落語「探偵うどん」の舞台を歩く

  
 

 五代目 古今亭志ん生の噺、「探偵うどん」によると。
 

  明治の噺で、探偵と言うと刑事さんの事で身なりは大概決まっていた。尻をはしょって股引が出ていて、麻裏草履にシャツを着て鳥打ち帽子をかぶっていた。見れば直ぐに探偵(刑事)だと分かった。
 深川の高橋で若者が店の金300円を強奪された。直ぐに交番に届けて、深川から本所に掛けて非常線が張られた。

 鍋焼きうどん屋が流していた。お客が現れうどんはいらないが、茶番をやるので、そのうどんを担がしてくれと、衣装を全部交換して荷を担いで売り声を上げながら本所の方に歩き始めた。いつまでたっても荷を返してくれないので催促するが、とうとう吾妻橋を渡って花川戸から弁天山の淋しい所まで来てしまった。

 荷を返して服を交換すると、「俺は泥棒だ」と言い始める。「うどんの荷を盗むのではなく、高橋で若者から財布を盗んできた」と話し始めた。「警察は直ぐ非常線を張ったので逃げられず、うどん屋に化けてここまで来たので、もう俺のものだ」。
 駄賃にと1円を差し出したがうどん屋は受け取らず、その代わり商売のうどんを食べてくれと言う。「そしたら1円を受け取る」、「俺はうどんは嫌いだ」。
 「そんな事言わず一杯食ってくれ」、「そんなものは食いたくねぇ〜」、「おまえにはきっと一杯食わせるからな」、「誰が食うものか」、「さっきから刑事を馬鹿にしているが、そんな奴が居るから、夜中にうどん屋に化けていたのだ。さぁ、御用だ!」、
「てめぇは何だ」、
「刑事だ」、
「それで一杯食わされた」。
 


1.【麻裏草履】 (あさうら‐ぞうり )
麻糸の平組紐を渦巻きにして裏につけた草履。(広辞苑)  
 

2.高橋(地名、たかばし)
 江東区、小名木川の北側、清澄通りの東側に有る今は小さな街。元は東側の森下3,4,5丁目を含んでいた。橋名から転じて街の名前になりました。

 高橋(橋名、たかばし、江東区高橋から同区白河1の間で小名木川に架かる橋)
 江戸時代、葛飾北斎の描いた浮世絵には橋桁の高い、太鼓橋のような橋で、その下に富士山と行き交う船が描かれていました。そこから高い橋、高橋の名前が起こりました。下の川、小名木川は運河で、全長4640m、13橋あります。隅田川から2番目の橋で、江戸時代から4度架け替えられました。
 高橋は深川の物流基点として栄え、橋際には蒸気船が発着し賑わった。寄席や映画館が建ち並ぶ繁華街でもあり、夜店通り(北側の現ファミロード)には連日露店が軒を並べて客足が絶える事がなかった。と言われています。 その背景からこの噺があります。

 

3.吾妻橋(あずまばし)浅草と墨田区吾妻橋を繋ぐ隅田川に架かった橋。詳しくは第54話「文七元結」第50話唐茄子屋政談」をご覧下さい。

花川戸(はなかわど)台東区浅草寺と隅田川に挟まれた街。詳しくは第40話「悋気の火の玉」をご覧下さい。

弁天山(べんてんやま)浅草寺境内にある小高い山。弁天堂があり、有名な”時の鐘”があります。詳しくは第12話「時蕎麦」をご覧下さい。

 

4.茶番(ちゃ‐ばん)
 1.客のために茶を点てて出す役。
 2.茶番狂言または口上茶番の略。
 3.ばからしい、底の見えすいたふるまい。茶番劇。茶番狂言。
 茶番師、 茶番狂言を演ずるのを業とする者。 人をだます名人。
(広辞苑から)
 この噺では、町内の者が集まって、何かの余興でうどん屋の役を振られたのでしょう。と、刑事のうどん屋は思ったのでしょう。でも、泥棒は最初に「茶番をするので」と言っていますから、『茶番師=人をだます名人=泥棒』と自白していた事になります。ここも軽くジャブをかました”洒落”だったのでしょうか。

 


 

  舞台の高橋を歩く
 

 高橋際には最近開通した都営の地下鉄”大江戸線”「清洲白河駅」が出来て街の活況を促しています。同じく橋際に蒸気船ならぬ、観光船の船着き場があります。ただし、土曜日だけの4便のみです。それも 区役所で要予約です。あーあ、お役所的です。
 ファミロードは”のらくろ”の作者田河水泡が近くに住んでいたので、街灯に漫画のらくろの絵が掲示されています。路面は特殊カラー舗装がなされて洒落た商店街を作り出しています。
 高橋の南側白河町には第17話「宮戸川」の舞台、霊岸島の元になった霊巌寺(江東区白河1-3-32)が有ります。

 高橋を後に清澄通りを北上すると、江東区から墨田区に入り新大橋通りを横切り、首都高速7号線をくぐり、京葉道路とJR総武線を横切ります。江戸東京博物館を左に見ながら、震災記念堂を越えると蔵前橋通りです。
 江戸東京博物館(東京都墨田区横網1-4-1)は徳川家康が江戸に入ってから、東京オリンピックまでの約400年間の歴史と文化を案内する博物館です。木造の日本橋、歌舞伎の中村座等が再現されていますし、市民の生活・文化の情報展示がされています。特別展として「本田宗一郎と井深大展 −夢と創造−」 が12月8日(日)まで開かれています。ホームページから割引券がもらえます。
 震災記念堂(墨田区横綱2-3-6 横綱(よこあみ、”よこずな”ではありません)町公園内)は関東大震災(1923年)で最大の被災を出した旧陸軍被服廠(ひふくしょう)跡に建てられた記念堂と資料館があります。震災遭難死者の遺骨、東京大空襲(1945年)の殉難者の遺骨もあわせて、約163,000体の遺骨が安置されています。震災・戦災の恐ろしさが伝わってきます。

 厩橋、駒形橋の交差点を抜けると、その先が、吾妻橋です。第54話「文七元結」で紹介した、ウンチの彫刻が乗ったビアホールが橋のたもとに有ります。橋を渡って、その先右側に浅草寺があります。浅草寺に入るところの街が花川戸で、馬道から二天門を入ると左側の境内に弁天山があります。「・・・陰にこもって物凄く、弁天山から打ち出す鐘がぼ〜〜んと・・・」  ”野ざらし”で有名な名台詞が飛び出すのが、ここ弁天山の鐘です。夜もふければ、寺の境内ですから人っ子一人居ないでしょうから、本当に淋しい所だっ たでしょう。泥棒もほっと一息ついたスキが命取りになってしまったのでしょう。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

 この地図は江戸東京博物館発行の、伊能忠敬が日本全国を測量して地図を作る前に、練習のために作られた地図(左図)です。「忠敬歩測練習の道 鳥瞰図」、文化元年(1804)頃制作(515x725mm版 @100.-) です。 住まいの深川から高橋を経て吾妻橋を渡り、浅草寺を経由し、隅田川西岸を経て両国橋を渡り居宅まで帰って来るまでの地図です。今の地図(右図)と比べても遜色のない正確さです。また当時の地形が正確に表示されています。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

高橋(橋名、たかばし)
下に流れる(?)運河が小名木川で、クリックした写真の先が隅田川です。その際に架かる橋が「万年橋」で、広重江戸百景の中にも描かれた名橋です。亀がヒモで結ばれ欄干につり下げられた向こうに隅田川と富士山が描かれています。今はそこから清洲橋の優雅な姿を見る事が出来ます。  

高橋(町)
橋上から見た本所方向。北側の両国方向を見ています。
この通りが清澄通り、ここから北に向かって歩き始めます。

石原(いしはら)
JR北側の江戸東京博物館を見て、その先の蔵前橋通りの交差点。

本所(ほんじょ)
上記から次の大きな交差点、厩橋東側の春日通りです。

駒形(こまがた)
その次の交差点。駒形橋東詰めです。その先が吾妻橋です。
駒形橋を渡るとその先は北の玄関”JR上野駅”です。

吾妻橋(あずまばし)
この橋を渡ると橋の向こうは浅草です。商店街のビルの向こうに浅草寺がありますが、ビルに阻まれ直接には見えません。川沿いの右側が花川戸の街です。
高橋から吾妻橋まで約3kmです。

                                                       2002年11月記

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