落語「孝行糖」の舞台を歩く

  

 三代目 三遊亭金馬の噺、「孝行糖(こうこうとう)」によると。
 

 頭の弱い”与太郎”だが、孝行の徳で奉行所から褒美として5貫文が下げ渡された。町内の者がこの金で暮らしに困らないようにと頭を絞り、飴を売り歩く事になった。親孝行でもらった褒美を元に始めた飴だから『孝行糖』と名付けた。

 派手な服装と綺麗な頭巾をかぶり、小箱に孝行糖を入れ、前に鉦(カネ)太鼓ではやしながら ”♪チャンチキチ スケテンテン「♪孝行糖、孝行糖〜。孝行糖の本来はうるの小米に寒晒し、かや〜にぎんな、ニキにちょ〜じ」チャンチキチ スケテンテン” ♪「昔々もろこしの、二十四孝のその中で、老莱子(ろうらいし)といえる人、親を大事にしようとて、こしらえ上げたる孝行糖、食べてみな、コレ、美味しいよ、また売れた、タラ、嬉しいね♪」の台詞で売り歩く事になった。
 親孝行の徳で、町内のみんなが着物は私が、かねと太鼓は私がと一式揃えた。

 四・五日すると与太さん、派手な姿で町に出た。孝行の徳で大変な人気が出て売れた。売れれば励みが出て、天気に関係なく売り歩いた。ある日、江戸中で一番うるさい水戸様の御門先に出た。踊りながら、「♪孝行糖、孝行糖 〜。孝行糖の本来はうるの小米に寒ざらし、かや〜にぎんな、ニキにちょ〜じ」チャンチキチ スケテンテン♪”。「御門前じゃ、鳴り物はまかりならぬ」の注意も分からず、”チャンチキチ スケテンテン”。手ひどく六尺棒で殴られ、そこを通りかかった者に助けられた。「こっちに来い」、「痛いや〜い」、「一番うるさい門前で・・、ダメだよ。孝行の徳で勘弁して貰ったが、こんな寂しい所では売れないよ。どこをぶたれた」 、与太さん、頭とおしりを押さえて「こうこうと、こうこうと〜」。


似顔絵;山藤章二「金馬」 新イラスト紳士録より


1.小石川後楽園(文京区後楽1−6−6)
 
この庭園は寛永年間(1624〜1643)水戸徳川氏の初祖徳川頼房によって作られ、二代光圀によって完成した我が国における代表的な廻遊式築山泉水庭園です。光圀は造成にあたり、明の遺臣朱舜水(しゅ しゅんすい)の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、園名もまた舜水の命名によるなど、儒教趣味豊かな庭園です。”後楽”とは中国の范文正(はん ぶんせい=本名)別名を范仲淹(はん ちゅうえん)「先憂後楽」の語によったもので、「民衆に先立って天下のことを憂い民衆が皆安楽な日を送る様になって後に楽しむ」と言う事で光圀の政治的信条によったものと言われています。数少ない江戸初期の大名庭園として、文化財保護法により特別史跡、特別名勝に二重に指定されている。面積;70,847平方メートル。(園の説明板より)

 水戸家上屋敷は今の水道橋交差点から北に春日町交差点、西に講道館、文京区役所、地下鉄丸の内線後楽園駅、中央大学理工学部。南に下って、小石川後楽園、東に東京ドーム、後楽園遊園地を含む広大な土地であった。東側は屋敷に使われ、西側を庭園として贅沢な造りになっていた。庭園には神田川上水の一部が横切りその水を引き入れ、滝や渓流、池を配してあった。屋敷側にも小さな(?)庭園が造られていた。
 屋敷の正門は神田川(今の外堀通り=江戸城側)に面し、門は破風造りで左甚五郎の彫刻も飾られ、豪華な門であった。日なが江戸っ子が見物に来ていたという。日が暮れるのも忘れて見物したので、「日暮らしの門」と呼ばれた。享保年間(1716〜1736)惜しくも焼失している。また、後楽園は庶民に解放されていたという。 と言う事は、与太さんも庭園に入っていたかも・・・。
 天下の水戸黄門の異名を持つ光圀(副将軍)の屋敷であったから、門番もその威光を笠に着て威張っていた。それはうるさかったという。金馬はこんな寂しい場所で、と言っているので、 落語「孝行糖」は享保年間(焼失)以降の話でしょう。
 水戸家下屋敷は54話「文七元結」で出てきた吾妻橋東側墨田公園がそうです。

 水戸上屋敷の東側半分は明治の始め砲兵本廠が置かれ、日清、日露戦争の砲弾を造っていた。関東大震災のおり爆発を起こし、小倉に移転した。昭和11年この地に目を付け、払い下げに成功 (12月(株)後楽園スタヂアム創立)。12年に後楽園球場竣工、「後楽園野球倶楽部イーグルス」が誕生した。後、大戦で解散。戦後は巨人、日本ハムがここをホームグラウンドとしている。 現在は株式会社東京ドームに社名変更して、ドーム、遊園地、ホテル、ホール、ボーリング場等がある。
 庭園は昭和12年4月に整備されて開園された。
 

2.孝行糖の飴売り
 
この噺は元々上方の噺で、名人と言われた三代目三遊亭円馬から先代金馬が直接教わって、江戸風に直したものです。
 明治の頃には実際に大阪に孝行糖売りが居た。白のサラシの着物、薄茶の袴(はかま)に頭巾をかぶり、太鼓を叩いて、節を付けて、おもしろおかしく売り歩いた、と言われています。

 金馬が鉄道事故で足をケガした時、退院時のお見舞い礼状に、「お礼を述べた後、ケガをしましたのは、”こうこうと、こうこうと〜”」と書かれてあった。
 

3.「孝行糖の本来はうる(粳)の小米に寒晒し、かや(榧)〜にぎんなん(銀杏)、ニッキ(肉桂)にちょ〜じ(丁子)」 分かりやすく(?)説明すると、
■ 
うる【粳】; (南方土語からか) 米・粟・黍(キビ)などの、「もち(糯)」に比して、炊いて粘りけが少ない品種。うるち。
 こ‐ごめ【粉米・小米】; 搗(ツ)きしらげる時くだけた米。くだけごめ。
 かん‐ざらし【寒晒し】; 穀類などを寒中にさらすこと。  
 かや【榧】; イチイ科の常緑高木。4月頃開花。実は広楕円形で、核は食用・薬用とし、また油を搾る。材は堅くて碁盤などをつくる。
 ぎん‐なん【銀杏】; (ギンアンの転。アンは唐音) イチョウの種子。外種皮は黄色、多肉で悪臭あり、内種皮は硬く、白色、稜線を有する。食用。  
 にっき=にっ‐けい【肉桂】; クスノキ科の常緑高木。インドシナ原産の香辛料植物。享保(1716〜1736)年間に、中国から輸入。高さ約10m。樹皮は緑黒色で芳香と辛味がある。古来、香料として有名。葉は革質で厚く、長楕円形。6月頃葉腋に淡黄緑色の小花をつけ、楕円形黒色の核果を結ぶ。この木の樹皮(桂皮)を乾燥したもの。香辛料・健胃薬・矯味矯臭薬とし、また、桂皮油をとる。にっき。シナモン。
 ちょう‐じ【丁子・丁字】; (clove) フトモモ科の熱帯常緑高木。原産はモルッカ諸島。18世紀以後、アフリカ・西インドなどで栽培。高さ数m、枝は三叉状、葉は対生で革質。花は白・淡紅色で筒状、集散花序をなし、香が高い。花後、長楕円状の液果を結ぶ。蕾 (ツボミ)を乾燥した丁香(チヨウコウ、クローブ)は古来有名な生薬・香辛料。果実からも油をとる。黄色の染料としても使われた。(全て広辞苑から)

 この説明で飴の味が分かりますか? 飴ですから水飴状のものではなく、べっこう飴状態でしょうか。それだけではなく、味付けにニッキやクローブで、爽やかな味わいがしたのでしょう。甘いだけではなく、ピリリと締まった味が好評だったのでしょうか。
 

4.老莱子(ろうらいし)
 二十四孝(にじゅうしこう)は、中国において後世の範として、孝行で特に優れた人物二十四名を取り上げたものです。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目として治世を行った。その中に出てくる一人です。
 老莱子(紀元前599年〜紀元前479年) 春秋晩期著名思想家で書家。書家始祖の一人。楚国人。
 老莱子は、父と母によく仕えた人であった。そういうわけで、老莱子は、七十歳になって、身に愛らしい着物をつけて、幼い者の姿をして、舞い戯れたり、また親のために雑用などをつとめるといって、わざとつまずいてころび、幼い者が泣くように泣いた。このようにしたのは、老莱子が七十歳になって、年を取り顔立ちも美しくないために、さぞかし、このような姿かたちを親がみたならば、自分たちが年をとったのを知り、悲しく思うに違いないと、そのことを恐れた。また、親の方が年をとったと思わないようにというわけで、このようなふるまいをしたということであった。

 岩波書店刊日本古典文学大系 38御伽草子、二十四孝詩選より  2009.5.7.追記

 

5.江戸時代の互助精神
 文化年間(1804-1818)江戸は四谷の天台宗「真福寺」(寛永寺末。朝日薬師ともいう)に”源坊”という托鉢僧がいた。毎日、街中を托鉢して歩いたが、4文布施すると3文は返してくる。1文しか受け取らない。武家も商家も買い物などを源坊に頼むと、律儀に用を足して、買い物に過不足が無かった。また、信者の仏前にて念仏など唱えても終わるまで帰る事もなく、食事等出しても満腹だったら食べずに帰った、空腹時はやって来て「食事おくれ」と言い満腹になるまで食べた。
 しかし、人を疑うことをしない。悪い奴が「金を貸してくれ」と言えば、持ち金全部1銭残らず与えてしまう。同じように衣服を騙されて与えてしまう。この源坊は知恵遅れなのだった。
 それをみんな承知しているので、街中の商人は「源坊が来た」と言って銭を与え、衣類などを新調してあげた。源坊は煙草を飲み尽くすと、煙草屋に行き、煙草入れを出して「煙草を詰めておくれ」と言うだけで、煙草屋は喜んで源坊の煙草入れを満杯にした。手ぬぐいが無くなれば、例のごとく店に行き「手ぬぐいをおくれ」と言うだけで、店は喜んで手ぬぐいをくれた。どの店も源坊からは代金を取ることなど考えもしない。
 知恵遅れの源坊だが、その人柄から高僧のように敬われていた。上は武家から内藤新宿の旅籠屋の女達まで、四谷・新宿中で源坊は愛されていた。

 文化5年の7月、暑い日に、源坊は死んだ。街中は悲しみ源坊を惜しむ気持ちから、町々合同で盛大な葬式を出すことになった。
 その葬式は高僧もかくやとばかりの前代未聞のものとなった。普段は乱暴者で知られる人足たちが、この日ばかりは揃いの半纏を着て、神妙な顔で先頭に立った。その後ろに町人達が麻カミシモの正装で続く。さらに「管弦組」の幟を立てたしゃぎり笛太鼓の行列が哀しい音を響かせる。
 今仏を記した幟、花を盛った大きな張りぼてに「源坊極楽入り」の屋台、傘が夏空の下を行く。沿道の人々は目を赤く腫らした。
 香典は莫大な金額となり、その金で蜜柑とふかし饅頭を葬送の後、会衆に投げて与え源坊の供養とした。

 江戸町奉行根岸鎮衛(やすもり)の「耳嚢(みみぶくろ)」巻の九「痴僧死栄を得る事」に出てくる。
 江戸の人達は現在と違って相互扶助の心意気が強かった。与太郎も源坊も街中で庇護され愛されていた。
2012.9.追記

 


  舞台の小石川後楽園を歩く
 

 ロケーションに行った時は8月の暑い盛り、蝉はジンジン鳴くし、太陽はカンカンと照りつくすし、いくら木陰でもフウフウ言うざまでした。 この庭園は四季様々な花が咲き競い大変綺麗なものです。梅、しだれ桜、ツツジ、花菖蒲、藤・・・、夏には蓮、秋には紅葉が楽しめます。しかし、この時期には唯濃いみどり緑で、少し時期が悪かったのかも知れません。門番、失礼。管理室の方々は大変親切で、手際よく園の説明もしてくれて、気持ちよく散策する事が出来ました。帰りにはエアコンの効いた、出口脇の”涵徳亭(かんとくてい)”で一休み。建物も良いし、借景が素晴らしく、メニューもリーズナブル。ついつい、生ビールのお代わりをしてしまいました。ここで夜、食事会などは最高でしょう。

 隣の後楽園ドームは相変わらずの人出で、JR水道橋駅西口から横断歩道橋で直接結ばれていますが、人の切れる事はありません。その入口には、野球観戦用にお弁当屋や飲物屋がずらりと並んで、屋台から声を張り上げています。JRAの場外馬券場(ウインズ)も有り、人混みの混雑度を更に引き上げています。この辺りに、与太郎さんが六尺棒で殴られた御門が有ったのでしょう。
 奥の遊園地は敷地の半分を潰して、大きなビルの若い女性向け”クワハウス”(温泉)が建設中です。子供から大人まで、孝行糖を舐めながら?一日中遊べるところです。

 

地図

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写真

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小石川後楽園 正門
 特別史跡、特別名勝の肩書きが踊る、正門です。この肩書きの所は、東京・浜離宮、京都・金閣寺等があります。

小石川後楽園 大泉水
 庭園の中央に有るメインの大池です。左の写真は遊覧ボートではなく、水面の掃除をする為に漕ぎ出されたボートです。当時は船遊びをされたそうです。池には鯉や小魚、それを捕る為飛来した白鷺、子育て中の野鴨一家、自然そのものです。

小石川後楽園 白糸の滝
 神田川上水跡から導水された滝。この水が上記の大池に流れ込んでいます。
この他にも流れ込む水路は何カ所か有り、当然流れ出る水路もあります。

小石川後楽園 花菖蒲田
 北側にある花菖蒲田です。向こうに見えるのは休憩所の「九八屋」です。残念ながら菖蒲の花は終わってありません。

小石川後楽園 内庭
 
当時後楽園の隣、水戸屋敷内の書院の庭でした。内庭と呼びましたが、この庭だけでも素晴らしい庭です。
内庭と後楽園との境に「唐門」があって、その境の役を果たしていました。当時の写真が残っていますが、その写真からも豪華で立派な唐破風造りの様式がうかがえます。残念ながら、戦災で焼失してしまいました。

小石川後楽園 円月橋
 
明の遺臣朱舜水(しゅ しゅんすい)の設計になる名橋。水面に映る影と合わせて満月の様に見えるところから、この名が付いた。震災、戦災に耐えて現存しています。

                                                        2002年9月記

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