かんかん踊


 淳和・奨学両院の別当、源氏の長者、征夷大将軍、徳川家斉公の時代に、大いに流行ましたネ。文政四年三月十五日から深川の永代寺(今の富岡門前町)で、成田の不動の出開帳があった時に、唐人踊という見せ物が出た。これが大評判で五月二十九日まで引き続いて興行しました。永代寺で興行する前に、葺屋町河岸でもやったけれども、その時はまだ人気もなかった。それが一時に流行出して、四月には江戸の市中を、「唐人おどりかんかん節」などと読売が出てくる。おいおい替え唄も出来た。 チョッと見本を出せば、

 両国のヲすゞみには、やかたです、やねはきィみよみよ花火ならべ、
 たァまやとかぎやさん、たがひにまけてはならぬと、とぼせばくさいがおもしろや、
 (はうはうとてつるてん)
 りうせいならとらのをとらのを。
 石山のヲあきの月ィ、三井のばんしやう、ひらのぼ雪ゥ、つもるゆきイ、
 かァらさァきのよるの雨松はをいをい枝さかへ、やばせに堅田に瀬田のはし、
 (はうはうとてつるてん)
 粟津にせぜとはせいらんせいらん。

 こんなものさ、八百八町の子供達までも唄わないものもなし、踊らないものもない。六月十五日から両国広小路で又々開演する頃には、いよいよもって大流行となりました。どんな踊りだというのかネ、サア話よりは画の方が早い、当時の絵があります。

 囃子の具合は、胡琴・三絃子・太鼓・筋羅と絵にある通りでみれば、雉子と猫と犬と鼠と、一緒に鳴くようだと思し召せ、それにしてもうたは(書くのに)少々手数が掛る。

 かんかんのう(看々那)きう(九)のれんす(連子)きう(九)はきうれんす(九連子)
 きはきうれんれん(九九連々)さんしょならへ(三叔阿)さァいィほうにくわんさん(財副爾*官様)
 いんぴいたいたい(大々)やんあァろめんこんぽはうでしんかんさん(面孔不好的心肝)
 もゑもんとはいゝぴいはうはう(屁好々)
 てつこうにくわんさん(鉄公爾官様)きんちうめーしなァちうらい(京酒拿酒来)
 びやうつうほしいらァさんぱん(嫖子考杉板)ちいさいさんぱんぴいちいさい(杉板屁)
 もゑもんとはいゝぴいはうぴいはう(屁好々)
                                  (* 爾は人偏に爾です)

 マアこんなもんでだからネ。原文はいろいろあるが、いずれにしても、交雑(あいのこ)の品でみれば、日本語も相応にはいっているので、漢字ばかりでたしかに出来ようはずはない。随って訳文も怪しい。伊沢某・成島某、阿蘭陀通詞の馬場作十郎なんという連中の風俗壊乱式なのがある。
 かんかん踊は、唄の意味を研究して、それからおもしろくなるものじゃァない、頓興な動きを愛嬌にするのでみれば、淫風吹き荒む今日の世界に、好んで無用な凸凹文学を暴露するにはあたるまい。一体かんかん踊は、蜀山人の狂詩に「千里遙来漠々躍、一年又過唐々春」とある通り、根からの和製でないんです。この頃はルーズベルトもビリケンも、みんな和製で出来て調法だが、文政の頃は模造するにも、長崎辺に限っていました。上海英語の格で長崎清語というようなところで、南京写しのかんかん唄が出来たらしい。古ふんどしが届いたとか、江戸の敵を討つとか、凄じい諺にいうほどな長崎の芸術が、一朝一夕に江戸の流行になろうはずのない時代。しかるにかんかん踊が急に江戸の流行界を席巻した、その道行は史的研究の必要がありましょう。そこで見逃しにならないのは、馬琴の『著作堂一夕話』だと思いますよ。

 完政十二年十二月十二日、大清寧波(ねいは)府の舶人劉然乙(りゅうぜんおつ)等、その徒八十六人、遠州袖志(そでし)が浦(掛川を去る三里半)に漂着す、彼の地に逗留のうち、清人等がうたひし曲子(こうた)あり、掛川の人、耳熟して唄ひきかせたり。はなはだ興あり、その曲、魚鼓の如きものをうちならして囃すといふ、両三章こゝに録す、唱歌此方の潮来曲(いたこぶし)といふものに似たり。

(漢詩中略)

 馬琴の書いたのだって、絹かく詮議すれば、怪しいところもあろう。何にせよ、大体は判るというものでさア。これがだんだん拡がってきたところで、歌舞伎座とか有楽座とかの手が出て、いよいよ仕入れる暁に大の奮発で、新しい吐を長崎から 取り寄せて、深川で当てたというやつサ。大阪でも江戸 と同じ頃に、それ者が手を出したのだろうが、江戸より は丸く一年先に、「文政三年辰の春、浪花堀江荒木の芝 居に於て、看々踊と号し清朝の出扮にて異様なる踊を興行せり」(『雲錦随筆』)と聞いてます。だから踊り手はチャンではない、正銘な日本人でいったのです。江戸でヤンヤと いわせたのは、寧彼の劉然乙が漂着してから二十一年目になります。かんかん踊が一時の流行でなく大影 響を後世に与えたのは、済生会の内相談を受けた灰吹達 以上に、恐懼すべき次第に存ぜられる。
 張扇の音に混ぜて聞いてもいるから、支那人の艶姿、ゆうに間の技けた舞の手振の功能ばかりで、かんかん踊が繁昌したのではないかもしれない。ですが、脱脂な深川永代寺の長興行から、始まった流行というのが手近いようですね。

 稽古がいるかとおっしゃるのですか、イヤ別段のこと もないのが名物で、蒸したての連中に適用すべきゆえんは、ここにありと申したい。おててをたんもへ入れて、 十文甲高のあんよを右から、トトトントンなかとお手数を掛けて、二十年何箇月という油ぎった姉さんに、表情 体操より苦しいわァ、と勉強させるまでもありません。
  その頃の「看々踊独稽古」というものがあります、それで早速卒業済みというものさ。踊手は吟官子・真宮 子・豊宮子・兼宮子・虎宮子・春宮子・造宮子・一虎子 と八人でよい、大切(おおぎり)に蛇つかい(正月に使う龍の舞い)を出したといいます。
 殊にかんかん踊を女でゆくといえば、新しいことになるから、男の子よりは出来がよかろう。折角に看護娘・産娘・事務女・判任新造と増長、イヤ進歩発達して来て、電燈のある時代に行燈袴を一着なし、解放されようという意気もある。

三田村鳶魚全集 第二十巻 「かんかん踊り」より抜粋

 

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