落語「花見酒」の舞台を歩く

  
 

 六代目春風亭柳橋の噺、「花見酒」によると。
 

  ”酒が無くてなんの桜かな”と言われるように、花見には酒が付き物です。
 「向島に花を見に行ったら酒屋がない、だから我々二人が金を出し合って酒を売らないか」と言う事で酒を仕入れて売る事になった。倍儲かるから2両が4両、4両が8両になって、8両が ・・・・、両手でも数えられないほど儲かるという。

 借りのある酒屋だがそこで2両の酒を買った。一斗樽に仕込んだが底の方にわずか入った程度で、担いで出掛けた。腹が空きすぎて力が出ないと言って1貫だけ残して置いた。この1貫で芋でも買って力を付けて働く事にしたが、芋を買えば芋屋に儲けさせてしまう。だったら、無駄がないように我々の酒を買えば損が無く、倍儲かるよ。樽をそこに置いて、まず相手に1貫の金を払って一杯の酒を買って飲み出した。金を受け取った相棒も待ちきれずに、その一貫を相手に渡して一杯やった。イイ酒だと感心しながらやった。相手が美味そうに飲むので 、その1貫で交互にまた飲んだ。

 向島に着いて、酔った勢いで店開きをした。最初の客が付いたが、酒が無く売り切れていて断った。2両の金で仕入れているので、4両にはなっているはずで、そのお金で再び酒を仕入れて来る事にした。相棒に売上金を出さすと1貫しか無い。「2両で仕入れたのに1貫しか無いとはおかしいじゃないか」、「1貫出してお前が飲んで、俺が飲んで、またお前が飲んで、俺が飲んで・・・、で売り切れた」、「それなら、無駄が無くって良かったな」。

 



1.上野と向島の花見

 花見で上野の山は寛永寺の境内であった為、取り締まりがきつく、浮いた事は出来なかった。そこへ行くと向島や飛鳥山は無礼講で思う存分騒げたし楽しめた。
 他に品川の御殿山も名所であったが、幕末に黒船が来ると東京湾にお台場を建設するため、山を削って埋め立てた。その為、山が無くなり桜の名所も無くなってしまった。

 
 明治東京名所図会「隅田堤上の観桜」 山本松谷画  2011.05追録

■向島(隅田堤=隅田公園)
 
隅田公園は隅田川東岸(墨田区向島側)および西岸(台東区側) を併せてこう呼びます。噺の中で向島と出てくれば、東岸・墨田区向島側を言います。こちら側には落語「和歌三神」で紹介した三囲(みめぐり)神社や落語「野ざらし」で紹介した言問団子や長命寺桜餅など、また 落語「文七元結」では細川の屋敷跡のアサヒビール、水戸家下屋敷(向島1丁目全域)の庭園部分が今の墨田公園(向島1−3)であったり、枕橋もこちらにあります。
 川辺の公園ですから何時行っても楽しめますが、やはり、このお花見時分が最高でしょう。
落語「百年目」より

 墨堤植桜の碑(向島5−1隅田公園内、長命寺桜餅屋脇)
 この石碑には隅田公園にいかに桜の木が植樹されてきたかという歴史を刻んでいます。これによると始め四代将軍家綱の命により植樹され、以後歴代の将軍が桜を増やしていった。隅田川が氾濫し堤が決壊し被害を受けたときも有志、村人達の尽力によって修復。その後も植桜は進められ、管理維持され今のように完成されていきました。と、記されています。
 今後はソメイヨシノだけではなく、1年中桜が楽しめるようにと、各種類の桜を植樹し、新しい桜の名所になるようにするそうです。

■上野の山(台東区上野公園)
 
上野公園は面積62万平方メートルあり回りより高台になっていて、お皿を伏せた様な小山になっています。その為”上野の山”と呼ばれます。この上野公園の中でもさらに小高い所がすり鉢山と言われる所です。ここは前方後円墳であると言われています。ここに最初 落語「崇徳院」の舞台になった”清水堂の舞台”が有りま した。今は不忍池が見えるところに移設されています。
 上野公園を舞台にする噺と隅田公園を舞台にする噺の二通りが有り、小さんは前者の上野公園を舞台にしている。しかし、どちらも噺の内容は全く同じです。落語「花見の仇討ち」でも書きましたが、江戸時代までどんちゃん騒げるのは隅田公園、飛鳥山。静かに桜を楽しむ(騒げない)のが上野公園でした。 ただ、江戸の上野の山が明治になって上野公園と名が替わると締め付けは無くなった。
落語「長屋の花見」より

■飛鳥山(北区王子1-1 区立飛鳥山公園)
 
八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保五年(1720)から翌年にかけて、1270本の山桜の苗木を植裁した。元文二年(1737)にはこの地を王子権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放され花見の季節には行楽客で賑わうようになった。(東京都教育委員会説明板)
落語「花見の仇討ち」より

 

2.1斗樽
 
1斗=10升(1升瓶10本、1升=1.8L)。通常の樽は4斗樽です。

■2両と1貫
 五貫文は、5,000文(=1両)。江戸の中期の頃の貨幣価値です。
 初期の公定相場は金1両=銭4貫  (4000文)=銀50匁。
 幕末には      金1両=銭10貫(10000文)=銀60匁。インフレによって貨幣価値が下がっていきます。
 1貫は1000文です。後期で1貫は0.1両になります。

 「2両1貫」は2.1両になります。約1〜2升ぐらい買えた金額だと噺の中で言っています。嘉永六年(1853)上等の酒1合が40文で買えたと言いますから、2.1両で酒5斗2升=1升瓶52本買えた。それが1斗樽の底の方しかないというのは時代が江戸時代も後期か、明治に入ってからの物価指数になるでしょう。2両1貫=2円10銭と言い直した方が素直かも知れません。またその様に円、銭で話している演者もいます。

 

3.売上??
 
確かに対人相手に商売をしていれば、倍の儲けで2両が4両、4両が8両になるでしょう。でも1貫を相手に渡して飲みあったら、最終的には1貫しか残らない事になります。そこがこの噺の可笑しいところで、お互いに商売をしていたのに1貫しか売上が無いのは摩訶不思議な事なのです。
 教訓;酒飲みに酒を売らしてはいけません。
 どんな商売でも、商売物に手を付けてはいけない理由がここにあります。

 三人の娘が話し合っています。
 「お花ちゃん、貴女の家は良いわね〜、お菓子屋さんでしょう。何でも好きな甘い物が食べられるじゃない」、「だめなのよ。お母さんが言うの。商売ものに手を付けてはいけないって」。
 「おミツちゃん、貴女の家の方が良いわヨ、着物屋さんでしょう。好きなものを何でも着られるじゃない」、「だめなのよ。お母さんが言うの。商売ものに手を付けてはいけないって」。
  「おカヨちゃん、貴女の家だって良いわよね〜、お風呂屋さんでしょう。いつも男の人を見られるじゃない」、「だめなのよ。お母さんが言うの。商売ものに手を付けてはいけないって」。
10年4月花見をしながら追記

 

4.桜・ソメイヨシノ
 オオシマザクラとエドヒガンの交配種といわれるソメイヨシノ(染井吉野)は。江戸後期に江戸の染井(現在の豊島区駒込)の植木屋 さんが”吉野桜”の名で全国各地に売り出し、のちに”染井吉野”と名付けたものと言われています。「吉野桜」とはふつう奈良県の吉野山のヤマザクラのことですが、観賞用のサクラを意味し命名されたのでしょうが、後年地名を被し「染井吉野」となった。花付きがよく生育も早いことから観賞用のサクラとして人気が出て、明治期になると全国的に広く植栽されるまでになり、今では海外でも数多く植栽されており、日本を代表する樹木の栽培品種といえます。東京都の花でも有ります。
 


  舞台の向島を歩く
 

  気象庁発表で例年より早く3月18日開花宣言が出されました。都内の桜がそろって咲き始めました。私もあわてて会場の向島に駆けつける事になりました。
 5日経った3月23日訪ねましたが、東京は開花日から10度以上低い日が毎日続いています。ですから、桜はまだ1分咲きの状況で花見どころではありません。寒くて桜同様肩をすぼめて足早に帰ってきました。

 3月28日、開花して最初の日曜日。土曜日からの温暖な日が続いて一斉に花開き始めました。朝早くから花見客が詰めかけ、陣取り合戦もあり賑わっています。花そのものは5分咲きでしょう。気象庁は花芽が80%開いた時を満開と言います。と言う事で、3月29日を靖国神社の基準木が満開になったと発表しました。4月1日になると都内中のソメイヨシノが感覚的に満開になりました。4月4日最初の日曜日が最高のお花見日和になるでしょう。

 桜の花は2〜3回雨に打たれて、ピンクの色を濃くして、存在感をアピールしています。夜の桜は暖かさも手伝って、気持ちよく夜桜見物とシャレる事が出来ます。妖艶な桜が人々を誘っています。

 特設売店も賑わっていますが、樽を持ち込んだ酔っぱらいの酒屋は何処にも居ませんでした。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

 向島(隅田堤=隅田公園)
3月23日、開花宣言後のソメイヨシノの花びらです。


野口雨情の碑(長命寺桜餅脇)
「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」
ここに刻まれた詩は日本童謡民謡の先駆者野口雨情氏が、昭和8年門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折り、唱われたものです。

 

3月28日向島(隅田堤=隅田公園)の桜
以下満開直前の日曜日を歩きます。

常夜灯(墨田区向島5−1、桜橋脇)
明治4年牛島神社がこの付近にあった頃、神社へ行く坂の途中に建立され、川船のための燈台でもあり、墨堤の燈明をかねていた。燈籠を目印に花見客が集まり、ここで一息を入れて、散策を続けた。江戸、明治の風情を感じさせる 燈籠です。

長命寺裏の墨堤の桜
この近所に桜餅屋の「長命寺桜餅」(東京都墨田区向島5-1-14)があります。
江戸時代、享保2年 (1717)のこと、 当時江戸向島の長命寺の門番をしていた山本新六さん、毎日毎日向島堤の桜の落葉の掃除に手を焼いておりました。そこで、この桜の葉を何かに使えないものかと考え、 そこで、薄い小麦粉の皮に餡を包み、桜の葉を塩漬けにしたものにこれを巻いた桜餅が誕生しました。これは大変はやった。

桜橋を見ながら花見
ボリューム感一杯の隅田公園です。

同じく隅田公園の桜
朝9時は早い(?)のに、散策する花見客は結構居ました。しかし、陣取りして飲み始めるのには早すぎた。

                                                              2004年 3月記

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