落語「阿三の森」の舞台を歩く

  
 

 五代目古今亭志ん生の噺、「 怪談・阿三(おさん)の森」によると。
 

 深川牡丹町の近くにスズメの森が有ったが、誰言うとはなしに”阿三の森”と言われた。江戸時代の実話で、その由来について・・・。

 そのころ、本所に二千石をとる旗本・松岡家が有った。そこに奉公に出ていた、漁師・善兵衛の娘で、十八になる”おかの”と言う美女がいた。殿様のお手がついて妊娠、蛤町の実家に帰された。月満ちて女の子を出産”阿三”と名付けた。実家の裏に離れを建てて、殿様もちょくちょく見えて何不自由ない生活をしていた。
 しかし、間の悪い事に母親が亡くなり、続いて殿様も亡くなって、阿三は祖父に預けられたが、生活に困窮していた。漁師を止めて、亀戸の天神橋のそばで団子屋を始めた。梅見団子を売り出して繁盛し、十七の時には母親の器量を写して団子屋の看板娘となっていた。

 幇間医者の藪井竹庵が、本所割り下水に住む”阿部新重郎”と言う跡取り息子を臥龍梅を見た帰り 、団子屋に連れてきた。歳22で、役者に近い美男であった。離れで、看板娘”阿三”と出会ったときに娘に一目惚れしてしまった。同じように娘もブルブルっと、感じて一目惚れしてしまった。
 その後、何日しても藪井竹庵が訪ねてこなかったが、呼びにやり団子屋に訪ねて行った。それからは毎日のように一人で阿三の元に訪ねて、逢瀬を重ねた。今では将来を約束する仲になっていた。

 新重郎は松岡家から阿部家に養子に入っていた。本家の実母の様態が悪いというので、お見舞いに訪れたが、その席で母親から意外な事実を聞かされた。「父親が奉公人の娘に手を出し子供を作ったが、里に帰し、今では十七になる娘に成長しているはず。聞くところによれば亀戸で団子屋の娘として働く阿三だという。お前の実の妹なので陰ながら面倒を見て欲しい」という。
 心のわだかまりがなくなったと見えて母親は亡くなった。四十九日も過ぎたが、新重郎は実の妹と犬畜生と同じ関係になった事を悩んでいた。
 今後は逢わない事を心に誓って、再出発する事にした。しかし、その事を知らない阿三は彼が来ないのを気にかけて、亡くなってしまった。(前編)

 久しぶりに藪井竹庵が訪ねてきて、阿三が亡くなった事を告げていった。
 新重郎は閑静な向島に住まいを移し気持ちを切り替えていた。お盆の夜、寝られないでいると、深夜庭先を「カラン、コロン」と下駄の音を鳴らしながら女性が通って行った。間もなく戻ってきて、窓下で止まった。「御前様」と声が聞こえたので、覗くと朝顔の花柄の浴衣を着た阿三であった。死んだ事はなく老人がうるさく出られないので、小梅から深夜怖いのも忘れて訪ねて来たという。抱き合って喜び、部屋に通し、お互い生きていた事を幸せにおもい、将来を改めて誓い合った。

 夜ごと女が訪ねてくるので、婆やが不審に思い覗いてみると、煙のようなものと話しているのを目撃し、主人に報告。菩提寺の法恩寺の住職に訳を話し、重三郎に言い聞かせ、窓にはお札を張ってもらった。その夜から阿三は現れる事はなくなり、重三郎も元気を取り戻し、本所割り下水の屋敷に戻った。

 1月を迎えたとき麻布の娘と仲人がたって祝言を上げた。その席、二人の間に蛇が現れ恨めしそうにのぞき込んだ。重三郎はキセルで蛇を殺したが、毎晩現れた。その事を住職に相談すると、阿三が蛇に化身して出てくるので、出てきたら私の衣に包んで、その上から縄で結んでおくように言われ、その様にすると難なく捕まえる事が出来た。住職は東の小高いところ”スズメの森”に埋めて、その上に祠を建てた。その難を仏力で封じ込め”阿三の森”と言う様になった。阿三の森はお産の森と言い換えられて、安産の御利益があるとたいそう繁盛し、稲荷となった。
 1年して、妻が亡くなって、今後は妻をめとらないと、つむりを丸めてこの稲荷の側に庵を建てて菩提を弔らった 。実際にあったと言われている、阿三の森の由来でした。(後編) 
 


 前半、二人の恋物語、後半が怪談となります。怪談の下駄の音や夜ごと訪ね来る阿三、封じ込め方は前作「怪談・牡丹灯籠」にそっくりです。55分の大作で、志ん生は前後を分けて高座に掛けています。

 

1.亀戸天神(東京都江東区亀戸3−6) http://homepage3.nifty.com/tenjindori/tenjin/
 由来;
江戸時代から学問の神様として信仰を集め、寛文2年(1662)九州太宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真公の像を造り、祀ったのが創建と言われています。
 毎年1月24,25日に、「うそ替え神事」が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」といわれており、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々で賑わっています。

 道真にちなんだ筆塚や歌碑など有名な碑が数多く残されています。 また、梅や藤の美しさは、広重の「名所江戸百景」であまりにも有名ですが、現在でも心字池の周りいっぱいに咲き誇る藤の花は、都内随一で、新東京百景の一つにもなっています。
(亀戸天神看板より)

天神橋の団子屋
 
はい!残念ながら当然ありません。でも、天神橋のたもとから天神入り口までの間に、有名な”くず餅屋”さんの船橋屋さんがあります。創業文化年間だというので、阿三の団子屋さんと競っていた事でしょう。 エッ!看板娘?奥にはいたのでしょう、と思います。http://www.funabashiya.co.jp/

■臥龍梅
  亀戸 ・臥龍梅 (がりゅうばい)園跡(江東区亀戸3−51−10浅草通り・タクシー会社前)に咲く記念の梅の花が八分咲きになった時のもの。 左写真;臥龍梅跡の碑の梅、右図;広重の「亀戸梅屋鋪」

 ここには元梅屋敷又は清香庵(せいきょうあん)とも称された梅園がありました。 もともと浅草埋堀(浅草3丁目付近)の商人・伊勢屋彦右衛門の別荘で、沢山の梅を植え整備し、子孫の喜右衛門の頃には300本を越える梅園になった。
 江戸中に知れ渡り、園内には龍が臥した様に枝が地中に入り、また地より離れて幹となり花を付けた名木があった。そして水戸光圀がこの梅木を観て臥龍梅と名付けた。しかし、明治43年水害により全滅、廃園になってしまった。

  

 

『江戸名所花暦・亀戸梅屋鋪』
写真をクリックすると大きな写真になります。
 

 お隣香取神社(墨田区文花2−5)の梅は規模こそ大きくはありませんが、多くの品種を集め密集度では臥龍梅園跡を彷彿させる濃度を持っています。江戸時代の名園、小村井梅園を復活させた「香梅園」では、85種類、約120本の梅の木が公開されます。

 

2.深川牡丹町・阿三の森
 
「阿三の森」→「お産の森」→「お産稲荷」→「於三稲荷」(江東区牡丹1丁目6。牡丹町一丁目郵便局裏)
 江戸時代には「すずめの森」として知られた地だったと言われますが、ここは元来埋め立て地ですから、そんなに高い丘や森があったとは思えません。 事実現在でも高台も、森も、有りません。しかし於三稲荷だけはしっかり有りました。

 左に大正9年(関東大震災3年前)作、手書きの於三稲荷の地図があります。門前仲町の交差点を南に行き、黒船橋を渡り、最初の交差点を左に曲がる角が於三稲荷の境内です。その奥に黒船神社があります。 地図、前原氏提供。
 両社とも同じぐらいの敷地を持っていますが、関東大震災で炎上し、東京大空襲でまたも全焼、その後区画整理等があって現在地に引っ込んでしまいました。地図で見る両稲荷の境に細いシジミ川が流れていて、それも埋め立てられてしまいました。

 元来は松平伊豆守の屋敷神であったのを、地元の有力者(俗に言う旦那で神主ではない)前原氏が引き継ぎ守ってきました。江戸時代は木々が生い茂り森の様になっていて、漁師が海から帰ってくるときの目印になったという。また、この南側には古石場が有って、江戸城補修用の石材が大量に残されていたという。(前原氏談)
 
 左図が、上記古石場の南側の海岸線です。

 中央左側が古石場で高い土手で高潮や津波に備えています。右側は遠浅の海岸です。その先に海(東京湾)が見えます。

 後に、この干潟が埋め立てられて、越中島と名を変えます。
 ここに東京商船大学が生まれますが、2003年に東京商船大学と東京水産大学が合併して、東京海洋大学と名を変えています。
越中島風景」 東京新撰名所図会 明治42年2月写生

地図と絵 09年8月追記

  四世鶴屋南北の終焉の地も、ここ深川。黒船稲荷(江東区牡丹1丁目12。左写真)付近に住居があったという。 現在は狭い境内に鳥居とお堂があるだけだが、於三稲荷と道路を挟んで並んでいます。
 黒船稲荷は江戸切り絵図(地図)にも大きく載っている古くから有る稲荷です。江戸時代にはこの黒船稲荷の森が、木々がうっそうとして”雀の森”と呼ばれていました。
 雀の森跡(牡丹1付近)は1986年江東区史跡に登録されています。

 

3.深川蛤町(はまぐりちょう。江東区門前仲町南側、横十間川までの一部及び周辺に飛び地)
 阿三の母親の実家があったところ。
 今、区内でもにぎやかな商業地区です。門前仲町は、昭和6年、従来の黒江町・門前山本町と蛤町の一部を合併して誕生した。古くは深川永代寺門前仲町、富岡八幡宮の別当・永代寺の門前町屋として発展した所です。(注;別当=神仏習合説に基づいて神社に設けられた神宮寺のひとつ
 近くに、蛤町の家で没した間宮林蔵の墓(江東区平野2−7−7)が有ります。また、山本一力著  直木賞受賞作 「あかね空」 の舞台はここ門前仲町です。 
 深川八幡、一の鳥居付近には、かつて紀伊国屋文左衛門隠居後の住居があった。また、奈良屋茂左衛門も近くに豪邸を持っていた。伊能忠敬も近くの黒江町に住み、ここを原点として日本全国の測量を行なった。
 17世紀中ごろから深川八幡宮の周辺には、花街が形成された。吉原の豪華絢爛に対し深川は気風と粋を重んじる「羽織芸者」としてもてはやされた。富裕な木場商人を抱えていたこともあり花街は繁盛したのに加え、釣りや磯遊びにきた町人の遊興地としても門前仲町は栄えた。落語「ねずみ穴」より

 

4.本所割り下水
 阿部新重郎が住んでいたと言う地です。
 墨田区を東西に走っている割堀が2本。北側を北割り下水と言い、今の春日通の本所2丁目から大横川、今は埋め立てられて、大横川親水河川公園までの割堀です。
 南側を南割り下水と言い、今の亀沢1丁目から大横川までがそうですが、どちらも大横川から東の横十間川まで繋がっていました。横十間川は今でも水をたたえていますが、両割り下水は既に埋め立てられて道になっています。既に言いましたが北割り下水は”春日通り”となっていますし、南割り下水はJRの北側 、葛飾北斎が生まれた所なので”北斎通り”と呼ばれています。(第68話「化け物使い」より)
 単に割り下水というと、通常は南割り下水を指す事が一般的です。

 

5.法恩寺(ほうおんじ、墨田区太平1−26)
 皇居の平川門近くに江戸城築城の折り太田道灌が城内鎮護のため建立。おおよそ550年前のことで、平川門から平河山と号した。 家康が江戸幕府を開くに当たり、神田柳原へ移転、谷中清水町を経て、元禄8年(1695)現在地に移転した。
現在、塔中は四ヶ寺ですが、元禄当時は二十ヶ寺を擁していたと伝えられる名刹。
 現在地を太平町と称するのは、太田道灌公の”太”及び平河山の”平”を合わせたものです。
法恩寺案内板より要約

 法恩寺の西側の横十間川に架かる蔵前通りの橋が法恩寺橋です。この橋は今回訪れた法恩寺から名付けられています。落語第44話「中村仲蔵」に出てくる橋がここです。

 

6.向島と小梅
小梅の水戸様 向島から押上にかけて一帯を小梅と言った。水戸屋敷(向島1丁目全域)の庭園部分が今の墨田公園(向島1−3)で、小梅別邸は下屋敷であった。上屋敷は文京区の後楽園です。 後楽園については落語第55話「孝行糖」で詳しく説明しています。
 墨田公園の説明板から引用すると、元禄6年(1693)に建設され、南は北十間川(源森川)、西は大川(隅田川)に面し、6万6千平方メートル(2千坪)の敷地を有し、南北200m東西300m、墨田区大小名屋敷で最大の規模を誇った。ここには蔵奉行、水主、鷹匠が住んで、御船蔵が置かれ、船、材木が保管された。
明治になって、一時政府の管理下に置かれたが、以後水戸家の本邸が置かれた。しかし関東大震災で壊滅的な被災を受けて、二百数十年の歴史を閉じた。昭和6年公園として復興したが大戦によりまた被災、昭和52年墨田区が全面的に 手を入れ現在至った。、
 一帯の小梅という地名は、今はありませんが、公園の北側には小梅小学校が有りますし、東には小梅橋と名前が残っています。落語第54話 「文七元結」より

 「小梅」から「向島」までは、隣町です。下駄をならしながら歩いてもさほどの距離ではありません。

 


  舞台の阿三の森を歩く
 

  深川・門前仲町、東京の下町を代表する町の一つです。門前仲町、そうです、門前仲町の門前は”深川八幡”の門前町として栄えた町だからです。ここは戦前は第二の吉原、はい!遊郭で有名なところで、知る人ぞ知る歓楽街が有り栄えたところでした。 深川七場所と言われた岡場所がありました。残念(?)ながら今はありません。今は、八幡様の門前町として栄えています。
 門前仲町交差点の南側に黒船橋が有って、そこを渡った先の交差点を左に入ると於三稲荷が有ります。境内は「古木弁財天」と並んで建っています。由緒や経緯が表示されていませんし、宮司さんがご在宅でなかったので詳しいいきさつは分かりません。
 宮司さん宅のお庭に祀られた稲荷と弁財天のような趣があります。後日伺ってお聞きしたのが、2項の説明ですが、宮司さんでは無く保持を任された御子孫だと言います。

 於三稲荷がある牡丹町は江戸時代、海岸を埋め立てた土地であった。昔、このあたりに牡丹を栽培する農家が多かったので、牡丹町と名付けられた。また現錦糸町あたりの牡丹園の職人が多く住んでいたので、この名が起こったともいう。(江東区ホームページより)
 で、ここには今、森も小高い丘も有りません。しかし、当時は松平伊豆守の下屋敷が有ったところなので、豪勢な庭園や築山があって、埋立地らしからぬ風情が有ったのでしょう。

 この南には江戸城の補修用の石材が千葉県の鋸山から切り出され集積されていました。ジャマな石は地中に埋めて基礎としている家が多くあります。区の教育委員会からすると喉から手が出る程貴重な歴史的資料として欲しいところでしょう。地名として古石場と呼ばれています。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

亀戸天神(江東区亀戸3−6)
梅、藤、太鼓橋、ウソ替え、学業の神様で有名な天神様。九州太宰府の分社として江戸時代から栄えていた亀戸天神です。菅原道真を祀って天神と名乗っている神社は1000社を越えると言われ、その実数は把握出来ないほどです。そのぐらい天神さんは我々の身近に有るのでしょう。

亀戸天神・太鼓橋(江東区亀戸3−6)
各地の天神社は菅原道真公が亡くなってから1100年が経つところから、2003年に大がかりな千百年大祭が執り行われました。ここ亀戸天神も庭を全面的に改修し、池も太鼓橋も新品です。

亀戸天神・太鼓橋版画
「かめゐど天神たいこはし」北斎画

亀戸天神橋
天神の西側を流れる横十間川に掛かる橋が天神橋。蔵前通りが通っています。

団子屋?船橋屋(亀戸3−2)
天神橋と天神様の正面鳥居の中間に有るのがこの団子屋ならぬ船橋屋です。
創業百九十有余年の老舗、くず餅の船橋屋です。
 

於三稲荷(おさんいなり、江東区牡丹1丁目6−5)
主題の阿三稲荷=於三稲荷です。「古木弁財天」と並んで建っています。

法恩寺(ほうおんじ、墨田区太平1−26)
皇居の平川門近くに江戸城築城の折り太田道灌が城内鎮護のため建立。おおよそ550年前のことで、平川門から平河山と号した。元禄8年(1695)現在地に移転した。
 

                                                             2004年 9月記

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