落語「化け物使い」の舞台を歩く
古今亭志ん朝の噺、「化け物使い」によると。
本所の割り下水に住む元武家の吉田さんは人使いの荒い隠居で有名であった。日本橋葭(よし)町にあった桂庵千束屋(ちづかや)から何人も紹介されて来たが誰もきつくて長く勤まらなかった。
杢助
(もくすけ)さんが紹介されて来てみると、仕事は全て片づいていたが、「仕事は無いんだが、薪を割って、炭を適当な大きさに切って縁の下にしまって、ついでに縁の下の蜘蛛の巣を払って、天井裏の蜘蛛の巣も払ったついでに鼠の死骸や糞もキレイに掃除して、塀のイタズラ書きを消したらその下の
どぶを掃除して、隣の家の前を掃除したら反対側の家の掃除をして、ついでに向こう三軒もキレイにしとけ。その間に手紙を書くから品川の青物横丁まで行ってきな。ついでに千住まで回ってもらおうか」。今日は骨休めだから、明日からみっちり働いてもらう、と言う事で居着く事になった。
杢助さん嫌な顔一つみせづ、黙々と仕事をこなし3年勤め上げた。
来月15日引っ越しするが、”化け物屋敷”だとの噂される屋敷であったので、杢助さん暇をもらいたいと申し出る。化け物屋敷でなかったらこれからも仕事しますが、化け物と聞いただけで居る事が出来ない。15日までは働くが、その後は桂庵でも人使いが荒いと有名だから働き手は誰も来ないであろうから自分で探しなさい、と言いながら
、その日まで黙々と働いた。引っ越し当日、一人で引っ越して、掃除も万端済ませ、食事の支度までして、約束のお暇をもらって逃げる様に辞めていった。
その晩、一人になって読み物をしているとゾクゾクとして様子がおかしい。風邪かと思ったら、「ほーッ 出たね!化け物が・・・!」、一つ目小僧であった。「せっかく出てきたんだから、ここのお膳を片しな」。流しで洗い物をさせて、はねた水を拭かせて、水瓶の水を足したら、こっちに来て布団を敷け。「嫌な顔するな!涙流して泣くんじゃない!」。終わったら肩を叩かせ、明日からは昼間から出ておいで、買い物もあるから。
翌夜、ゾクゾクしたら大入道が出てきた。お膳を片して、洗い物も済ませ布団を敷かせ、一つ目と同じ事をさせた。肩を叩かせる代わりに、庭の石灯籠を直させ、屋根の上のぺんぺん草を取らせて、部屋に入らせ、「お前は10日に一遍でいいから普段は一つ目を早い時間に来させな。来るときは『ぞ〜っ』とさせるな」。小言を言っていると消えた。
次の晩にもゾクゾクとすると女が現れた。顔を上げてと言うと”ノッペラボウ”であった。まじまじと見ていると恥ずかしそうにしているので、「もじもじする事無いよ。なまじ目鼻があるために苦労している女は何人も居るんだから」。まず、着物のほころびを直させ、「糸を通してあげようか、大丈夫? どっかから見てるんだな〜」。やはり女の方が華やいでいいと、これからは貴方が出てきてくれとリクエスト。墨で顔書いてあげようかと、思っていると消えてしまった。
次の晩は心待ちに待っていると、障子の向こうから大きな狸が現れた。この狸が毎晩化けて出ていたが、涙ぐんで言う事には、「お暇を頂きたいのですが」、「暇くれ?」、「こう化け物使いが荒くちゃ辛抱出来かねます」。
1.本所割り下水(ほんじょ わりげすい)
墨田区を東西に走っている割堀が2本。北側を北割り下水と言い、今の春日通の本所2丁目から大横川、今は埋め立てられて、大横川親水河川公園までの割堀です。
南側を南割り下水と言い、今の亀沢1丁目から大横川までがそうですが、どちらも大横川から東の横十間川まで繋がっていました。横十間川は今でも水をたたえていますが、両割り下水は既に埋め立てられて道になっています。既に言いましたが北割り下水は”春日通り”となっていますし、南割り下水はJRの北側
、葛飾北斎が生まれた所なので”北斎通り”と呼ばれています。
下水工事が完了した「南割り下水」 昭和4年 TOKYO下水道物語 東京都下水道局出版より
まだまだこの状態で下水道として利用されました。北割り下水は同じ頃暗渠になりました。 2009.9写真追加
特別に南とか北と言わない時は南割り下水を言います。この噺でも南割り下水が舞台になります。割り下水は道路の中央を開削された割堀で、川(堀)ほど広くなくドブより広いもので、4尺(1.2m)から1間(6尺=1.8m)の川幅が有りました。両側は当然道路になって居ました。よどんで汚かったと言われています。
この割り下水の回りには北斎を始め、三遊亭円朝や河竹黙阿弥が住んでいました。
円朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢3−20)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り、明治9年から明治28年まで19年間住んだ。 庭は、割下水から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、円朝の生涯のうちで贅沢で工夫を凝らした邸宅だったといいます。
この後、新宿に移り住みます。
道路を渡ったその前、写真のマンション前(亀沢2−11)に「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建っています。河竹黙阿弥(文花13年(1816)〜明治26年1月)は歌舞伎作家として350余の作品を残して78才でここで亡くなりました。第48話「お若伊之助」より
墨田区の話では、圓朝住所跡は平成25年標柱を破棄し隣の町名・亀沢2−12が正確な住居跡で、その北側の小公園内に案内看板が新に立てられた。よって前説明の住所を訂正します。なお、河竹黙阿弥の住所地は変更が無く、これも標柱から案内看板に変更になっています。
また、住んだ時期ですが明治9〜28年と説明板にはしるされていますが、他の資料で調べ直すと、明治9〜20年が正しい年月日です。で、11年間ここに住んだことになります。この家を売り払い新宿に移りますが、それは明治21年で、明治28年まで新宿で生活をしていました。
圓朝はこの頃が一番売れていた時期で、こんな贅沢も出来たのでしょう。年に一千両の稼ぎが有ったといいます。役者でも千両役者はなかなか出ません。
北斎は、1760年(宝暦10)9月23日に本所で生まれ、1849年(嘉永2)4月18日に90歳で没した。「冨嶽三十六景」などの作品で知られる浮世絵師・葛飾北斎は、江戸本所割下水
(現在の墨田区亀沢)に生まれました。
当時としてはたいへん長生きをした人で、90年の生涯をひたすら絵の勉強についやしました。一生のうちに93回の転居をしたと伝わりますが、その多くは、本所・向島・浅草などの隅田川に近い場所でした。晩年は、娘の栄(えい)との気ままな二人暮らしだったといいます。
この北斎通りは本所七不思議の舞台の中心地です。
「津軽屋敷の太鼓」 北斎通り、上屋敷は亀沢2丁目緑公園一帯。
「消えずの行灯」、「燈無蕎麦」
南割り下水付近=北斎通り。
「足洗い屋敷」 本所三笠町=
北斎通り、亀沢4丁目12付近
【北斎の画室】弟子の露木為一が描いた「北斎仮宅図」をもとに再現。北斎は娘の名を呼んだことがなく、いつも「おうい」と連呼したので彼女は「応以」という雅号を自らつけて以て快としたというのだから流石に大北斎の娘だけのことはあった。
右の写真は、彼が83才の時に娘のお栄と住んでいた時の画室を再現したもので、壁にかかる書「北斎仮宅図」には次のような添え書きが載っている。
卍(まんじ..北斎のこと)常に人に語るに、我は琵琶葉湯に
反し九月下旬より四月上旬迄
炬燵(こたつ)を放るることなしと、如何
なる人と面会なすといへとも
放るることなし。画(か)くにも又可如
飽く時は、傍ら枕を取りて眠る。
覚れば、又筆を取
夜着の袖は無益也とて不付。
《江戸東京博物館「模型で見る江戸.東京」》より
2.葭町(よしちょう)の桂庵千束屋(けいあん ちづかや)は明治11年版東京全図によると、今の中央区日本橋人形町1丁目に当たる。後に日本橋芳町(人形町1・3丁目の内)となり、今の人形町となる。日本橋北詰めを東に6〜700メートル右側に桂庵千束屋があった。
(第1話「百川」より) ここには何軒もの桂庵が軒を並べて商売をしていた。
桂庵(慶安、慶庵)とは今で言う私設職業紹介所。当時大店(おおだな)では血縁、地縁、で多くの奉公人を雇ったが、ここでは地方から出て来ても何もツテの無い人達を世話した。
寛文年間江戸木挽町の医師”大和慶安”が、医業よりも仲人に力を入れて男女を引き合わせたことから、縁談や奉公人の斡旋をする者を”けいあん”と呼ぶ様になった。口入れ屋、人入れ屋、人宿とも言われ、桂庵の2階に寝泊まりさせて、求人に応えた。また、求人が来るまでに江戸での生活・習慣や言葉等も教育していた。奉公させるにはここが親元に変わって保証人にもなって、3ヶ月、半年、1年等の契約で奉公に出した。短期では数日と言うのもあったし、奉公先が気に入れば本採用(?)になって、長く勤め
られた。奉公先で首になったり、暇が出ると桂庵に戻ってきて、次の奉公先が見つかるまで面倒を見てもらった。
江戸では400前後の桂庵があり、大きな桂庵では1日に100人もの人を紹介したという。
3.談志は「今の時代で使ったらもっと話が広がって面白くなった」と言ってます。炊事・洗濯・
掃除・肩たたき、だけではなく、「新聞片して交換に出しとけ」とか、「ダイレクトメールを整理しておきな」、「TVのチャンネル換えな、ダメだ元に戻しな」、「パソコンでデータを揃えておきなよ」とかいろいろ使い道が有った、と言っている。実際弟子に「雨の土砂降りの中『タクシー拾って来な』、まもなく弟子が『どうしても拾えません』、『だからお前に言ったんだ』」とキツク使った。
4.「品川の青物横丁まで行ってきな。ついでに千住まで回ってもらおうか」は、品川と千住では南と北で”ついでに”行ける所では無かった。品川は「品川心中」や「居残り佐平次」の舞台でもあったが、その先の青物横丁にはまだ少し歩かなければならなかった。京浜急行線で、JR品川駅から2つ目の駅にその名を残しています。町名は南品川と言います。「どのぐらい時間が掛かりますか」、「明け方には帰れるだろう」と言う程の距離と人使いです。
舞台の本所割り下水を歩く
JR両国駅の北側にある『江戸東京博物館』の東側からスタート。JR総武線に沿って伸びる道路が”北斎通り”です。さほど広い道ではありませんが両側には歩道もきちんと整備されて歩きやすい道です。この道が江戸時代の”本所割り下水”の埋め立てられた跡です。この近所(亀沢1−6)で浮世絵師の葛飾北斎が生まれています。そこからこの道を北斎通りと命名されていますが、北斎に関するものは何もありません。歩き始めるとまもなく右側に「野見宿弥神社」が有ります。相撲の神様「野見の宿弥(すくね)」を祀った神社で、隣に初代高砂部屋があって、そこの加護で津軽屋敷跡(注)に明治17年創建された。相撲関係者の信仰厚く歴代横綱の名を刻んだ碑が2基あります。
(注)今の両国駅の近くに、津軽家という大名屋敷があった。
昔から火事を知らせるために大名家の火の見櫓では版木を打つのだが、太鼓を打つことができるのは津軽家だけと決まっていた。
なぜ津軽家だけがその太鼓を打つことを許されていたのか、その理由は誰も知らない。 また、その太鼓は時を告げるための太鼓でもあったともいわれている。(
北斎通り、上屋敷は亀沢2丁目緑公園一帯)第45話本所七不思議より
すみだ北斎美術館;津軽大名屋敷跡が区の公園となっていましたが、その南側(墨田区亀沢二丁目7番2号)に
2016年(平成28年)11月22日に開館した、浮世絵師北斎の美術館が開館しました。
三ツ目通りに出ると、左向こう側の黒い建物と奥のマンション一帯が「足洗い屋敷」が有った所です。
本所三笠町の味野岌之助(あじのきゅうのすけ)という幕府旗本の屋敷では毎晩不思議なことが起こった。なまぐさい風が吹きぬけたかと思うと、激しく家鳴りがする。しばらくして、天井から「メリメリ」「バリバリ」と大きな音が聞こえる。その音と同時に、血にまみれた、大きな毛むくじゃらな足がニョッキリと現れ、吠えるような声で「足を洗え!」とどなる。血のついた足をきれいに洗ってやると足はおとなしく天井へ消えていく。毎夜現れる足を洗っていたので、この屋敷をいつの間にか「足洗い屋敷」と呼ぶようになったそう
な。(本所三笠町=亀沢4丁目12付近)第45話「本所七不思議」より
この本所割り下水は怪奇モノの銀座でした。他に「消えずの行灯」と言って、本所南割下水付近を流して歩く屋台の蕎麦屋はいつも明かりが消えず、近づくと屋台ごと遠のく。(
南割り下水付近=北斎通り)
場所を変えて、青物横丁も千住も江戸からの最初の宿場です。青物横丁は東海道、品川新宿の一部で江戸(東京駅)から南へ(鉄道で)9kmほどあります。千住は中山道の最初の宿場で江戸から北へ(鉄道で
東京駅・北千住)11km程有ります。私もカメラを持って南へ北へと走り回ってきました。このホームページは人使いの荒い事。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
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本所割り下水(ほんじょ わりげすい)
今の墨田区、北斎通りです。クリックした写真の正面に見えるのが両国・江戸東京博物館です。
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「野見宿弥神社」(のみのすくね_じんじゃ、墨田区亀沢2−8)
相撲の神様「野見の宿弥(すくね)」を祀った神社で、東隣に初代高砂部屋があって、そこの加護で津軽屋敷跡に明治17年創建された。相撲関係者の信仰厚く歴代横綱の名を刻んだ碑が2基あります。
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本所割り下水(ほんじょ わりげすい)「足洗い屋敷」
三ツ目通り角に有ったと言われている「足洗い屋敷」跡の現況です。この黒い建物とその後ろの建物がその跡だと言われています。
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葭町(よしちょう)の桂庵千束屋(けいあん ちづかや)
後に日本橋芳町(人形町1・3丁目の内)となりましたが、当時の道路が広がって今の道になったのではなく、直線に整備されたので、当時とは必ずしも同一ではありません。人形町交差点から日本橋方向を見ています。背後には有名な「水天宮」さまが有ります。安産の神で有名です。
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南千住駅(荒川区南千住)
JRの南千住駅で、隣に日比谷線の南千住駅が有ります。町は大きくなく、地方の駅前ぐらいでしょう。
近くに小塚原(こづかっぱら)刑場跡に建った回向院が有名です。
次の北千住まで旧日光街道が走り江戸から最初の宿場町として、また岡場所として栄えた所です。第7話「わら人形」で宿場の様子を書いています。
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北千住駅(足立区千住2)
JR北千住駅前商店街です。その名を「きたろーど」と言います。旧日光街道の千住宿の中心街で本陣があったところです。南北に走る旧日光街道の東側に北千住駅があり西にバイパスされた日光街道が平行しています。
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青物横丁 (品川区南品川)
江戸時代品川寺の門前町屋で東海道に面したところを「観音前」といい、池上道(線路を横切って駅前を通っている道路)に面したところに青物市場があったので「青物横丁」と地元では呼んでいました。明治10年に市場として認可され敷地520坪余(約1700m2)で営業していました。南品川2−7の壁面にあった、東海中学校教諭 芳賀照美氏の説明板より
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2003年3月記
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