落語「笠と赤い風車」の舞台を歩く
   

 

 林家彦六の噺、「笠と赤い風車」(かさとあかいかざぐるま)によると。
 

 浅草馬道にお豆腐屋さんの嘉吉(かきち)という店があった。夫婦の間に男の子が産まれた。喜んでいると3日目に産後の肥立ちが悪く、おかみさんは亡くなってしまった。水子を抱えてどうしようかと思案していたら、亡くなったおかみさんの妹でおせんが何くれと細やかに赤子の面倒を見てくれた。大家さんを始め周りの者も推め、それに従って後添いとした。おせんさんと嘉吉の間には子供が無く、男の子には常吉と名を付け幸せに暮らしていた。

 常吉、多感な十五歳の時、「お前のおっ母さんは、継母で実の親が亡くなる前から、父親と付き合っていた。」と、まだ世間知らずの子供に吹き込んだ。ここで常吉は根性が曲がってしまい、二十歳の時には三道楽三昧をするほど落ちてしまった。それを苦にしながら嘉吉は亡くなってしまった。
 母親のおせんが何をやっても、悪く悪く取って始末に負えなかった。所帯を持たせば落ち着くだろうと、遠縁の器量好しで気立ての良いお花を迎えたが、それにも難癖を付けた。
 その頃町内でも有名な縛連崩れの悪女、おぎんと言う女が常吉に付いた。常吉は知らないが、おぎんには
仙太というヒモが付いていた。

 大家が訪ねてきて、無尽が満期になったお金と、生前嘉吉が預けておいた金、合わせて15両がある。6月10日法華講が身延に参詣に行くので、一緒に行こう、と誘われた。嘉吉の遺骨を収めに行きたい、と話はまとまり、大家が15両預かってくれた。
 この話がおぎんの耳に入り、仙太と悪い相談が決まった。おぎんの口から常吉に伝え、親孝行の真似をしてお金を巻き上げろと悪知恵を与えた。親孝行の真似事をしていると、おせんもほだされ15両の一件を話し、身延に行く事を了承して欲しいと頼むと、遠いし大変だから自分が行くと言い出した。おせんも快く了承し、大家も最近の行いを見ていたので同行を許した。

 10日が近づくと、おせんは15両を胴巻きに縫い込み、あれこれと旅立ちの用意をした。当日、菅笠には実の母親からの形見の赤い風車を縫い付けておいた。この赤い風車も母親だと思って、身延に収めて欲しいと持たせた。金が欲しいだけの常吉は気ィ良く持って出た。

 一行は東海道の道を取り、初日、戸塚泊まり。常吉は一緒の宿には泊まらず、おぎんと逢って別の宿に投宿した。翌日二人は歩き始めたが赤い風車が気になったが、しっかり縫い付けられていたので取れず、茶店で置き忘れたように捨てた。小田原に宿を求めると、赤い風車が付いた笠が届いていた。茶店のお婆さんが届けたという。翌日、歩き始めてドブに笠を捨ててしまった。箱根にさしかかり、茶屋に腰を下ろすと、赤い風車を付けた笠が届いていた。品の良い2人の婦人が届けたという。さすがの常吉もゾーッとした。
 箱根で宿を取ったが、酒を飲んでも気が晴れない。散歩をしようと宿の下駄を引っかけ真っ暗闇の中歩いていると、後ろから思いっ切り突き飛ばされて、谷川に転落。突き飛ばしたのはヒモの仙太で、金を懐におぎんと二人は箱根越えを始めた。
 常吉は気が付いたら箱根の宿であった。聞くと、炭焼きが赤い物を見付け、谷川を下りると、川の中に倒れていた。笠が常吉を支えるようにして、水も飲まず怪我もせず助かった。笠はぐっしょり濡れて、その時の状況が見えるようだった。笠の中に母親の姿をだぶらせたが、その母親は継母のおせんの事であった。居ても立っても居られず、とって返して我が家に。

 線香の煙の中、おせんは横たわっていた。お花が言うには、毎日手を合わせていたが、昨夜気が付くと、両手を上につきだして重いものを支えるような恰好で、水につかったようにぐっしょりと濡れて息絶えていた。
 「おっ母さん、おっかさ〜ん」と子供のように泣きじゃくる常吉の背中で、風車が風もないのに回りました。クルクル、クルクル、クルクル。

 

 図;東海道五十三次より「箱根」部分 安藤広重画


 
1.「笠と赤い風車」
  NHKが昭和40年直木賞作家平岩弓枝さんに書き下ろしを依頼し完成したものです。林家正蔵の「笠と赤い風車」で文芸物が落語の高座に登るはづみになった作品です。正蔵はこの作品によって、同年、芸術祭奨励賞を受賞しています。みずから創作した「二つ面」(ふたつめん)、「すててこ誕生」も受賞しています。
 文芸物は、長谷川伸の「旅の里扶持」、村上元三の「五月雨坊主」、「あんま」、浜本浩の「めだか」などを正蔵に贈り、度々正蔵は口演しています。


2.浅草馬道
 豆腐屋嘉吉の店があった所。台東区・浅草寺東側を南北に走る道を馬道と言います。その馬道に沿って両側にある細長い街を浅草馬道町といい、浅草北馬道町と浅草南馬道町とが有った。馬道は吉原に通う幹線(?)でもあった。
 馬道は落語でも多くの噺がここを舞台にしています。落語「助六伝」で親分・まむしの意吉が住んでいた。「松葉屋瀬川」で、番頭が善治郎を案内した町並みであり、「心眼」で、上総屋さんが住んでいた所。また「柳田格之進」 では質屋・万屋源兵衛の店が有りました。

 「馬道」という町名は相当古くからあり、すでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣にあったのが北馬道町である。享保15年(1730)には二天門の右手に南馬道町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺門前街として発展したが、明治10年(1877)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和9年(1934)さらに浅草馬道町は隣接するいくつかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。
 
台東区の案内板より。

身延(みのぶ);身延山の略称。山梨県南巨摩郡身延町にある山。富士川西岸に沿う身延山地の一峰。標高1153m。富士川の支流・波木井川によって山地が深く刻まれ、山腹に日蓮宗総本山身延山久遠寺がある。また、久遠寺の別称。

■久遠寺(くおんじ);http://www.kuonji.jp/ 山梨県の身延山にある日蓮宗の総本山。文永11年(1274)日蓮が庵を結んだ跡にあった日蓮の廟所を寺院としたもの。初め西谷にあったが、室町中期に十一世日朝上人が現在の地に移転。
 本堂、昭和60年(1985)、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建された。間口32m、奥行51m。一度に 2500人の法要を奉行できる。祖師堂、 日蓮聖人の神霊を祀る堂閣。「棲神閣」と称する。明治14年(1881)、江戸にあった寺院のお堂を移築、再建した。

久遠寺境内(本堂・側面〜手前・祖師堂) 久遠寺ライブカメラから

法華講;法華経を唱える身延山久遠寺に参詣するグループ(講中)。

身延への道程;江戸から旅立つと甲州街道を通って甲府から行く方法と、東海道を通り、富士川を渡って岩淵から北に富士川に沿って上がっていく方法があった。
 この噺では南から行く東海道で、初日戸塚で泊まって9里20町で、二日目小田原。ここから4里で、三日目箱根と、宿を取っていきます。通常、小田原を抜けると箱根では泊まらず、箱根越えをして三島に泊まります。おぎんは常吉を騙す為、湯治がしたいというので、天下の嶮、箱根で遊山気分を味わっています。

  

図左;「戸塚」通常江戸から立ってここで1泊します。中;「小田原」2泊目の宿場。酒匂川を渡ると小田原城が見えて奥に箱根山が見えます。右;「箱根」3泊目、通常は箱根越えをして三島まで下りるのですが、湯治がしたいとここで1泊。 東海道五十三次より安藤広重画

3.言葉
莫連崩れ(ばくれんくづれ);莫連とは世間ズレして、悪がしこいさま。また、そういう人。すれっからし。主として女にいう。それが崩れてしまったのですから、どんな女か分かるでしょう。普通の人だったら付き合わない女です。
 右図;「ばくれん」歌麿画

菅笠(すげがさ);スゲの葉で編んだ笠。すががさ。(右図)広辞苑
よくお土産屋さんで売っている、地名の入った笠です。これに赤い風車が縫い付けられていたのです。

15両;10両盗むと首が飛ぶという、当時の大金。現在の貨幣価値に直すと、1両8万円として、120万円。

風車(かざぐるま);お地蔵様に持たせた風車。風が吹くとクルクルと回ります。芝・増上寺にて

 


 舞台の浅草馬道(町)を歩く

 改修工事が終わりに近づき全面を足場で囲われていた浅草寺が、化粧直しをされて美しい姿を見せ始めました。屋根は本瓦を撤去しチタン瓦にふき直され、金色の金具も新しくなり、壁面も化粧直しが済みました。その本堂を左手に見ると、正面に二天門が見えます。この二天門も文化庁の指導の元解体されて、新しく組み直され、塗装も施されて新品になり、左右には「増長天」、「持国天」が収まりました。

 この二天門を出た所が江戸時代・浅草南馬道町と呼ばれた所です。表通りが馬道と言う大通り、左に曲がれば吉原に通じる幹線道路(?)です。私も左に曲がって吉原方向に足を向けます。通りの東(右)側は助六で有名な花川戸の町で、通りの西(左)側は舞台の浅草南馬道町と浅草北馬道町が有ります。浅草北馬道町が切れた所が、東西に走る言問通りで、その交差点を馬道交差点と言います。後ろ髪を引かれながら、ここでUターンし、二天門交差点から南の交差点、伝法院通り交差点を右に入ります。

 伝法院とは浅草寺の本坊で非公開の聖域です。その南側に接しているので、この通りを伝法院通りと呼びます。入って行くと白波五人男の日本駄右衛門の張り子の人形が道の中央に出ていて、ここで記念写真を撮る人が絶えません。この横にある栃木屋商店がお豆腐を商っています。現代風の洒落た店で、昔ながらの作業場を兼ねた店先とは違います。しかし、舞台の中のお豆腐屋さんみたいで、なんとなく親しみが湧きます。
 その先が、仲見世商店街で、横切っていくと右に伝法院の塀が現れ、左手には台東区立浅草公会堂があります。この公会堂前の敷石には落語家を始め、歌手・芸能人の手形が埋め込まれています。知っている芸能人の手形を探してみてください。参考までに、落語家では、古今亭志ん朝、桂文枝、八代目橘屋圓蔵、十代目桂文治、桂小南、桂米朝、柳家小さん、雷門助六、三遊亭円楽、三遊亭円歌、桂米丸、桂三枝、笑福亭仁鶴、柳家金語楼、柳家小三治、春風亭小朝などなどまだ続きます。

この浅草には次のお豆腐屋さんが営業しています。 
 栃木家商店;台東区浅草2丁目2−1  
 北村豆腐店;台東区浅草1丁目15−3

地図

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写真

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二天門(にてんもん・浅草寺東側の門)
 随身門と呼ばれたが、明治に入って下記の二天を門の左右に配したので、二天門と呼ばれます。
 門外から境内を見ています。左に五重塔、門の影になって見えませんが本堂があります。撮影している所が過日、浅草南馬道町と呼ばれた街並みがあります。

「増長天・持国天」(二天門内)
 上野・寛永寺、四代将軍徳川家綱(厳有院)霊廟の勅額門から昭和32年に移されたものです。増長天(ぞうちょうてん−写真左)・持国天(じこくてん−写真右)は、多聞天(たもんてん)・広目天(こうもくてん)とともに四天王(してんのう)と呼ばれ、四方を守る仏教の守護神です。

浅草北馬道町(台東区浅草2−32)
 今の馬道交差点脇の町でした。浅草の賑やかさから取り残され、逆に古き良き風情を残した一画です。奥に見える通りが馬道通りです。

馬道交差点(言問通りと馬道の交差点)
 浅草寺北側を東西に走る言問通りと、二天門を出た南北に走る馬道通りが交差する所です。交差点から南の吾妻橋方向を望んでいます。右側の街並みが浅草○馬道町と呼ばれた所です。

浅草南馬道町(台東区浅草2−1弁天堂児童公園横)
 浅草寺弁天山に有る、弁天堂と鐘撞堂に南接した地がこの公園です。表通りの馬道通りと公園に挟まれた狭い地域に建つバックのビル群が、浅草南馬道町と呼ばれた所です。

豆腐屋さん(台東区浅草2−2)
 伝法院通りに面し、馬道町に一軒だけ実在する豆腐・ゆばの店「栃木屋商店」さんです。厳密には江戸時代浅草新町と呼ばれ、直ぐ隣が浅草南馬道町と接し、小さなちいさな町でした。
 ヒョッとすると、嘉吉のお豆腐屋さんだったのでしょうか。

                                                 2010年9月記

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