落語「鶴亀」の舞台を歩く

 

 古今亭志ん生の噺、「鶴亀(つるかめ)」によると。
 

 富(とみ)が流行った当時の噺です。富にすられて、八五郎は文無しになって家に帰ってきた。今度は当たるからと女房の着ている半纏をせびった。今度は鶴が俺の肩に留まった夢を見た。俺は八五郎だから、鶴で一千、八五郎で八五六、で買うから半纏を貸せ。「イヤだよ。それなら出ていくよ」、「出ていけ!その代わり半纏を置いていけ」。嫌がる女房の半纏を無理矢理取り上げ、質屋に行って番頭に掛け合い、これも無理矢理1分を借りて、湯島境内に来てみると何万という人であふれていた。

 当たったら、お伊勢詣りをして、職人を辞めて商いを始める。質屋をすれば、今までは遠かったが近くになって便利だから。
 別の男は当たったら、庭に池を掘ってそこに酒を入れて泳ぎながら酒を飲む。ん?ハズレたら・・・、ション便をして寝ちゃう。

 ワイワイ言っている内に、「突き留め〜」の声で、場内が一瞬水を打ったように静かになって、その気で札が動いたという。
 「今日(こんにち)の突き留め〜、鶴の〜、千・八百・五十・六番〜」。八五郎は歯の根も合わないほど震えて座り込み、回りの群衆に助けられて勧進元に。
 「来年の2月まで待てば全額お渡ししますが、今ですと2割引いた額になります」。「無くなっちゃうのでなければ、それでイイ」ともらってきた。

 フアフアしながら家に帰れば「また、外れたね」とつれない挨拶。戸を閉めて金を見せると、「あ〜らまあ、アンタ。チョイと、、、だから、富は買わなくちゃ」。「800両だ」、「1両有れば1年暮らせる金だよ」、「そうだ800年暮らせる」。あれも買いたい、これも欲しいと楽しい話が始まったが、「このお金何処にしまう?」、「俺の褌(ふんどし)に入れて持ち歩くよ」、「それじゃダメだから、瓶(かめ)に入れて床下に隠しておこう」、「何で瓶なんだ」、「アンタは鶴で当たったんだから、瓶(亀)に入れれば、鶴亀でめでたいだろう」、「鶴で800両」、「鶴、鶴って、大きな声を出すんじゃないよ。長屋の者がクチバシを入れるよ」。


 志ん生の伝説は語り尽くせないほど数々ありますが、志ん生独演会なのに会場に来ず、代演で八代目桂文楽が勤めたり、高座で寝てしまったなどは有名です。志ん生の家族に聞くと、寝たのはたったの一回だけだったと言いますし、それを許したお客さんも粋だった。倒れてから復活第一声は人形町末広亭であったが、志ん生の元気な声を聞けた時にはキリストの復活かと思った、と言うほどです。志ん生がまだ貧乏暮らしの時、業平(なりひら。スカイツリ−が出来るところ)のナメクジ長屋(落語「業平文治」に詳しい)に住んだ事は有名です。

 この噺は落語「御慶」の前半部分です。先代小さんは正月に良くやっていたが、当たりくじの番号はハシゴの夢から”鶴の千五百四十八”であった。小さんの噺とガラッと変わっているので、今回取り上げています。

 

1.富(とみ)
 富くじは富札、富突き、富興行とも呼ばれ、現在の宝くじに引き継がれています。
 江戸の初期には幕府も豊かだったので、寺社に対して資金を融通できたが、時代が下がるに従って、それが出来ず、資金の捻出が考えられた。富がその一つで、寺社の普請費用がそれでまかなわれた。時代が下がると寺社の修築再建費用の捻出は名目に過ぎず、射幸心をあおり儲ける事が目的になって、毎日何処かで富興行が行われていった。そのため、水野忠邦は天保13年(1842)3月天保改革で富を全面禁止し、以後、富くじ興行は無くなった。この富くじによって、家族が分裂したり生活が破綻したり、負の面も大きかった。

 「首くくり 富の札など もってゐる」 江戸川柳
 「富札の引きさいてある首くくり」 など、富に溺れ全財産どころか命まで失う者も居た。

 千両富興行はめったになく、通常は100両富または150両富であった。百両富で当たりは100回突かれ一番富が10両、10本ごとに5両(組によっては50番目が20両)ずつ上がっていき、最後の100本目が100両であった。発行枚数は、鶴亀、松竹梅、雪月花、七福神などの組が使われ、一組当たり5〜9千枚発行された。一枚1分(ぶ。1/4両)で高額なため庶民は苦労して買った。後期になると一枚1朱(しゅ。1/4分=1/16両)の物まで出現した。
 受け取りは、翌日取りに行くのが規定であり、次の富興行までに行かないと無効になった。100両当たっても、1割は寺社奉納が決まりで10両引、次の富を5両買わされ、寺社関係者・札売りまで含めたご祝儀として5両天引きされ、結局8割の80両が受取金であった。
 右図;左、木札の「富札」 千代田区歴史民族資料館蔵。中、売られている紙の「富札」 椙森神社蔵。 右、同じく紙の「富札」 守貞漫稿。

江戸の三富;谷中の感応寺(台東区谷中7−14−8 天王寺。下図)、湯島天神(文京区湯島3−30−1)、目黒の不動(目黒区下目黒3−20−26 龍泉寺)。 三富が有名でしたが、その他数十寺社でも、数多く開かれていました。


 谷中天王寺富興行」 東都歳時記より

■富興行の様子を志ん生は噺の中で、
 寺社奉行立ち会いの上で、この富の札を突きます。箱の中に札が入っていて、上に丸い穴が空いている。目隠しをした人が、長いキリで箱の中を突き正面に見せると、子供の甲走った声で当たり番号を告げた。そのたびに、ワ〜っと言う、ときの声が上がった。

寺社奉行;寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行の一つ。定員4〜5名で譜代大名から選ばれ、全国の寺社関係を統括。奉行所は一定せず担当者の屋敷が使われた。仕事内容は、
1.全国の寺社および寺社領の行政司法
2.僧侶・神官・楽人・検校(けんぎょう)・連歌師・碁将棋所・古筆見等の監督
3.関八州外の旗本領の訴訟裁判
格式は三奉行の中では一番高かったが、捜査機関が不備なため町奉行や勘定奉行に依頼する事が多かった。

富の噺;落語には富の泣き笑いを題材にした噺が幾つかあります。「富久」、「水屋の富」、「御慶」、「宿屋の富」、この「鶴亀」等です。

 

2.湯島天神(ゆしまてんじん。湯島天神社、文京区湯島3−30−1) http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm 
 御祭神 天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと。天照大神が天岩戸に隠れた時、大岩戸を開いて大神を出した神様)および菅原道真公(歌人で政治家、晩年太宰府に左遷され、903年2月当地で59歳の命を閉じる)
 湯島天神は雄略天皇の勅命により、御宇2年(458)創建と伝えられ、大之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、下って正平10年(1355)1月道真公の御偉徳を慕い、文道の太祖と崇め湯島に勧請し、あわせて奉祀し、文明10年(1478)太田道灌これを再建する。天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るにおよび、翌19年湯島郷の内5石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、道真公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
 その後、学者・文人の参拝も多く、林道春・松永尺五・堀杏庵・新井白石などの名がみえる。将軍徳川綱吉公が
湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心とした。
 明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月、後世に残る総檜木造りで造営された。
湯島天神縁起より
 落語「初天神」で歩いたところです。詳しくはそちらもご覧下さい。

 富くじがここで開かれた事は既に述べましたが、文政7年(1824)正月大相撲本場所がここで行われた。また、迷子知らせ標石「奇縁氷人石」があり、落語「ボンボン唄」で紹介しています。
 「講談高座発祥の地」碑(右)もあります。その碑文を読むと、「講談の初期は、辻講釈か粗末な小屋で聴衆と同じ高さで語られていた。文化4年(1807)湯島天神の境内に住み、そこを席場としていた講談師・伊東燕晋が家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に、高さ3尺(約90cm)、1間(約1.8m)4面の高座常設を北町奉行・小田切土佐守に願い出て許された。これが高座の始まりで、湯島天神が講談高座の発祥の地である」と記されています。平成17年、六代目一龍斎貞水が建てた。
 貞水は天神の男坂を降りた所に住んでいます。

湯島聖天(ゆしましょうでん。柳井堂 心城院(しんじょういん)。文京区湯島三丁目32、湯島天神男坂下)
http://www.geocities.jp/shinjyo_in/ 
 江戸時代までは神社とお寺さんは二人三脚でやってきました。湯島天神と喜見院の関係です。天神の境内に元禄7年(1694)、道真公が崇拝していた聖天を、比叡山の慈覚大師作歓喜天を勧請し、天神の表門に喜見院として開基した。江戸の三富は湯島天神ではなく、別当のここ喜見院が幕府公認だったのです。富が行われるほど広域な境内を持っていたが、明治に入って神仏分離令によって、喜見院は廃寺となったが、喜見院の隠居所的性格をもった現在地の寺を寺名・心城院として再出発した。
 心城院には江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから”柳井堂(りゅうせいどう)”と呼ばれ、震災時も近隣の避難民に水を供給し続け感謝された。
 心城院には池があり、願掛けに亀の子を放つことから「亀の子寺」とも呼ばれた。
 この地が好きな久保田万太郎は、
きさらぎや亀の子寺の畳替え」と詠み、鶯亭金升も
名 残したきものぞ花の香り月の影」と詠んだ。
 心城院縁起より要約
 この隣に上記の六代目一龍斎貞水が住んでいます。

 

3.鶴亀
 鶴は千年、亀は万年、寿命があると言われています。で、おめでたい動物の代表選手です。

落語にも取り上げられ、
 縁日で亀を買ってきたが、翌日死んでしまった。大家の所に子供が聞きに来た「万年生きると言われるのに、何で一日で死んでしまったの」、博学の大家「それは、丁度万年目であった」。

 浮世根問 ≪無学者≫には、
 知ったかぶりの隠居に、ハっつぁんがいろいろと質問して困らせるのだが、隠居も負けていない。
 「鶴や亀は死んだら、どこへ行くんです」、「めでたいものだから極楽に行くな」、「極楽はどこにあるんで」、「地獄の隣だ」、「地獄はどこにあるんで・・・」。あまりのしつこさに、隠居が「極楽はここだ」と仏壇を見せる。「へえ、死ぬとここへ行けるんですか。鶴や亀も極楽に行って仏になれますか」、「畜生は仏になれない」、「なにになります」、「ろうそく立てになる」。

 右上図;「福寿鶴亀」湯島の妻恋神社で売りに出される江戸から伝わる夢枕絵。正月2日、この絵を枕の下に敷いて寝ると良い初夢が見られるという。

 右下図;「鶴亀の蝋燭立て」、仏壇の中の蝋燭立て。2013.02追加



  舞台の湯島を歩く
 

 御徒町駅から西に湯島天神ですが、表通りは春日通ですが、今回は昔の趣を残す一本南の道を天神に向かって歩きます。松坂屋に挟まれた道を抜けて、中央通りに出ます。この通り左は秋葉原から日本橋にいたり、右は毎回出てくる上野公園の山です。この通りは落語「黄金餅」で通ったことのある道です。横断、大丈夫、信号機のある交差点ですから安心して渡りましょう。渡った、この辺りはトンカツ発祥の地で、本家、元祖、発祥の店、等々肩書きはいろいろありますが、何処も旨いトンカツを食べさせます。その先、左側に創立100周年の幕を上げた黒門小学校があります。そうです「山号寺号」で来た事があり、昔、黒門町と呼ばれたところです。あの大名人、八代目桂文楽や五代目古今亭今輔が住んでいたところです。今歩いている道は台東区と文京区の区境で、その先で昌平橋通りの信号を渡りますと文京区になります。ここからでも、道路が突き当たって高台になっているのが分かります。右側の表通りは”切り通し”と呼ばれ、勾配のキツい坂道でしたが(現在もキツい)、この道は坂ではなく階段です。一気に湯島天神の境内に上がります。

 チョット待って、階段の手前、右側に心城院があります。湯島天神の別当だった”喜見院”の隠居所だったところです。今でも井戸の水は涸れずにあるそうで、台地の下ですから良質の地下水脈が走っているのでしょう。隣には一龍斎貞水の事務所兼住宅があります。ここまでの道を江戸時代には、”湯島天神黒門坂通り”と呼び、心城院が有る辺りを湯島天神門前町と言いました。今も小粋な老舗や小料理店が並んでいます。今の季節は”湯島天神の梅まつり”だと、飾られたペナントが教えています。

 いよいよ、天神の男坂(階段)を登って天神境内に上がります。上がった左手に”講談高座発祥の地”の碑があります。神社仏閣と言えば、参拝者の大部分はお年寄りが多いのですが、ここは違って、いつも若者がなんて多いのでしょう。梅もちらほらと咲き始め、正月の名残でしょうか紅白の幕が張り巡らされています。初詣はスゴい参拝者だったのでしょうが、今は落ち着いた雰囲気を取り戻しています。
 境内は整備された日本庭園風に造られ、梅の木を中心に造園されています。訪れたのは1月中旬ですが、梅が咲き始めています。で、富の抽選を見に大勢の人々が参集するスペースは、今は何処にもありません。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。
天神境内の案内図より。南北が逆になっています。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

心城院(文京区湯島三丁目32)
 現在は敷地イッパイに本堂、庫裡が建っています。右側の池には鳥避けのネットが張られていますが、縁日で取ってきたような和金が何匹か泳いでいます。亀は・・・亀はどこに
湯島天神男坂(文京区湯島3−32)
 この38段の階段を上がると、湯島天神の境内に出ます。男坂の右側には女坂があり、階段ではなくスロープになっています。階段下の右側には心城院の赤い幟が見えます。またその手前には六代目一龍斎貞水の住居があります。
湯島天神(文京区湯島3−30−1)
 湯島天神本殿は、権現造りの総檜造りです。現在、木造建築の寺社は建設できませんが、万全の防火施設を整えて建設大臣認定第一号となった。樹齢250年と言われる木曽檜を使い、平成7年12月に造営された。
湯島天神絵馬
 湯島天神は学問の神様ですから、毎年若い学生さんや親子連れが訪れ、願掛けに絵馬を奉納していきます。この場所だけではなく、他にも数ヵ所ありますがどこも満員。
湯島天神鳥居
 社前の大鳥居は銅製で、寛文7年(1667)創建、東京都の指定文化財になっています。鳥居足元の獅子頭をご覧下さい。この背中方向が南で神田明神、湯島聖堂があり、お茶の水駅に出られます。
宝くじチャンスセンター(中央区銀座三丁目数寄屋橋交番前)
 現在の富くじ、3億円宝くじが2本、1億円が10本出たと掲示されています。日本で一番(?)当たりくじが出ると評判の売り場です。年がら年中宝くじを買い求める人が絶えません。たくさん販売すれば当たりくじが含まれるのは当たり前、その分ハズレ券も同じように増えます。チャンスは何処の売り場にもあります。

                                                         2011年2月記

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