私の中の志ん生

小島貞二

自伝『びんぼう自慢』のこと
 古今亭志ん生は“落語の達人”であった。“落語を地でゆく”ような人であった。
 志ん生の“芸”のあらましは、この全集によって鑑賞されるであろうが、その“人”を知ろうとする場合、自伝『びんぼう自慢』を避けて通るわけにはいかない。
 この本は毎日新聞社版と立風書房版の二つがあり、ともに私が深いかかわりを持つだけに、志ん生に対する印象は、いまも生きている人であるかのように濃い。
 だから、この本のことを中心に、志ん生の周辺をさぐってみる。
 『びんぼう自慢』は、昭和37年の師走、『サンデー毎日』が5回にわたって連載したものをもとにして、39年4月に一冊の本にまとめたのが“毎日版”であった。当時はまだテープがさほど普及していなかったので、もっぱら“きき書き”という古い取材法を採った。自伝の中に“落語”の速記をはさむ。厚表紙にして、小咄一席をフォノシートで張り付けるというアイディアは、編集者のものであった。
 意外なほどの評判を呼び、みなにおだて上げられて、人形町末広を借りて“出版記念演芸会”を催した。馬生(長男)、志ん朝(次男)、三味線豊太郎(次女)など、一家総出の助ッ人の大賑わいで、高座前には四斗樽がドカッと置かれ、客もふるまい酒に酔いながら、志ん生を祝った、大層ご機嫌な志ん生の顔が目に浮かぶ。
 そのころの志ん生は、病後で極力仕事をセーブしていたが、放送や寄席はその人気をほおっておくはずがなく、結構忙しかった。寄席は43年の上野鈴本の初席(1月1日〜10日)まで務めている。
 時折り、私も日暮里の志ん生宅へお見舞いがてら寄っていたが、44年のある日、
 「あの本、もうありませんかねえ。ウチにもすっかりなくなって、こないだ古本屋へ探しに行ったら、こっちがほしいくらいだ、師匠、あったら売って下さいよという。モノがあべこべになっちゃってね、ウン」
 と、本の話が出た。出版記念会の折りは、たしかに百冊ほどは残っていたはずなのに、気前のよさでみんなにくれてやってしまって、一冊も手許にないらしい。
 これが、立風書房の耳に入り、ぜひ改訂版を出したいという。毎日新聞社の了解を得て、改めて取材をはじめたのが、忘れもしない昭和44年4月4日という、まるで“4”の字づくしのような日であった。その折りは、テープを活用した。
 立風版が出たのは、その年の9月だったが、私にとってはかなりハードなスケジュールだったが、初刷りを届けたとき、志ん生の「ありがとうさんよ」のひとことで、苦労のあとは吹っ飛んだ。腕から時計を外して、「これを!」をいって、私にくれた。
 志ん生は気分にのると、何でも人にやってしまう。弟子など、もらったものを、翌日取り上げられた例などもあるほどだ。私の“志ん生時計”は、もう動かなくなっているが、ちゃんとわが家にある。

極貧時代の回想、りん夫人のこと
 いろいろ取材をした中で、志ん生がポカをした部分もある。触れられたくない一面は誰にだってあるものだ。たとえば、
 「実ぁね、あたしは、はじめ、圓盛のとこにいたんですよ」
 と、ポツリと洩らしてくれたのは、その立風版が出たあとであった。圓盛というのは三遊亭圓盛といい、初代小圓朝の門下で、綽名を“イカタチ”という。
 背は小さいのに、頭がやけに大きい。インバネスを着て歩くさまは、さながら“イカの立ち泳ぎ”のようだというところから、略しての“イカタチ”である。奇行も有名で、あまり売れた落語家ではない。
 私もずいぶんそのことを正したのだが、志ん生は否定し、「最初の師匠は、名人圓喬」と語っていた。だから、本の中ではそうなっている。
 “酒”をこよなく愛し、“びんぼう”を友達とした志ん生の、びんぼう時代のクライマックスは、本所業平の“なめくじ長屋”時代が有名であるが、ほんとうのどん底は、その前の……あの関東大震災(大正12年9月)直後から、昭和5年に夜逃げ同様で、その業平へ引っ越すまでの“笹塚”時代である。
 どのくらいのびんぼうであったのか、かなり具体的にきいてみたが、志ん生は多くを語ろうとはしなかった。古いことで忘れたというより、思い出したくない、触れたくない部分のように思われた。
 そこで、おかみさん(りん夫人)にきいてみたことがある。
 笹塚は、関東大震災後に急速に、バラックが建ち並んだところで、都心から焼け出された人たちが住みついた。同じ家にズッと住んだわけではなく、近所のあちこちを転々とした。家賃が払えないのが主な理由である。そのころ志ん生はちょうど寄席にしくじりがあって、ほとんど仕事もない。もっぱら夫人が仕立てもので稼いだが、時にはそのあずかりものを、こっそり持ち出して曲げて(入質)しまうのでずいぶん困った。志ん生もいろいろ売って歩く仕事もやってみたが、一つとして稼ぎにならない。
 家でバクチをやり、このときはだいぶ勝った。あとでインチキだと勘付いた負けた連中が、改めて押しかけて来た。そのとき夫人は、とっさの判断で、花札を便所に投げ込み、ひっかきまわして、ことなきをえた。
 馬生が生まれたとき(昭和3年1月5日)は、世話場(愁嘆場)のまっ最中で、産婆に払う金はもちろん、祝いの尾頭付きの魚を買う金もないので、“鯛焼き”ですませた。馬生が生まれて三人の子持ちとなってからの稼ぎはまさに夫人が大車輪で、昼は仕立てもの、夜は小料理屋へ働きに出る。その間、志ん生は、落語を一席口ずさみながら子守りをしていた。馬生は落語を“子守歌”として育ったのである。
 子供に食べさせるため、夫人は食を抜く。その子供の食事というのも、食パンの耳だの豆だのが多く、裏の池から食用蛙を捕って来ては、塩焼きにすることなどが、最高のぜいたくであった。
 一度など、志ん生が病気のため、夫人が氷を買いに出かけた。子供を背負ったあまりのみすぼらしい服装に、巡査が不審に思ったのだろう、家まで付いて来た。
 そんな話のいろいろを、さり気なく、トントンと運んでいたりん夫人が、その“お巡りに付けられた”ところへ来たとき、急に言葉が途切れ、あとは泣き声になった。
 功成り名を遂げ、“天下の志ん生”となったいまと、40年ほど前の極貧時代の回想がオーバーラップして、脳裏に静止したのに違いない。
 「おい、泣くなよ、みっともない……」
となぐさめる志ん生の声も、涙ぐんでいた。夫婦同じ思いであったろう。

その“生きざま”を芸に生かした“達人”
 こんな風に、志ん生夫妻は、多少のためらいはあったものの、裸の自伝を語ってくれた。『びんぼう自慢』が、引き続きいまも読まれているのは、そのすさまじいほどの、人生体験に負うところが大きいのではないか。
 これだけきびしい人生の修羅場(はげしい戦い)をくぐり抜けてきた芸人は、まずいない。文楽、金馬、圓生といった人たちの“生きざま”とは違う。しかも、それを“芸”に生かし、“大成”に役立てたのだから、凄いのである。
 志ん生のオハコの一席に『唐茄子屋政談』がある。道楽のあげく勘当された若旦那が、叔父さんに尻を叩かれ、炎天下にフラフラしながら、吉原の見える下町を、「とうなすゥ」と売って歩くところがある。人のいるところではテレて声にならず、裏通りに入ってやっと声が出るという、おかしさとかなしさは、あの笹塚時代、納豆や醤油やゴム管を売り歩いた折りの、つらい体験から生まれたものという。志ん生からジカにきいた。
 志ん生落語を、もっとも色濃く出すものに、一連の“長屋もの”がある。八つぁん、熊さんの出てくる短編から、『黄金餅』『文七元結』といった大ネタまである。これらには、あの“なめくじ長屋”(本所業平)時代が生かされている。
 志ん生がびんぼうな落語家なら、両隣りは下駄の歯入れに屋、紙芝居屋といった、暮らしぶりも家族構成もよく似た人たちが、一つ長屋に住んでいる。米や炭がなければ近所で融通し合い、病人が出れば長屋中で看病するといった、人情豊かな運命共同体がそこにある。泣くも笑うもみんな一緒である。
 そうした長屋人情が、志ん生の落語の中には、実にあざやかに描き出されている。時によると、志ん生自身が落語の登場人物の一人であるかのようでさえある。
 志ん生が“落語の達人”であり、“落語を地でゆく”人であったと、冒頭に書いた理由もこういうところにあるわけだ。
 豪邸に住み、高級車にのり、うまい酒を飲む落語家が、高座で“長屋もの”を演じても、どうしても口先ばかりになる。志ん生の味はとても出せっこない。
 志ん生の落語生命は長かったが、一番光彩を放ったのは、終戦を中にはさんだ昭和10年代から、30年代にかけてのころである。
 敗戦を大陸で迎え、大連で悶々と帰国の日を待っていたころ、落語を忘れないように、一人ひそかに舌のトレーニングを続けていたというのは、笹塚時代、馬生を抱いて、落語を子守唄がわりに演じていた姿に似る。
 民間ラジオがはじまり、昭和28年にラジオ東京(現TBS)の専属となり、翌年からはニッポン放送に移る。一時は“志ん生の声が流れない日はない”といわれたほど多忙をきわめた。油ののりざかりが、録音として残されていることは、志ん生にとっても、ファンにとってもありがたいことである。
 この“達人”の“芸”をきく世代にめぐり合わせ、また“本”という舞台で、その“人”に接し得た私は、幸せであったと思う。

http://www.deston.net/rakugo/korega/04.html より

 

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