三代目桂三木助の噺、「加賀の千代」(かがのちよ)によると
*1 各務支考(かがみしこう)。寛文5年(1665)〜享保16年(1731)。享年67歳。美濃の生まれ。芭蕉一門の論客として俗語平談を旨として風姿風情を平易に説き蕉風の地方普及に尽力。美濃派の祖となった。元禄7年(1694)10月大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で、芭蕉の遺書を代筆するなど、臨終を看取る。
*2 麦林舎乙由(ばくりんしゃ_おつゆう。中川乙由)。代表作「浮き草や今日は向こうの岸に咲く」、遊女に実がないさまをいう。その日その日で愛想を振りまき相手がころころ変わる。商売女というのはそもそもそういうものなのであるから、嫉妬するのは了見違いというもので、だますが稼業の女郎だ。川柳でなく俳句にするなんて・・・。
■千代女の代表的な句を。
■千代女の里俳句館;(石川県白山市殿町57番地1)
http://haikukan.city.hakusan.ishikawa.jp/index.html
■深川芭蕉記念館;(江東区常盤1-6) http://www.kcf.or.jp/basyo/index.html
■「朝顔に つるべ取られて もらい水」の舞台
2.加賀の殿様
3.電話機
ご隠居さんが本家に電話をすると言っていますので、この噺は明治・大正以降の新作になるのでしょうか。
■四光(しこう);花札合せの出来役のひとつ。松・桜・ススキ(月)・桐の20点札が揃ったもの。左の組み合わせ。
■梅鉢の紋;加賀藩の紋所(剣梅鉢。左。湯島天神もこの紋所)。単弁の梅花にかたどったもの。梅鉢・裏梅など種々ある。亀戸天神様の紋は変わり剣梅鉢(右図)。
■帯に短しタスキに長し;物事が中途半端で役に立たないこと。ヒモでも帯に使えば短いし、タスキに使えば長すぎて中途半端な事。
■本家(ほんけ);親の里。家もと。生家。
■嬶(かか);かかあ。庶民社会で、自分の妻または他家の主婦を親しんで呼ぶ言葉。
■江戸時代の庶民の支払い;棒手振り=棒の両端に商品を吊り下げて売る行商人、以外の店を構えた商店では、支払いが盆暮れの、年2回の掛け売りでした。そこで、お盆に支払いを逃げられたとしても、除夜の鐘を聞くまでの暮れが押し詰まってくると、店側も目の色が変わって鬼のように取り立てて回ります。そんな暮れの支払い風景を踏まえて、お金のやりくりに走る長屋の住人達です。
加賀の千代が名水を汲みに井戸端に立って、つるべを手に取ったところ可憐な朝顔がこちらを向いて咲いています。隣の井戸まで水を汲みに行かざるを得なくなった千代女ですが、その心遣いと手間が後世に千代女の名を残す名句が生まれるのですから、人生何処に何があるか分かりません。その井戸に行きます。
第一京浜国道の下を走る地下鉄・都営浅草線、都心から行って三田の次、泉岳寺で降ります。泉岳寺は赤穂浪士四十七士の墓があるところで有名です。その山門に向かって歩きます。道は右に曲がっていますので、道なりに泉岳寺を左に見ながら坂道を登っていきます。上がると言うより、登の方が実感として伝わってきます。この坂を伊皿子(いさらご)坂と言います。フウフウ言いながら登り詰めた峠の頂上が、伊皿子交差点。左に曲がると東海大学の付属短大、高校・中学などが現れます。右に曲がれば、何処に行ってもお寺さんの一角で、尾根伝いの道は最後、NECのビル脇に出ます。この左右の道は尾根伝いに続く「月の岬」(月之見崎)と呼ばれ、芝浦の海から上がる月見の名勝地だったのです。交差点を真っ直ぐ行けば魚藍坂と名を変えて下っていきます。下り切ったところが桜田通り(第二京浜国道)で魚藍坂下と言います。
あれれ、目的地を通り過ぎていました。峠の伊皿子交差点に戻り、右側に渡って、以前スーパーだったその場所は工事中でしたが、今では新築の白いマンションが建ちました。そのマンションを右に見ながら、(魚藍坂方向に)マンションが終わった所の一方通行出口を右に入ります。右に入ると左側に目的の薬王寺が現れます。先程にも言いましたが、伊皿子坂の交差点は尾根道の頂上です。言い換えると尾根道の峠ですから、山門を入ると本堂は屋根しか見えません。山肌の途中に建っています。本堂まで階段を下りてきましたが、本堂の左側から、また階段を下りて墓地に入りますが、上から見ると正面奥に屋根の架かった所が朝顔の井戸です。現在は飲用出来ませんが、蛇口をひねると冷たくて気持ちがいい井戸水が噴き出します。
JRお茶の水駅、聖橋(ひじりばし)上からバスで東大構内に向かいます。構内の終点で降りて左側に坂道を上るように行くと安田講堂があります。その前の並木道を直進すると正面に正門が見えます。その手前左に入ると三四郎池、大学の静けさと異質の静寂を感じます。ここにもカワセミの夫婦がいて、池にダイブする食事の様子をカメラマンのレンズが狙っています。池の先に赤門があります。ここが加賀100万石の上屋敷跡です。赤門がある西側の本郷通りから、東側に向けて緩い下り傾斜地になっています。その東側に下ってきて、高さ数メートルの石垣になって終わりますが、池之端門から上野不忍池に出られます。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2011年9月記 |
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