落語「らくだ」の舞台を歩く
   

 

  八代目三笑亭可楽の噺、「らくだ」によると。
 

 ある長屋に酒乱で乱暴者の毛虫のように嫌がられていた男、名前を”馬”。あだ名を”らくだ”と呼ばれた大柄の男が住んでいた。兄貴分がらくだの家にやって来ると、らくだはフグを食べて既に亡くなっていた。前夜すってんてんに取られてしまったので、1銭も持ち合わせが無い兄貴分のところにクズ屋がやってきた。ガラクタばかりでお金にならないので、クズ屋を長屋に使者に出して香典を集めさせた。

 長屋の月番はらくだが死んだのを喜んだが、香典の話をすると、とんでもないという。しかし、長屋の連中は喜んで赤飯を炊くであろうから、まげてお前さんの為に集めてこようと、納得してくれた。
 らくだの家に帰ってきて、商売道具のザルと秤を返してもらおうとすると、もう一軒、大家の所に行ってこいと言う。仕事始めで1銭もかせいでいず親と女房に子供が五人いるので仕事をしないと飯が食えない。そんなことはお構いなしに、「今夜長屋で通夜の真似事をするから、大家と言えば親も同然、子供の為にイイ酒を3升、肴として煮〆を丼に2杯、飯を2升ほど炊いて持ってくるよう」頼んでこいと言う。そんな事言ったら長屋に入って来れないと言うが、噛みつきそうな顔で追い出された。

 大家は死んだのを聞いて喜んだが、頼み事はガンとして断った。3年間一度も店(たな)賃を払ったことはなく、言えば棒っきれ持って追いかけてきたと。
 その事を家に帰って話をすると、当たり前だと兄貴分は言う。もう一度行って来い。同じ事を言ってダメだと行ったら、死人(しびと)の行き場がないので、こちらに持ってきて「カンカンノウ」を踊らせる。と言え。
 大家の所に行ったが、そんなことで驚く大家ではない。面白いから踊らせてみろ。と断られた。
 兄貴分に伝えると、本当に言ったんだなと、クズ屋をむこに向けてらくだの死体を担がせた。冷たいのや恐いので、大家の所に行って、夢中で「カンカンノウ」を踊らせると、ビックリして要求を呑んだ。

 もう一度だけ、角の八百屋に行って樽を借りてこい。ダメだと言ったら「カンカンノウ」を踊らせるんですね。
 八百屋さんはらくだの死んだのを聞いて大喜び。樽をくれなければ、貸してくれれば返しに来ます。さんざん断られたが、「カンカンノウ」を踊らせると言うと、素直に貸してくれた。

 樽を担いで帰ってくると、長屋から香典、大家からは酒肴が届いていた。ゲン直しだから一杯やって行けと言われたが、酒が入ると仕事にならないし、女房子供が待っているので、と断った。死人を担いだのだから酒で身体を浄めて出ていけと言う。恐そうな顔で言うので、一杯だけと言うことで飲んだ。一杯では縁起が悪いのでと二杯目を、そして駆けつけ3杯目だと、3杯目をやった。
 (強い声で)「おい!もう一杯つげよ!」酔いが回り始めたクズ屋さん、気が大きくなって兄貴分を怒鳴りつけて、手足のように使い始めた。頭を丸め、樽に強引に詰め込んだ。落合(の火屋)に知り合いがいるので、そこに持って行くぞ。

 「お前は先棒、俺は後棒だ。重いな〜、でかかったからな。ふらつくな、担ぎにくいからな」と言うことで担ぎ出した。「ここは早稲田だろう。これを真っ直ぐ行くと新井薬師。左へ行くと落合の火屋だ。滑るから気を付けろ」と言う間もなく転んでしまった。落合に着いて樽を見ると底が抜けてらくだはいない。慌てて探しに戻ると道端に乞食坊主の”願人坊主”が寝ていた。らくだと間違えて、これを担いで落合に戻り焼こうとすると、
いくら酔っぱらいの願人坊主でも火が点けば「あちち!ここは何処だ」、「ヒヤ(火屋)だ」。
「ヒヤ(冷や)でもイイから、もう一杯」。

 


1.可楽
  可楽(からく)と言えば「らくだ」、「らくだ」と言えば可楽とされるように、八代目三笑亭可楽の十八番中の十八番。寄席でも「らくだ」と声が掛かるほどです。通好みの可楽の落語の特徴は、苦虫を噛み潰したような顔で、めんどくさそうに 噺を進めていく 、そうした語り口は社会の底辺を生きる人達の姿を描くのに、ピタリと符合していました。この「らくだ」で言えば、くず屋さんと、何の商売をしているのかは分からないが、ヤクザならくだの兄貴分。そして、長屋の人達にしても、決して裕福な暮らしをしている訳ではない。毎日を必死に生きている姿には、長い間不遇の生活を強いられていた可楽の人生そのものが反映されているようで、社会に対する反骨精神がそこに描かれています。
 酒が進み、上下の立場がガラリと逆転して、らくだの兄貴分を追い詰めていく、くず屋さんの姿に、場内から喝采の笑いが起こりますが、そうした演者可楽を重ね合わせて聞いてみると、この噺は一層 輝いたものになります。
 イラスト;山藤章二「新イラスト紳士録」より

 また、可楽はトントンと噺を進め、本来の東京型のサゲまで演じていますが、後半は暗くなるので、くず屋さんが酒に酔って、らくだの兄貴分をおどすところでサゲてしまうことが多い噺です。

 志ん生は後半をカットして、次のようにして切っています。
「ふー、親方、あんたも偉いね。それでこそ兄弟分てんだ。金があって葬式出すのはだれだってできらぁ。なくって出すんだ。仏になったやつを悪く言いたかないが、らくだってやつはひどいね。こないだなぁ、左甚五郎の蛙を売るってんだ。さすが甚五郎だね、良く出来てるね。これなら十円で買うってったら、売るって俺の手の上に置いた。生きていやがる。チクショー。
 もっと(酒)注げよ。釜の蓋が開かないだろうって? 冗談じゃね〜や。雨の2日や3日振ってもなぁ〜、おう、家族を飢えさせる久蔵さんじゃねえんだよ。見損なうな。このお酒はおめえ一人でとった酒じゃねえぞ。ケツを上げろぃ。てめえのケツじゃねえんだ。徳利のケツをよ。こんなしみったれた大家の家から来た煮〆だけじゃぁなく、魚屋行ってマグロの中トロのブツでも持ってこい。いやだのと言ったらカンカンノウを踊らせる、と言って持ってこい。」
 右写真:銀座・歌舞伎座にて歌舞伎の演目として新春上演される「らくだ」。17.12写す。

 

2.落合(おちあい)
 落合への道中、「ここは早稲田だろう。これを真っ直ぐ行くと新井薬師。左へ行くと落合の火屋だ」と可楽。

 志ん生は「ここは姿見橋だ。これを渡ると高田馬場。道は右へくねったり、左へくねったりするが、つきあたって左へ行くと新井薬師。右へ行くと落合の火屋だ」という。
 姿見橋とは、面影橋の別名 。面影橋は落語「道灌」で歩いたところです。 その道順がイメージされます。当時はたんぼ道で淋しかったのでしょうね。
 今は早稲田と高田馬場は隣同士の街で、高田馬場の先隣が落合です。江戸の時代には早稲田(町)の中に高田馬場という馬場がありましたので、早稲田も高田馬場も同じ場所だと言うことが解ります。落語「高田の馬場」でも歩いたところです。
 また落合に行く道も、志ん生の曲がりくねった早稲田通りを行くのが常道でしょうが、その北側を並行して走る小道を行けば、可楽の道順になるでしょう。 しかし、早稲田通りは明治18年の地図を見てもありません。可楽の小道は神田川づたいにあります。さて江戸・文政時代にはどちらが、その道になるのでしょうか。
右図;早桶(枝珊瑚京打栞より)この担ぎ方が”差し担(にな)い”といいます。

 ■真言宗豊山派 新井薬師 梅照院 (中野区新井5−3−3) http://www.araiyakushi.or.jp/
 梅照院(ばいしょういん/新井薬師)のご本尊は、薬師如来と如意輪観音の(裏と表に刻まれている)ニ仏一体の黄金仏で、高さ一寸八分(約5.5cm)の御尊像です。この御本尊は弘法大師御作と言われており、鎌倉時代の代表的な武将、新田家代々の守護仏でした。しかし、鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱のさなかに、ある日の夕方、御尊像を納めた 金山城(群馬県太田市)の仏間から忽然と光が放たれ、それとともに御尊像は消え失せてしまいました。その後、新田家は戦に敗れ没落します。
 200年後、相模国(神奈川県)から行春(ぎょうしゅん)という沙門(僧)が、新井の里を訪れて草庵を結びました。清水の湧きいずるこの地こそ、真言密教の行にふさわしい土地と感じてのことですが、不思議なことに、草庵の庭の梅の古木から光が出るという現象が夜毎に起こり、天正 14年(1586年)3月21日、その梅の木の穴から新田家ゆかりのご尊像が発見されました。この御尊像を安置するために、行春が新たにお堂を建立したのが、梅照院の始まりです。
 不思議な出来事とともに出現した薬師如来は、その後、広く、深く信仰されました。特に、二代将軍秀忠公の第五子和子の方(東福門院)が患った悪質な眼病が、祈願して快癒したことなどから「目の薬師」と呼ばれ、あるいは第五世玄鏡が元和 3年(1617年)に如来の啓示によって、秀れた小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれています。
新井薬師パンフレット+掲示板より】

 ■落合の火葬場(新宿区上落合3−34)
 東京博善の
桐ケ谷、町屋、四つ木と並び、古くからあった 斎場、葬祭場。斎場の道むこうは豊島区。火葬場は火屋とも言った。桐ヶ谷は落語「黄金餅」の舞台で、アジ切り包丁で金を取り出したところです。
東京博善株式会社 http://www.tokyohakuzen.co.jp/funeralhall/ochiai.html

 

3.カンカンノウ
 文政4年(1821)三月十五日から深川の永代寺(今の富岡門前町)で、成田の不動の出開帳があった時に、唐人踊という見せ物が出た。これが大評判で五月二十九日まで引き続いて興行しました。永代寺で興行する前に、葺屋町河岸でもやったけれども、その時はまだ人気もなかった。それが一時に流行出して、四月には江戸の市中を、「唐人おどりかんかん節」などと読売が出てくる。 写真をクリックすると大きな写真が見られます。

 かんかんのう(看々那)きう(九)のれんす(連子)きう(九)はきうれんす(九連子)
 きはきうれんれん(九九連々)さんしょならへ(三叔阿)さァいィほうにくわんさん(財副爾*官様)
 いんぴいたいたい(大々)やんあァろめんこんぽはうでしんかんさん(面孔不好的心肝)
 もゑもんとはいゝぴいはうはう(屁好々)
 てつこうにくわんさん(鉄公爾官様)きんちうめーしなァちうらい(京酒拿酒来)
 びやうつうほしいらァさんぱん(嫖子考杉板)ちいさいさんぱんぴいちいさい(杉板屁)
 もゑもんとはいゝぴいはうぴいはう(屁好々)
                                  (* 爾は人偏に爾です)
 替え歌が沢山あって、どれが本家家元か解らない。

三田村鳶魚全集 第二十巻 「かんかん踊り」より抜粋

唐人おどりかんかん節」の詳しい説明が別ページにあります。


4.駱駝(らくだ)
 
文政4年(1821)6月29日
 オランダ人ツミワタリ、アラビア国之内メッカ産駱駝(ラクダ)二足(頭)
 男 5才  女 4才
 高さ 9尺(2.7m)  長さ 2間(3.6m)
 荷ヲ負スルニハ足を三ツニヲリヒザヲ折、自由ニ荷ヲツケサセル、千五百斤(900kg)を背負わすことは簡単である。
食は一度に食し、以後四・五日は食べない。行程は1日百里(390km、?)も行く。
と書かれています。 (「長崎絵のラクダ」たばこと塩の博物館所蔵) 写真をクリックすると大きくなります。

 文政4年(1821)に渡来して一大ブームとなったのはヒトコブラクダで、文政4年オランダ船が運んできて2年後、長崎商人に売られ見せ物として大坂や江戸で群衆の目にふれた。当時も大変な評判だったが 、その後10年以上にわたって全国を巡業したので、一般大衆にも広く知られるところとなった。この社会現象が下敷きとなって落語「らくだ」が創られたのでしょう。
左図;「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より

 人々がフタコブラクダを目にしたのはその41年後でした。ふたコブラクダ(国立国会図書館蔵「象及駱駝之図」)は文久2年 (1862) に渡来し、翌年の1月2日から江戸両国橋西詰、同4月から浅草奥山にて相次いで見世物に出ました。
 足に三節あって水脈を探り当てる天性で日本人を驚かしたらしい。押すな押すなの大評判で見料が三十二文(そば2杯分)。それで読まれた狂歌が
    「押あうて見るよりも 見ぬがらくだろう」
    「百のおあしが 三つに折れては」 

 駱駝ぐらいでと笑ってはいけません。コアラが日本来た時は動物園に長蛇の列が出来たし、パンダの来園時の喧騒は未だ忘れません。いつの時代も新しい動物が日本にやって来ると、見に行 くのはいつの時代でも同じ事です。
 

5.願人坊主
 
日本国語大事典によれば願人(がんにん)とは「むかしの民事の裁判で訴えを起こす人、請願する人、及び祈願する人を指す」と言い、また願人坊主については「町中で出家、三伏、行人、願人が寺社に寄進の由を申し、仏像をしつらえ、高堤灯を持ち、念仏題目を唱え家々を廻るもの」と、言っています。
 広辞苑では「1.人に代って願かけの修行・水垢離などをした乞食僧。 2.歌舞伎舞踊の一。常磐津。七変化の「七枚続花の姿絵」の一。現在、清元「浮かれ坊主」の名で流行。」

 柳家小三冶は噺のなかで「その当時火屋の通り道にはよく出ていて、願人坊主というが、坊主ではない。頭は丸めているが、寒の最中にも素っ裸で、怪しげな幟を立て何処そこの寺へ梵鐘を奇進し奉ると言って方々の家々から金を貰って歩く。冬は地べたに穴を掘り、そこで焚き火をして、暖をとり、まるまって寝ていた」と詳しく説明しています。

 


  舞台の落合を歩く

 落合の火屋に向かって歩き出しましょう。ここは高田馬場の神田川に架かる姿見橋(面影橋)。都内唯一残る都電の停留所「面影橋」の前を流れる神田川に同名の面影橋が架かっています。ここには過日、落語「道灌」や「高田の馬場」で訪れたところです。また、落語「乳房榎」でも来ています。浅草や吉原は噺のメッカですから、何回も足を運びましたが、こんな小さな橋に何回も足を運ぶなんて思ってもいませんでした。
 早稲田と言えば、都電一停留所戻りますと終点早稲田、ご存じ早稲田大学があります。
 都電通りの新目白通りの南側に並行して走る早稲田通りに抜けて、道なりに右へくねったり、左へくねったりしながら落合に向かいます。カメラバック一つ担いでの旅ですが、大男を入れた樽を担いでいる男二人は大変だったでしょう。
 明治通りを横切って、高田馬場商店街に入っていきます。道は狭くなって人通りも多くなります。間もなく落語「恋の山手線」で以前来た、JR山手線「高田馬場駅」の駅前広場に出ますが、道なりにガードをくぐって西に向かいます。目の前に変則な四つ角が出現します。「小滝橋」の交差点で、小滝橋の下に流れるのは、やはり神田川で、4月に訪れた時は神田川の両岸に植えられた桜が満開で、欄干から何人もの見物人がお花見とその情景を携帯に写し込んでいます。
 橋を渡って、道なりに進みます。山手通りの大きな交差点「上落合2丁目」に出ます。渡ってサンクスがある最初の信号機の交差点、一方通行出口を右に入ると、そこが落合の火屋、いえ落合斎場です。最新の設備が施された建物で外部からは煙突も煙も見ることが出来ません。斎場の塀ギリギリに民家が張り付いていますので、煙モクモクでは環境に合わないのでしょうね。 さすが大きな斎場だけ有って、近所に来ると大勢の真っ黒な服装の人々に会いますので、すぐにそこだと分かります。

 先ほどの早稲田通りに戻り、西に向かって新井薬師に向けて歩き出します。ここで新宿区から中野区にと変わり、まもなく上高田と新井の町境の交差点「中野5丁目」に出ますので右に入ります。柳通りと言って門前町を形成しています。突き当たりが終着の新井薬師です。
 この時期、桜が満開で、多くの花見客が訪れています。本堂前の桜も素敵ですが、その裏の新井薬師公園の桜も素晴らしく、満開の樹下でお花見です。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

落合斎場(新宿区上落合3−34)
平成12年6月に竣工した重厚な最新の火葬場です。
 

落合葬儀場(新宿区上落合3−34)
上記火葬場の隣にある葬祭場です。

落合への道
JR山手線・高田馬場は早稲田通りの中程にあるJRの駅です。
進行方向が落合方向です。

落合への道
車が自由に入ってこれる大きな道は何処にもなくて、昔ながらの道が一方通行として残っています。

面影橋(新宿区西早稲田神田川に架かる橋)
落語「道灌」で訪れた橋ですが、二人に担がれたらくだの葬列(?)がここを通ったのです。左に都電面影橋があり、その先が落合方向です。

フタコブラクダ
国立国会図書館蔵「象及駱駝之図」より
 

新井薬師 梅照院 (中野区新井5-3-5)
新井山梅照院薬師寺と号し、大和の国(奈良県)長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺院。本尊は薬師瑠璃光如来の黄金仏。
昭和57年「新東京百景」に選ばれています。隣接する新井薬師公園は薬師寺の寺領を寄付したもので、区で管理しています。

                                                       2007年5月記

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