落語「百年目」の舞台を歩く
六代目 三遊亭円生の噺、「百年目」によると。
大店(おおだな)の旦那は番頭に店を任せて商売には口を出さないと言うのが見識だったようで、大きな商店の番頭は、大変な権力があった。
が、また使われる身だから自由な事は出来なかった。
あるお店(たな)の大番頭が、下の者から順に小言を言っていた。
鼻に火箸をつっこんでチリンチリン鳴らすな。コヨリはまだ出来ていないし鹿を作って遊んでいるな。手紙は下の物に頼まず自分で出してきなさい。本は店先で読むな。芸事の本を懐に忍ばして居ないで仕事に精出しな。二番番頭が夜遊びしてきたのを叱って「私は料理屋の階段はどっち向いているか分からないし、ゲイシャってぇのは、何月頃着る紗(しゃ)だ?。たいこもち(幇間)とは煮て食うのか、焼いて食うのか?。ぐぅ、と言えるものなら、言ってみなさい」、
二番番頭たまらず「ぐぅー」。
ひと通り小言が終わると、ちょっと得意先へと言って苦虫を噛み潰した様な顔をして外へ出て行った。
まもなく幇間(たいこもち)が路地から現れ早く来てくれと伝言。先に行かせて、一軒の駄菓子屋に入り用意してあった上質の粋な着物に着替えて柳橋へ。
そこには幇間と芸者衆が待ちかねていて、屋形船を出して花見と言う事になっていた。大番頭は誰かに見つかるとまずいので障子を締め切っていたが、吾妻橋にさしかかると酔いも手伝い花見時分で暑苦しくなった。障子を開けると春爛漫の花景色。芸者衆は上へあがって花見をしたいと言い出した。
大番頭は渋るが、幇間の提案で扇子を手ぬぐいで頭に留めて顔を隠して上がることに。酒も入って芸者衆と目隠し鬼をやってみると、船の中で殺して飲んでた酒がいっぺんに出て大騒ぎになった。
その頃、大旦那は幇間医者の玄鉄を連れて隅田堤に花見に来ていた。
「お前さんは芸者なんか追い掛けて何をバカなと思うでしょうが、…あれがなかなか面白いんですよ」。「あの三味線に乗って踊りながら芸者衆を追い掛けているのは、お宅の番頭さんに似てませんかね」、「硬すぎてあんな器用なことができる訳がない。あれはね、そうとう遊び慣れた人じゃないと…」と言っていると、酔っぱらいが近づいて来て掴まってしまった。
番頭は目隠しを取って驚いたのなんの。世の中で一番逢いたくない、怖い人が立ってる。
一間ほど飛び下がりへなへなと座して 「どうもお久しぶりで、いつもお変わりございませんで。ご無沙汰を…」。大旦那は「楽しく遊ばせてやって下さい」と芸者衆に言付けて、行ってしまった。
大番頭は真っ青になって店に帰り、風邪だからと早々と床に着いた。旦那にどんなにひどく怒られるか、あるいはクビになるかも知れないと、怖くて寝る事が出来なかった。
次の日、大旦那に呼ばれた。身を縮めてかしこまっていると、
「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか」、「いえ」、「それは、『五天竺の中の南天竺に栴檀(せんだん)と言う立派な木があり、その下にナンエン草という汚い草が沢山茂っていた。ある人がナンエン草を取ってしまうと、栴檀が枯れてしまった。後で調べると栴檀はナンエン草を肥やしにして、ナンエン草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つとナンエン草も育った。栴檀の”だん”とナンエン草の”ナン”を取って”だんなん”、それが”旦那”になった』という。こじつけだろうが、私とお前の仲は栴檀とナンエン草で上手くいっているが、店に戻ってお前は栴檀、店の者がナンエン草、栴檀は元気がいいがナンエン草は元気が無い。少しナンエン草に露を降ろしてやって下さい」。
「子供の頃は見込みがなくて帰そうかと思ってた子が、こんなに立派になってくれて。お前さんの代になってからうちの身代は太った。ありがたいと思ってますよ。だから、店の者にも露を降ろしてやって下さい。
話は違うが、昨日は面白そうだったね。自分の金で遊んでいるか、商売で遊んでいるか、見れば分かるが、これからも商売の為なら、どんどんお金を使ってください。使ってないと商売の切っ先が鈍ることがある。
ところで、貴方は眠れましたか。あたしも眠れませんでしたよ。今まで番頭さんに一切を任せてましたけどね、昨晩初めて店の帳面を見させてもらいましたよ。…ありがとう。いや恐れ入ったよ、少しのスキもない。
あたしも悪かったんだよ。お前さん、店に出ればもう立派な旦那だ。ちゃんと暖簾分けをしてやりたいと思っているんだが、お前さんがいるとつい安心でズルズルきてしまった。あと
1年だけ辛抱しておくれ。そうしたら店を持たせて暖簾分けを必ずするから。それまで辛抱しておくれよ。お願いしますよ。
話はここまでだが、お前さんは不器用な人だと思っていたが、昨日踊りを見た時は驚いた。それから、昨日逢った時、「『どうもお久しぶりで・・・、お変わりございませんで・・・』とか、一つ家の中にいて、たいそう逢わなかった様な挨拶をしたが・・・」
、
「へぃ、硬いと思われておりましたのが、あんなざまでお目に掛かりまして、あぁ、これが百年目かと思いました」。
円生のこの話は長くて、60分弱の長講であった。オチの百年目は「見つけられたが、百年目!」のように、悪事が露見し、「もう終わり。観念した」ような時に使われることば。
噺は聞き所の多いもので、百年目と言うオチも素晴らしいのですが、ガチガチの堅物と思われていた番頭の変身具合、栴檀とナンエン草の話から人の使い方の手ほどきまで、聞き手を納得させてしまう密度の高い噺です。番頭さんは商売はできるが下の者を育てるような余裕がまだない、権力はあってもやはり大旦那の方が一枚上手でした。
番頭さんだけでなく何処ででもこんな鬼ごっこの風景が見られたんです。貴方、大旦那の目線で見ていますね。 明治2〜30年代 横浜・野毛山 「古い写真館」朝日新聞社 2011.07.写真追加
1.旦那とは
『五天竺の中の南天竺に栴檀(せんだん)と言う立派な木があり、その下にナンエン草という汚い草が沢山茂っていた。ある人がナンエン草を取ってしまうと、栴檀が枯れてしまった。後で調べると栴檀はナンエン草を肥やしにして、ナンエン草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つとナンエン草も育った。栴檀の”だん”とナンエン草の”ナン”を取って”だんなん”、それが”旦那”になった』という。まことに良い話ですが、これはこじつけです。
■ 旦那(だんな)とは、もとは古代インドの仏教用語「ダーナパティ」が語源。この言葉はのちに西洋にも伝わり「マダム」の語源となったとも言われています。なんと女性を表す言葉になったのですね。
また「旦那」は「檀那」ともいわれ、その意味はお布施をする人です。日本では「施主」とか「檀家」とかいう意味で、寺に金銭などを寄進するありがたい人が「檀那」です。お布施をする人ですから本来男女は問いません。だんな⇒マダムが女性であることは不思議ではないのです。でも日本では「檀那」は男に限られているようです。
「檀那」はお布施をする人ですから、敬い言葉です。お客やご主人を「だんな」と呼ぶのはある意味で正しいのですね。経済的に援助を受ける点では「スポンサー」、「パトロン」などと同様の意味もあります。奥さんが自分の夫を「だんな」というのは経済的援助を得て敬っている時に使うのです。そう思っていない人は「だんな」様は使ってはいけませんよ?
ところで遊郭でも「旦那」は経済的に援助する人をいいます。芸妓や舞妓と男女関係を持ち、経済的に支援する男性が「旦那」です。舞妓さんが初めて旦那を持つことを「水揚げ」といいますが。昔はこの「旦那」になることが世の男性の夢だといわれたようですが、昔と違って今は身売りはできませんから、条件は経済的のみ。世知辛い現代で旦那になることは昔以上に大変なことのです。
臓器提供者を「ドナー(donor)」と呼んでいるが、これは日本語の「旦那(だんな)」と同じ語源である。サンスクリット語のdanaから来ています。
2.栴檀(センダン)
5月の下旬頃に薄紫の小さな花が房状に咲きます。(http://www.hana300.com/sendan1.html)
「栴檀は双葉より香し」のセンダンはビャクダン(白檀)の別名であって、上記のセンダンとは違います。
白檀(ビャクダン)は別名檀香と呼ばれ、薫香料や工芸材料、白檀油などに用いられております。インドやマレーシアなどに分布するビャクダン科の常緑高木Santalum
albumの心材や根から得られ、精油成分サンタロールを含みます。生産には木を切り倒す必要があり、資源の枯渇が危惧されております。3ml入りの香料が2,000円ぐらいで買えます。
白檀〈材、油〉
(http://www.kepu.com.cn/gb/lives/plant/economic/eco126.html)
ビャクダン Santalum album L. (ビャクダン科)
1995年の
4月、台湾の植物園から「ビャクダン」の種子を入手しました。扇子などで有名な香木「白檀」の原料植物です。
今年、この植物が、初めて開花しました。花は鐘形で、初め淡黄色で後に紫紅色に変わります。ビャクダンは香料植物として有名ですが、花には香気がありません。日本では、ビャクダンを栽植している植物園は少なく、従って、このような花を見る機会は、あまりないと思います。
この植物は、半寄生植物で、発芽後約1年間は、自力で生活できますが、その後は、寄生根を出して他の樹の根に寄生して生活します。もし、適当な寄主が近くにないと、その植物は枯死します。寄主には、「モクマオウ」や、「インドセンダン」、「アカシアの類」がよいといわれています。当館では、発芽した幼植物をアカシアに近縁の「タイワンネムノキ」のそばに植えて育成しました。幼植物は、この寄主が気に入ったのか、その後、順調に生育し、1996年1月には、寄主もろとも大温室へ移植しました。その後も順調に生育し、今では寄主の「タイワンネムノキ」よりも大きくなり幹も太く生長しています。
ビャクダンの辺材は、白色で芳香はありません。しかし、心材は黄褐色で強い芳香を放ちます。いわゆる「白檀」と呼ばれている香木は、この心材のことです。根の心材は、特に香気が強く珍重されます。材質は堅く緻密で光沢があります。扇子のほか、仏像や宝石箱、彫刻、高級棺材などに使われます。材には、3〜5%の精油が含まれています。これを水蒸気蒸留して得たものを「白檀油(Sandal
oil)」と呼んでいます。主成分は「サンタロール」や「サンタレン」で、香料として利用されます。心材の粉末や薄片も、線香や薫香料に用いられます。「白檀」の香気は、なかなか消えず、古い材でもよく匂うことが特徴です。
ビャクダンは、インドやインドネシアの乾燥した地域に分布し、栽培されています。中国やインドネシアでは薬用としても利用されます。
(ビャクダン | 山科植物資料館
(yamashina-botanical.com)
■ 白檀はインドネシア語でチュンダナ(cenndana)という。固有名詞になるとスハルト大統領の私邸のある一角のこと。
英語でサンダルウッド(sandalwood)という。一方、東南アジアでゴムゾウリと並び履物として定着しているのがサンダルである。〈白檀のサンダル〉と〈履物のサンダル〉とどんな関係にあるのかと考えた。そこで思いあたったのがエジプトのミイラである。その語源はエジプトのツタンカーメンの遺品のサンダルが白檀であることに由来するに違いないと見当をつけた。
しかし白檀の語源はラテン語の芳香の意味のサンタル(santal)である。白檀のサンダルと履物のサンダルは無関係という関係らしい。同じことを考えて無駄な時間を潰しそうな人のためにあえてここに記しておく。
3.五天竺(ごてんじく)
天竺(インド)を東・南・西・北・中の五つに分けた総称。南天竺=インドの南部地方。
「南瞻部洲(なんせんぶしゅう)之図」(c.1698)
手書・筆彩。161×192
cm。
本図は、室賀コレクションのなかで最もよく知られた図の一つであり、近世の仏僧による数少ない大型の手書き南瞻部洲(なんせんぶしゅう)図である。類似の図としては、神戸市立博物館蔵の南波松太郎旧蔵図が著名であり、ともにカブラ型もしくはうちわ型ともいうべき形状を示している。これは『倶舎論』がいう逆三角形型の南瞻部洲(なんせんぶしゅう)の形状を示したものであり、玄奘のたどった道のりや阿耨達池(あのくたっち)が描かれている点で、本図は中世的な天竺図を継承したものである。しかし海岸線には屈曲があり、インド半島の先端が尖っていること、中国やインドシナ半島が比較的大きく描かれている点をみれば、近世に伝えられたヨーロッパ製世界図に触発され、中世的な天竺図を再生させようとしたものであることがわかる。なお本図の作製者については仏僧宗覚(1639-1720)であるとも推測されている。宗覚は、中世的な五天竺図の写本や、須弥山(しゅみせん)を中心とする4大陸を描いた地球儀などを残している。
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp)
4.隅田堤
隅田公園は隅田川東岸(墨田区側)および西岸(台東区側)
を併せてこう呼びます。噺の中で隅田堤と出てくれば、東岸・墨田区向島側を言います。こちら側には落語「和歌三神」で紹介した三囲(みめぐり)神社や落語「野ざらし」で紹介した言問団子や長命寺桜餅など、また「文七元結」では細川の屋敷跡のアサヒビール、水戸家下屋敷(向島1丁目全域)の庭園部分が今の墨田公園(向島1−3)であったり、枕橋もこちらにあります。
川辺の公園ですから何時行っても楽しめますが、やはり、このお花見時分が最高でしょう。
この当時の舞台はこの様だったのでしょう。 「向島桜花」明治後期時代。国立国会図書館所載写真帳から。09年4月写真追加。
舞台の花の隅田公園を歩く
3月最後の日曜日、春風に吹かれて隅田堤に花見と洒落込み(?)ました。大変な人出で2〜30万人は桜の下にいたでしょうか。言問橋から歩き始めました。橋の上から見ると両岸のコンクリートの土手際に桜並木が続いてピンクの屏風のように見えます。隅田川には屋形船やプレジャーボートが川面からの花見と洒落ています。吾妻橋から出船する観光船は川を下っていくのですが、この日は上流まで来て船から花見を楽しんでからUターンして下っていくサービスをしていました。
西岸(台東区側)の公園にはブルーシートの上で宴会が始まっているグループが何組もいます。その横を桜見物の人が列を作って歩いていきます。まだ少し早い桜に人々は酔っている様です。上空から見ると”X字型”の人道橋、桜橋を渡って東岸(墨田区側)に向かいますが、橋の上で墨田区の太鼓囃子のグループが演奏しています。中が覗け無いぐらい人の輪が出来ていますので、股の下をくぐって中に入ろうかとも思いましたが、相手の膏薬を剥がしてドロボー呼ばわりされるのもシャクですので、ぐっと我慢をして背伸びだけで覗き込む私です。
東側は墨田区向島。向島の花柳界の綺麗どころが日本髪を結ってお茶のサービスをしています。一番の人気茶屋になっています。紅白の幔幕を張り巡らした、屋台が続き景気を盛り立てています。はい!私も小休止、缶ビールで一人乾杯。
ん、どうやって一人で乾杯するんだ。
桜の花が椿のように元から切れて落ちています。若い娘さん達が「キレイ!」と言って拾い集めていますが、樹上を見ると小鳥たちが密をついばみながら花を落としているのです。雀、山鳩、目白、ヒヨドリたちが必死で花を突いています。川面では東京都の鳥、ユリカモメ(都鳥)が群がっています。
のどかなのどかな花の下ですが、扇子でお面をした男が芸者を追いかけてキャーキャー騒いでいる一行にはついぞ会いませんでした。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
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隅田公園、隅田川西岸(台東区側)
吾妻橋から北に約1.5km桜橋の先まで、細長い公園です。吾妻橋の橋際に水上バス乗り場があります。
下流の浜離宮やベイスポットのお台場にも路線を持っています。東武線のガードをくぐり、桜の下を歩いて言問橋の下をくぐると、公園の巾も広くなって公園らしくなってきます。「和歌三神」で歩いた待乳山が左に見えます。今は暗渠になった山谷堀を越えると人道橋の桜橋です。この辺にはスポーツセンターや野球場も有ります。
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隅田公園、隅田川東岸(墨田区側)
桜橋を渡って東岸。北にも公園は続いて、言問団子屋や長命寺の桜餅屋が有ります。その先に向島花柳界があります。桜橋から南下して「和歌三神」で歩いた三囲神社、言問橋をくぐれば「文七元結」で歩いた小梅の水戸様跡の公園、枕橋を渡って、隅田公園とはサヨナラになりますが、桜並木の下を通って、細川の屋敷跡のアサヒビールが見えれば吾妻橋です。
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桜
オオシマザクラとエドヒガンの交配種といわれるソメイヨシノ(染井吉野)は。江戸後期に江戸の染井(現在の豊島区駒込)の植木屋さんが”吉野桜”の名で全国各地に売り出し、のちに”染井吉野”と名付けたものと言われています。「吉野桜」とはふつう奈良県の吉野山のヤマザクラのことですが、観賞用のサクラを意味し命名されたのでしょうが、後年地名を被し「染井吉野」となった。花付きがよく生育も早いことから観賞用のサクラとして人気が出て、明治期になると全国的に広く植栽されるまでになり、今では海外でも数多く植栽されており、日本を代表する樹木の栽培品種といえます。東京都の花でも有ります。
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屋形船
隅田公園前で花見を楽しむ現代の屋形船ですが、船のモデルは江戸時代からの和船を下敷きにしたものです。最近はオールプラスチック製の屋形船も有ります。30人位から80人位までの宴会が出来ます。天ぷら、刺身などの料理食べ放題、飲み物飲み放題が普通です。
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向島芸者
茶店でおさんどんをしている向島花柳界の芸者さんの一人です。カメラを向けると忙しいのに気良くポーズを取ってくれました。
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2003年4月記
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