落語「水屋の富」の舞台を歩く

  
 

 五代目 古今亭志ん生の噺、「水屋の富」によると。
 

  昔、水屋という職業があった。この職業は雨・風・雪、関係無しに1日も休む事が出来ない。責任が重いうえに、安い料金と重い水を運ぶので、年を取ってくると大変であった。ある水屋さんが富くじを買ったら 、たまたま千両富に見事に当たった。麻の風呂敷に手数料の200両を引いた800両を持って喜んで帰ってきた。「これで水屋から足が洗える」と大喜びであった。しかし、その800両を隠す場所に困ってしまった。葛籠(つづら)の中の古着の下に隠したが心配になって、神棚の中に隠した。それも心配で、畳を上げてその下につり下げ、外から縁の下を突くと”コツン”と触った。

 風呂に行くのにも周りの人が皆盗人のように見えた。仕事に出る時も心配で心配で出掛けるのが遅れ、遅くなったとお客さんに怒られた。寝ても夢の中で強盗に会ったり、刃物を持った暴漢に襲われたり、寝ている事も出来ない。寝不足のまま縁の下をコツンと確認して出掛けたが、すれ違う人全てが盗人のように見える。お客の所に行けば怒られ、くたびれて帰ってきた。コツンとやって寝たが、うなされてまた眠れず朝を迎えた 。心配でコツンとやってひと安心 、やっと出掛けた。前の日と同じようにクタクタになって帰ってきた。早く代わりの者を探さなくては思っていたが出来なかった。
 起きていれば周りの人達が盗人に見えるし、寝ていれば夢の中で殺されてしまう。フラフラになってコツンとやって出掛けていった。それを見ていたヤクザな男がその秘密をあばいて、800両そっくり盗み出していった。

 水屋がフラフラになって帰ってきた。荒らされたとこを見て慌てて縁の下を見ると、サー大変。すっかり無くなっていた。これを見た水屋が一言、「これで苦労が無くなった」。

 


1.水屋
 神田上水と玉川上水の大きな二つの水系によって町民たちは水を得ていったわけです。これも昨今,江戸に対する啓蒙がずいぶん進んでいるわりには,水道というものを江戸時代の人間が口にし,使っていたといっても異様に感じる人がまだまだ多い。それは近代の水道とすぐ直結して想像されるからなのですけれども,これは言うまでもなく川から清流を引いて,途中までは開渠(かいきょ)ですが,江戸府内に入ると,地面に樋を埋めて暗渠(あんきょ)にして給水をしたということなんです。

 玉川上水のほうが,四谷の大木戸へ引き込まれてまいりますね。そして,むろん玉川上水も神田上水も, 一つはお城の中へ入れるわけですから,それであとの分水が町人地へ配られる。ですから,神田上水の場合は,まず関口町(注1)からお茶の水まで引っ張ってきて,それをお城へ入れるためにお茶の水の上を渡します。水道橋なわけです。それでもう 一つが下町へ行くわけです。神田上水の場合は,どうやら町人地に圧倒的に持ってきましたけれども,玉川上水のほうは,四谷の大木戸から,1 本はお城へ入り,もう1本は番町や麹町(注2)なんかにずっとあった武家屋敷にもずいぶん引き込まれていたんじゃないでしょうか。番町皿屋敷のお菊の出た井戸は掘り抜きの深井戸だったと思いますが……。

 それともう一つ,まだまだ行き渡っていない知識としては,裏長屋などでおなじみに登場してまいります共同の井戸が,全部地下水脈からの掘り抜き,掘削した井戸だと思っている人たちが多いのですが,少なからずあったのが水道井戸で,関口町あたりから江戸市中に暗渠となって網の目のように入ってきたものを縦に掘り抜いて,それから供給していく。そういう水道井戸というものもありました。

 また,水道をそのまま関口町のような桝(ます)という取水口からくみ取って販売して歩く「水屋さん」という職業があって,水屋が毎日市中を歩き回りました。あの重い桶を前後 2桶で1荷(か)と数えていたそうですが,これでわずかの4 文。仮に比較を申し上げますと,幕末まで優等食品として値上げが絶えて久しくなかった盛りかけそばの16 文の4 分の1 (注3)ですが,これを前後に2桶を担いでやっと4 文にしか売れない。我々現代人から考えたら,こんな重労働はだれも仕手がないだろうと思いますが,それでもお得意がきちっと定着して,そしてどこの家の台所の水がめにはこのぐらいの貯えがまだある,ここにはもうなくなっているということをいちいち,得意先のことをその水屋さんが全部マスターしていたそうです。ですから,独り者の家庭などは家を留守にしても,留守にするときに水がめのふたの上に小銭を置いておけば,そこへ水屋さんが寄って水を補給して,その勘定を持っていってくれるという,台所の水がめまでサービスが行き届いている。江戸っ子の自慢の一つ,「一荷四文の水道の水」がこれでして,そういうぜいたくな水を産湯に使った都会人なんだという誇りなんですね。

 『水屋の富』という落語がございますけれども,それも零細な稼ぎの水屋が,なけなしの金をためて富札を買って,千両富に当たって,その千両を引き換えたのはいいけども,いまと違って銀行へ預けるわけにもいかなくて,床下にぼろ手ぬぐいに包んでつっておいて,1 荷4 文の水を売って帰っては,竹ざおの先でコーンとつっついて,「ああ,あった」というのでやっている間に,泥棒から狙われるのではないかというので夜も寝られなくなって,こんなことなら金が当たらなければよかったというので,それである日帰ってきて,コーンとやったら取られてしまっていて,「ああ,これで明日から寝られる」という落ちがあるんですけれども,何か価値観というものがばかばかしいものだと思うんですけど,いかにもうけは少なくても,需要は絶えない堅い商売でありますから,はっきりしたお湯屋や何かのようではないけれども,株のようなものはあったと思います。
●江戸の人と水  榎本滋民氏談 (抜粋)

注1; 関口町=文京区関口。ここに関を設け神田上水を分岐、一方を水道としたところ。江戸時代の町名は関口と水道町、関口水道町がありました。ここの関守として若き松尾芭蕉は一時働いていたと言われています。 今、ここに芭蕉庵があります。
注2; 
番町や麹町=千代田区番町、麹(こうじ)町。番町は「お菊の皿」で歩いた町。麹町はその南側に有り、江戸城の半蔵門から四谷に抜ける新宿通りに面した細長い町。 当時、日本酒や味噌、醤油の麹を造る業者が多かった。新宿通りはこの先、大木戸から新宿の町を抜けて甲州街道と青梅街道に別れます。両町とも旗本屋敷などの武家屋敷町であった。
注3; かけそばの16 文。例えば独身の若い職人の日収が,だいたい江戸中期のころは324 文ということです。幕末には500 文,600 文という日当になったそうですが,そのクラスの職人が住まっている裏長屋の店(たな)賃が,300 文から,よくて600文ぐらいです。1 日半ぐらい働けば1 カ月の店賃は払えるわけです。その店賃すら先祖代々ためているという豪の者が居たのですから……。


水道井戸;右の方から木で出来た地下の樋を使って水を送ってきます。左上の四角いマスで受けて、そこから分岐、井戸に給水します。使う時は桶でくみ上げます。けっして地下のわき水をくみ上げているのではなく、給水された水道水を貯めて使っています。 (写真;東京都水道歴史館にて撮影。文京区本郷2−7−1)

 飲料水は日常生活に欠くことのできないものであり、飲料水確保をめぐる環境は、とりわけ都市住民の生活に深い関わりをもっている。明治 31年以降、近代水道、いわゆる改良水道の創設により東京市内において給水施設が逐次整えられていくが、この創設工事が完成するまで、飲料水として主として利用されたものは、江戸期以来の水道および掘抜井戸であった。しかし、明治期東京においても、本所・深川地域をはじめ神田・玉川両上水の恩恵に浴すことのない地域や良質の井水がえられない地域があり、そこに住む人びとの多くは、神田・玉川両上水の余水や飲用に適する井水あるいは上流河川の水を飲料水として販売する水売りに頼らざるをえなかった。
 「昭和60年3月  東京都公文書館 都史紀要三十一 東京の水売り 」より

 

2.水屋と水売り
みずうり【水売り】
 白玉と砂糖を入れた冷水を売り歩く商人、江戸時代の夏の風物詩であった。実際は生暖かい水だったようで、これも一杯4文した。

みずや【水屋】
 飲み水を売り歩く商人。
水売りと、水屋とは別の職業であった。混同しないようにしてください。

 隅田川から東の墨東(墨田・江東区)地区は玉川上水や神田上水の恩恵に直接恵まれませんでしたが、利根川水系の江戸川から取水して北部の方は水道が引かれていましたが、南部の深川まではいくつかの川を横断しなければなりませんでしたから、引くことができませんでした。
 その為、玉川上水の余水を船に積んで、隅田川を渡り、深川の仙台堀川の船溜まりに着けられ、そこから水屋の商人が汲み出して売り歩いた。
 水は天秤棒の両端に下げられて売り歩いた。その総量は60リットルで、これがひと単位の”
一荷(いっか)”と言われた。 (江東区深川江戸資料館学芸員談。江東区白河1−3−28)

 上方落語の「壺算」で一荷の壺を二荷の壺に買い換える話が出てきますが、単位はここからきています。
 

 隅田川から東の江戸すなわち、本所、深川地区では今までの噺のように水屋が活躍していましたが、万治2年(1659)から享保7年(1722)まで、亀有上水が引かれ、本所一帯まで給水されていました。その上水(川)の名前を曳舟(ひきふね)川と言いました。今は墨田区側は埋め立てられて道になってしまいましたが、”曳舟通り”、駅名の”曳舟”に残っています。その先の葛飾区、足立区には今もその後の用水蹟が残っています。
 青山上水、三田上水、千川上水、も1600年代に開設されましたが、亀有上水共々江戸時代の半ば前の1722年に廃止されてしまいました。その大きな理由は解っていません。 青山上水、三田上水、千川上水系の地域でも、水道が無くなってしまったので、水屋が活躍しました。

 玉川上水は江戸市中を給水された後、日本橋に近い日本橋川に架かる”一石橋”(中央区外堀通り日銀南交差点”常磐橋”と”呉服橋”交差点間に架かる橋)脇で余水を川に滝のように排水していました。同じように神田上水も一石橋の隣、”銭亀橋”(銭瓶橋とも書く、堀は埋め立てられて橋共々現存しない。千代田区大手町2−6日本ビル東辺り)脇で余水を排水していました。
 この水を船に積み込んで深川、本所方面に運んで水屋さんに供給していました。日照りが続くと余水が細くなって貯めるのに苦労したと伝わっています。 4文の水が100文を越えた事もあったようです。

 この水屋のシステムは明治の31年(1898)淀橋浄水場(新宿区、新宿駅西口前)が完成し、東京の近代水道の幕開けまで続きました。
(資料;東京都水道歴史館にて)

 

3.長屋
 平均的(?)な住まいで有名な「九尺二間の長屋」は、町人達が住んでいた裏長屋です。九尺二間(くしゃくにけん)とは入り口(間口)が9尺(畳の短い辺X3、=2.7m)と奥行き2間(畳の長い辺X2、=3.6m)の住まいです。入り口は奥行き3尺の土間になっており、そこに今で言う玄関と台所がありました。台所にはへっつい(かまど)と簡単な木の台と水瓶又は桶が置かれていました。柱には火防(ひぶせ)のお札が貼ってあります。
 奥(?)の部屋は残りの9X9尺ですから、四畳半になります。押入は有りませんから、衣類は葛籠(つづら)や風呂敷に包んで夜具と共に奥のマクラ屏風の影にしまわれていました。棚があり、並んで大神宮様の神棚が飾られています。その奥は障子で濡れ縁と続き 、裏に出られます。洗濯物はここに干します。
 この様な造りが左右に数軒繋がって、一つの長屋が形成されていました。
 水屋さんの部屋もこの様な造りだったのでしょう。玄関の上がり端から竿を差し込んで「コツン」とやっていたのでしょう。

 ”棟(むね)割り長屋”となると部屋の奥は裏側の長屋と背中合わせになっており、入り口以外三方の壁はお隣と繋がっています。
    「裏店の壁には耳も口も有り
    「隣の子おらがうちでも鰯だよ

 九尺二間より一回り大きな部屋もありました。間口9尺(1.5間)ではなく12尺(2間)有りましたので、部屋の大きさは6畳取れました。当時は家具類が少なかったので、広く使えました。落語の中にも「『さきちゃん、お家に遊びにおいでよ』、『健ちゃん家 、狭いからいやだぃ』、『大丈夫、箪笥無くなって広くなったよ』」(名前は仮名で事実とはことなります)。
 2階付きの長屋も有れば、落語にも出てくる”三軒長屋”も有りました。

   長屋の風景
「九尺二間の長屋」(手前)と「二間二間の長屋」(右奥)です。
左側の中央には広場があり、井戸や共同便所が有ります。お稲荷さんの幡が見えます。

江東区深川江戸資料館、資料より

 

 長屋が建ち並ぶ中央にちょっとした広場があり、そこに共同の井戸が作られています。隣に塵芥捨て場の箱があり、また総後架(そうこうか。共同便所)も有ります。片隅には定番の”お稲荷さん”も建っています。
 長屋の入り口には木戸があり、門限(明け六つから暮れ六つ)が来ると閉められていました。
 総後架には近隣の農家の百姓が汲みに来て、肥料として使いました。汲み取り賃は大家の大切な収入源でもありました。大家とケンカした店子が「テやんでぇ〜。こんどっから、ここの雪隠は使ってやんねぇ〜ぞ !」、と威勢のイイ啖呵を切った。そのぐらい大切であった。
作物が出来ると野菜などを大家に手土産として置いていった。そのかわり大家は暮れには店子に餅を振る舞った。
    「肥え取りへ尻が増えたと大家言い
    「店中の尻で大家は餅をつき

 


  舞台の深川を歩く
 

  舞台の本所(墨田区)、深川(江東区)は第61話「探偵うどん」で歩いた所でもあります。伊能忠敬が作った地図、「忠敬歩測練習の道 鳥瞰図」、(文化元年(1804)頃制作)で、忠敬が住まいの深川から高橋を経て吾妻橋を渡り、浅草寺を経由し、隅田川西岸を経て両国橋を渡り居宅まで帰って来るまでの地図です。作図されている、深川〜吾妻橋辺りが今回の舞台です。

 隅田川に架かる清洲橋の南側に回遊式の都の庭園「清澄庭園」が有ります。紀伊国屋文左衛門が絶頂の頃住んでいた所だと言われています。前の通り「清澄通り」を渡り、昔の区役所通りを入ると、すぐ左手に第17話 「宮戸川」の舞台、霊岸島の地名になった霊巌寺(江東区白河1-3-32)が有ります。
 このお寺は、寛永元年(1624)に霊巌島に出来たのですが、今はここ白河に移っています。境内も広い大きなお寺で、江戸六地蔵で有名です。銅製の大きな座像で都の文化財に指定されています。また、松平定信公の墓もあります。 霊巌寺から町名「霊巌」になって「霊岸」になっています。

 霊巌寺の隣、深川の中心地に建つ「江東区深川江戸資料館」(江東区白河1−3−28)は昔、江東区の区役所があった所です。ですから、深川の中心地だった所です。
 この資料館は内部に原寸大の深川の町並みが再現されています。表通りの商店街、その裏に蔵が建ち、裏長屋が続きます。裏長屋の屋根にはのんびり猫が昼寝を決め込んでいますが、時折鳴き声をあげています。長屋は当時のまま再現され、今でいう台所にはへっつい、水瓶、又は桶が置かれています。長屋の中央には井戸と総後架(そうこうか。共同便所)が有ります。井戸の脇には小さな鳥居とお稲荷さんが祀られています。
 近くには時の鐘の鐘撞堂があり、その下には二八そば屋の屋台が出番を待っています。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

 今回の噺は水屋さんのテリトリー本所、深川地区、全てですので、地図が漠然となってしまいます。そこで、代表して資料を頂いた”江東区深川江戸資料館”をあげておきます。

 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

  

長屋の共同井戸
(江東区深川江戸資料館にて)
 台所が狭いので魚や野菜の下ごしらえ、また洗い物等は長屋の井戸端で行いました。ここは女房達の社交場、井戸端会議は毎日開催されました。井戸端会議とはここからでた言葉です。
 「井戸端へ人の噂を汲みに行き」
 また、七月七日の七夕の日は年に一度の井戸浚い(いどさらい)、長屋の連中総出で井戸の底に溜まった土砂などをきれいにしました。 水道井戸ですから、綺麗にしておかなければ大変。

長屋の台所
水を汲み置くための台所のオケ (江東区深川江戸資料館にて)
飲料水や煮炊きの水は各家の水瓶やオケに汲み置きしておきました。飲料水として井戸の水が使えない所では水売りが、天秤棒に玉川上水あたりの余水を入れた桶をかついで町々を売りに歩きました。

水道橋
今の水道橋際に建っているレリーフ。本文中の浮世絵が題材になっています。
クリックした写真は現在の神田川(外堀)に架かる水道橋。浮世絵の橋は写真を写している辺りに架かっていました。

一石橋
(中央区外堀通り日銀南交差点”常磐橋”と”呉服橋”交差点間に架かる橋)
一石橋脇で玉川上水の余水を日本橋川に滝のように排水していました。
落語「ぼんぼん唄」で紹介します迷子しらせ石標が有る所です。左側のフェンスの中に建っています。

                                                         2003年6月記

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