落語「寝床」の舞台を歩く
八代目桂文楽の噺、「寝床」(ねどこ)によると。
江戸時代に入ると、浄瑠璃は多くの流派に分かれ、浄瑠璃は歌舞伎・人形劇などの劇場音楽として発展しました。現在は、「浄瑠璃」といえば、有名な一派である義太夫節(ぎだゆうぶし)を指すことが多いようです。また、浄瑠璃と人形劇を組み合わせた人形浄瑠璃の一つである文楽も有名です。 ■義太夫(ぎだゆう) 浄瑠璃は、語り手によって節(ふし)の語りまわしが違ったことから、演奏者の名前をつけて「○○節」という名前でよばれるようになりました。 代表的なものは上方(関西)で発展した「義太夫節(ぎだゆうぶし)」、江戸で発展した「清元節(きよもとぶし)」、「新内節(しんないぶし)」などがあります。
・新内節;豊後節から分かれた新内節は常磐津節と兄弟分であり、初期は、歌舞伎に用いられていましたが、後に江戸の遊郭を中心に座敷浄瑠璃として流行しました。演奏には、中棹三味線の中でも太めのものを用い、筝(こと)の義爪やごく小さい撥で細かく弾きます。「明烏夢泡雪」はその代表曲。 ・清元節;常磐津節から派生した節で、艶麗な芸風をさらにつよめた流儀。高音で一音一音を延ばし細かく節に変化をつける派手で粋な曲節と、甲高い声を裏声で聞かせるのが特徴です。演奏には、常磐津のものよりやや細めの中棹三味線を用います。 日本文化いろは事典 http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/05_joruri.html をベースにしています。
噺の旦那が唸っている浄瑠璃は義太夫節だったのでしょう。三味線に合わせる事も出来ず、ただ、がむしゃらに唸っているだけなので、その声の固まりをまともに聞くと、声の固まりが身体にぶつかり「ギダ熱」になると言う恐ろしいものです。 桂文楽が元気な頃、神田の鰻屋・神田川本店で義太夫の会を開いていた。各落語家さんやその奥様を客人として招き、鰻・酒付きで唸っていたのはあまりにも有名。彼は落語「寝床」を地でいっていたが、やはり長くは続かなかった。落語「素人鰻」に神田川本店の写真があります。
2.成田山新勝寺(千葉県成田市成田1番地)http://www.naritasan.or.jp/
しかし、後年さびれて立ちゆかなくなったが、江戸時代、江戸でたびたび成田不動の「出開帳」が行われた。元禄16年(1703)、深川富岡八幡宮境内で行われたのが初めてで、江戸時代を通じて11回とも12回の出開帳が行われた。これには江戸庶民が大挙押し寄せ大成功裏に終わった。
3.成田街道(佐倉街道)
公式の参勤交代に使う街道は江戸市内から日光街道で北に進み千住宿を出て右折、荒川は当時無いので歩いて、小菅-亀有-新宿(にいじゅく)-小岩、渡船で江戸川を渡って市川、あとは千葉街道で船橋へ出ます。ちょっと(いえ泊数も増え片道4泊5日で、大分)大回りになりますが、この街道を藩公式の佐倉街道といいます。大名行列も、成田山ご本尊のご開帳運搬コースもこの道です。
4.言葉
■調子を一本かた負けてもらう;三味線の調子を一本さげてもらうという意味で、高い方の声が出やすくなる。カラオケのキーを下げるのと同じ。 ■さんぞくごじゆう;「三束五十」と書き、一束は100ですから350のこと。豆腐屋さんでは八束五十=850。 ■親もらいの無尽;頼母子講の一種。一定の期日に講員が掛け金を出し、くじや入札で当選者を決め、当選金を給付する。初会は講親が親もらい。 ■虫がかぶった;産気づいて陣痛が起る。 ■年回;「年忌」と同じで、死後毎年の祥月命日、あるいはその法要。回忌。 ■頭(かしら);鳶(トビ)職・左官などの親方。ここでは鳶の親方。大工のトップは棟梁(とうりょう。江戸弁で、とうりゅう)と言います。
■印物;(しるしもん)襟、背、腰まわりなどに屋号を入れた印半纏(しるし_ばんてん)。 ■成田の講中;千葉県成田市の成田不動尊(新勝寺)は、職人、芸人をはじめ市民の信仰が厚く、講(信者の団体)を結んで参詣した。 ■深川の出張所;江東区役所の出張所ではなく、ここでは深川にある成田山東京別院・深川不動堂(江東区富岡1-17)。 ■いけ年(どし);いい年。 ■すぱこ;「寸白(すぱく)」の江戸訛り。婦人の腰痛やサナダムシなどの条虫によって起る病気。 ■武張(ぶば)ったとこ;「武張る」は、強くて勇ましい様。 ■御簾;(みす)神前・宮殿などに用いるすだれ。細く削った竹で編み、綾・緞子(どんす)などで縁をとったもの。高貴な人との間や、舞台と客席との間に垂らす。 ■宿元;奉公人希望者が、奉公先が決まるまで泊まる口入れ屋(職業紹介所)の宿泊施設。 ■店立て;(たなだて)家主が、借家人を追い立てること。
■あの柳を;柳とは、浄瑠璃『三十三間堂棟由来』(-むなぎのゆらい)のこと。ここでは、柳の精のお柳が、我が
■どうするどうする;明治時代、娘義太夫のひいき筋が、勘どころで「どうするどうする」と声をかけた。また彼らを「どうする連」と称し、追っかけの元祖となった。 ■木やり;「木遣り唄」を三味線用の俗曲にしたもの。木遣り唄は、仕事唄の一つで、大木や岩を大勢で運ぶときに唄われた。 ■馬方三吉子別れ;浄瑠璃『丹波与作待夜小室節』(近松門左衛門作・1708年初演)の「重の井子別れ」の場。 ■宗五郎の子別れ;下総の国公津村の名主、佐倉宗五郎(木内宗吾)が、領主の悪政から農民を救うために、将軍に直訴するとき、妻子と別れを惜しむ歌舞伎『佐倉義民伝』の愁嘆場。 ■先代萩;歌舞伎『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ。奈何亀輔作・1777年初演)。わが子、千松に毒味をさせて、幼君を救う忠義の乳母、政岡。 完全版八代目「桂文楽」落語全集 小学館 CD落語用語解説、および広辞苑より上書き。
5.長屋の管理
この噺では大家さんが出てきませんが、素人が管理できる訳はなく、小さくてもプロの大家さんがいたのでしょう。地主の旦那は大家さんに「店立てだ!」と言えば事が済みます。
頭(かしら)は成田に行けなくなってしまったので、新型インフルエンザも嫌ですが、ギダ熱はもっと恐いので、私が喜んで一番電車で替わりに行ってきます。 昼前の成田山は閑散として、人通りも無く、参道の商店街もだらだらと開店準備をしています。もしかしたら、成田山は本日臨時休業なのか心配です。 大丈夫、年中無休のようです。成田山新勝寺南側の表玄関、「総門」の前に立ちます。高さ15mもある平成19年(2007)建立の出来立てのホヤホヤ、湯気が出ています。
その下をくぐって境内の参道を行くと「仁王門」、急な階段の上にありますから仁王門を観るより足元を見ながら登ります。左右に仁王様が目を光らせていますし、奥には広目天、多聞天がお迎えです。文政13年(1830)建立で国の重要文化財に指定されています。
正面の広い空間の中に昭和43年(1968)建立の新「大本堂」が威容を放っています。当然ご本尊は不動明王で、平安の頃弘法大師が彫ったとされるものですが、本堂外陣からは良く拝観する事が出来ません。外壁には五百羅漢や二十四孝の彫刻がはめ込まれています。
本堂右手(西)には先代本堂があり、今は「釈迦堂」と呼ばれています。安政5年(1858)建立で、国の重要文化財に指定されています。
その奥の高台には、昭和の作「平和の大塔」が異彩を放っています。この塔の上層部は成田駅からも、また東関東自動車道路からも遠望する事が出来ます。
赤い実線は(藩の)公式佐倉街道。 日本橋-市川の渡し(赤の破線)千葉街道。 安食-成田(赤の破線)成田裏街道。青の実線は船旅の小名木川-江戸川、利根川コース。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
2009年10月記
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