏諱を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領し、極官も従三位参議と他の大名よりも高く、伺候席も徳川御三家や越前松平家などと同席で御三家に準ずる待遇であった。
  江戸の屋敷は以下の通り。(江戸後期の屋敷地)
上屋敷:本郷、文京区本郷七丁目・東京大学本郷キャンパス。103,822坪の敷地を抱えていた。
中屋敷:駒込、文京区本駒込六丁目3〜10の六義園(りくぎえん)南隣。20,660坪。抱屋敷とも言う。
下屋敷:板橋、板橋区板橋一丁目、中仙道を挟んで北側三〜四丁目および加賀一〜二丁目を含む、217,935坪
     の広大な敷地で、石神井川は下屋敷の中を流れ、その流れから大池を屋敷の中に造ってあった。
 

3.電話機
天保8年(1837) モールスが電信機を発明
明治2年(1869) 東京・横浜で電報取り扱い開始(日本の電信創業)
明治9年(1876) グラハム・ベル電話機発明
明治23年(1890) 東京・横浜で電話開通(日本の電話創業)
明治32年(1899) 全国の電話加入者数1万突破
明治33年(1900) 新橋、上野両停車場構内に初めて自働電話(公衆電話)登場。
明治43年(1910) 全国の電話加入者数10万突破
大正11年(1922) 全国の開通加入者数40万人を超える。東京は8万人
昭和27年(1952) 日本電信電話公社発足
昭和43年(1968) 全国の電話加入数 1000万台突破。この年、東京23区でポケットベルサービス開始。
その後、全国の電話加入数 2000万を突破したのが1972年、3000万突破が1975年、4000万突破が1981年。
平成元年(1989) NTTになって、全国の電話加入数 5000万突破

 ご隠居さんが本家に電話をすると言っていますので、この噺は明治・大正以降の新作になるのでしょうか。
 もとは上方の噺で三代目三木助(小林七郎。1902年3月28日 - 1961年1月16日)が二十五.六の大阪修業時代に仕込んで持ち帰ってひろめた噺のようで、電話は三木助師匠のくすぐりのようです。


4.言葉
伺候(しこう);偉い人の所に参上して御機嫌をうかがうこと。

四光(しこう);花札合せの出来役のひとつ。松・桜・ススキ(月)・桐の20点札が揃ったもの。左の組み合わせ。
    
五光(ごこう。上右の組み合わせ)、花札合せの出来役のひとつで、四光に更に柳(雨)の20点札の加わったもの。四光より当然難しい。

梅鉢の紋;加賀藩の紋所(剣梅鉢。左。湯島天神もこの紋所)。単弁の梅花にかたどったもの。梅鉢・裏梅など種々ある。亀戸天神様の紋は変わり剣梅鉢(右図)。

帯に短しタスキに長し;物事が中途半端で役に立たないこと。ヒモでも帯に使えば短いし、タスキに使えば長すぎて中途半端な事。

本家(ほんけ);親の里。家もと。生家。

(かか);かかあ。庶民社会で、自分の妻または他家の主婦を親しんで呼ぶ言葉。

江戸時代の庶民の支払い;棒手振り=棒の両端に商品を吊り下げて売る行商人、以外の店を構えた商店では、支払いが盆暮れの、年2回の掛け売りでした。そこで、お盆に支払いを逃げられたとしても、除夜の鐘を聞くまでの暮れが押し詰まってくると、店側も目の色が変わって鬼のように取り立てて回ります。そんな暮れの支払い風景を踏まえて、お金のやりくりに走る長屋の住人達です。




  舞台の朝顔を探して歩く


 舞台の季節は暮れも押し迫った大晦日。寒い季節で、その上、懐も寒い甚兵衛さんですが、朝顔を懐に入れる心もちで歩きます。小学生が夏休みの宿題で成長記録を付けるのでも馴染みが深い朝顔です。東京では7月に恒例として開かれる、入谷鬼子母神の「朝顔市」も大震災のあおりを食って中止になってしまいました。江戸の風物詩の一つが無くなってしまったのです。また、花火大会も大所が軒並み中止になって、かろうじて隅田川花火大会が一月遅れで開催にこぎ着けました。震災に対してそこまで自粛をしていたら、みんなの心も経済も萎んでしまうでしょう。

 加賀の千代が名水を汲みに井戸端に立って、つるべを手に取ったところ可憐な朝顔がこちらを向いて咲いています。隣の井戸まで水を汲みに行かざるを得なくなった千代女ですが、その心遣いと手間が後世に千代女の名を残す名句が生まれるのですから、人生何処に何があるか分かりません。その井戸に行きます。

 第一京浜国道の下を走る地下鉄・都営浅草線、都心から行って三田の次、泉岳寺で降ります。泉岳寺は赤穂浪士四十七士の墓があるところで有名です。その山門に向かって歩きます。道は右に曲がっていますので、道なりに泉岳寺を左に見ながら坂道を登っていきます。上がると言うより、登の方が実感として伝わってきます。この坂を伊皿子(いさらご)坂と言います。フウフウ言いながら登り詰めた峠の頂上が、伊皿子交差点。左に曲がると東海大学の付属短大、高校・中学などが現れます。右に曲がれば、何処に行ってもお寺さんの一角で、尾根伝いの道は最後、NECのビル脇に出ます。この左右の道は尾根伝いに続く「月の岬」(月之見崎)と呼ばれ、芝浦の海から上がる月見の名勝地だったのです。交差点を真っ直ぐ行けば魚藍坂と名を変えて下っていきます。下り切ったところが桜田通り(第二京浜国道)で魚藍坂下と言います。


 伊皿子坂上から望む芝浦の海 明治の頃 幕末・明治古写真帳 新人物往来社より

 あれれ、目的地を通り過ぎていました。峠の伊皿子交差点に戻り、右側に渡って、以前スーパーだったその場所は工事中でしたが、今では新築の白いマンションが建ちました。そのマンションを右に見ながら、(魚藍坂方向に)マンションが終わった所の一方通行出口を右に入ります。右に入ると左側に目的の薬王寺が現れます。先程にも言いましたが、伊皿子坂の交差点は尾根道の頂上です。言い換えると尾根道の峠ですから、山門を入ると本堂は屋根しか見えません。山肌の途中に建っています。本堂まで階段を下りてきましたが、本堂の左側から、また階段を下りて墓地に入りますが、上から見ると正面奥に屋根の架かった所が朝顔の井戸です。現在は飲用出来ませんが、蛇口をひねると冷たくて気持ちがいい井戸水が噴き出します。
 お寺さんの演出で朝顔が植えられていますが、つるべに巻き付くほどではありません。写真にも成らない朝顔記です。この先墓地の坂下に見えるのが、お隣の「魚藍寺」で、井戸の脇の木戸を開けると魚藍坂に出られて、赤い山門から魚藍寺に入る事が出来ます。お分かりの方もいらっしゃるように、魚藍坂はこの魚藍寺から来ています。
 落語「徂徠豆腐」で荻生徂徠の墓を訪ねたのも、魚藍坂下を右に曲がった長松寺です。

 JRお茶の水駅、聖橋(ひじりばし)上からバスで東大構内に向かいます。構内の終点で降りて左側に坂道を上るように行くと安田講堂があります。その前の並木道を直進すると正面に正門が見えます。その手前左に入ると三四郎池、大学の静けさと異質の静寂を感じます。ここにもカワセミの夫婦がいて、池にダイブする食事の様子をカメラマンのレンズが狙っています。池の先に赤門があります。ここが加賀100万石の上屋敷跡です。赤門がある西側の本郷通りから、東側に向けて緩い下り傾斜地になっています。その東側に下ってきて、高さ数メートルの石垣になって終わりますが、池之端門から上野不忍池に出られます。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

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朝顔市(台東区下谷一丁目、入谷鬼子母神)
 
早朝より朝顔目当てに大勢の人が詰めかけています。入谷鬼子母神を中心に市が、毎年7月に開かれています。4色立てや5色立て、西洋朝顔まで混じって大盛況。売り手も必死です。
 残念ながら、本年(2011)は大地震のため中止。2008年撮影

薬王寺(港区三田4−8)
 加賀の千代女が朝顔の句を詠んだ井戸が残る日蓮宗のお寺さん。
向かって左側から裏の墓所に抜けると、一番奥に下記の井戸があります。

薬王寺(加賀の井戸)
 宗祖の時代より鎮火の霊水とされ、また加賀千代女の俳句で有名な朝顔の井戸がある。手前に句碑が建つ。取材時は、その朝顔の葉が4〜5枚出た程度で、腰壁にも届きません。

旧加賀藩邸上屋敷(文京区本郷七丁目東京大学構内)
 東京大学正門。ここを入ると、イチョウ並木の突き当たりが安田講堂。

旧加賀藩上屋敷(上屋敷育徳園心字池(通称三四郎池))
 前田利常、綱紀が完成させた大名庭園中第一級の名園と称された。育徳園と命名され、八景、八境の勝があって、泉水・築山・小亭等は見応えがあった。池の形が「心」の字をえがいており、「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の小説「三四郎」で有名になり、三四郎池の名で親しまれている。

旧加賀藩上屋敷(東京大学構内)
  旧加賀屋敷御守殿門、通称赤門。震災・戦災の影響を受けず焼け残った唯一の門。国の重要文化財に指定。三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺、左右脇に腰縦羽目板張り、左右の番所は唐破風造本瓦葺が付属している。

芭蕉記念館(江東区常盤一丁目6)
 芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。

                                                                  2011年9月記

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