円生御神酒徳利御前口演について

http://www.din.or.jp/~sukeroku/bangai/gozencoen.htm 「助六」さんのホームページより転載

 

 夜分電話で、明年皇后陛下の古希の御祝いで、それについて宮中へ出て、
御前口演をということである。
くわしいことは文化庁の方と一度逢って相談したいということなので、暮れの二十四日過ぎでしたが
文化庁の榎本さんという係りのお方、宇野先生と三人でお逢いして、種々話をしましたが、何しろ
落語家を宮中へ召されてお聞き下さるということは今回が初めてのことではあり、演題もどういう
ものがよいかと相談したが私は「お神酒徳利」か「茶の湯」というので、筋を申し上げたが、
お目出度い噺となると「お神酒徳利」のほうがよろしかろうと言うのだが、榎本氏がともあれ他の者
とも相談をしてと言うのでお別れした。

越えて四十八年一月半ばごろに「御神酒徳利」ということに定まったと電話があり、二月七日に
宮内庁より松平潔さま(侍従の方)と文化庁榎本氏とが私のマンションへわざわざおいで下さったが
松平さまは、もとはお大名の殿さまで....もちろん以前のことだが、昔なら大変なことで、
マンションに住むもの一同がお出迎えをして、土下座をしなければならぬことだが、それが落語家の
所へ気安くおいで下さるという、時代の相違とは妙なものだと思った。
そこで当日の何かと打ち合わせをしたが、私の出るときには出囃子を ということだが、これは
テープのほうがよろしいかと思いますと申しあげたのはわれわれのほうの囃子は年配者が多い故、
陛下の前だと思って固くなり弾きちがえるようなことがあってはかえっていけないと思い左様申し
あげて、テープで出囃子と決まったが、先に私の演る場所を拝見できるか否かとお伺いしたところが
よろしいと言うので、二月二十六日午後二時にとお約束をしてお帰りになった。

さて、二十六日二時乾門より、弟子生之助を連れて伺ったが、まず侍従の方が詰めていられる建物
へ伺い、これからそちらへ行くと言うことを電話で知らせてから、松下様、梅沢様、文化庁の榎本様
私は生之助を連れて皇居へ向かうと、玄関の所はガラスの戸が締り鍵を掛けてあるが、なかには
大きな机があり腰を掛けている守衛の方が鍵を開けてくれる。
なかへ入ると二階の階段を上がる。絨毯の分厚いことといったら、歩くとフカフカして犬なら其所で
クルクルと丸くなって寝てしまいたいくらいだ。
まず「猩猩の間」へ入る。これは前田青邨先生の描いた「猩猩」の画の額が掛っているので左様に
呼ぶと聞いた。当日口演するのは「春秋の間」という。猩猩の間と春秋の間との間は、はめ込みの
襖になっている。それに春と秋の草花が描いてあるので左様に呼ぶのであるそうだ。
これに舞台をしつらえるのだが、これは国立劇場から来てこしらえるとの話である。

さて、その高さについての話だが、私の落語の前に「荻江節」がある。
荻江露友さんがつとめられて、次に私の落語があるのだが、天皇陛下の御企画と承った。
荻江露友さんは前田青邨先生の奥さんであり、前田先生は皇后陛下の絵の御指導をされている。
そして、舞台の高さは低いもので四十七センチメートルくらいだというので、当日は両陛下の他
三、四十名の皇族方がお出になるということなので、後列の方々には全然見えないのだ。
そこで第一に低い所じゃァ陛下と眼線が合うというから尚さらいやだと言った。
侍従の方に私のほうが陛下より高くなってはいけないという規定があれば致し方がありませんが
もしよろしければ高くしていただきたいと申しあげたら、よろしいというので、高さは私が立って腰
より少し上の所まで、それに上って座れば、椅子にお掛けになっていられる陛下と眼線を合わす
ようなこともないし、万端打ち合わせを済ませて帰る。

そのころから御前口演を私がする情報(うわさ)は、方々で聞かれるようになった。
宮内庁より電話にて当日口演の済んだあとで新聞記者のインタビューがあるがよろしいかとの
お話で、承知致しましたとお返事を申しあげた。するとある雑誌社の若い記者から電話が掛かった。
師匠が今度御前口演されるということであるが、現在どういうことを考えているかという質問だ。
当日は私としても一所懸命につとめたいと思っていると答えると、「もし演りそこなったらどうします」
と言う.....実にあきれた奴もあるものだと思った。
吉田首相じゃないが「馬鹿野郎」とどなりつけてやりたいと思った。
礼儀なぞというものをみじんも知らぬ無作法千万なこんな奴らが、記者で御座候とまかり通る
世の中かと、つくづく情けなく思った。

さていよいよ本題へ移ることにします。
昭和四十八年三月九日(地久節は六日である)天気晴朗
として温かく好き日和である。宮内庁より御迎えの車をいただきまして私と家内と二人乗車し、
私の持っている車には弟子の円楽、生之助の二人を乗せて皇居に向かい、乾門より皇居御玄関
へ車を止めた。
私は驚いた。先日通り侍従部屋の方の建物前へ下車して、それから砂利道を歩いて皇居御玄関
へ通るものと思いしに、いきなり横づけに玄関へ、武官の方が二、三名出迎えて車の戸を開かれ
たのには恐縮した。これでは皇族の方々と少しの変わりもないと思うと、明治生まれの私には
何ともたとえようのないありがたさを感じた。

静かに御案内に連れられて、猩猩の間へ通る。入口近くに、先日とはちがいテーブルにお茶道具
など取り揃え、マホービンがあるテーブルの両側に椅子を並べて、飲みたいものはそこへ行きお茶
を飲めるようになっている。
控室のなかには屏風を立て廻しした所が二ヶ所ある。一つは私の控える所、もう一ヶ所は荻江さん
の御連中の控室になっている。荻江さんには逢ったことはないし、私から御挨拶をしに伺った。
師匠は初めてですかと言われた。もちろんのこと私は初めてである。

露友師は前田先生とともに伺われて御承知だろうが、こちらは勝手を知らぬので、何かどうも
落ち着かぬ。
二時になったときに予行演習を演る。荻江さんは脇唄一人三味線三人笛一人都合六人、
曲は「桃」二十分、全曲を演られた。
済んでも幕はないので、見台、三味線、蒲団、と若いお弟子さんが順に片づけるのが時間も掛る。
それから私になるのだが、第一に蒲団は 圓楽に持たして出した。
それは 圓楽ならテレビで皆さまも御承知であり、顔を見て「ああ、 圓楽だ」と宮様方もお笑いになる
し、一つのショウなのだから、それと場なれのせぬ者は何としてもおくして、もし粗そうでもあっては
大変であり、場なれしている 圓楽に蒲団を持って出させた。

出のときは三下り中の舞を使った。
テープは家から持っていった。NHKへ頼み新しく入れたものである。写真はこの演習のときに撮る。
さもないと演芸中陛下へお尻を向けて撮るというのはぶざま故、御席へおつきになったときに
写真を撮るのだそうで、もちろん外部の者は宮内庁の写真屋だけである。

私が小さい声でボソボソ言ってると「声が少し小さいようで、もう少し大きくして下さい」
「え、本番は大丈夫大きな声を出しますから」、まずこれで予行も済んだ。
陛下と演者との間隔は、四間か五間離れているらしい。

三時に春秋の間へ御一族の方々が御入り遊ばされてすぐに演芸をはじめることになって
いるのだが長い長い芸人生活で七十余年も演っている私としても生まれて初めて、
いや私の生涯のなかでいままで経験したことのないことを、これから演るのだと思えば、
何か妙な気がする。

死んだ桂文楽は六代目菊五郎の前で噺をしたときに口のなかが渇いてしまって、
唇がまくれあがって困ったという...落語というものは堅くなっちゃァ面白くないものだし、
演るものが気楽に面白く喋る所に落語の味が出てくるのであって、演者の気を聞くほうは
敏感に、サッと受けるものなのだから、私自身がくだけなくちゃァ聞いてお笑い下さるはずは
ないと思うのだ...だが人間は理屈ばかり言ってたってその通りには誰も行くものではない
なるべく自分を柔らかにしようと思い、見廻すと青邨先生の猩猩の額がある「此所は猩猩の
間だ...猩猩の間に猿性( 圓生)が居る...」あんまりうまくない洒落だと自分でおかしくなる。

いよいよ三時になったが、どうしたことかお入りにならない。
五分六分、とたつ。侍従の方が「時間は正確でいらっしゃいまして遅れるというようなことは
めったに御座いません」とおっしゃるから、「いえ、今日は少しは遅くなるでしょう」と言ったら、
「どうしてですか?」、「国鉄のストですから」。
丁度ストの最中だった...私たちは平常洒落を言ったり冗談ばかり楽屋で言ってる。

噺家は楽屋で集まるとなぜ冗談ばかり言うものかと不思議に思ったこともあったが、
なるほど昔の人は偉い、楽屋はかならず女の話をしろと言った...
税金の話や病人の話はいけません...
いやな話をして気のめいったときに出ると、もうそれだけで陰気になる。
馬鹿げた話をして楽屋で笑って、そのまま出ればにこやかな顔で出られるから、それにかかる
場合に堅くなるなと言っても堅くなるのが当然であるから、自分で心を落ち着けてと思い、
なるべくほがらかになっていようとつとめた。

いよいよ春秋の間へ両陛下を初め御一族の方々が御着席になる。
荻江連中の人たちで「桃」の曲がはじまる。
約20分ほどで終わる。
静かに下手の人から御前を下り、見台、三味線、蒲団と取り片づける。
圓楽が座蒲団を持って出る。紋付の着物に袴で、湯呑み茶碗と二度に持って出る。
テープは生之助の係りである。

いよいよ、中の舞が鳴り出す、私は心のうちで「今日は陛下の前で演るんじゃない、東横劇場の落語会だ、
国立劇場の客と同じなのだ」と心に言い聞かせて静かに出て、鳴り物いっぱいにお辞儀をする。
御一同かっさいで迎えて下さる。まず御祝いのことばを述べて下さいと侍従の方よりも言われているので、
「今日は古希の御祝いという誠におめでたいことで御座います。謹んで御祝いを申しあげます。
昔から七十は古来稀れなり、と申して永生きと申したそうですが、
最早や今日では一般に寿命が延びておりますので両陛下におかせられましては、さらに第二第三の古希の
御祝いを遊ばされますように.......第一は七十歳、第二は百七十歳、第三は二百七十歳でございます。
どうぞ重ねて古希の御祝いを遊ばされますように御祈り申しあげております。
それに今日の余興と致しまして、落語を申しあげるということは圓生にとり誠に名誉のことと存じておりますが
これからは、どうぞたびたびお聞き下さいますように、「今日は落語を聞くから圓生を呼べ」とおおせ下されば
いつでも参内致しますから.........」。ここで御一同どっとお笑いになりました。

「いままでどうして落語をお聞き遊ばされぬかと不思議に思っておりました。
落語を聞くと第一胃の消化をよくし、
コレステロールを取るというコーノーがございますので」、両陛下も宮様方もよくお笑い下さる。

皇太子御夫妻、常陸の宮様、秩父宮妃殿下、高松宮御夫妻と
三十余名の御一族の皆様がおそろいであるが
両陛下は実によくお笑い下さいました。おかしいところはちゃんとおわかりになり、
下々のこともよくおわかりになるので驚いたくらいだ。

噺に入ってしまえばもう心配なこともなく、それまでがむずかしいのである。
相撲で言えば前さばきがうまくいくかどうかというところだ。
四ッに組めば、あとは私としては心配はない。
だが私は噺の中でよく痰が出ることがあるので、御前で痰が出ると困るなと心配していた。
と、家を出る前に家内が私のそばへ来て、いきなり咽喉のところへさわるので
「何をするんだ」というと
トゲ抜地蔵様へお願いをして、痰の出ないように願ったから咽喉のところをなぜた。
地蔵様のお姿を水に浮かして呑めという。
それを先に言ってくれれば驚かないのに、いきなり咽喉へ何か持ってきたから肝を潰した。

それに汗をかくことでも心配したのは、口演中にポタポタ汗なぞをかいては見苦しいから........
とは言え出るものは仕方ないが、どうぞ汗の出ないようにと念じていたが、
少し終わりころ汗がにじんだくらいで、
手拭いで押さえればわからぬくらいである。

四十五分間にわたりお喋りをして、サゲを言いお辞儀をするとかっさいで、御前を下がり、楽屋へ入る。
とたんに汗がどっと出た。屏風のうちだから裸になり汗をぬぐっていると、陛下に御挨拶だというので、
また驚いた。今度は何と申しあげたらよいか考えていなかったから.......
初めて伺いましたが結構なお住まいでげす......なんて、そんなことは言えないがと、急いで仕度をして
出ていくと、そうではない、陛下より御言葉があるということなので、豊明殿のほうへ行く、一同も一緒
に行ってよいということであり、私が陛下に向かって右に、左に露友さんが、あとは順に二列に後ろに
立っていると、いま両陛下が御出ましになるから頭を下げ御言葉をいただき、済んだらまた頭を下げるように
と侍従の方から伺ってお待ちしていると、両陛下は左側から御出ましになると、私との間は約一間半くらい
の間近にお立ちになり、今日は御苦労であった、面白い一時をすごしたという御言葉を頂戴し、
これから後も斯道につくすようにというありがたいことである。
続いて皇后陛下のお言葉があったが、お声が低く私は耳が少し遠いからよく聞き取れなかったが、
一同礼をする。両陛下は右の横に御退場遊ばされた。

これで終わったわけである。それからテーブルの前に呼び出され、侍従長より金一封頂戴し...いくらくれた....
なぜそういういやしいことを言うのです。別段びっくりするほどはいただけない.......
木盃をいただきました。朱塗りの三つ組、真ん中に十六の菊の御紋が入っている。
それからお菓子.....どら焼きのようなもので、餡が普通の菓子とはちがい堅く練ったようなお菓子がひと折り、
圓楽もお菓子を頂戴した。
なにしろ本当にがっくりした。緊張しないといっても大緊張である。あとで聞いた話だが、
生之助はテープを掛けたが中の舞は三十秒くらいであるが、掛けるときに、もしこのテープが切れたら師匠に
何と言って詫びようかと思って実に恐かったと言った。
テープは新しく入れたもので、決して切れるはずはないのだが、つまりそれだけのものでも心配したという。

私は四十五分の長演である。圓楽、生之助はすぐ脇の屏風の所に立って聞いていたので、「どうだった」と
聞いてみたら、「いつもと少しも変わりませんでした」と言われて自分ながらホッとした。
家内は侍従の方が脇で聞けと言ったが、恐くって聞けなかったと言う。
各自皆緊張していたのである。
皇居を出て自動車に乗ると、少し行って降ろされたのは新聞記者とのインタビューである。

二階へ上がると待ち構えいた連中が「どうでした」と聞く。
「まず無事に終わりました」「天皇はどんな笑い方をしました」、
どんな笑い方といって別に変わったことはないが、下品な笑い方はなさらなかった、なんてえ記者連中
を笑わせて三,四十分話したが、私もこれからそとに仕事があるからと、そこを出てすぐに宮内庁の車で
中野へ帰るのだが、丁度五時すぎで大変な込み方で、新宿の大ガードを越し、これは間に合わぬと思い
お礼を言ってあとからついてきた自分の車に乗り換え、抜け道をして大急ぎで家へ帰り、あわてて食事を
すませて着替えて、すぐ麻布飯倉の霊友会本部へ行く。
夜七時からの口演を頼まれていたので、六時半に家を出て飯倉へ行くのだがさすがに疲れてしまい
車の中で横に寝ていた。会場へ入り三十分ほど待ち、そして頼まれた口演をしたが、いかに疲れたといっても
われわれは客の前に出れば、気が張ってしゃっきりするものである。

四十分ほどやって帰宅したが心身ともに実に疲れ果てた。
だが、無事に行って当然とは言え、まず何事もなくつとめたことは本当にありがたいと思いました。
昭和48年は、昨年暮れにあった芸術祭で、各部門のなかで大賞は四人だけ、優秀賞は数十名あるが、
私は三度目の受賞だが、大衆部門で大賞を受けた。授賞式は一月十九日、虎の門教育会館である。
同年四月二十九日、勲四等瑞宝章を受けた。勲章おいただいたのは五月十日国立劇場へ集まりバスで皇居へ、
春秋の間で陛下の御言葉があって劇場のほうで勲章はいただいた。

芸術祭の賞をもらい、叙勲されたこともうれしくないことはありませんが、
落語家として御前口演をしたのは私が初めてである。
圓朝師匠も、明治陛下に御前口演したというが、たしかにそれは井上候の屋敷だと思う。
皇居へ召されたのは初めてのことである。ただし皇居へ召された人もあるが、音楽堂での御前口演である。
本当の......本当のというのもおかしいが、皇居のうち、春秋の間で口演したのは私だけである。
それだけに、なおうれしい。私ごときつたない芸で最高の栄誉を受けたということは何という幸せものかと
つくづくありがたく思います。
私は三遊亭圓生という大きな名前を継がされ、名人ばかりが続出している圓生の名は実に重荷であったが
芸はともかく,幸いこれだけの名誉を受けたのは幸運であると同時にこれも皆様のお陰だと、
つくづくありがたく思います。
これからは少しでも芸がうまくなるよう.......名誉にむくいるよう努力していきたいと思っております。
そうして代々の圓生のなかで、「どうも六代目の圓生は、あれは.......」なぞと、
そしられぬようになってから死にたいと思っています。
 

......おわり......

六代目三遊亭円生

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