落語「七面堂」の舞台を歩く

  
 

 橘家円蔵の噺、「七面堂(しちめんどう)」によると。
 

  ある田舎の七面堂に泥棒が入った。盗む物は何もなかったが、やむおえず香炉と木魚を風呂敷に包んで持ち出すと、堂守に見つかってしまった。「ドロボーだー!」の声で村中の人に取り押さえられてしまった。
 親に孝行したいがためと弁解して許されたが、身体が固まって動かなくなってしまった。七面様の祟りだとお堂に連れて行って拝むと、許されたのか元の身体にもどった。

 町の人、村の人がその話を聞くと、こぞって七面堂にお参りに来るようになった。泥棒除けのお札を売り出して繁盛した。本堂は新築され立派になった。縁日も出て賑わった。10年もすると、堂守は住職になって、千両箱を三つ四つ枕元に積むようになった。その時、押し込み強盗が入った。三千両出せとすごんだが、よく見ると10年前に身体が動かなくなった泥棒だった。

 「私が拝んで助けてあげたのに、なんて事をするのだ」、「とんでもない、俺が今の立派なお堂にしてあげたのだ。だから三千両出せ」、「いわれのない話に、びた一文出せない」、「こんなお堂に身体が固まる訳はない。アレは俺がしくんだ 芝居だ。すると、霊験高いと参拝者が増えて、立派になると分かっていたのだ。俺のお陰だから、三千両出せ!」、「なんて、気の長いドロボーだ。危ない事はよせ。千両出すから持っていけ」、「早く三千両出せ」、「千両だ」、「三千両だ」。
 そこに寺男が出てきて「そんな、七面倒(堂)な話」 (やめとけよ)。

 


 

1.「七面堂」のオチ
 
上記のオチが伝承されたオチですが、円蔵が友人と考えたオチとは、

 『 ・・・、「だせ」、「出さない」と言い合っていると、くだんの泥棒がうなり始めて、「また身体が固まって動かなくなってしまった」と、言い始めた。住職がすかさず「そんな事言って10年後に一万両出せと言ってもそれは出来ない!」。 
 好きな方のオチをお取り下さい。と言って座布団から降りた。  

 2分ぐらいで終わってしまう、古い一口小話をふくらませて復活させた噺です。出典は明治30年頃の「百花園」という速記本の中にあった物で、3代目春風亭柳枝が演っていた。百数年ぶりに甦った事になります。
 

2.「七面堂」の所在
 
本所の番場町(ばんばちょう)と円蔵は噺の中で語っています。しかし、場所を固定すると話が小さくなるので、「ある田舎の七面堂・・・」と言い直していると、語っています。今の墨田区 東駒形1丁目と本所1丁目です。
 落語、第50話「唐茄子屋政談」に出てくる叔父さんの住まい、 第54話「文七元結」の左官の長兵衛さんが住んでいる、あの有名な「本所だるま横町」の有った所です。 だるま横町と隅田川の間に有ったのが馬場町。

 江戸切り絵図で見ると、馬場町には「多田薬師・東江寺(東漸寺と記載された切り絵図は誤記です)」と「普賢寺」が有りました。舞台はどちらかのお寺さんにあった、お堂だと思われます。しかし、移転したので、現在はどちらのお寺さんも当地には有りません。 ですから舞台の七面堂は、今どこにもありません。

■東江寺 天台宗   葛飾区東金町(ひがし かなまち)2の25の12  別名;多田薬師
 多田薬師の移転先が東金町に移っています。大正12年(1923)の関東大震災により江戸300年以来栄えた当寺も被災し、薬師如来本尊と法華経を担いで逃れ、帝都復興計画により昭和の始め現在地に移ってきました。
 東江寺は天正11年(1583)江戸本所、隅田川のほとりに開かれました。対岸に浅草寺、駒形堂、などが見えた事でしょう。本尊の薬師如来像(高さ四寸五分の金銅像)が多田満仲の念持仏であったことから、多田薬師と呼ばれています。ご住職に伺ったところ、震災前の東江寺には「七面堂」は無かったと言います。

■普賢寺 多田薬師の隣にあったこのお寺さんは、移転先が不明でしたが、 ご来館のO氏により移転先が判明。ありがとうございました。
天台宗 普賢寺  東京都府中市紅葉丘(もみじがおか)2−26−4 (多磨霊園東隣り) 別名;歌舞伎不動と呼ばれた
 ご住職に伺いました。大正12年(1923)の関東大震災により浅草寺末寺として栄えた当寺も被災し、御本尊と過去帳を担いで逃れ、帝都復興計画により昭和の始め現在地に移ってきました。
 既に当時のご住職は三代前になり、七面堂の所在は分からないと言われます。また、日常の会話の中でも七面堂の話は出た事はなかったし、現在地にも無いとの事です。(2009.2.16追記)

 

3.「影向の松」があった善養寺のお堂(江戸川区東小岩2−24−2)
 
善養寺は落語、第77話「欠伸指南」で出掛けた日本一の「影向(ようごう)の松」があるお寺さんです。本堂の東側に「不動堂」 (小岩不動尊)が有ります。この不動堂にこの落語の噺によく似た話が残っています。

 昔、近在を荒らす盗人がいた。ある時、不動堂に押し入り仏具を盗み出そうとした。首尾よく荷物をまとめてお堂を出て、影向の松の松の下にさしかかると、さて不思議!片足が敷石にくっついたまま何としても離れない。いわゆる不動金縛りにあったわけである。盗人たまげてオロオロする眼前に、やおら姿を現した不動明王、右手に利剣を持して彼の非を責め諭された。盗人悔悟の涙をポロポロ流し、その涙が石に落ちたとたん、彼の足が石から離れた。
 しかし、その石には未だ彼の足跡が残っている。影向の松の根方にある四角い石がそれです。その石の名前を「影向の石」と言います。
(善養寺パンフレットより)
 この石がそうなんですが、足跡らしきものが見えますか? 
 それらしき凹みは有りましたが・・・、私には判別出来ませんでした。そんな疑いの目で見てはいけません。

 

4.びた銭と千両箱
千両箱 びた銭は、最も質の悪い銭(ゼニ)をびた銭といいます。「びた一文払わねぇ」というのはここからきています。最悪の質の銭一文すら払わない、ということなんです。これ以下の単位の銭はありませんし、擦り切れた貨幣もありません。

 千両箱は、千両の銭貨を入れておく木製又は金属張りの箱。 ミカン箱を小さくした大きさ。10両盗むと首が飛ぶ時代に、100人分の首の重さがあったのでしょう  (^_-) 。
 千両箱というのは、25両包みの小判が40個入った木箱でした。箱のサイズ、幅約25cm、長さ約50cm、深さ約13cm。重さは、約4kg。ただ、これは箱の重さだけ。中身がキッチリ詰まった千両箱は、小判100枚(百両)はおよそ300匁、つまり1125gとされているから、千両箱の中身はその10倍で11250g(11kg強)になります。これに箱の重量を加えれば、13〜14kgという重さになります。また、小判だけではなく二朱金(1/2両)を詰めたものもあった。小判や金貨の種類によっては20kgありました。
 「銀五百貫目よりして、是を分限(ぶんげん)といへり。千貫目の上を長者とは云ふなり」と言われるように、千両有ると分限(ぶげん)と呼ばれ、長者の仲間に入った。  (写真は造幣博物館にて)

 


 

  舞台の本所だるま横町を歩く
 

  第50話「唐茄子屋政談」で歩いた”本所だるま横町”を中心に、また歩いています。現代の地図で調べてみても、地元の古老に聞いてみても、その様なお堂は見聞きした事がないと言います。明治11年の地図には二つのお寺はまだ載っています。 それもその筈、大正12年(1923)の関東大震災により二寺とも被災し、帝都復興計画により他所に移転しました。またこの二つのお寺さんとも限定出来ませんので、他にも有ったのでしょうか。
 どちらにしても、夏の炎天下、日干しになりながら探し歩きましたが、地元の人が言うように、どこにもその痕跡は有りませんでした。

 多田薬師・ 東江寺 葛飾区東金町(ひがし かなまち)に行ってきました。境内に幼稚園があり、新しくなった本堂と対をなすような造りです。墓参の方々がいる忙しい中でも浅井孝順ご住職が笑顔で応対してくれました。震災当時、先代(父親)と先々代(祖父)が経文や本尊を背負って避難し、厩橋際で船に助けられて、今に残っている事や”七面堂”は多田薬師には無かった事、また東漸寺 の記述は切り絵図出版元の間違いであった事などを教えて頂きました。その上、貴重な資料までいただき嬉しい限りです。
 また、震災で焼け出されこの地に移転した業平山・南蔵院(葛飾区東水元2−28−25)に足を延ばしてみました。多田薬師から歩いて10分位の距離にある、業平山の山号でお分かりのように本所業平から移ってきたお寺です。俗称「江戸名所縛られ地蔵尊」と言います。山門を入ると正面に縛られ地蔵が縄でグルグル巻きになっています。ここのご住職にも聞いてみました。やはり”七面堂”は南蔵院には無かった事、普賢寺の移転先などは分からないとの事でした。

 場所は変わって、落語、第77話「欠伸指南」で前回訪れた、日本一の「影向(ようごう)の松」がある善養寺(江戸川区東小岩2−24−2) さんに再度訪問です。仁王門をくぐると境内一杯に影向の松が笠のように枝を伸ばしています。その先に松の枝に隠れて本堂の屋根だけが見えます。ここを訪れていつも思うのですが、ご神体はこの影向の松ではないかと思う事があります。松の枝のトンネルをくぐって、本堂に向かう右手に朱色の「不動堂」 (小岩不動尊)が有ります。右手に不動堂、左手に影向の松の根方があります。影向の松の根方に小さな石が有ります。その石が「影向の石」と呼ばれるもので、盗人の足痕が残っていると言われるものです。
 この様な伝承は各地に残っているのでしょう。もしかすると、落語の噺のようにお堂を盛り立てるために、でっち上げられたのかも知れませんよ。 ウソウソ、そんな事考えた事もありませんです。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

  上記地図は「本所だるま横町」の地図。

  左記地図は「小岩不動堂」の地図です。

 


 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

小岩不動尊・不動堂(江戸川区東小岩2−24−2)
「影向(ようごう)の松」がある善養寺さんの本堂の東側に「不動堂」 (小岩不動尊)が有ります。朱塗りの手入れが行き届いた不動明王を祀るお堂です。

小岩不動尊・不動堂から見る影向の松(江戸川区東小岩2−24−2)
不動堂正面に立って庭を見ています。庭一杯に影向の松が伸びています。その一部が、この不動堂まで伸びてきています。

影向(ようごう)の
堂の正面階段を下りると、影向の松の根方に出ますが、その根方にこの石が置いてあります。盗人の足跡が残っていると言われる石です。信じる人にはその様に見えるのでしょう。

影向(ようごう)の松
江戸川区東小岩2−24「善養寺」にある、都及び区の天然記念物の名松。樹齢約600年、枝下面積約800平方メートル(約240坪)を誇る巨大な黒松。『影向』とは神仏が姿を現すという仏教用語です。日本で1,2位を争うほどの名松。 当然1本の松の幹から枝分かれして、写真ではその一部分(1/4位)だけが写っています。

本所だるま横町
落語「唐茄子屋政談」でも紹介した、叔父さんの住まいで有名な”だるま横町”です。北を向いて朝日ビ−ルを眺めて撮影していますが、古地図によるとこの左側(西側)に、お寺さんがあった。しかし、今は何もありません。

厩橋
厩橋の橋際に小さなお地蔵さんが祀られています。その名を「厩橋地蔵尊」と言います。この近所に噺の舞台「七面堂」が有ったのでしょう。今は当時の面影は全くありません。

多田薬師・ 東江寺 
天台宗   葛飾区東金町(ひがし かなまち)2の25の12  
だるま横町と隅田川の間に有ったのが多田薬師で、江戸時代の絵図にも広大な境内を持った寺院であった事が伺えます。

業平山・南蔵院(葛飾区東水元2−28−25)
「縛られ地蔵尊」の名で有名で、そのいわれを、
夏の暑い日、さる呉服屋の手代が、大八車に反物を積んで南蔵院の前にさしかかった。暑さのため一服をしていると、ウトウトと寝てしまい、気が付くと車ごと無くなっていたので、奉行所に届け出た。大岡越前の調べで「寺の門前に居ながら、泥棒を黙って見逃すとは同罪なり」と、地蔵をグルグル巻きにして市中引き回しの上、奉行所に引き立てた。それを見た野次馬連中が奉行所に押し掛けて成り行きを見守った。門を閉めて「お白州に乱入するとは不届き至極、科料として反物一反を申し付け る」。その反物の山から盗品が出て、大盗賊団が一網打尽になった。越前守は地蔵の霊験に感謝し、お堂を建立し縄ほどきの供養を行った。
 以来「しばられ地蔵」として、願い事をする時は縄で地蔵を縛るようになった。大晦日に縄ほどきをして、裸のお地蔵さんを拝見する事が出来ます。

                                                                                                                2003年8月記

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