根岸お行の松 因果塚の由来

三遊亭圓朝

鈴木行三校訂・編纂

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        一

 昔はお武家が大小を帯(さ)してお歩きなすったものですが、廃刀以来幾星霜を経たる今日に至って、お虫干の時か何かに、刀箪笥から長い刀(やつ)を取出(とりいだ)して、これを兵児帯(へこおび)へ帯して見るが、何(ど)うも腰の骨が痛くッて堪らぬ、昔は能(よ)くこれを帯して歩けたものだと、御自分で駭(おどろ)くと仰しゃった方がありましたが、成程是は左様でござりましょう。なれども昔のお武家は御気象が至って堅い、孔子や孟子の口真似をいたして、頻(しきり)に理窟を並べて居(お)るという、斯(こ)ういう堅人(かたじん)が妹に見込まれて、大事な一人娘を預かった。お宅は下根岸(しもねぎし)[#「しもねぎし」は底本では「しもねがし」と誤記]もズッと末の方で極(ご)く閑静な処、屋敷の周囲(まわり)は矮(ひく)い生垣になって居まして、其の外は田甫(たんぼ)、其の向(むこう)に道灌山(どうかんやま)が見える。折しも弥生(やよい)の桜時、庭前(にわさき)の桜花(おうか)は一円に咲揃い、そよ/\春風の吹く毎(たび)に、一二輪ずつチラリ/\と散(ちっ)て居(お)る処は得も云われざる風情。一ト間の裡(うち)には預けられたお嬢さん、心に想う人があって旦暮(あけくれ)忘れる暇はないけれど、堅い気象の伯父様が頑張って居(い)るから、思うように逢う事も出来ず、唯くよ/\と案じ煩い、……今で言えば肺病でござりますが、其の頃は癆症(ろうしょう)と申しました、寝衣姿(ねまきすがた)で、扱帯(しごき)を乳の辺(あたり)まで固く締めて、縁先まで立出(たちいで)ました途端、プーッと吹込む一陣の風に誘われて、花弁(はなびら)が一輪ヒラ/\/\と舞込みましたのをお嬢さんが、斯う持った……圓朝(わたくし)が此様(こん)な手附をすると、宿無(やどなし)が虱(しらみ)でも取るようで可笑(おかし)いが、お嬢さんは吻(ほっ)と溜息をつき、
 娘「アヽ……、何うして伊之(いの)さんは音信(たより)をしてくれぬことか、それにつけてお母様(っかさま)もあんまりな、お雛様を送って下すったのは嬉しいが、私を斯ういう窮屈な家(うち)へ預け、もう生涯彼(あ)の人に逢えぬことか、あゝ情(なさけ)ない、何うかして今一度逢いたいもの……」
 と恨めしげに涙ぐんで、斯う庭の面(おも)を見詰(みつめ)ますと、生垣の外に頬被(ほゝかぶり)をした男が佇(たゝず)んで居(お)る様子、能々(よく/\)透かして見ますると、飽かぬ別れをいたしたる恋人、伊之助(いのすけ)さんではないかと思ったから、高褄(たかづま)をとって庭下駄を履き、飛石伝いに段々来(きた)って見ると、擬(まご)うかたなき伊之助でござりますから、
 娘「おゝ伊之さん能くまア……」
 と無理に手を把(と)って、庭内へ引込んだ。余(あんま)り慌てたものだから少し膝頭を摺毀(すりこわ)した。
 娘「まア/\此方(こっち)へ」
 手を把っておのれの居間へ引入れましたが、余(あんま)り嬉しいので何も言うことが出来ませぬ。伊之助の膝へ手を突いてホロリと泣いたのは真の涙で、去年(こぞ)別れ今年逢う身の嬉しさに先立つものはなみだなりけり。是よりいたして雨の降る夜(よ)も風の夜も、首尾を合図にお若(わか)の計らい、通える数も積りつゝ、今は互(たがい)に棄てかねて、其の情(なか)漆(うるし)膠(にかわ)の如くなり。良しや清水に居(お)るとても、離れまじとの誓いごとは、反故(ほご)にはせまじと現(うつゝ)を抜かして通わせました。伊勢の海阿漕(あこぎ)ヶ浦に引く網もたび重なればあらわれにけりで、何時(いつ)しか伯父様が気附いた。
 伯父「ハテナ、何うしたのだろう、若は脹満(ちょうまん)か知ら」
 世間を知らぬ老人は是だからいけませぬ。もうお胤(たね)が留(とま)っては隠すことは出来ない。彼(あれ)は内から膨れて漸々(だん/\)前の方へ糶出(せりだ)して来るから仕様がない。何うも変だ、様子が訝(おか)しいと注意をいたして居ました。すると其の夜(よ)八(や)ツの鐘が鳴るを合図に、トン/\トンと雨戸を叩くものがある。お若は嬉しそうに起上って、そっと音せぬように戸を開けて引入れた。男はずっと被(かむ)りし手拭を脱(と)り、小火鉢の向うへ坐した様子を見ると、何うも見覚(みおぼえ)のある菅野(すがの)伊之助らしい。伯父さんは堅い方(かた)だから、直(すぐ)に大刀(だいとう)を揮(ふる)って躍込(おどりこ)み、打斬(うちき)ろうかとは思いましたが、もう六十の坂を越した御老体、前後の御分別がありますから、じっと忍耐(がまん)をして夜明を待ちました。夜が明けると直(すぐ)に塾の書生さんを走らせて鳶頭(かしら)を呼びにやる。何事ならんと勝五郎(かつごろう)は駭(おどろ)いて飛んで来ました。
 勝「ヘイ、誠に御無沙汰を…」
 主人「サ、此方(こっち)へお這入り、久しく逢わなかったが、何時(いつ)も貴公は壮健で宜(よ)いノ」
 勝「ヘイ、先生もお達者で何より結構でがす、何うも存じながら大(おお)御無沙汰をいたしやした」
 主人「まア此方へお出(いで)、何うも忙しい処を妨げて済まぬナ」
 勝「何ういたしまして、能々(よく/\)の御用だろうと思って飛んで来やしたが、お嬢様がお加減でもお悪いのでがすか」
 主人「ヤ、其の事だテ、去年お前が若を駕籠に乗せて連れて来た時、先方から取った書付、彼(あれ)は今だに取ってあるだろうノ、妹の縁家(えんか)堺屋(さかいや)と云う薬店(やくてん)へ出入(でいり)の菅野伊之助と云う一中節(いっちゅうぶし)の師匠と姪(めい)の若が不義をいたし、斯様(かよう)なことが世間へ聞えてはならぬと云うので、大金を出して手を切った、尤(もっと)も其の時お前が仲へ這入ったのだから、何も間違はあるまいけれど、どうか当分若を預かってくれと云う手紙を持って、若同道でお前が来たから、その時私(わし)が妹の処へ返詞(へんじ)を書いてやったのだ、手前方へ預(あずか)れば石の唐櫃(かろうと)へ入れたも同然と御安心下さるべく候(そろ)と書いてやった」
 勝「ヘイ/\成程」
 主人「何(なん)でも伊之助と手を切る時、お前の扱いで二百両とか三百両とか先方へやったそうだナ」
 勝「エ、左様で、三百両確かにやりました」
 主人「其の伊之助がもしも若の許(もと)へ来て逢引でもする様な事があったら貴様済むまいナ」
 勝「そりゃア何うも先生の前(めえ)でげすが、アヽやってお嬢さんもぶらぶら塩梅(あんべえ)が悪くッてお在(いで)なさるし、何うかお気の紛れるようにと思って、私(わっし)ア身許(みもと)から知ってる堅(かて)え芸人でげすから、私が勧めて堺屋のお店(たな)へ出入(でいり)をするようになると、あんな優しい男だもんだから、皆さんにも可愛(かあい)がられ、お内儀(かみ)さんも飛んだ良い人間だと誉めて居らしったから、お世話効(がい)があったと思って居ました、処がアヽ云う訳になったもんですから、お内儀さんが、此金(これ)で堺屋の閾(しきい)を跨(また)がせない様にして呉れと仰しゃって、金子(かね)をお出しなすったから、ナニ金子なんざア要りませぬ、私が行(ゆ)くなと云えば上(あが)る気遣いはごぜえませんと云うのに、何(なん)でもと仰しゃるから、金子を請取(うけと)って伊之助に渡し、因果を含めて証文を取り、お嬢さんのお供をしてお宅へ出ましたッ切(きり)で、何うも大きに御無沙汰になってますので」
 主人「ナニ無沙汰の事は何うでも宜(よ)い、が、其の大金を取って横山町(よこやまちょう)の横と云う字にも足は踏掛(ふんが)けまいと誓った伊之助が、若の許へ来て逢引をしては済むまいナ」
 勝「ヘエー、だッて来る訳がねえので」
 主人「処が昨夜(ゆうべ)己(おれ)が確(たしか)に認めた、余り憎い奴だから、一思いに打斬(ぶちき)ろうかと思ったけれど、イヤ/\仲に勝五郎が這入って居るのに、貴様に無断で伊之助を、無暗(むやみ)に己が打(ぶ)つも縛るも出来ぬから、そこで貴様を呼びにやったんだ、だから其処(そこ)で立派に申開(もうしひらき)をしろ」
 勝「ヘエー、それは何うも済まねえ訳で、本当に何うも見損った奴で」
 主人「まア己の方で見ると、貴様は金子(かね)を伊之助にやりはすまい、好(よ)い加減な事を云って金子を取って使っちまったろうと疑られても仕様がないじゃアないか、店(たな)の主人(あるじ)は女の事だから」
 勝「エ、御尤もで、じゃア私(わっし)は是から直(すぐ)に行って参ります、申訳がありませぬから、あの野郎、本当に何うも戯(ふざ)けやアがって、引張って来て横ずっ頬(ぽう)を撲飛(はりと)ばして、屹度(きっと)申訳をいたします」
 其の儘戸外(おもて)へ飛出して直に腕車(くるま)[#「くるま」は底本では「くまる」と誤記]に乗り、ガラ/\ガラ/\と両国元柳橋(もとやなぎばし)へ来まして、
 勝「師匠、在宅(うち)か」
 伊「おや、さお這入んなさい」
 勝「冗談じゃアねえぜ、生空(なまぞら)ア使って、悠々とお前(めえ)此処(こゝ)に坐って居られる義理か」
 伊「え、何(なん)で」
 勝「何(なに)もねえ、え、おい、本当に己はお前(めえ)のために、何様(どんな)にか面皮(めんぴ)を欠いたか知れやアしねえ、折角己が親切に世話アしてやった結構なお店(たな)を、お嬢さんゆえにしくじって仕まい、其の時お内儀さんが此金(これ)をと云って下すったから、ソックリお前の許(とこ)へ持(もっ)て来てやったら、お前が気の毒がって、以来はモウ横山町の横と云う字にも足は踏かけめえと云って、書付まで出して置きながら、何(なん)で根岸くんだりまで出かけて行(ゆ)くんだよ」
 伊「え、誰がお嬢さんに逢ったんです」
 勝「とぼけるなイ、お前(めえ)が行ったんじゃアねえか」
 伊「まアあなた、そう腹立紛れに、人の言う事ばかり聴いてお出(いで)なすっちゃア困りますナ、まア行ったなら行ったになりましょうが……」
 勝「昨夜(ゆうべ)お前(めえ)は、既(すんで)に捕捉(とっつかま)って、ポカリとやられちまう処だッたんだ、以前(もと)はお武家(さむらい)で、剣術(やっとう)の先生だから、処がモウ年を取ってお在(いで)なさるから、忍耐(がまん)をして今朝己を呼びによこしたんだが、何うしたッて己が何(なん)とも言訳がねえじゃアねえか」
 伊「マヽ行ったと仰しゃるなら行ったにもなりましょうが、昨夜は何うしても行けませぬ、其の証人は貴方です」
 勝「己が……何ういう」
 伊「何うだッて、日暮方から来て、川長(かわちょう)へでも行ってお飯(まんま)を喰いに一緒に行(ゆ)けと仰しゃるから、お供をしてお飯を戴き、あれから腕車(くるま)を雇ってガラ/\/\と仲へ行って、山口巴(やまぐちどもえ)のお鹽(しお)の許(とこ)へ上(あが)って、大層お浮れなすって、伊之や/\と仰しゃって少しもお前さんの側を離れず夜通し居た私が、何うして根岸まで行(ゆ)ける訳がないじゃアありませぬか」
 勝「ウム、違(ちげ)えねえ、側に居たなア、何を云やアがるんで、耄碌(もうろく)ウしてえるんだ、あん畜生(ちきしょう)、ま師匠腹を立(たっ)ちゃア往(い)けねえヨ、己[#「己」は底本では「已」と誤記]は遂(つ)い慌(あわ)てるもんだから凹(へこ)まされたんだ、己がお前(めえ)に渡す金を取って使ったろうと吐(ぬか)しやアがった、ヘン、憚(はゞか)りながら己だッて五百両や六百両、他人(ひと)の金子(かね)を預かることもあるが、三文だッて手を着けたことはありゃアしねえ、其様(そん)な事は大嫌(でえきれ)えな人間なんだ、ちょいと行って来らア、少し待って居ねえ」
 また腕車(くるま)を急がせて根岸のはずれまで引返(ひっかえ)して来た。
 勝「ヘイ唯今」
 主人「イヤ、大きに御苦労、何うだ伊之助は居たか」
 勝「エヽ先生は昨夜(ゆうべ)伊之が此方(こちら)へ来たと仰しゃいますが、昨夜じゃアありますめえ」
 主人「ナニ、昨夜確(たしか)に見たから、今朝貴様の許(とこ)へ人をやったんだ」
 勝「ヘエー、昨夜なら何うしても来る訳がねえので」
 主人「何故(なぜ)」
 勝「何故ったッて、何うも誠に先生の前(めえ)では、些(ちっ)ときまりの悪い話でげすが、実は彼奴(あいつ)を連れて吉原(なか)へ遊びに行ったんでげすから、何うしても此方(こちら)へ来る筈がごぜえませんので」
 主人「ウム、それなれば何故、最初己が尋ねた時に爾(そ)う云わぬのじゃ」
 勝「ヘイ、何うもそれがあわてちまいましたもんだから、誠に何うも面目次第もない訳で」
 主人「吉原(よしわら)へ行ったと云うのか」
 勝「ヘイ」
 主人「宵から行ったか」
 勝「ヘイ」
 主人「それじゃア、まだ貴様欺(だま)されて居るのじゃ、吉原の引(ひけ)と云うのは十二時であろう」
 勝「左様、一時から二時ぐらいが大引(おおびけ)なんで」
 主人「其の時に貴様を寝こかして置いて、自分は用達(ようたし)に行(ゆ)くとか何(なん)とか云って、スーッと腕車(くるま)に乗って来て夜明まで十分若に逢って帰れるじゃアないか、貴様は伊之助に寝こかしにされたことを知らぬか」
 勝「エ、寝こかし、成程、アン畜生(ちきしょう)」
 主人「吉原と根岸では道程(みちのり)も僅(わずか)だろう」
 勝「左様、何うもあの野郎、太(ふて)え畜生だ、今直(じき)に腕をおっぺしょって来ます」
 又出かけて来た。
 勝「師匠、在宅(うち)か」
 伊「先刻(さっき)の事は冗談でしたろう」
 勝「ナニ冗談も糞もあるもんか、え、おい、お前(めえ)吉原から根岸まで道程は僅だぜ、何(なん)でえ、白(しら)ばっくれやアがって、人を寝こかしに仕やアがって、行きやアがったんだろう、枕許へ来てお寝(やす)みなせえとか何(なん)とか云やアがって」
 伊「ウフヽヽ寝こかしにも何(なに)にも極りを云って居らっしゃる、昨夜(ゆうべ)は些(ちっ)とも寝やアしないじゃありませんか、あなたが皺枯声(しわがれごえ)で一中節を唸(うな)って、衣洗(きぬあらい)から、童子対面までやった時には、皆(みんな)が欠伸(あくび)をしましたよ、本当に可愛(かあい)そうに、酷(ひど)いじゃアありませぬか」
 勝「ウム成程、寝ねえナ」
 伊「それから夜が明けると朝湯に這入って腕車(くるま)で宅(たく)へ帰る間もなくお前さんが来たんですよ」
 勝「成程、何を云やアがるんだ、あん畜生(ちきしょう)、ま師匠、堪忍して呉んな、己(おら)ア一寸(ちょっと)行って来(く)らア」
 又慌てゝやって来た。
 勝「ヘイ先生行って来ました」
 主人「何うした」
 勝「何うにも斯うにも、何うあっても昨夜(ゆうべ)は来(こ)ねえてんです、彼奴(あいつ)も私(わっし)も昨夜は些(ちっ)とも寝ねえんですもの、ガラリ夜が明ける、家(うち)へ帰(けえ)るとお人だから、直(すぐ)に来やしたんで」
 主人「エー、徹夜をした、ウヽム、私(わし)も老眼ゆえ見損いと云うこともあり、又世間には肖(に)た者もないと限らねえ、見違いかも知れぬから、今夜貴様私の許(とこ)へ泊って、若に内証(ないしょ)で、様子を見て呉れぬか」
 勝「じゃアそう為(し)ましょう」
 と其の夜は根岸の家(うち)へ泊込み、酒肴(さけさかな)で御馳走になり大酩酊(おおめいてい)をいたして褥(とこ)に就くが早いかグウクウと高鼾(たかいびき)で寝込んで了(しま)いました。夜(よ)は深々(しん/\)と更渡(ふけわた)り、八ツの鐘がボーンと響く途端に、主人(あるじ)が勝五郎を揺起(ゆりおこ)しました。
 主人「オイ、勝五郎/\」
 勝「ヘイ、ハアー、ヘイ/\、アー、お早う」
 主人「まだ夜半(よなか)だヨ、サ此方(こっち)へ来なさい」
 と廊下づたいに参り、襖(ふすま)の建附(たてつけ)へ小柄(こづか)を入れて、ギュッと逆に捻(ねじ)ると、建具屋さんが上手であったものと見えて、すうと開(あ)いた。
 主人「サあれだ」
 勝「ヘイ」
 と睡(ねむ)い目をこすりながら勝五郎は覗いて見ますと、火鉢を中に差向に坐って居るは伊之助に相違ないから、
 勝「アヽ何うも誠に済みませぬ、慥(たしか)に伊之の野郎に違(ちげ)えごぜえませぬ」
 主人「それ見ろ、然(しか)るに何(なん)で昨夜(ゆうべ)は来る筈がないと申した」
 勝「イエ、昨夜は何うしても来る訳がごぜえませんので」
 主人「今夜のは確(たしか)に伊之助に相違ないナ」
 勝「ヘイ、伊之の野郎で」
 主人「それが間違うと大事(おおごと)になるぞよ」
 勝「イエ、何様(どん)な事があっても、よ宜しゅうごぜえます」
 主人「ウム宜(よ)し」
 ソッと抜足(ぬきあし)をして自分の居間へ戻り、六連発銃を持来(もちきた)り、襖の間から斯(こ)う狙いを附けたから勝五郎は恟(びっく)りして、
 勝「まゝ先生乱暴な事をなすっちゃアいけませぬ、伊之の野郎は打殺(ぶちころ)しても構やアしませぬが、もしもお嬢さんにお怪我でもありましては済みませぬから」
 主人「イヽヤ気遣いない」
 伯父の高根(たかね)の晋齋(しんさい)は、片手に六連発銃を持ち襖の間から狙いを定め、カチリと弾金(ひきがね)を引く途端、ドーンと弾丸(たま)がはじき出る、キャー、ウーンと娘は気絶をした様子。
 晋「ソレ若が気絶をした、早く/\」
 此の物音に駭(おどろ)いて、門弟衆がドヤ/\と来(きた)り、
 ○「先生何事でござります、狼藉者でも乱入致しましたか」
 晋「コレ/\静(しずか)にいたせ/\、兎も角早う若を次の間へ連れて行(ゆ)き、介抱いたして遣(つか)わせ」
 是から灯火(あかり)を点けて見ると恟(びっく)りしました。其処(そこ)に倒れて居たのは幾百年と星霜を経ましたる古狸であった。お若が伊之助を恋しい恋しいと慕うて居た情(じょう)を悟り、古狸が伊之助の姿に化けお若を誑(たぶら)かしたものと見えまする。併(しか)し斯(か)ような事が世間へ知れてはならぬとあって、庭の小高い処へ狸の死骸を埋(うず)めて了(しま)ったという。さりながら娘お若が懐妊して居る様子であるから、
 晋「アヽとんだ事になった、畜生の胤(たね)を宿すなんテ」
 と心配をして居るうちに、十月(とつき)経っても産気附かず、十二ヶ月(つき)目に生れましたのが、珠(たま)のような男の児(こ)、続いて後(あと)から女の児が生れました。其の後(のち)悪因縁の※(まつ)わる処か、同胞(きょうだい)にて夫婦になるという、根岸の因果塚のお物語でござりまする。

        二

 何事も究理のつんで居ります明治の今日、離魂病(りこんびょう)なんかてえ病気があるもんか、篦棒(べらぼう)くせえこたア言わねえもんだ、大方支那の小説でも拾読(ひろいよみ)しアがッて、高慢らしい顔しアがるんだろう、と仰しゃるお客様もありましょうが、中々もって左様(そう)いうわけではございません。早い譬(たと)えが幽霊でございます、私(わたくし)などが考えましても何うしても有るべき道理がないと存じます。先(ま)ず当今のところでは誰方(どなた)でも之には御賛成遊ばすだろうと存じますが、扨(さ)てこゝでございます、お客様方も御承知で居らせられる幽霊博士(はかせ)……では恐れ入りまするが、あの井上圓了(いのうええんりょう)先生でございます。この先生の仰しゃるには幽霊というものは必ず無い物でない、世の中には理外に理のあるもので、それを研究するのが哲学の蘊奥(うんおう)だとやら申されますそうでございます、そうして見ると離魂病と申し人間の身体が二個(ふたつ)になって、そして別々に思い/\の事が出来るというような不思議な病気も一概にないとは申されません、斯(こ)ういう誠に便利な病気には私(わたくし)どもは是非一度罹(かゝ)りとうございます、まア考えて御覧遊ばせ、一人の私が遊んで居りまして、もう一人の私がせッせと稼いで居りますれば、まア米櫃(こめびつ)の心配はないようなもので、誠に結構な訳なんですが、何うも左様(そう)は問屋(といや)で卸してはくれず致し方がございません。
 さてお若でございますが、恋こがれている伊之助が尋ねて来たので、伯父晋齋の目を掠(かす)め危うい逢瀬に密会を遂げ、懐妊までした男は真実(まこと)の伊之助でなく、見るも怖しき狸でありましたから、身の淫奔(いたずら)を悔いて唯々(たゞ/\)歎(なげ)きに月日を送り、十二ヶ月目で産みおとしたは世間でいう畜生腹。男と女の双児(ふたご)でございますので、いよ/\其の身の因果と諦め、浮世のことはプッヽリ思い切って仕舞いました。伯父もお若の様子を見て可愛そうでなりませんが、何うも仕様がないので困り切って居ります。何(なん)ぼ狸の胤だからッて人間に生れて来た二人に名を付けずにも置かれぬから、男は伊之吉(いのきち)女はお米(よね)と名を付ける事になりました。茲(こゝ)に一つ不思議なことには伊之吉お米で、双児というものは身体の好格(かっこう)から顔立までが似ているものだそうで、他人の空似とか申して能く似ているものを見ると、あゝ彼(あ)の人は双児のようだと申しますから、真物(ほんもの)の双児は似る筈ではございますが、男と女のお印が違っているばかり、一寸(ちょっと)見ると何方(どちら)が何方かさっぱり分りかねるくらい、瓜二つとは斯(こ)ういうのを云うだろうと思われ、其の上両児(ふたり)とも左の眼尻にぽッつり黒痣(ほくろ)が寸分違わぬ所にあります。これが泣き黒痣という奴で、この黒痣があるものは何うも末が好(よ)くないと仰しゃる方もあり、親が子の行末を案じるは人情左様(そう)ありそうな事で、お若はそんなこんなで大層両児(ふたり)を可愛がりますから、伯父の晋齋はます/\心を痛め、或日(あるひ)お若が前に来て、
 晋「赤児(あか)は何うしたね」
 若「はい、今すや/\寝つきましたよ、伯父さん本当(ほんと)に妙ですことねえ、この児達は、泣き出すと両児一緒に泣きますし、また斯うやって寝るときもおんなしように寝るんですもの、双児てえものア斯ういうもんでしょうか、私ゃ不思議でならないんですわ」
 晋「そうさな、己も双児を手にかけたこともなし、人から聞いたこともないから知らないよハヽヽヽヽ、赤児(あか)が寝ているこそ丁度幸いだ、今日はお前に些(ちっ)と相談することがあるがの、それも外のことじゃアない矢ッ張赤児の事に就(つい)てな、此様(こんな)事を云ったら己を薄情なものと思うだろうが、決して悪くとられちゃア困るよ、それもこれもお前の為を思うから云うのだからね」
 若「ハイ、何うしまして飛(とん)でもない心得違いから、いろ/\伯父様(さん)に御苦労をかけ、ほんとに申し訳がないんですわ、それに私の為を思って仰しゃることを何(なん)でまア悪く思うなんッて」
 晋「イヤお前が左様(そう)思ってゝ呉れゝば己も安心というものだがの、斯(こ)う云ったら心持が悪かろうが、その赤児だッて……、あの通りな訳で生れたもので見れば、何うもお前の手で育てさせては為になるまいし、今一時(いっとき)は可愛そうな気もしようが、却(かえ)って他人の手に育つが子供等(ら)の為にもなろうと思われるよ、仮令(よし)何様(どんな)訳で出来たからってお前の子に違いないものだから、手放して他人(ひと)に遣(や)るは人情として仕悪(しにく)かろう、それは己も能(よ)く察してはいるが……、此の子供等が独り遊びでもするようになって見な、直(す)ぐ世間の人に後指さゝれて何(なん)と云われるだろうか、其の時のお前が心持は何うだろう、お前ばかりじゃないよ、お父様(とっさん)お母様(っかさん)をはじめ縁に繋がるこの己までが世間の口にかゝらんけりゃならんのだ、さア其の苦(くるし)みをするよりは今のうち……な、それにお前とて若い身そら、是なり朽ちて仕舞うにも及ばない、江戸は広いところだから、今度の噂も知らないものが九分九厘あるよ、ナニ決して心配する事はないからね」
 と晋齋がシンミリとした意見に、お若は我身に過(あやま)りのあることですから、何(なん)とも返答することが出来ません。只ジッと差し俯伏(うつむ)いて思案にくれて居ります。伯父の晋齋はお若が挨拶をしないのは不得心であるのか知らんと思われる処から、
 晋「お若、何うだね、得心が行かぬ様子だが、己はお前の身の為また子供等の為を思うから云うんだよ、能く考えて御覧、決して無理を云って困らせようなんかッて云うんじゃないから……」
 若「何うしまして決して其様(そんな)こたア思やしません、そりゃ最(も)う伯父様(さん)の仰しゃる通り……」
 と云い掛けてほろりと涙をこぼしましたが、晋齋に覚(さと)られまいと思いますので、俄(にわか)に一層下を向きますと、頬のあたりまで半襟に隠れ、襟足の通った真白(まっしろ)な頸筋はずッと表われました。お若の胸中を察し晋齋も不愍(ふびん)には思いますが、ぐず/\に済しておいては為になりませんことですから、眼をパチクリ/\致しながら、少しく膝を進ませました。
 世の中に何が辛いって義理ほど辛いものはないんで、我が身を思い生れた子供のことを心配してくれる伯父の親切を察しては、それでも私は斯うしたいの彼(あゝ)したいのと、勝手な熱を吹くことは出来ませんから、お若も是非がない、義理にせめられて、
 若「何うか伯父様(さん)の好(よ)いようにして下さいませ、こんなに御苦労かけましたんですから……」
 と申して居るうち潤(うる)み声になって参ります。晋齋もお若が何(なん)というであろうか、若(も)しや恩愛の絆にからまれてダヾを捏(こ)ねはせまいかと心配致し、ジッと顔をながめ挙動(ようす)をうかゞって居りましたが、伯父様のよいようにと思い切った模様ですから、まアよかった得心して呉れて、と胸を撫で、
 晋「あゝそれがいゝよ、己に任しておきな、悪いようにはしないからね、お前が左様(そう)諦めてくれゝば結構な訳というもんで……、実はな、大阪の商人(あきんど)で越前屋佐兵衞(えちぜんやさへえ)さんてえのが、御夫婦連で江戸見物に来ていなさるそうでの、何(なん)でも馬喰町(ばくろちょう)に泊ってると聞いたよ、この方がの最(も)う四十の坂を越えなすったそうだが、まだ子供が一人もないから、何うか好(い)い女の児(こ)があったら貰って帰りたいと探していなさるそうだよ、大阪(あっち)で越佐(えつさ)さんと云っては大した御身代で在(いら)っしゃるんだからね、土地で貰おうと仰(おっし)ゃれば、網の目から手の出るほど呉れ人(て)はあるがの、佐兵衞さんてえのは江戸の生れなんで、越前屋へ養子にへえッた方だから、生れ故郷が恋しいッてえところでの、江戸から子供を貰って帰ろうと仰しゃるんだとさ、それにお内儀(かみ)さんというのも飛んだ気の優しい方だと云うことだから、米もそんなとこへ貰われて行けば僥倖(しあわせ)というもんだろうと思われるし、世話するものがお前もよく知っているあの鳶頭(かしら)だからの、周旋口(なこうどぐち)をきいてお弁茶羅(べんちゃら)で瞞(ごまか)す男でもないよ、勝五郎も随分そゝっかしい事はあの通りだが、今度のことア珍しく念を入れて聞いてきたよ、あゝ、そりゃ間違いはないよ、こんな口は又とないからの、お前さえよくば直ぐ話しをさせて、貰って頂こうと思うんだがね」
 若「はい、伯父様さえよいと思召したら、何うかよいように遊ばして……」
 晋「よし/\、それでは承知だね、ナニ心配することはないよ」
 と晋齋は直ぐ勝五郎を呼びに遣りました。さて鳶頭の勝五郎でございますが、今町内の折れ口から帰って如輪目(じょりんもく)の長火鉢の前にドッカリ胡坐(あぐら)をかき、煙草吸っているところへ、高根のおさんどんが、
 婢「鳶頭お在(いで)ですか、旦那様が急御用があるんだから直ぐ来ておくんなさいッて……」
 勝「何うも御苦労さま、直ぐ参(めえ)りやす、お鍋どんまア好(い)いじゃねえか、お茶でも飲んでいきねえな、敵(かたき)の家(うち)へ来ても口は濡らすもんだわな、そんなに逃げてく事アねえや、己(おい)ら口説(くどき)アしねえからよ」
 女「お鍋さんまアお掛けなさいな、今丁度お煮花(にばな)を入れたとこですから、好いじゃありませんかねえ、お使いが遅いなんかと仰ゃる家(うち)じゃアなしさ、お小言が出りゃア良人(うちのひと)からお詫させまさアね、ホヽヽヽヽ、まア緩(ゆっ)くりお茶でも召上って入(いら)っしゃいってえば、そうですか、未だお使(つかい)がおあんなさるの、それじゃアお止め申しては却って御迷惑、またその中(うち)にお遊びにおいでなさいよ、その時ア御馳走しますからね、左様(さよ)なら何うもおそうそさまで、何うか旦那様へもよろしく、何うも御苦労さまで」
 とお出入先の女中と思えば女房までがチヤホヤ致し、勝五郎は早々支度をしまして根岸へやって参り、高根晋齋の勝手口から小腰をかゞめ、つッと這入ろうとしましたが、突掛草履(つッかけぞうり)でパタ/\と急いで参ったんですから、紺足袋も股引の下の方もカラ真ッ白に塵埃(ほこり)がたかッております。無遠慮(むえんりょ)な男でございますが、この塵埃を見ますとまさかに其の儘にも這入りかねましたと見え、腰にはさんでおります手拭でポン/\とはたき。
 勝「エー、只今はお使を下せえまして」
 婢「鳶頭旦那様がお待ちかねですから、さアお上りなさい、お奥の離座敷(はなれ)に在(いら)っしゃるんですよ」
 とお爨(さん)どんが案内に連れられ、奥へ参りますと、晋齋は四畳半の茶座敷で庭をながめて、勝五郎の参るのを待って入っしゃるところでございますから、
 晋「おゝ鳶頭か、よく早速来てくれたね」
 勝「只今はわざ/\のお使で、直ぐ飛んでめえりやした、ヘイ/\/\、何(なん)か急御用が出来たんでげすか、また伊之の野郎が参(めえ)ったんじゃアげえすめえな」
 晋「ハヽヽヽヽ気の早い男だな、左様(そう)来られて堪るものか、昨日(きのう)お出(いで)のときにお話であった事で、些(ちっ)とお頼み申したいから急に呼びに上げたのだよ」
 勝「ヘイ、じゃ何(なん)ですか、昨日私(わっち)がお話し仕(し)やした一件……、ヘヽヽヽヽ憚(はゞか)りながら先生、左様(そう)申すと口巾(くちはゞ)ッてえ言草(いいぐさ)でげすが、ごろッちゃらして居アがる野郎の二三人引摺(ひきず)って来りゃア訳のねえことでさア、宜うごす、明日(あす)アポン/\と打壊(ぶっこわ)しやしょう」
 晋「おい/\お前は何を言ってるんだよ、私(わし)は何処(どこ)も壊してくれなんかッてえ事言(いい)やしない」
 勝「いけねえや、先生、昨日仰ゃったあの狸の伊之をドーンとお遣(や)んなすったお座敷を毀(こわ)すんでげしょう、あんな事のあったお座敷は居心が良くねえから、ナニ外の仕事は何うでも押ッ付けてえて遣っ付けまさア」
 晋「困るな早呑込みをしては、左様(そう)じゃないのだよ、あの座敷も建直すことは建直すがの、それより先に始末を付けなくてはならないものがあるんだ」
 勝「ヘー、違(ちげ)えましたか、ヘー」
 晋「そら大阪の方で子供を貰おうと仰ゃる方な」
 勝「ウムヽヽヽヽ、違えねえあの一件か、良うがすとも大丈夫(でえじょうぶ)でげす、御心配(ごしんぺえ)なせえますな、ナニ訳アねえや直ぐ」
 晋「まア待ってくんな、其様(そんな)に慌てなくても宜(よ)い」
 おいそれ者の勝五郎が飛出そうとするを引止め、高根の晋齋は懇々(こん/\)と依頼しました。そこで鳶頭も先生様があゝ云って、己(おい)らのようなものにお頼みなさるんだから、早く両児(ふたり)を片付けて上げようと存じまする親切で、直ぐ越佐さんの方へ参りまして斡旋(とりもち)を致すと、先方(さき)でも子供が欲(ほし)いと思ってるところなんでございますから、相談は直ぐに纒(まとま)りまして、お米は越佐の養女に貰われ、夫婦も大層喜び、乳母をかゝえるなど大騒ぎでございます。さてこれで女の方は片付いたがまだ一人いるんで、勝五郎は逢う人ごとに子供はいらねえかと云ってますんで、口の悪い友達なんかは、
 ○「オイ勝ウ、手前(てめえ)な、そんなに子供々々と己達(おれだち)にいうより、好(い)いことがあらア」
 勝「なんだ、誰か貰ってくれるんか……」
 ○「うんにゃア、逆上(のぼせ)ていやがるなア此奴(こいつ)は余っぽど、そんなに荷厄介するならよ、捨(うっち)ゃって仕舞やア一番世話なしだぜ、ハヽヽヽヽ」
 勝「こん畜生(ちきしょう)、手前(てめえ)のような野郎が捨児(すてご)をするんだ、薄情の頭抜(ずぬ)けッてえば」
 ○「勝さん怒(おこ)ったって仕方がねえや、それじゃアお前(めえ)売って歩きねえな、江戸は広(ひれ)えとこだ、買人(かいて)があるかも知れねえ、子供やこども、子供はよろしゅうございッて」
 勝「こいつが又馬鹿を吐(こ)きやがる、最(も)う承知がならねえ、野郎何うするか見アがれッ」
 と拳をふり上げますから、傍(そば)にいるものも笑って見てもいられません。
 △「まア何うしたんだ、勝も余(あん)まり大人気ねえじゃねえか、熊の悪口(わるくち)は知ッてながら、廃(よ)せッてえば、下(くだ)らねえ喧嘩するが外見(みえ)じゃアあるめえ」
 と仲裁をする騒ぎでございます。勝五郎は友達が笑いものになるまでに熱心になって、何うか晋齋の依頼(たのみ)を果そうと心懸けて居りまする。すると深川の森下に大芳(だいよし)と申して、大層巾のきく大工の棟梁がございますが、仲間うちでは芳太郎(よしたろう)と云うものはない。深川の天神様で通っている男で頗(すこぶ)る変人でげす。何事でも芸に秀でて名人上手と云われるものは何うも変人が多いようで、それも決して無理のない訳だろうと思われるんでございます。私(わたくし)どもが浅慮(あさはか)な考えから思って見ますると、早い例(たとえ)が、我々どもでも何か考えごとをして居りますときは、側で他人様(ひとさま)から話を仕掛けられましても精神が外(ほか)へ走(は)せて居りますので、その話が判然(はっきり)聞とれませんと申すようなもの、そこで御挨拶がトンチンカンとなる。そうすると彼奴(あいつ)まだ年も若いに耄碌(もうろく)しやがッたな、若耄碌なんかと仰ゃるような次第でげす。一寸(ちょっと)いたしたことが之(こ)れでございますから、物の上手とか名人とか立てられる人は必ずその技芸に熱心していろ/\の工夫を凝らしているもので、技芸に精神を奪われていますから、他(ほか)の事にはお留守になるがこりゃ当然(あたりまえ)の道理でござりましょうかと存じます。それで物事に茫然(ぼんやり)するように見えるんで、そこで変人様の名も起る訳であろうかと推量もいたされるでげす。大芳棟梁も矢張(やはり)この名人上手の中(うち)に数えらるゝ人ですから、何うも一風流変っておりますが、仕事にかけたら何(ど)んな大工さんが鯱鉾立(しゃちほこだち)して張り合っても叶(かな)いません。今では人呼んで今甚五郎と申す位の腕前でございます。それほどのお人ですから弟子は申すまでもなく多くある。何処(どこ)の棟梁手合でも大芳といえば一目(もく)も二目もおいているほどで、江戸中の大工さんで此家(こゝ)へ来ないものはない。そんなに持囃(もてはや)されて居りますが大芳さん少しも高慢な顔をしない。どんな叩き大工が来ても、棟梁株のいゝ人達(てあい)が来てもおんなしように扱っているんで、中には勃然(むっ)とする者もありますが、下廻りのものは自分達を丁寧にしてくれる嬉しさからワイ/\囃しています。この人の女房は、柳橋(やなぎばし)で左褄(ひだりづま)とったおしゅん[#「おしゅん」に傍点]という婀娜物(あだもの)ではあるが、今はすっかり世帯染(しょたいじ)みた小意気な姐御(あねご)で、その上心掛の至極いゝ質(たち)で、弟子や出入(ではい)るものに目をかけますから誰も悪くいうものがない。一家まことに睦(むつま)しく暮していますが、子供というものが一人もないにおしゅんは大層淋しがって居(お)るんで、大芳さんも好児(いゝこ)があったら貰って育てるが宜(い)いと云ってる。或日でござります。大芳棟梁の弟子達が寄って頻(しき)りに勝五郎の噂をしているのを姐御のおしゅんがちらりときいて、鳶頭の勝さんなら此家(こちら)へも来る人、そゝっかしい人ではあるが正直な面白い男、そんな人が肩を入れてる子供なら万更なことはあるまいと思いますので、大芳さんに此の事をはなすと、
 大「お前(めえ)が好(い)いと思ったら貰いねえな、何うせ己(おいら)が世話するんじゃねえから」
 と云うんで、おしゅんは直ぐ弟子を勝五郎の家(うち)へ迎えにやる。勝五郎は深川へ来て話をきくと雀躍(こおどり)して喜び、伊之吉もまた大芳のとこへ貰われて来ましたが、実に可愛(かあい)らしい好児(いゝこ)でげすから、おしゅんさんは些(ちっ)とも膝を下(おろ)しません。それ乳の粉(こ)だの水飴だのと云って育てゝ居ります。伊之吉もいつか大芳夫婦に馴染んで片言交りにお話しをするようになって、夫婦はいよ/\可愛くなりますが人情でござります。只(た)だ伊之や/\とから最(も)う[#「最う」は底本では「最も」と誤記]気狂(きちがい)のようで、実の親でもなか/\斯うは参らぬもので、伊之吉はまことに僥倖(しあわせ)ものでげす。高根晋齋は勝五郎の世話で両児(ふたり)を漸(ようよ)う片附けましたから、是れよりお若の身を落付けるようにして遣ろうと心配いたして、彼方此方(あっちこっち)へ縁談を頼んでおきますと、江戸は広いとこでげすから、お若が狸の伊之と怪しいことのあったを知らずに、嫁に貰おうと申すものが網の目から手の出る程でございますが、当人のお若は何うあってもお嫁に行(ゆ)くは嫌だと申し、いっかな受けひきません。晋齋もいろ/\勧めて見ますが何うも承知しないんであぐねております。するとお若は世を味気(あじき)なく思いましたやら、房々(ふさ/\)した丈(たけ)の黒髪根元からプッヽリ惜気(おしげ)もなく切って仕舞いました。

        三

 我身(わがみ)の因果を歎(かこ)ち、黒髪をたち切って、生涯を尼法師で暮す心を示したお若の胸中を察します伯父は、一層に不愍(ふびん)が増して参り、あゝ可愛そうだ、まだ裏若い身であんなにまで恥ているは……あゝこれも因縁ずくだ、前(さき)の世からの約束ごとだから仕方がない、と晋齋もお若のするが儘にさせておきました。その年も何時(いつ)しか暮れて、また来る春に草木(くさき)も萌(も)え出(いだ)しまする弥生(やよい)、世間では上野の花が咲いたの向島が芽ぐんで来たのと徐々(そろ/\)騒がしくなって参りまする。何うもこの花の頃になりますと人間の心が浮いて来るもので、兎角に間違の起る根ざしは春にあるそうでございます。殊に色事の出入(でいり)が夏の始めから秋口にかけて多いのは、矢ッ張り春まいた種が芽をふき葉を出して到頭世間へパッとするのでもござりましょうか。能く気を注(つ)けて御覧遊ばせ。まア左様(そう)した順に参っております。これは私(わたくし)が一箇(いっこ)の考えではござりません、統計学をお遣り遊ばした御仁は熟(よく)知ってお出(いで)なさる事で、何も珍しい説でも何(なん)でもないんでございます、と申すと私も大層学者らしい口吻(くちぶり)でげすが、実は何うもはやお恥かしい訳なんで、みんな御贔屓の旦那方から教えて頂く耳学問、附焼刄でげすから時々化(ばけ)の皮が剥(は)げてな、とんだ面目玉を踏みつぶすことが御座いまする、ハヽヽヽヽ。扨(さ)て世捨人になったお若さんでげすが、伯父の晋齋に頼みまして西念寺(さいねんじ)の傍(わき)に庵室とでも申すような、膝を容(い)れるばかりな小家(こいえ)を借り、此処(こゝ)へ独りで住んで行いすまして居りまする。尤も伯父の家(うち)は直(じ)き近くでございますから、晋齋も毎日見廻ってくれるし、三食とも運んでくれるので自分で煮炊(にたき)するにも及ばない、唯仏壇に向ってその身の懺悔のみいたして日を送っております。花で人が浮れても、お若は面白いこともなくて毎日勤行を怠らず後世(ごせ)安楽を祈っているので、近所ではお若の尼が殊勝(けなげ)なのを感心して、中にはその美しい顔に野心を抱(いだ)き、あれを還俗(げんぞく)させて島田に結(ゆわ)せたなら何様(どんな)であろう、なんかと碌でもない考えを起すものなどもござりました。丁度お若さんがこの庵(いおり)に籠(こも)る様になった頃より、毎日々々チャンと時間を極(きめ)て廻って来る門付(かどづけ)の物貰いがございまして、衣服(なり)も余り見苦しくはなく、洗いざらし物ではありますが双子(ふたこ)の着物におんなし羽織を引掛(ひっか)け、紺足袋に麻裏草履をはいております、顔は手拭で頬冠(ほゝかぶり)をした上へ編笠をかぶッてますから能くは見えませんが、何(なん)でも美男(いゝおとこ)だという評判が立ちますと、浮気ッぽい女なんかはあつかましくも編笠のうちを覗(のぞ)き、ワイ/\という噂が次第に高くなって参り、顔を見ようというあだじけない心からお鳥目を呉れる婦人が多いので、根岸へ来れば相応に貰いがあるから、それで毎日此方(こっち)へ遣って参るというような訳になる。物貰とは申しますが、この美男はソッと人の門口に立ってお手元は御面倒さまなどとは云わないんで、お鳥目を貰う道具がござります。それは別に新発明の舶来機械でもなんでもないんで、唯一挺の三味線と咽喉(のど)を資本(もと)の門付という物貰いでございますが、昔は門付と申すとまア新内(しんない)に限ったように云いますし、また新内が一等いゝようでげすが、此の男の謡(うた)って来るものは門付には誠に移りの悪い一中節ですから、裏店(うらだな)小店(こだな)の神さん達が耳を喜ばせることはとても出来ませんが、美男と申すので惣菜(そうざい)のお銭(あし)をはしけて門付に施すという、とんだ不了簡な山の神なんかゞ出来て、井戸端の集会にも門付の噂が出ないことがないくらい。斯ういう不心得な女が多く姦通(まおとこ)なんかという道ならぬことを致すのでございましょう。一中節の門付はそんなことには些(ちっ)とも頓着(とんじゃく)はしませんで、時間を違(ちが)えず毎日廻ってまいり、お若さんの閉籠(とじこも)っている草庵(そうあん)の前に立って三味線弾くこともありますが、或日の事でございました、お若さんが生垣のうちで掃除をして居りますと、件(くだん)の門付は三味線を抱えて例(いつも)の通り遣って参り、不審そうに垣の内をのぞきこんで、頻(しき)りと首をかたげて思案をいたして居りましたが、また伸上って一生懸命に見ています。此方(こちら)のお若はそんな事は少しも知りませんで、セッセと掃除を了(おわ)り、ごみを塵取りに盛りながら、通りの賑(にぎや)かなのに気が注(つ)いてフイト顧盻(みかえ)りますと、此の頃美男(びなん)と評判のはげしい一中節の門付が我を忘れて見ておりますから、尼さんにこそ成っていますものゝ未だ年も若く、修業の積んだ身というでもありませんから、パッと顔に紅葉(もみじ)を散らし※々(そう/\)庵室に逃げこみました。左様(そう)すると門付も立去ったらしく三味線の音色が遠く聞えるようになりましたんで、お若の尼はドキン/\とうつ動悸(どうき)がやっと鎮まるにつけても、胸に手をおき考えれば考えるほど不思議で堪りません。何うも訝(おか)しいじゃないかあの門付、あんなに私を見ているというは訳がわからない、此方(こちら)の気のせいか知らんが、顔立といい年格好といい伊之助さんに悉皆(そっくり)なんだから、イヤ/\左様(そう)であるまい、あの人があんな門付に出るまで零落(おちぶれ)るということはない筈、あゝ怖(おそろ)しや/\又も狸か狐にだまされた日にゃア、再び伯父様に顔合せることが出来ないというもの、それにしても訝しい、あの時は此方(こっち)で伊之さんの事ばかり思っていて逢度(あいたい)々々とそればかりに気を揉んでいたから、畜生なんかに魅入られたんだけれど、今度はそうでない、私も心に懸らない事はないが、あゝいう事があっては、伊之助さんも愛想をつかしたろうと諦めちまったから[#「諦め〜」は底本では「締め〜」と誤記]、些(ちっ)ともそんな気はないに、今日のあの門付、何う考えて見ても不思議でならない、と悶え苦しんで居りましたが、あゝ左様(そう)だ、仮令(たとえ)どんな者が来ようと身を堅固にしていさえすれば恐いことも怖しいこともない、若(も)し明日(あした)来たら疾(と)くと見てやろう、此方(こちら)からお鳥目でもやる振(ふり)をして、と待っておりましたが、丁度その時刻になりますと、チンツンチヽンという撥(ばち)あたりで三味線の音(ね)が聞え、次第に近く成って参りました。あゝ来たなと思いますから、お若さんはお捻(ひねり)をこしらえ待っております、例の門付は門口にたって三味線は弾いておりますが唄はうたいません、上手な師匠がやっても何うも眠気のさすが一中節でげすから、素人衆……エー旦那方が我れ面白の人困らせ……斯ういうことを申しますと暗(やみ)の夜(よ)がおっかないんでげす。ナニあの野郎生意気をいいアがって、向う脛(ずね)ぶっぱらえなんかと仰しゃるお気早(きばや)な方もございますが、正直に申すとまア左様(そう)言ったようなもので、扨(さ)て門外(おもて)にたちました一中節の門付屋さんでげすが、頻(しき)りに家(うち)の内(なか)をのぞいて居ります。お若もこのようすが如何(いか)にも訝(おか)しいと思うんで障子の破れから覗いております、其の中(うち)門付屋さんは冠(かぶ)ってまする編笠に斯う手をかけまして、グッとあげ、家(うち)を見ますときお若さんは顔をはっきり見ました。すると驚いて障子をがらり開けたんで、門付屋も恟(びっく)りして顔を隠しまする。
 若「もしやあなたは伊之助様じゃなくって」
 伊「そう仰しゃるはお若さんでげすね、何うしてそんな風におなんなされました」
 若「まアお珍らしい、貴方こそ何うしてそんな事を遊ばしまするのでござります」
 伊「これには種々(いろ/\)の理由(わけ)があって……今じゃアこんなお恥かしい形(なり)をしていますよ、あなたこそなんだってお比丘(びく)さんにはお成んなさったのでげす」
 若「私にもいろんな災難が重なりましてね、到頭斯ういう姿になりましたんですよ、それじゃア私がとんだ目にあった事をまだ御存知ないんですか」
 伊「些(ちっ)とも知らないから、実に恟りしましたよ」
 若「おやまア左様(そう)ですか、此処(こゝ)には誰もいないんですから遠慮するものはありません、お上(あが)りなさい」
 とお若さんは伊之助を奥へ引張りあげました。段々様子をきいて見ると、お若が狸を伊之助と心得て不所存をいたしたことも知らぬようでげす、初めは私に気の毒だと思ってシラを切っているのだろうと思ってましたが、何うも左様でないらしいとこがございますから、お若さんは根どい葉どいを致す、伊之助もきかれて見れば話さない訳にも参らぬところから、
 伊「エー斯うなんですよ、あのお前さんとの一件がばれたんで、鳶頭(かしら)から手切の相談さ、ところで私(わし)もダヾを捏(こ)ねようとア思ったんだが、イヤ/\左様でない、私ら風情で大家(たいけ)の嬢様(じょうさん)と一緒になろうなんかッてえのは間違っている……こりゃア今切れた方が先方様(さきさま)のお為と思ったもんだからね、鳶頭の言うなり次第になって目を眠っていたんでげす、その後(のち)のことで……左様さ二月(ふたつき)も経ってからだッたでしょうよ、鳶頭が慌(あわ)てくさッて飛びこみ、私がお前さんのいなさる根岸へ毎晩忍んで逢いに行(ゆ)くてえじゃないか、あんまり馬鹿々々しいんで鳶頭をおいやらかしてやッたんでげす」
 と云われてお若は深く恥いりましたか、俄(にわか)に真赤(まっか)になってさし俯(うつむ)いております。伊之助はそんなことは知りませんから、
 伊「ほんとにあの鳶頭のあわてものにも困る……」
 と一寸(ちょい)とお若を見ますると変な様子でげすから、伊之助も何(なん)となく白けて見え、手持無沙汰でおりますので、お若さんも漸(ようよ)う気が注(つ)いて、
 若「それはそうとして何うして其様(そんな)ことを……」
 伊「イヤ何うも面目次第もない、恥をお話し申さないと解らないんで、丁度あの鳶頭が来た翌日(あくるひ)でした、吉原(なか)の彼女(やつ)と駈落(かけおち)と出懸けやしたがね、一年足らず野州(やしゅう)足利(あしかゞ)で潜んでいるうちに嚊(かゝあ)は梅毒がふき出し、それが原因(もと)で到頭お目出度(めでたく)なっちまったんで、何時(いつ)まで田舎に燻(くすぶ)ってたって仕方がねえもんだから、此方(こっち)へ帰りは帰ったものゝ、一日でも食べずに居られねえところから、拠(よんどこ)ろないこの始末、芸が身を助けるほどの不仕合とアよく云う口ですが、今度はつく/″\感心してますよ」
 若「それは/\さぞお力落し、御愁傷さまで……」
 伊「悔みをいわれちゃ、穴へでも這入(へえ)りてえくれえでげすが、それにしてもお前さんこそ何うして其様(そんな)お姿におなんなすったんですえ」
 場数ふんでまいった蓮葉者(はすッぱもの)でございましたなら、我が身の恥辱(はじ)はおし包んで……私(わし)は一旦極めた殿御にお別れ申すからは二度と再び男に見(まみ)えぬ所存で…これこの通り仏に誓う世捨人になりました、伊之さん何うか察して下さいとほろりとさせる処でげすが、其様(そんな)ケレン手管(てくだ)なんどは些(ちっ)ともないお若さんですから、実は斯々云々(かく/\しか/″\)の訳あってと真実(まこと)を話します。伊之助も恟(びっく)り仰天いたして、暫らくの間は口も利きませんでしたが、それも矢っ張り因縁というものでしょうから心配なさることはないと慰さめ、此の日は何事もなく帰りまする。次の日もまたお若さんの家(うち)へ寄って行(ゆ)く、その次の日もまた寄るというようになると、お若さんも元々厭(いや)な者が来るんでないから其の時刻を待つ、伊之助も屹度(きっと)来る、何時(いつ)何ういう約束をするというでもなく、何方(どちら)から言出すというでもなく、再び焼棒杭(やけぼっくい)に火がつくことゝ相成りましたが、扨(さて)これからは何うなりましょうか、一寸(ちょいと)一服いたし次席でたっぷり申し上げましょう。
 

        四

 さて引続き申上げておりまする離魂病のお話で……因果だの応報だのと申すと何(なん)だか天保度のおはなしめいて、当今のお客様に誠に向きが悪いようでげすが、今日(こんにち)だって因果の輪回(りんね)しないという理由(わけ)はないんで、なんかんと申しますると丸で御法談でも致すようで、チーン……南無阿弥陀仏といい度(たく)なり、お話がめいって参ります。と云ってこのお話を開化ぶりに申上げようと思っても中々左様(そう)はお喋りが出来ません。全体が因果という仏くさいことから組立られて世の中に出たんでげすからね。何も私(わたくし)が好(すき)このんで斯様(かよう)なことを申すんではありません。段々とまア御辛抱遊ばして聴いて御覧(ごろう)じろ、成程と御合点なさるは屹度(きっと)お請合申しまする。エーお若伊之助の二人は悪縁のつきぬところでござりましょうか、再び腐れ縁が結ばりますると人目を隠れては互に逢引をいたす。お若さんの家(うち)は夜分になると伯父の晋齋が偶(たま)さか来るぐらいで、誰も参るものはございません、尤(もっと)も当座は若いお比丘さん独りで嘸(さぞ)お淋しかろうなぞと味なことを申して話しに押掛けて参った経師屋(きょうじや)もないでもなかったが、日が暮れると決して人を入れないので、左ほど執心して百夜通(もゝよがよ)いをするものもなかったんでしょう。只今も申しまする通り夜分になれば伯父の目さえ除(よ)ければ憚(はゞか)るものはないんでげすから、お若さんも伊之助も好事(いゝこと)にして引きいれる、のめずり込むというような訳になって……伊之助は大抵お若さんのとこを塒(ねぐら)にしておりました。始めのうちこそお互いに人に見られまいと注意いたすから、夜が明けはなれると伊之助は飛び出すので、近所でも知らなかったが、左様(そう)都合のいゝことばかりはないものでな。惚(ほれ)た同士が二人きりで外(ほか)に誰もいないのでげすから、偶(たま)には痴話や口説(くぜつ)で夜更しをして思わぬ朝寝もしましょうし、また雨なんかゞ降るときはまだ夜が明けないと存じて、
 伊「もうおきる時分だろう、雨戸のすき間があかるくなって来た」
 若「ナニまだ早いよ、大丈夫だから……お月夜であかるいんだわ、今から帰らなくッてもいゝッてえば、私アねむくって仕様がないじゃないかね、モガ/\おしでないてえば」
 とお若が起しませんから、伊之助とて丁度寝心のいゝ時節、飛起きたくはありますまいて。すると……、毎朝照っても降っても欠かさずに屹度(きっと)参る納豆屋の爺さん、
 納「納豆ーなっとー……お早うさまで」
 若「おや大変おそいよ、納豆やのお爺さんが来るようでは……とんだ寝坊をしたね」
 伊「それ御覧な、仕様がないじゃないか、伯父さんのとこから御飯でも持って来る人に見付(みつか)っちゃア大変だ、近所の人は皆(みん)な起きてるだろう……あゝ弱ったね、本当(ほんと)に困っちまった」
 若「私だって全く夜が明けないと思ったからだわ、何うするの伊之さん……今日は此家(こゝ)においでな、こんなに雨が降ってるから伯父様(さん)も来やアしまい、お前だッたって帰るも大変だわ」
 伊「そりゃ己(おい)らの方にゃア願ったり叶ったりだけれどな、若(も)し来られた日にゃアそれこそ大変なわけ、一旦手切まで貰って分れたんだから」
 若「それも左様(そう)だねえ……中々頑固だから六ヶ敷(むずかし)いことを云うかも知れないから、困ったね」
 と云っているうちに伊之助は起あがりて帯を〆(し)めておりますると、表をトン/\/\と叩くものがございますんで、二人は恟(びっく)りいたして、お若さんは手早く床をあげ、伊之助を戸棚へ隠し、やっと心を落付け、表の戸をたゝくを聞えぬ振して態(わざ)と縁側の戸をガラ/\明けております。表では頻(しき)りにトン/\/\/\と叩いて、
 吉「オイお若さん何うしたんだい、こんな寝坊することがあるもんか、早く開けて下さいよ」
 若「おや吉澤(よしざわ)さんですか……何うも御苦労でしたことねえ、今朝はとんだ寝坊をしましてねえ……大層おたゝかせ申しましたか、ほんとにすみませんこと」
 吉「ハヽア珍らしいですな、あなたがこんなに朝寝をするは……ハヽヽヽ」
 例(いつも)の通り飯櫃(おはち)と鍋を置いて帰ったので、まア好(よ)かったと胸なで下(おろ)しまして、それから伊之助も戸棚より這出して参り、直ぐに帰ろうというを、お若は丁度あったかい御飯が来たとこだからと、無理に止めまして少し冷めた味噌汁(おみおつけ)をあっため、差向いで朝飯(あさはん)を仕舞まする。
 若「伊之さんこんなに降って来たから……大丈夫来やしないわ、帰るにしても些(ちっ)と小止(こやみ)になるまで見合(みあわ)してお出(いで)でないとビショ濡になっちまうわ」
 伊「まさか此の降りに伯父様(さん)が見廻りもなさるまいとア思うがね、あんな人ではあるし、今朝来た使いが変だと思やアそう云うだろうから油断はしていられないよ、見付(みつか)って仕舞ってから幾ら悔しがっても取って返しが付かないから」
 若「そうねえ」
 とは申しますものゝ、ドシ/\雨の降ってる最中に可愛い情夫(おとこ)を出してやるは、何うも人情仕悪(しにく)いものでございますんで、お若さんは頻りに止めますから、伊之助もそれではと小歇(こやみ)になるまで見合すことにいたし、立膝をおろして煙草を呑もうといたすと、ざア/″\/″\という音が庭でするは、丁度傘をさして人の立(たっ)てゞもいるように思われますんで、疵もつ足の二人は驚きあわて顔見合せましたが、がらりと障子をあけて誰が来たと確めることが出来ません。そうかと申して伊之助が今逃げ出してはます/\疑われる種とおもいますから、うかといたした事をして毛を吹いて疵を求めるも馬鹿々々しいと、只二人ともはら/\と胸を痛めて居りますると、暫くして縁先で咳ばらいをいたすものがある。お若も伊之助も最(も)う堪らなくなりましたから、先(ま)ず伊之助が逃げ出しにかゝるを、
 ○「二人とも逃げるにゃア及ばねえ」
 とがらり障子をあけて這入ってまいったは別人ではございません、そゝっかしやの鳶頭(とびがしら)勝五郎でげすから、ハッと驚きましたが、まだしも伯父の晋齋でないだけが幾らか心に感じ方が少ないと申すようなものではあるが、何(なん)にいたせ二人とも面目ない始末……とんだところへと赤面の体(てい)で差しうつぶいて居ります。勝五郎も驚きましたね、まさか伊之助が此処(こゝ)へ来ていようとは夢にも思いませんから、暫くはじろり/\二人の様子を見ておりましたが、
 勝「師匠……いやさ伊之さん、まア何うしたんだ……何うして此処に来ているんだ」
 と申して膝を伊之助の方へすゝめますが、何(なん)とも返答をいたす事が出来ないんで……矢ッ張黙ってモジ/\と臀(いしき)ばかりを動かし、まるで猫に紙袋(かんぶくろ)をきせましたように後(あと)ずさりをいたしますんで、勝五郎は弥々(いよ/\)急(せ)きたちまして、
 勝「エ、何うしたんだな、お前(めえ)さんがこんな戯(ふざ)けた真似をしちゃア済むめえが、お前さんばかりじゃねえや、私(わっち)が第一(でえいち)お店(たな)に申訳がねえ、手切金までとって立派に別れておきながら……何(なん)てえこったアな、オイ伊之さん何うしたんだ」
 と今にも掴(つか)みかゝらんとする権幕でげすから、お若さんも恟(びっく)り、黙っていられません。
 若「鳶頭(かしら)、そんなにお云いでないよ、伊之さんが悪いんじゃないから、これというも皆(みん)な私の心からで無理に伊之さんを呼びこんだのだよ、何うした因果か知らないが、何うも伊之さんのことばかりは思い切ることが出来ないんだからね」
 勝「ヘエーお嬢さんから、野郎を引ずり込んだと仰しゃるんでげすか」
 若「お前さんでも貞婦(ていふ)両夫に見(まみ)えずということがあるは知ってるでしょう、私だって左様(そう)だわ、一旦伊之さんとあんな交情(なか)になったんだもの、世間の義理で切れましょうと云ったって、心(しん)から底から切れるなんかッてえ気は微塵もありゃアしないのさ、ひょんなことがあったからね、これでは伊之さんに邂逅(めぐりあ)っても愛想をつかされるだろうと悲しく思ってるを、伯父さんは些(ちっ)とも察してくれず、お嫁にゆけのなんのというじゃないか、私の良人(おっと)は三千世界に伊之さんより外にないんだものお前、仮令(たとえ)嫌われたって愛想をつかされたって、二人の良人は持ちますまいと心に定めてこんな姿になってるんだからね」
 勝「こりゃ驚きやした、手放しの惚気(のろけ)てえのア、じゃア何(なん)ですね、お嬢さんは野郎を引ずり込んだッて好(い)いと仰しゃるんでげすね」
 若「あれまア、引摺りこんだなんて、そんな体(てい)の悪いことをお云いでないよ」
 勝「だって左様(そう)じゃげえせんか……、これが伯父さんに知れたら何うなさる御了簡でげすえ、伊之さんお前(めえ)だって左様じゃねえか、いくらお嬢さんが何(なん)と仰しゃるにしろよ、ノメ/\這入(へえ)りこんでそゝのかすてえことはねえ筈」
 と鉾先は伊之助に向きまする。
 伊「鳶頭(かしら)まことに面目ない……、私もお若さんが尼になっていなさりょうとは思いもかけず、此処(こゝ)らをうろつくうちにお嬢さんが伊之さんかというような訳から、段々と様子をきいて見れば私風情に操(みさお)をたてゝ下さるお志が何うも知らぬと申しにくゝ、鳶頭の前だが誠に申訳のない次第」
 勝「なんだッて、エ、お前(めえ)までが一緒になって惚(のろ)けるてえことがあるもんか、コウ伊之さんよく聞きねえ、私(わっち)アお前さん方の為を思って飛(とん)で来たんだ、今日雨降りで丁度仕事がねえから先生のとこへ来てるとよ、書生さんが此処(こゝ)から帰(けえ)って来て、お若さんのとこには泊客(とまりきゃく)があるらしいと云ったを、先生がきいて、若い女のとこへ泊客たア捨ておかれん、己が直ぐ往って実否(じっぴ)を正して来ると支度をするじゃアねえか、私アまさか伊之さんが来ていようとは思わねえけれど、お嬢さんだってまだ若い身そらだ、若(も)しひょっとどんな虫が咬(かじ)りついたか知れねえと思ったからよ、ナニ旦那がいらっしゃるまでもねえ私が見届けて参(めえ)りますから……来て見ればこれだからね実に恟(びっく)りしたじゃねえか、エ、これが若し旦那に来られて見ねえ何様(どんな)騒ぎになるか知れたもんじゃねえ」
 と云れてお若は忽(たちま)ち震いあがりましたが、態(わざ)と落付きはらって、
 若「鳶頭(かしら)後生だから、伊之さんの来ていることはねえ、私が一生のお頼みだから」
 勝「エヽそりゃア宜(よ)うがすがね、困ッちゃうなア、切れろッて云ったって此の様子じゃアとても駄目だ、これが何時(いつ)までも分らずにいりゃア私(わっち)も知らん顔していやすが」
 伊「鳶頭まア左様(そう)云わずと何うかね、今日のとこは見逃しておいておくんなさい、私もまたお嬢さんをお諭(さと)し申して綺麗さっぱり諦らめるようにするからねえ、決してお前さんの面(かお)は潰さないから」
 といろ/\と勝五郎を賺(すか)しこしらえるうちに、切れるような言葉あるをきゝましたお若は、プッと頬をふくらすのを見ましたから、眼付で合図いたし、ヤッと勝五郎を追いかえしますると、
 若「伊之さん何うしょうねえ、この事が伯父さんに知れた日にゃア大変だから」
 伊「さア何うしたら宜かろうか知らん」
 若「いっその事、私をつれて逃げておくれでないか」
 伊「そんな事をしては猶更すまねえから」
 若「あれさ、此様(こんな)ことになってゝ済むのすまぬということがあるものかねえ、私がこんな形(なり)だからお前さん外聞がわるいんで」
 伊「ナニ其様(そんな)ことはないけれど、斯うして来ているのさえ面目ないのだに、其の上また連出しては」
 若「嫌(いや)なんだね、嫌ならいやでいゝよ、お前さんに捨てられちゃア」
 と突然(いきなり)仏壇の引出から剃刀(かみそり)を取出し自害の体に見えます。お芝居などでもよく演(や)るやつでございますが、先(ま)ず初めにお姫さまが金魚の糞(うんこ)ほどぞろ/\腰元をつれ、花道で並び台詞(ぜりふ)がすみ、正面の床かあるは引廻したる幔幕(まんまく)のうちへ這入る、そうすると色奴(いろやっこ)とか申してな、下司(げす)下郎の分際(ぶんざい)で金糸(きんし)の縫いあるぴか/\した衣装で、お供に後(おく)れたという見得で出てまいります、舞台(ぶだい)へ来ても最(も)うお姫様もお供の影もないのでまご/\しているを好(いゝ)寸法に出来てるもので、お姫様が其処(そこ)へたった一人で出懸けてまいり、これ何平とやら雨の降るほどやる文を返事もしないは情(つれ)ないぞや、四辺(あたり)に幸い人はなし、今日こそ色よい返事をなんかんッて……あつかましくもジッと下郎の側へ寄り添い、振袖を肩のところへかけるを合図に、下郎は飛びのき不義はお家の御法度(ごはっと)、とシラ/″\しく言えば、女の身で恥かしいこと言い出して殿御に嫌われては最うこれまで、と懐剣ひきぬき自害の模様になるを、下郎は恟(びっく)りして止めると、そんなら私(わらわ)の望み叶えてたもるか、さアそれは……叶わぬならば此の儘、さア/\/\と糶詰(せりつめ)た後(のち)は男がそれまでに思召すのをなどと申して、いやらしい振になって騒ぎを起しまするが、女の子が男を口説(くどく)秘法は死ぬというが何より覿面(てきめん)でげす。併(しか)し当今の御婦人さま方にはそんな迂遠(まわりどお)いことを遊(あそば)す方は決してございますまい、ナニ惚れたとか腫れたとか思いますと直々(じき/\)に当って御覧なさる。先方(さき)の男が諾(うん)といえば自由結婚だなどと吹聴あそばし、また首(かぶり)をふればナニ此処(こゝ)な青瓢箪野郎、いやアに済していアがる、生意気だよ、勿体なくも私のような茶人があればこそ口説(くどき)もしたのさ、一生のうち終り初物で恟りして戸迷(とまど)いしあがッたんだろう、ざまア見あがれと直ぐ外の男へ口をかけるというように淡泊になって参りました。これははや何うも飛(とん)でもない事を申しまして、本書をお読みなさる御婦人様方には決してそんな蓮ッ葉な、薄情きわまるお方はお一人でもある気遣いはございません。この本を見たこともないと申す阿魔や山の神には兎角そんな族(やから)が往々あって困りますよ、ハヽヽヽ。何うも余事にわたって恐れ入りました。扨(さ)て伊之助でございますが、お若さんが連れて逃げてくれろと申しましたを、義理だてをして捗々(はか/″\)しく相談に乗らないところから、男を諾(うん)といわする奥の手をだし、自害の覚悟を示したのでありますから、伊之助も最(も)う是非がございません。
 伊「えい危ない、何(なん)だってそんな真似を、まアこれをお放しなさいよ、はなしは何うにでもなることだから」
 若「いゝえ、お前さんは私に飽きたから、それで」
 伊「これさ、まアそんな強情をいわずと、あゝ困るなア、あゝまた、危ない/\、逃げろなら逃げもするから、まア刄物はお放しなさい」
 若「それでは屹度(きっと)だね、屹度一緒に逃げておくれだねえ、屹度……屹度」
 伊「あゝよろしい、仕方がない、逃げますとも/\嘘をつくもんですか」
 と漸(ようよ)うお若を宥(なだ)めましたんで、ホッと一息つき、それでは手に手をとって駈落と相談は付けたものゝ、たゞ暗雲(やみくも)に東京(こちら)をつッ走ったとて何処(どこ)へ落著(おちつ)こうという目的(めど)がなくてはなりません、お若と伊之助はいろ/\と相談をしますが、何うも頼みにして参る人がない、ハテ困ったものであるが、誰か親切らしい人はないものかと二人とも無言で頭をなやまして居ります。そうすると伊之助は莞爾(にっこり)いたして、
 伊「いゝ処(とこ)がありますぜ、東京(こちら)から遠くはありませんがね、私(わし)が行って頼んだら情(すげ)なくも断るまいと思うんで、あれなら大丈夫だろう」
 若「そう何処(どこ)なの、お前さんの知ってる家(うち)ならいゝけれど、余(あん)まり近いと直ぐ知れッちまってはねえ、何処、何処なの」
 伊「ナニ知れる気遣いはない……鳶頭だって知ってる筈はなし、伯父さんだって猶さら御存知の気遣いはないとこ、あゝ好(いゝ)とこを思い出した」
 若「お前さんばかり、好とこだ/\と言ってゝ一体どこなんだねえ」
 伊「何処ッてえでもねえが、私(わし)が子供のころに里にやられていた家(うち)で、今じゃア神奈川の在にはいって百姓をしているんさ、まア兎も角もそこに落著いて、それから緩(ゆっく)り相談することに仕ましょうよ」
 若「おや左様(そう)なの、お前さんの里に行ってた家、じゃアその人は余程(よっぽど)のお婆さんになってるだろうね、こんな風をして行くも何(なん)だか極りが悪いけれど、外に頼るものがないんだからねえ」
 伊「ナニさ、心配しなさることはないよ、爺い婆アの二人暮しでいるんだから、私(わし)が頼めば一時(いちじ)は小言をいうかも知れないが、憎いとは思うまいから何うにか世話をしてくれるよ」
 若「そうかねえ、それでは其処(そこ)へ行(ゆ)くことに仕ましょうが、今から直ぐ二人で此処(こゝ)を出ては人目にかゝってよくないがね、何うしょう」
 伊「昼日中(ひるひなか)二人で出てはいけない、今夜の仕舞汽車で間にあうように、そして横浜まで落延びておいて、明朝(あす)一緒に往(ゆ)こう」
 若「あゝ、だけれど先方(さき)で嘸(さ)ぞ恟(びっく)りするだろうね、まアお前さん何(なん)てッて往くつもりなの」
 伊「ハヽヽヽヽ詰らぬ心配したって仕方がないよ、外に何(なん)とも言方(いいかた)がないじゃアないか、矢ッ張り駈落をして来たというより仕様がないのさ」
 若「ホヽヽヽヽ何(なん)だか極りが悪くって」
 と相談は極りましたから、それでは今夜と伊之助は分れて根岸を出てまいります。お若さんは今夜駈落を為(し)ようというんですから、そわ/\して手荷物の支度をしてお在(いで)なさる。すると丁度お昼すぎに伯父の晋齋がぶらりと遣(や)って参ったんで、お若さんはギョッとしました。今朝鳶頭に伊之助の来ているところを見付けられたあとですから、てっきり伯父が私の様子を見に来たにちがいない、鳶頭がまさか明白(あからさま)に伊之さんの来ていたことは言いもせまいとは思いますが、若(も)しひょっと伯父さんに言ったので来たのではないか知らん、何(なん)にしても悪いところへ来たと変な顔をしております。晋齋は朝の様子をきいたのだか聞かぬのだか分りませんが、常にかわらず莞爾(にこ/\)はして居りますが、何うも腹のうちに憂いのあるらしく思われますは、眉のあいだに何(なん)となく雲でもかゝっているように、うるさいという風が見えるので、お若さん一層の心配でたまりませんから、お腹(なか)の中ははら/\としてひっくりかえるようでげす。それを見せてはならぬと十分に注意は為(な)さいまするが、なか/\見せずにおくと申すことは出来ないもので、余ッぽど偉い人でなければ喜怒哀楽を包み隠していることは出来ないそうですから、晋齋も素振の訝(おつ)なのに心はついて居りましたが、がみがみと小言を申したりなんかすると間違いでも仕出来(しでか)さんに限らないと、物に馴れておいでなさるお方でげすから、態(わざ)と言葉づかいも和(やわ)らかに、
 晋「お若、なんだ片付けものを始めたのか、ハヽヽヽヽ如何(いか)に世捨人になっても女というものは、矢っ張りそんな事をいたしておるか、こんだは大分(だいぶ)頭(つむり)も生えたようだな」
 お若は伯父の底気味わるい言葉にハッと思って胸はおどりましたが、覚(さと)られまいと態と何気なく
 若「昨日(きのう)から剃(す)りましょうと思ってるんですけれど、何(なん)だか風邪気のようですから、本当(ほんと)に汚ならしくなったでしょう」
 晋「感冐(かぜ)をひいたか、そりゃ大切(だいじ)にしないと宜しくないよ、感冐は万病の原(もと)と申すからの」
 若「はい有難うございます」
 晋「今日はの些(ちっ)とお前に相談することがあって来たのだから、まア此処(こゝ)へ来なさい」
 と申されていよ/\心配でなりません。さては勝五郎が喋ったにちがいない、こんなことゝ知ったなら伊之さんと直ぐ駈落をしたもの、まさか伯父さんに言付けはしまいと思ってたはとんだ油断だッた。まだ何事を言われるか知れもしないうちから、お若さんは勘ぐって、モジ/\していなされたが、伯父の晋齋が此処へ来いというのでげすから、出ずには居(い)られませんので、おず/\晋齋の前へ手をつき、
 若「伯父さん改まって何(なん)の御用でござりますか」
 晋「別に改まって申すほどの事でないが、今日私(わし)のうちに高徳な坊さんがお出でなさるから、お前にもお目にかゝらせようと思って迎いに来たんだ」
 と云われてお若は当惑いたしました。今夜は駈落をする筈で伊之助と手筈がきめてあるんですもの、何うかして断りたいといろ/\に考えましたが、即座によい智慧は出ませんから、ます/\困って何(なん)とも返答をいたすことが出来ない。そうすると晋齋はじろりとお若の様子を見て吸(すい)かけた煙草もすいません。お若だってそう何時(いつ)までも黙っては居られないから、
 若「折角でございますが、今日は御免を蒙りとうございます、初めてお目に懸るお方に頭のこんなに生えたなりでは失礼で」
 晋「イヤそれなら少しも苦しゅうない、そんな心配をするには及ばない、先方(さき)が俗人かなにかではなし、病中だとお断り申せば仔細はないよ、ナニ私(わし)から能くお詫をしてやるから、あゝいうお方のお談(はなし)をきいておくはお前の為だ、世捨人になっていながら恥かしいなんかてえ事があるものか、私が連れて行(ゆ)かねば到底(とて)も来そうもない、さア一緒に来なさい」
 と無理やりにお若は伯父の家(うち)へ連れて行(ゆ)かれましたから、さア心配で/\堪らないは今夜の約束でげす。早く坊さんが来て帰ってくれないと伊之さんに済まないとそればかりに気を取られ、始めの中(うち)は家の様子に気もつきませんでしたが、気を落著(おちつ)けて考えて見ますれば不審でげす。それほどの珍客があると云うに平常(いつも)の如く書生ばかりで手伝の人も来ていず、座敷も取散(とりちら)した儘で掃除する様子もありません。お若はだん/\訝(おか)しくなりますので、始めて伯父の計略にかゝって、引き寄せられたことを覚(さと)りました。さア大変、これでは折角伊之さんに約束したことも反故(ほご)になり、さぞ恨まれるであろう、何(なん)だか口振りが変だとは思っていたが、伯父さんも余(あんま)りのなされかた、欺(だま)して私を引きよせるとはそでない成されよう、あゝ仕方がない、斯(こ)うなりゃア隙を見て逃げ出すまでだが、何うか伊之さんに約束した刻限まで、あゝ何うしたら逃げ出されるか知らん、うっかりした事して押えられては仕様がない、何うか甘(うま)く脱(ぬ)け出したいものだ、と頻(しき)りに考えこんでおります。伯父の晋齋も別段小言は申しませんで、只(た)だ監督して目を離さない。これにはお若さんもほと/\困りましたが、坊さんの事などは聞きもしませんし言いもしませんで、茫然(ぼんやり)欝(ふさ)いでおりますと、書生は今までお若のいた庵室を片付け、荷物を晋齋のとこへ運んでまいりましたので、
 若「伯父さん私の荷物を此方(こちら)へ持ってお出でなすって何うなさるの」
 晋「ハヽヽヽヽ恟(びっく)りしたか、都合があってお前は当分私(わし)の家(うち)におくのだよ」
 若「はい」
 と言ったきり何(なん)にも言わず、頭痛がするといって顔をしかめます。晋齋も心中(しんちゅう)を察していると見え、心持がわるくば寝るがいゝと許しますので、お若は褥(とこ)をとって夜着(よぎ)引っ被りましたが、何うして眠られましょう、何うぞして脱出(ぬけだ)したいと只一心に伯父の隙をねらって居りますが注意に怠りはございません。さて伊之助でございますが、根岸を立出(たちい)でましてから我が宿といたして居(お)る、下谷(したや)山伏町(やまぶしちょう)の木賃宿上州屋(じょうしゅうや)にかえっても、雨降でげすから稼業にも出られず、僅かばかりの荷物など始末いたし、お若と駈落をする支度をいたして居りまする。元より所持品がたんとあるでなし、柳行李一個(ひとつ)が身上でげすが、木賃宿などへ手荷物でも持って参るは上々のお客様で、上州屋でも伊之助を大事にして居りましたが、日の暮たばかりの七時ごろ上州屋の表へ一輌の人力車がつきますと、手拭を姉様(あねさん)かぶりにした美婦人が車を飛び下り、あわてゝ上州屋へはいり、
 女「あの此方(こちら)に伊之助さんと仰しゃる方は在(いら)っしゃいましょうね、今もおいでになりますか」
 宿「ハイ、お在になります」
 女「あの根岸から尋ねて参ったと、左様(そう)お願い申します」
 と云うも精一杯で真赤(まっか)になる初心(うぶ)な様子を見て、上州屋の帳場ではじろ/\とながめ、急に呼んではくれません。

 



 一寸(ちょい)と往来でゞもそうでございます、若い綺麗な婦人に行会(ゆきあ)いますと振返りたくなるが殿方の癖で、殊に麝香(じゃこう)の匂いがプーンと致しては我慢が出来にくいものだそうで、ナニ己は婦人などに眼はくれぬ、渠(かれ)は魔である化物であるなんかと力んでいらッしゃる方もありますが、その遊ばすことを窃(そっ)と伺って見ますると矢ッ張り人情と申すものは変りません、横丁を曲るときに同伴(つれ)に気の付かないように横目でな、コウいう塩梅しきにじろりとお遣(や)り遊ばしますから、さて不思議に出来あがってるもので、まア近い譬(たと)えが女嫌いと名をとってお在(いで)遊ばす方が、私(わたくし)の参るお屋敷うちにございます、御婦人のお話や少し下(しも)がかったお話になるとフイと其の方のお姿が消えて仕舞うくらいでげすがね、余(あんま)り大きな声では申されませんが、それでね、若い御新造をお貰いあそばし、年子(としご)をつゞけさまにお産し遊ばすから、私もある時御機嫌うかゞいに出て、旦那様は予(かね)て御婦人ぎらいと承わり、女は悪魔だと仰しゃっていらッしゃるそうでげすが、お子様は最(も)うお三方おありなさいますね、と入らざるおせっかいを申しますと、澄したもんで、ナニサ乃公(おれ)は大の女嫌いだよ、併(しか)し嚊(かゝ)アは別ものなんで、何うも恐れ入った御挨拶で、開いた口がふさがらなかったことがございます、ハヽヽヽ、まア斯(こ)うしたもんでげすから、若い美しい御婦人を見て怒(おこ)る方はありますまい。上州屋の帳場でも器量の良(い)いお若さんが伊之助を尋ねて参ったんですから、すこし岡焼の気味でな、番州はじめ見惚(みと)れておりまする。伊之助はお若が尋ねて来ようなんかとは夢にも存じませんけれど、虫が知らしたのかツカ/\と店の方へ参りますと、お若が店さきに立っておりますから驚きましたね、思わず知らず声をかけ、
 伊「オヤお若さんじゃアないかい、何うして出て来なすった、まア此方(こちら)へお這入りなさい」
 若「はい、参ってようございますかね」
 伊「いゝ所(どころ)ですか、誰も心配しなさるものは居やアしません」
 と自身で座敷へ連れてまいりましたが、今夜駈落をしようと約束がしてあるんだから、態々(わざ/\)斯うして来るには何か訳のあることであろう、今朝(あさ)勝五郎に見付けられた一件もあるから、こりゃ晩まで待っていられない事が出来たのだな、と察しましたので、
 伊「何うして来なすったのだ、そして大層そわ/\していなさるようだが、若(も)しや今朝(けさ)のことから」
 と心配らしくお若の顔をのぞきこみまする。左様(そう)なるとお若の方からもジッと伊之助の顔を見詰めまして、ホッと溜息をつき、グッと唾を呑こみまして、
 若「ほんとに大変な事になったの、それだけれど一心でヤッと此処(こゝ)まで逃げて来たんだから、直ぐこれから約束どおり連れて逃げておくれ、若しぐず/\していて見付けられた日にゃア最(も)う今度こそ何うすることも出来なくなるよ」
 伊「エ、大変なことッて」
 と段々きゝますると、朝伊之助に別れたのちの事柄を話す。やアそれはとんでもない、そんなことなら一刻でも斯うしてはいられないと云って、伊之助も慌(あわ)てまどいまして、元より荷物といってはないが、行李の始末なんかは昼間のうちにしてありますから、それではと申して、伊之助は上州屋方を引はらい、お若と二人立出(たちい)で、車に乗って新橋停車場(ステーション)へ着きました。調子のわるい時は悪いもので車が停車場に着くと、直ぐ入口の戸はばったり閉められ、急ぎますものですからと外から喚(わめ)きましてもなか/\戸はあけてくれません。そのうち汽笛の声勇ましく八時二十分の汽車は発車しましたから、お若も伊之助も落胆(がっかり)いたし、あゝ馬鹿々々しい、ちょいと開けてくれさえすればあの汽車で神奈川まで一飛(ひとゝび)に往(ゆ)かれるもの、何(なん)ぼ規則があるからッて余(あん)まり酷(ひど)い仕方、場内取締の顔を見るも腹がたって堪らない、そうかと云って打付(ぶっつ)けて愚痴をこぼすことも出来ないので、拠(よんどこ)ろなく次の横浜行(ゆ)き九時十分まで待たねばなりません、待っているのは仕方がないとしても、若しも其の中(うち)に追手(おって)が掛り、引戻されはしまいかとそれのみが心配で、巡査が此方(こちら)の方へコツリ/\と来るを見ては、両人(ふたり)の様子を怪しく思って尋ねるのではないか、ひょっとお若の頭に気が注(つ)いてそれから駈落の露顕ではないか、とビク/\して彼方(かなた)へ避け此方(こなた)へ除(よ)け、人のなかを潜(くゞ)りあるいても猶気が咎(とが)めるは、此処(こゝ)に集まってまいる人々でございます。知り人でもあって認められては大変とおもえば思うほどに、摺合(すれあ)う人々がじろ/\と見るような気がいたして、何うも一時間をこゝに待っていることが出来ない。すると八時五十五分に赤羽(あかばね)行きの汽車が発車します報鈴(しらせ)がありますから、
 伊「最(も)う十五分経てば横浜ゆきは出ますが、斯うしているうちにね、ひょっと、鳶頭でも追(おっ)かけて来ては仕様がないから、私(わし)はこの汽車で品川まで行(ゆ)こうかと思うんだが」
 若「あゝ、それがいゝよ、こんなにごた/\していては何処(どこ)に知ったものがいないとも限らないから、東京の土地をはやく離れてしまうがいゝわ」
 伊「品川だって矢ッ張東京に違いはないが、こゝほどごた/\は仕ないから、直ぐ乗りかえるんで、厄介は厄介だがね、どうもその方が安心の気がするから左様(そう)しようよ」
 若「また間に合ないといけないから」
 伊「ナニ大丈夫だよ、今度はそんなヘマは組みませんからね」
 と伊之助は札売場に至り、下等二枚を買って参り、お若とゝもに汽車に乗込みましたから、ヤッと胸をなで下(おろ)して人心の付いた気がいたしました。新橋から品川と申せばホンの一丁場煙草一服の処で、巻莨(まきたばこ)めしあがって在(いら)っしゃるお方は一本を吸いきらぬ間(ま)に、品川々々と駅夫の声をきくぐらいでげすから、一瞬間に汽車は着きましたが、丁度伊之助お若が今下車しようと致しますると、火事よ/\という声がいたす、停車場(ステーション)に待合(まちあわ)すものは上を下へと混雑して、まるで芋の子を洗うような大騒ぎでげす。その上品川へ下りるものは吾勝に急ぎまするので、お若と伊之助は到頭はぐれて仕舞いましたんで、お互に気を揉んで捜し合いますが、何をいうにもワア/\という人声が劇(はげ)しいから、さっぱり分らない。
 甲「どこだ/\、火元はどこだ」
 乙「歩行(かち)新宿の裏から出しアがッたんだ、今貸座敷を嘗(なめ)てアがるんだ」
 丙「そりゃ大変、阿魔のとこへ行ってやらなけりゃアならねえ、ヤーイ、ワーイ」
 丁「馬鹿にしてあがらア、手前(てめえ)たちが火事場稼ぎをするんだろう、悪く戯(ふざ)けあがッて」
 丙「こん畜生(ちきしょう)なに云やアがるんでえ、そういう手前(てめえ)こそ胡散(うさん)くせえや」
 丁「なにを、この盗賊(どろぼう)」
 なんかと騒ぎのなかで喧嘩が始まり、一層にごった返して、子供や老人(としより)は踏(ふみ)つぶされるやら、突飛(つきとば)さるゝやら、イヤもう大変の騒動でございます。その中でお若さんは彼方(あちら)へもまれ此方(こちら)へ押されいたしまして、
 若「伊之さんや、伊之助さんや」
 と声を嗄(から)して見得も外聞もかまわず呼んでおりますが些(ちっ)とも知れない。此の大騒ぎのうちに横浜ゆきの汽車は通りすぎ、火事も幸いにボヤで済みましたから、四辺(あたり)も鎮まってまいり、漸(ようよ)う停車場内も静(しずか)になりましたけれども、伊之助は何うしましたか姿が見えません。お若さんは、停車場の外へ出たり内へ這入ったりして頻(しき)りと探していなさるが何うしても居ないので、進退きわまりましたね。今さら帰るには帰られもしないし、また神奈川在とのみにて行先(ゆきさ)きも判然ときいて置かなかったし、何うして好(いゝ)かとうろ/\して居りますと、新橋発十時の汽車はまた汽笛をならして通り越して仕舞う。余り停車場内をうろつくので駅夫等は訝(おか)しくおもって注意する様子は見える。若(も)し巡査にでもこの素振を認められ尋ねられた時には何(なん)と答えたら宜(よ)かろうか知らん、それに最(も)う一度あとに発車があるばかりで、あゝ何うしようか、伊之助さんは何処(どこ)へ往(ゆ)きなすったのか知らん、中途で厭(いや)になり先刻(さっき)の騒ぎを幸いに捨られたのじゃアあるまいか、イヤ/\あの人はそんな薄情な気はない、矢ッ張り騒ぎに紛れて私を見失い、今でも屹度(きっと)さがしていなさるだろう、それにしては此処(こゝ)らにいなさらねばならぬ筈だに……こりゃ神奈川まで行って待っていなさるんだろうか、私が行先(ゆくさき)も知らないことは能く呑込んでいるんだから、まさか自分ばかり先(さ)きへ行(ゆ)くことはあるまい、と心配しぬいておりまするが、時計はさっさと廻って最(も)う十一時に近くなる。今十五分すれば新橋から発車するのだが、この汽車が最終のもので、これに乗らねば翌朝(よくあさ)まで待たなくッてはならぬ、それも伊之助と一緒に乗後(のりおく)れるのなら、別段心配する事もございません、品川には宿屋もございますことでげすから、泊る分のことゝ安心がしていられるが、何を云うにもお若さん一人でげすし、それに世間なれている蓮ッ葉ものと違って、なか/\宿屋なんかへ泊ることは出来ませんでげすから、その心配というものは一通りじゃアないので、何うして宜いか最(も)ううろつく勇気もございませんで、腰掛の隅にジッとして溜息をつきまして、あゝ斯ういう苦労をするも伯父さんの眼を掠(かす)め、道ならぬ道に踏み迷って我儘をした罰(ばち)かも知れない、といよ/\心細くなりますと、我知らず悲しくなって参り、涙がはら/\とこぼれて来ます。そうこう致すうちに切符を売出すので、お若さんは最うぐず/\して居られません、寧(いっ)そ神奈川とやらまで行って、何うしてなりと宿屋へ泊ろうと決心されましたは、実に大奮発なんで、世間知らずのお娘子でこの決心をするというは怖しいものでげす、誰が申し始めましたか存じませぬが曲者とは能く名付けました。怖しいは恋で、世の中に何が怖しいッてこれほど怖(おっか)ないものはございません。神奈川まで参って伊之助を待とうと決心を致されましたお若さんは、切符売場へ参り神奈川一枚と買っておりますと、悄々(しお/\)として遣って参った男がある、目早くも認めましたから、身を交(かわ)そうと致しましたが其の間(ま)がございませんで、
 男「オヤお嬢さんじゃげえせんかえ、まア今時分、何処(どこ)へ行らしったんでげすえ」
 若「なにね一寸(ちょいと)そこまで」
 と然(さ)り気(げ)なく答えはいたしまするものゝ、その慌てゝ居ります様子は直ぐ知れます、そわ/\と致して些(ちっ)とも落著(おちつ)いては居ません。
 男「えお嬢さん、お見かけ申せば何うも尋常(なみ)ならぬ御様子でげすが、何処へいらしッたのでげす、今お帰(けえ)りになるんでげすかえ」
 若「あゝ今帰(かえ)るんですよ」
 と申しますが神奈川行きの切符を買いましたから、件(くだん)の男はます/\不審になりますものですから、
 男「お嬢さん只(たった)お一人で神奈川へ行(いら)っしゃるんでげすね、何うも変で、お嬢さん悪いことは申しません、私(わっし)と一緒にお帰(けえ)りなせえまし、お供いたします、何(ど)んなお急ぎの御用か知れませんが、今から彼方(あっち)へお出でになりますと十二時過でげすよ、そんな夜更に若い貴嬢(あなた)さまお一人で、え、お嬢さん、決して悪いことは申しません、仮令(たとえ)改めてお出懸なさるまでもねえ、一旦はお帰りなせえ、翌朝(あす)になりゃア行らッしゃる先方(さき)まで屹度(きっと)私がお供いたしますから」
 若「あゝうるさいねえ、急用があって行(ゆ)くんだから、うっちゃッといておくれよ」
 男「ヘヽヽヽ急御用てえのは、大方、ねえ、お嬢さん、神奈川あたりに待ってるものがあるんでしょう、ヘヽヽヽヽ何サうるさがられたッて、フヽヽヽム私(わっし)がお出先きまでお供しましょうよ、根岸の伯父御に頼まれて来たんだから、見届けなきゃア役目がすまねえのさ」
 とぐるりと変る調子にお若さんは恟(びっく)りいたし、何うか混雑に紛れてその男をまこうと苦しみますが、生憎(あいにく)夜は更けて居ます事で、待合室にもちらりほらりの人でげす。汽車へ乗込むところにも七八人のものしかいない。お若が如何に逃げてまわりましても、怪しい男は始終影身にそって附いております。先方(さき)へ行(ゆ)き着いてからの心配よりは、只今では此の男をまくことに気を揉んでもなか/\思うように参らない。
 品川の停車場(ステーション)でお若が怪しい様子に付けこんで目を放さない気味のわるい男は、下谷坂本あたりを彷徨(うろつ)いております勘太(かんた)という奴。元は大工でげしたが身持が悪いので、親方にもはなれ、仕事をさせてくれるものもない、そうなって参ると猶更に怠(なまけ)るようになって世の中の稼いで暮すと申す活業(なりわい)に逆らってゆくもので、到頭破落戸(ごろつき)仲間へおち、良くない悪法ばかりやっております。根が胆(きも)ッ玉の太(ふて)え奴でげすから、追々その道の水に染まるにつれまして度胸がすわり、仲間うちでは相応に顔が売れてまいる、坂本の勘太てえば、あの墨染(すみぞめ)勘太かと申すぐらいで。この野郎が墨染という抹香(まっこう)くさい異名(いみょう)をとった訳を申し上げないとお分りになりますまいが、何も深い理窟のあるんではございません、異名だの綽名(あだな)だのと申すものは御存じの通り、その者の身体のうちか、あるいはまた言行のうちに一ヶ所の目安になるものがあって呼ばれるんでげす。勘太ッてえ奴も矢張(やっぱ)りそうなんで、脊中に墨染の文身(ほりもの)をしているからでございます。申すまでもないことでげすが墨染とはお芝居なんぞの中幕によく演(や)るあの関(せき)の扉(と)でげすな、大伴(おおとも)の黒主(くろぬし)が小町桜の精に苦しめらるゝ花やかな幕で、お芝居には至極結構なもので、何時(いつ)みても見飽のしないもの。此奴(こやつ)が何うしてお若さんを知っておりますかと申しますと、元大工でげすから晋齋のとこへ度々(たび/\)親方と共に仕事にまいり、お若さんが居なされたを垣間見(かきまみ)たんで、その嬋娟(あでやか)な姿に見とれ茫然(ぼんやり)いたして親方に小言をいわれていた。お顔を拝みまするたんびにぶるッぶるッと身ぶるいをして魂を失って仕舞いました。元より惚れぬいてはいるが、流石(さすが)親方のお出入先ではあるし、自分がたゝき大工であるから、とても遂げらるゝ恋でないと諦めても煩悩(ぼんのう)はます/\乱れてまいり、えゝという自暴(やけ)のやん八と二人づれで、吉原へ繰込みましては川岸(かし)遊びにヤッと熱を冷(さま)しておりました。そのうち親方もしくじり、破落戸(ごろつき)となったから、根岸の寮へ参るどころか足ぶみもならない。もう斯うなっては手蔓(てづる)が切れて顔を拝むことも出来ませんので、拠(よんどこ)ろなく諦めて仕舞いました。でげすが何うも未練は残っている。時ともすると根岸のお嬢さんのことを思い出し、歯軋(はぎし)りいたして悔(くや)んでおりました。今夜も懶(なま)けものの癖として品川へ素見(ひやかし)にまいり、元より恵比寿講をいたす気で某(ある)楼(うち)へ登(あが)りましたは宵の口、散々(さんざ)ッ腹(ぱら)遊んでグッスリ遣るとあの火事騒ぎ、宿中(しゅくじゅう)は鼎(かなえ)の沸(わ)くような塩梅しき、なか/\お客様に構っていられない。上を下へと非常に混雑いたしますから、勘太はこれ幸いと戸外(おもて)へ飛びだし、毎晩女郎屋近所に火事があればいゝ、無銭(たゞ)遊びが出来るなんかと途方もない事を申します。そう火事が矢鱈(やたら)無性(むしょう)にあって堪るもんでございますか。さて品川停車場(ステーション)より新橋へ帰るつもりで参って見ると、パッタリ逢ったはお若さんでげす。最初は只(た)だよく面影(おもざし)の似た女としげ/\見惚(みと)れ、段々と傍へ寄って参って見れば姿こそ変っておりますが、身顫(みぶる)いの出るほどに惚れた根岸のお嬢さんでげすから、勘太も驚きましたね、マサカ斯様(こんな)ところで出会うとは夢にも思わないから、只一人ではあるまい、誰か同伴(つれ)があろうと注意をしても同伴はない、ハテ変なこともあるわ、お嬢さんが一人で此の辺(あたり)にいなさるは読めねえ訳と、ジッと目を止めて視(み)れば其の様子のおかしいので、悪党だけに早くも駈落と覚(さと)りましたから、しめた/\、うまく欺(だま)しこんで連れこみせえすりゃア、否応(いやおう)いわさず靡(なび)かせる工夫はあるぞ、今夜は弁天様から女福(にょふく)を授けられているそうだ、今の騒ぎで無銭(たゞ)遊びをした上、茫然(ぼんやり)帰(けえ)ろうとすると此様(こんな)上首尾、と喜びまして種々(いろ/\)お若さんに取入ろうとするが受付けません。この上は脅して連れて行(ゆ)くに如(し)かずと頷(うなず)き、伯父さんの晋齋を笠に着て引立てようとはいたすものゝ、何(なん)ぼ悪者でも己(おのれ)の惚れている婦人を手荒く扱いかねますので、流石(さすが)に手を取って引張ることもしない、顔は知っているが名も知らない気味の悪い男が附纒(つきまつわ)りますので、お若さんは心配でならない。何うにかして巻いて仕舞おうといろ/\に遣って見まするが、何うも自由(まゝ)にならぬうちに、新橋発の汽車は品川へ着き、ぞろ/\と下車するもの乗車するものでごた/\している。こんなときに撒(ま)かないととても紛れることは出来ぬと、態(わざ)とごた/\致す人中を選(よ)って漸(ようよ)う汽車に乗りこみます。やがてピーと響く汽笛が深夜でげすから物凄いように鳴渡り、ゴット/\という音が仕出して動き出しましたから、まア宜かった、まさか神奈川まで尾(つ)いては来(こ)まいと、胸なでおろしますものゝ、若(も)しやと思って室内を伺います。気味の悪い男の影は見えないから、此処(こゝ)に一安心(ひとあんしん)は致しましたが、そうなると直ぐ心配になって参るは神奈川へ着いてから何うしたら宜かろうか、好(いゝ)塩梅に伊之さんが待ってゝくれゝば可(よ)いが、若しも居なかったら何うしよう、宿屋へ泊るにしても一人、それに女らしく髪でも結っていることか、手拭をとったらいが栗坊主、さぞ訝(おか)しく思うだろう、こんなことゝ知ったら鬘(かづら)でも買ってかぶったものを、まアこれでは仕様がない。と流石(さすが)に一人歩きしたことのないお若が思いに沈んで心細く、ほろり/\と遣って居りましたが、汽車は間もなく神奈川へ着きましたので、恟(びっく)りして下車いたしたが、心当にして来た伊之助の姿は認めることが出来ません。停車場(ステーション)の中でうろ/\しております。何方(どっち)へ出たら宿屋があるかそれさえ分らないので、人に聞こうかと幾度(いくたび)か傍へ寄っても何うも聞くことが出来ず、おい/\人は散り汽車の横浜さして行(ゆ)く音も幽(かすか)になったから、思い切って停車場外(がい)へ出でますると、
 勘「オイお嬢さん、其処(そこ)にいなさったか、篦棒(べらぼう)に探がさせなせえした」
 と声かけられて又恟りいたし、もう仕方がない、逃げ出して何処(どこ)の家(うち)へでも飛込んで助けて貰おうと決心はしました。何(なん)にしても夜が更けているんだから閉めてる家ばかり、仕方がないと駈け出しますると、勘太は忽(たちま)ち追いすがり、緊(しっか)り袂(たもと)を押えて、
 勘「何(なん)だな、逃げようッて逃げられるものか、アハヽヽヽ」
 杖とも柱ともたのむ男にはぐれましたお若さん、気も逆上(のぼ)せてうろ/\して居ります処を勘太につけられ、ヤッと虎口(ここう)をのがれたと思ってるに停車場(ステーション)へつくと直ぐ、こゝまでも執念ぶかく尾(つ)けて参り、逃げようと云ったッて逃さぬやらぬと、袂をおさえられましたんで、モウ絶体絶命の場合でげすから、アレーという声をたて、猶逃げられるだけはと、掴まれました袂をはらって駈出します。人間が一生懸命になるというは怖しいもので、重いもの一つ持ったことのないお若、もとより力量(ちから)のあろう筈はございませんが、恐いと申す一心でドーンと突いた力は凄(すさま)じい、勘太は、
 勘「アいたゝゝゝゝ」
 と云って肋(ひばら)をかゝえ、ドッサリ倒れました。お若はそんなことには眼はとまりません、夢中でかけ出して一町ほども逃げ、思わず往来の人に突当りましたが、精根(せいこん)がつかれて居るから堪らない、今度はばったり自分が倒れた。驚きましたは突当られたもので、
 ○「エ、なんだ、慌てるにも程があるもんでございますよ、私(わし)へぶっ付(つか)って、ハア、提灯(ちょうちん)もなにも消されて仕舞った」
 と呟きながら夜道を歩く人だけに用意はよく、袂をさぐりましてマッチを取り出し、再び提灯を点(とぼ)して四辺(あたり)を透(すか)し見ますれば、若い婦人(おんな)が倒れているので恟りいたし、さては今突当ったはこの女か、よく/\急ぐことがあって気が急(せ)いていなされたのであろう、可愛そうにと側によって介抱するが、気絶しているからいよ/\驚きまして、持合す薬を与えなどいたすうち、ようやく蘇生しました。
 ○「ヤレ/\、お女中さんお気がつきましたか、まア可(よ)かった」
 若「はい、誰方(どなた)か存じませぬが、有難うございます」
 ○「ハヽア気をしっかりさっしゃりまし、見ればこゝらあたりのお方じゃございましねえ御様子、何処(どこ)のお方でござえますえ」
 若「はい、東京のものですが、訳あって此の神奈川へ参る途(みち)、品川の停車場(ステーション)で同伴(つれ)にはぐれ難儀をしているところへ、悪者に尾(つ)けられまして此処(こゝ)までも跡を追って来て」
 ○「エ、悪者に尾けられなせえましたと、それはさぞまア御難儀でございましたろう」
 と親切に介抱して、段々と素性から何用あって深夜に神奈川へ来たと尋ねてくれるは、もう六十有余にもなる質朴の田舎爺(おやじ)でげすから、まさか悪気(わるぎ)のあるものとも思われぬので、お若さんも少しは心が落著(おちつ)き、明白(あからさま)に駈落のことこそ申しませぬが、同伴(つれ)というは男で斯う斯うしたものと概略(あらまし)を語りまする。田舎爺も気の毒がりて猶その男の名前まで、根ほり葉ほり尋ねるので今更隠しにくゝなりまして、伊之助のことを明かす。そうすると爺は恟りして、口のうちで伊之助/\と二三遍お題目でも唱えるように云っていたが、何か首肯(うなず)きまして、
 爺「伊之助という男は何うやら私(わし)が知ってるものらしい、それと一緒に此処(こゝ)へ御座るというは、こりゃ私の家(とこ)へござらッしゃる客衆かも知れねえ、まア兎も角くも私のとこへ来(き)さっせえまし」
 と云われて地獄で仏に逢った気のお若さん、ホッと息をついて、それでは何分ともにと言っている後(うしろ)に、一突き不意を喰(くら)って倒れた悪者の勘太、我と気がついてまだ遠くは往(ゆ)くまい、折角見かけた仕事も玉を逃(にが)しちゃア虻蜂(あぶはち)とらずで汽車賃の出どこがないと、己(おの)が勝手で尾(つ)いて来ていながら直ぐ懐のグレ蛤(はま)を勘定いたし、おっ掛けてまいッたが、今度はお若一人でない、老爺(おやじ)が側にいるのでうっかり手出しがならず、様子をうかゞっておるうちに、何うやらお若を老爺が連れて行(ゆ)きそうだから、ドッコイ左様(そう)うま/\仕事の横取はさせねえと、己(おの)が心にくらべて、
 勘「この阿魔太(ふて)えあまだ、大金を出して抱えて来たものを途中から逃げさせてお堪(たま)り小法師(こぼし)があるものか、オイ爺(とっ)さん、此奴(こいつ)のいう事ア皆(みん)な嘘だ、お前(めえ)を詐(だま)すんだぜ、ハヽヽヽヽ」
 と己(おの)が非を飾ってお若を連れ行(ゆ)こうとするので、田舎爺は呆れましたが、男のこえが耳なれておりますから提灯をさしつけ、顔をのぞいて見ると聞覚えのある声こそ道理で、老爺が一人息子の碌でなし、到頭村内(むらうち)にもいられず今は音信(いんしん)不通になっている勘太でげす。田舎爺は老(おい)の一徹にカッと怒り、
 爺「わりゃア勘太だな、まだ身持が直らず他人様(ひとさま)に御迷惑をかけアがるか、お女中さん何も怖(おっか)ねえことアごぜいましねえ、この悪たれは私(わし)が餓鬼」
 といううちに早や言葉が潤(うる)んで参ります。親子の情としては然(さ)もあるべきことでございましょう、我子が斯様(こんな)碌でもないことを致し、他人(ひと)を悩めると思いましたら堪りますまい。
 爺「さア、これからは己(おれ)が相手になる、この甚兵衞(じんべえ)が相手じゃ」
 と敦圉(いきま)きまするので、流石の勘太も親という一字には閉口致しましたか、這々(ほう/\)の体(てい)で逃げて仕舞います。そこで甚兵衞爺さんお若さんを我家へ連れて戻り、婆アどんにも一伍一什(いちぶしじゅう)を斯々(かく/\)と語り、今夜は遅いからまアお休みなさい、明日(あす)にもなれば伊之助を尋ねて参りますからと親切にいたしてくれまする。さて、伊之助でございますが、品川の火事騒ぎでお若にはぐれ、いろ/\と尋ねましたが薩張り知れない。そのうち最終列車はシューコト/\と出て仕舞い、只だ心配に心配をしぬいている。翌朝(よくあさ)になって再び停車場(ステーション)に参り探しましたが知れないので、駅夫などに聞合(きゝあわ)すと、昨夜の仕舞い列車に乗りこんだらしいので、自分も兎に角神奈川へ参って探そうと汽車に乗り、停車場に着いて聞合して見れど、何をいうにも夜更(よふけ)のことで雲を捉(つか)むような探しもの、是非なく甚兵衞の家(うち)へ尋ねて参り、お若さんと再会の条(くだり)に相成るのでございまする。
 

        六

 伊之助の神奈川停車場(ステーション)へ着きましたは、お若さんが此処(こゝ)にまいって甚兵衞爺さんに助けられた翌朝(よくあさ)のことでございますから、なか/\お若の行方を探ることが出来ない、左様(そう)かと申して再び東京へ帰りましたところで、これとても何う探したら分ろうという目的(めあて)が付きませんので、あゝ困ったな、己もこまるがお若さんは嘸(さぞ)難儀をしていなさるだろう、あゝいう方だから一人歩きしたこともないに、方角も知れぬ土地に来てどんなに困るか知れたもんじゃアないから、それにしても不思議だ、何うしてまア神奈川まで一人来なすったろうか知らん、大方己が前の汽車で来ていると思いこんでゞあろうが、あゝ困るな、可愛そうでならないことをした、こんな事なら品川まで出掛けずに、新橋から一緒に乗るだッたにと、いろ/\と悔んでおりましたが、今更何(なん)といっても仕方がない、一旦甚兵衞爺さんのとこへ落著(おちつ)いて探したら分らぬこともあるまい、お若さんの方でも屹度(きっと)いろ/\に探していなさるに違いないから、と伊之助はよう/\決心いたしましたから、久々で甚兵衞のとこへ尋ねてまいる。村の入口には眼になれた田舎酒屋の看板と申すも訝(おか)しいが、兎に角酒屋の目印となっておりまする杉の葉を丸く束ねたのが出ています。皆様がお名前だけはお馴染になっていらッしゃると申しますと、私(わたくし)どもは近接(じき/\)にお馴染かと仰ゃる方もございましょうが、明治の御代に生きているものがなか/\思いもよらぬことで、今を距(さ)ること四百十八年も前で後土御門(ごつちみかど)帝の御代しろしめすころ、足利七代の将軍義尚(よしひさ)の時まで世を茶にしてお在(いで)なされた一休が、杉葉たてたる又六(またろく)の門(かど)と仰せられたも酒屋で、杉の葉を丸めて出してある看板だそうにございます。そうして見ると此の目印は余ほど古くからあるものと見えまする。さて序(ついで)でございますから一寸(ちょっと)申しておきますが、一休様は応永(おうえい)元年のお生れで、文明(ぶんめい)十三年の御入寂(ごにゅうじゃく)でいらせられますから、浮世にお在遊ばしたことは丁度八十八年で、これほど悟りをお開きなされたお方は先ずない。仮令(たとえ)ございましたとて俗人が存じておりますは、此の坊さん程お近附(ちかづき)はありませんでげす。その酒屋の隣が甚兵衞の家(うち)でございますから、伊之助はズン/\這入ってまいる。スルと奥の方で若い女の声がして甚兵衞爺さんも婆さんも頻(しき)りに慰さめている様子。ハテ悪いところへ来たわい、誰か客があるのか知らんと思いましたが、引返(ひっかえ)して出て行(ゆ)くも変ですから、
 伊「爺やさん、お達者でございますか」
 と声をかけますと、甚兵衞は、
 爺「婆さんや誰か来たようだぜ、ちょっくら見て来さっしゃい」
 というので婆さんは入り口へ出てまいると、伊之助が立って居りますから恟(びっく)りいたし、挨拶もいたさずに、
 婆「やア、来さしッた/\、お若さん、伊之助さんが来さッした」
 と喜ぶので伊之助もおどろきましたね、婆さんがお若さんと呼びますからは、確(たしか)にお若が此処(こゝ)に来ているにちがいない、と不思議で堪りません。お若は老人夫婦と何うか伊之助を探す手だてをと相談しているところでげすから、飛立つ思いで出てまいり、此処でお互いに無事の顔見て安心いたし、それから甚兵衞の厄介になって暫らく居ますうちに、お若さんのお腹(なか)は段々と脹(ふく)れて来るので、遠走りもすることが出来ぬところから、遊んでもいられません。と云って外(ほか)に何もすることがない。田舎ではございますが追々開(ひら)けてまいり、三味線などをポツリ/\と咬(かじ)る生意気も出来て来たは丁度幸いと、伊之助は師匠をはじめ、お若は賃仕事などいたし、細々ながら暮している。そのうちにお若は安産いたし、母子(おやこ)とも肥立(ひだち)よく、甚兵衞夫婦は相変らず親切に世話してくれます。お若伊之助は夫婦になって田舎で安楽に暮して居ります。生れた子供も男で伊之助のい[#「い」に黒丸傍点]の字とお若のわ[#「わ」に黒丸傍点]の字を取って岩次(いわじ)と名をつけ、虫気(むしけ)もなくておい/\成長してまいるが、子供ながら誠に孝心が深いので夫婦も大層喜んでいました。これより暫らくは夫婦の上には何事のおはなしもございませんが、末になると全く離魂病の骨子(こっし)をあらわし、また因果塚のよって起(おこ)ることゝ相成るのでございます。こゝに品川の貸座敷に和国楼(わこくろう)と申すのがございまして大層流行(はや)ります。娼妓も二十人足らず居り、みんな玉が揃っているので、玉和国と、悪口をいう素見(ひやかし)までが誉(ほ)めそやしているぐらいでげす。今日は暇だと申しても一人で二人ぐらいのお客は屹度(きっと)ある。忙しいと来たら五六人ずつはありますからなか/\廻しが取れません。甚助(じんすけ)をおこす客もあるが怒(おこ)って出て行(ゆ)くものゝないも訝(おか)しい。それで安直店(みせ)と来ていますから滅法な流行りかた、この楼(うち)に小主水(こもんど)と呼ばれて全盛な娼妓がある、生れはなんでも京阪(けいはん)地方だと申すことで、お客を大切(だいじ)にするが一つの呼(よび)ものになっています。この小主水の部屋から妹分で此のごろ突出(つきだ)された一人の娼妓(こども)は、これも大阪もので大家(たいけ)の娘でございましたが、家(うち)の没落に身を苦界(くがい)に沈め、夜(よ)ごとに変る仇枕(あだまくら)、朝(あした)に源兵衛(げんべえ)をおくり、夕(ゆうべ)に平公(へいこう)をむかえております。この者の名を花里(はなざと)といい頗(すこぶ)る美人でげすから、忽(たちま)ちのうちに評判になり、
 ○「コウ熊ア、玉和国の花里てえのはすばらしいもんだとよ」
 △「ウム左様(そう)よ、土地第一(でえいち)の別嬪(べっぴん)だとよ」
 ○「手前(てめえ)おがんだか」
 △「己(おい)らア、仕事を仕舞うと直ぐこれで三晩おがみに来るが、彼奴(きゃつ)流行妓(はやりッこ)だからなア、まだお目にぶら下らねえのさ、今夜ア助見世(すけみせ)に出アがるとこでもと先刻(さっき)から五度(ごたび)まわったが、よく/\御縁がねえのだ、明日(あす)の晩は半纒を打殺(ぶちころ)しても登楼(あが)らねえじゃア気がすまねえや」
 ○「素敵に逆上(のぼせ)ていアがるわ、顔も見ねえ女に夢中になる奴もねえぜ」
 △「馬鹿奴(め)、美人(いゝ)に極ってらア」
 なんかと騒ぐものもあるほどでげすから、其の全盛は思いやられます。軍艦が碇泊(ていはく)すると品川の宿(しゅく)は豊年でございます。皆様御存知のとおり海上にあって毎日事務をとってお在(いで)なさるお方々でげすから、何(いず)れの港になりと船が泊りますることになると、それ/″\にお暇が出て日頃の骨休みをなさる。成程そうでございましょう。軍人方でいらせられますから、いざ戦争という場合になりましては申すまでもないことで、甲板に屍(かばね)をさらすとも一歩もお引き遊ばすなどという卑怯未練な方はございません。陸軍たりとて海軍たりとて勇武の御気象には少しの変りもない、日本固有の大和魂というものがお手伝をいたしますからでもございましょうが、我邦(わがくに)軍人がたの御気象には欧洲各国でも舌を巻(まい)ておるそうで、これは我が某(ある)将官の方に箱根でお目通りをいたしたとき直接(じき/\)に伺ったところでございます。これはお話が余事に外(そ)れ恐れ入りましたが、左様な御気象をお持ち遊ばす方々で在(いら)せられますから、ナニ暴風怒濤(どとう)なんぞにビクとも為さる気遣いはない、併(しか)し永暴風雨(ながしけ)をくっては随分御困難なもんだそうで、却(かえ)って戦争をしている方が楽だと仰せられた軍人もございました。そういう御難儀を遊ばしていらッしゃるんでげすから、港々にお着(つき)遊ばしたときは些(ちっ)とは浩然(こうぜん)の気もお養いなさらずばお身体が続きますまい。それでげすから軍艦が碇泊したというと品川はグッと景気づいてまいる。殊に貸座敷などは一番に賑(にぎわ)しくなるんで、随分大したお金が落るそうにございます。娼妓のうちで身請の多くあるは品川だと申しますも、畢竟(ひっきょう)軍艦の旦那に馴染を重ねるからのことかと存じまする。丁度紅葉(もみじ)も色づきます秋のことでげすが、軍艦が五艘(ごそう)も碇泊いたし宿(しゅく)は大層な賑いで、夜になると貸座敷近辺は恰(まる)で水兵さんで埋(うま)るような塩梅、何(いず)れも一杯召食(きこしめ)していらっしゃる、御機嫌だもんですから、若い女子供は怖(おっか)ながるほどでございました。それでなくってさえ流行(はや)ります和国楼、こういう時には娼妓達(こどもたち)は目もまわるように忙がしい。中々一人々々のお客を座敷へ入れることは出来ません、名代(みょうだい)部屋には割床(わりどこ)を入れるという騒ぎで、イヤハヤお話になったものでございませんが、お客様がそれで御承知遊ばして在(いら)っしゃるも不思議なものでげすな。従って娼妓達が勤め向きもわるいが、馴染になって在っしゃるお客様は、アヽ彼奴(あいつ)も気の毒な、斯う牛や馬を追いまわすようにされちゃア身体が続くもんじゃないよ、なんぼ金の為に辛い勤めをするんだッて、楼主(ろうしゅ)があんまり慾張りすぎるからわるい、政府でも些(ちっ)と注意して一夜(ひとよ)のお客は二人(ににん)乃至(ないし)三人より取らさねえように仕そうなものだ、なんかんと御自分の買馴染が一座敷へ三十分と落著(おちつ)いていられないのを可愛そうに思召しもございましょう。例の花里花魁(おいらん)でございますが、この混雑(ごった)かえしている中に一層忙がしい、今日で三日三晩うッとりともしないので、只眠いねむいで茫然(ぼっと)して生体(しょうたい)がない。お客のお座敷へ出ても碌々口もきかないが、さてこれと名ざしてお招き遊ばさるゝお方はそんなことには頓着(とんじゃく)はなさりません、只花里々々と夢中になっていらッしゃる。いま花魁の出ているは矢ッ張り軍艦(ふね)のお客で、今夜は二回(うら)をかえしにお出でなされたんでげすから、疎末(そまつ)にはしない、頻(しき)りに一昨夜(おとついのばん)の不勤(ふづとめ)を詫していると、新造(しんぞ)が廊下から、
 新「花里の花魁え、一寸(ちょい)とおかおを」
 花「あゝ今行くよ、ほんとにうるさいことねえ」
 客「情人(いゝひと)が逢いにきたとよ、早くいって顔を見せてやるが好(よ)いわ、のう花魁、ハヽヽヽヽ」
 花「御冗談ものですよ、私のようなものに情人なんかゞあるもんですか、ほんとにモウつく/″\厭になった」
 新「花魁、花魁え、お手間はとらせませんから」
 花「あいよ、今参りますよ」
 と客に会釈して立てば新造は耳に口よせ、
 新「お初会の名指(なざし)です」
 花「そう、何様(どんな)人だえ、こないだのような書生ッぽだと御免蒙るわえ」
 新「ナニ美男(いゝおとこ)さ、風俗(なり)は職人衆(しゅ)ですがね、なんでも親方株の息子さんてえ様子ですわ」
 と新造に伴なわれまして引附(ひきつけ)へまいりますと、三人連の職人衆(しゅう)でございますが、中央(なか)に坐っているのが花里を名ざして登楼(あが)ったんで、外はみなお供、何うやら脊負(おんぶ)で遊ぼうという連中、花里花魁自分を名指してくれたお客を見ますると、成程新造の申しました通り美男子(いゝおとこ)で、尋常(たゞ)のへっぽこ職人じゃアないらしく思われます。あゝ好いたらしい若い衆(しゅ)だと思うと見ぬ振をしてじろり/\顔を見るもので、男の方では元より名指して登楼るくらいでげすもの、疾(とっ)くに首ッたけとなって居(お)るんでございます。軈(やが)てお引けということに成っても元より座敷は塞(ふさ)がって居りますから、名代部屋へ入れられ、同伴(つれ)もそれ/″\収まりがつきました。
 花「一寸(ちょい)とお前さん、御免なさいよ、直ぐ来ますからね鼠にひかれちゃアいけませんよ、ホヽヽヽヽ」
 客「全盛な花魁だから仕方がねえや、まア寛(ゆっ)くり行っていらッしゃい、屹度留守はしていらアな」
 花「まことに済まない事ねえ、何うか堪忍して頂戴よ、生憎(あいにく)お客が立(たて)こんでるもんだから、寝て仕舞ってはいやだよ」
 客「ハイ/\、天井の節穴でも数えているからいゝてえば」
 花「いま新造衆(しゅ)に小説本でも持(もた)せてよこすからね、屹度寝てしまッちゃ厭よ」
 嫣然(にっこり)いたして吸付(すいつけ)煙草一服を機会(しお)に花魁は座敷を出てまいります。若い職人風の美男子(いゝおとこ)も、花里の全盛なのは聞きつたえておりまするし、殊に初会のことでげすから、左様(そう)打ちとけて話をすることもない。今夜はこれきり寝転(ねこか)しかとは思っていますが、同伴(つれ)の手前もあることで、帰るとも申し悪(にく)いのでもじ/\いたしている。寝ようと思っても引切(ひっき)りなしに廊下にひゞきます草履の音が耳につき、何うしても寝られるものでありません。すると座敷の障子がスーとあきますから、さて来たなと思いますと左様(そう)でない、有明の油をさしに来たのですから、えッ畜生(ちきしょう)だまされたかと腹は立ちますが、まさかに甚助らしいことも云われないので、寝たふりで瞞(ごま)かしている。いよ/\今夜は寝転(ねこか)しに極った、あゝ斯様(こんな)ことなら器用に宵の口に帰った方がよかったものと、眼ばかりぱちくり/\いたして歎息(たんそく)いたしています。花里の方でも初会ながら憎からず存じまする客でげすから、早く廻ろうとは思ってますけれど、何を申すも大勢な廻しのあることで、自儘(じまゝ)に好いた客の傍(そば)へばかり行っていることは出来ませんもんですから、漸(ようよ)う夜明になってこの座敷へまいりますると、うと/\しています様子。
 花「何うも済まなかったこと、堪忍して下さいよ、あら厭だ、狸なんかを極めてさ、くすぐるよ」
 と脇の下へ手を差し入れて、こちょ/\/\。
 客「フヽヽヽヽム、酷(ひど)いね花魁、あゝあやまった/\もう、フヽヽヽヽム、そんなに苛(いじ)めなくもいゝじゃないか、あやまったッたてえばよ」
 と腹這になれば、花里は煙草をつけて煙管(きせる)を我手で持ったまゝ一吸(ひとすい)すわした跡を、その儘自身ですい、嫣然(にっこり)いたし、
 花「オヽ寒くなったこと、もう浴衣(ゆかた)じゃア、明方(あけがた)なんか寒くて仕様がないわ」
 この職人体の美男子(いゝおとこ)は何物でございましょうか、花魁も初会惚(しょかいぼれ)でもしているらしく思われます。さて職人体の好男子(いゝおとこ)でございますが、あれは例のお若さんが根岸の寮で生みました双児(ふたご)、仕事師の勝五郎が世話で深川の大工の棟梁へ貰われてまいった伊之吉でございます。光陰は矢の如く去って帰らずとやら申しまして、月日の経ちますのは実に早いもので、殊に我々仲間で申しあげるお噺(はなし)の年月、口唇(くちびる)がべろ/\と動き、上腮(うわあご)と下腮が打付(ぶっつ)かります中(うち)に二十年は直ぐ、三十年は一口に飛ぶというような訳、考えてみますれば呑気至極でげすがな、お聞遊ばす方(ほう)でもそれで御承知下されて、お喋りする方でも詰らないところは端折(はしょ)って飛して仕舞うと申す次第で。大芳棟梁のとこへ貰われてまいった伊之吉、夫婦が大層可愛がって育て、おい/\と職を仕込みますが、実(まこと)に器用な質(たち)で仕事も出来て来る。多くある弟子達にも気うけは至極よろしく、若棟梁/\と立てられて、親の光りで何(いず)れへまいりましても引けは取らない。職の道にかけても年が若いから巧者こそありませんが、一通りの事は何をもって行っても人に指図(さしず)がしていかれる。それですからます/\評判はいゝ。大芳の若棟梁は今に立派なものになんなさる、親方さんも好(い)い養子をもらい当てゝ仕合せだ、あゝ甘(うめ)え塩梅しきに行(ゆ)けば実子がなくっても心配(しんぺえ)することはないなどと申して居ります。伊之吉は仲間にも顔が売れてまいれば追々交際(つきあい)も殖(ふえ)る上、大芳棟梁もとより深川の変人、世間向(せけんむき)へ顔を出すなどは大嫌いでございますから、養子の伊之吉が人の用いもよく、用も十分に足りていくので、自分が出懸けねばならぬところがあっても、伊之やお前(めえ)往って来てくんねえな、と代理をさせるのでます/\交際(こうさい)はひろくなり、折にはこれから人々と共に遊びに行(ゆ)く事もあるが、決して色に溺れるてえ事なんかはありません。左様(そう)斯ういたしておるうち、品川の噂がちら/\耳に這入り、玉和国楼の花里という花魁の評判が大層もないので、伊之吉も元より血気の壮者(わかもの)でございまするし、遊びというものが面白くないとも思っていませんから、ふらり内弟子のものと共に品川へ参り、名指(なざし)で登楼(あが)って見ますと、成程なか/\の全盛でげす。それで取まわしがいゝ、誠に痒(かゆ)いところへ手の届くようにせられましたから、何うも捻(ひね)りぱなしで二度(うら)を返さずにおくことが出来なくなる。後朝(きぬ/″\)のわかれにも何(なん)となく帰しともない様子があって、
 花「折角斯うして来て下すったのに生憎立てこんでいてねえ、何うも済まないんです、此の儘帰すもまことに気がかりでならないけれど、無理に引きとめておいてはお家(うち)の首尾もありましょうし、またね、あの女(こ)にも申し訳がありませんから、私は我慢して辛抱しますが、お前さんはこれに懲々(こり/\)してもう二度と再び来ては下さるまいね、ですが可愛そうだと思ったら何うかお顔だけでも」
 と言さして後(あと)はいわず、嫣然(にっこり)笑いました花里の素振は何うも不思議でございます。伊之吉も何(なん)となく別れて帰るが辛くなりましたが、左様(そう)かといって初会で居続けするも余(あんま)り二本棒と笑わるゝが辛く、また一つには大芳夫婦への手前もありますから、その朝は後(うしろ)がみを引かれる心地いたして、思い切って支度をするうちに、連(つれ)のものも、さア帰ろうと促しますので、
 伊「花魁、とんだ御厄介になりました、明日(あす)の晩あたりまたお邪魔にまいりましょう、来てもいゝでしょうかね、ハヽヽヽヽ」
 花「本当(ほんと)ですか、本当に明日(あした)来て下さいますか、屹度ですよ、屹度まってますからね」
 花里に逢ってから伊之吉の様子が何うも変だ、何(なん)となくそわ/\いたして茫然(ぼんやり)して居ります。お職人衆というものは何事でも綺麗さっぱりいたしたもので、思ったことを腹へ蔵(しま)っておくなんかてえことは出来ません。お名にお差合(さしあい)があったら御免を頂きますが、
 八「オイ熊ア、手前(てめえ)大層景気がいゝな、始終(しょっちゅう)出かけるじゃアねえか」
 熊「フヽム左様(そう)よ、彼女(やつ)が是(ぜ)ッ非(ぴ)来てくれと吐(ぬ)かしアがッてよ、己(おい)らが面を見せなけりゃア店も引くてえんだ、本ものだぜ、鯱鉾(しゃちほこ)だちしたって手前達(てめえたち)に真似は出来ねえや、ヘン何(ど)んなもんだい」
 八「笑かせアがらア、若大将(わかてえしょう)に胡麻すりアがって脊負(おんぶ)のくせに、割前(わりめえ)が出ねえと思って戯(ふざ)けアがると向う臑(ずね)ぶっ挫(くだ)かれねえ用心しやアがれ」
 熊「ヘン嫉(そね)め、おたんちん[#「おたんちん」に傍点]、だがな八公、若大将にゃア気持が悪くなるてえことよ、阿魔奴(め)でれ/″\しアがって、から埓口(らちくち)アねえ」
 八「阿魔アッて品川の奴(やつ)か」
 熊「そうよ、玉和国の花里てえ素敵もねえ代物(しろもの)よ、夏の牡丹餅(もだもち)と来ていアがるから小癪(こじゃく)に障(さわ)らア、な一晩行って見な、若大将の※待(もて)かたてえものはねえぜ、ところでよ、此方(こっち)の阿魔と来たら三日月様かなんかで、刻莨(きざみ)の三銭がとこ煙(けむ)よ、今度ア行(ゆ)くにゃア二つと燐寸(まち)まで買ってかねえじゃア追付(おっつ)かねえ、これで割前(わりめえ)勘定だった日にゃア目も当てられねえてえことよ」
 八「風吹(かざふ)き烏(がらす)の貧(びん)つくで女の子に可愛がらりょうとア押(おし)が強(つえ)えや、この沢庵(たくあん)野郎」
 熊「こん畜生(ちきしょう)ッ」
 なんかと伊之吉の事から朋友(ともだち)喧嘩が起(おこ)るというようなさわぎ。伊之吉も凝(こ)って品川通いを始めますると、花里の方でも頻(しき)りと呼ぶ。呼ばれますから参る。まいりますからます/\深くなるという次第で、伊之吉が来ると岡焼半分に外の女郎が花里にからかいます。トントン/\と登(あが)るをすが籬(がき)のうちから見て、あゝ来て呉れたなと嬉しく飛立つようですが、他の張店(はりみせ)している娼妓の手前もありますので、花里は知らぬ顔していても眼の早い朋輩が疾(と)ッくに見附けていますから堪りません。
 娼「花里さん来たよ、早く側へ往っておあげよ、そんなにシラを切(きら)なくッてもいゝわ、モウ気は部屋へ行ってるんだよ、呆れたもんだねえ、花里さんの抜殻(ぬけがら)さんや、オイ/\」
 左右から突(つッ)ついたりなにかいたします。左様(そう)されるとされるほど嬉しいもので、つッと起(た)ちまして裲襠(しかけ)の褄(つま)をとるところを、後(うしろ)から臀(いしき)をたゝきます。
 花「あら酷(ひど)いことよ、宵店からお尻をたゝいてさ」
 と持ったる煙管を振り上げます。と元よりたゝかぬとは知っていますが仕打は大仰(おおぎょう)なもので、
 娼「アヽあやまった/\、親切にお咀咒(まじない)をしてあげて怒られちゃア堪らないねえ、今夜は外にお客がなく伊之さんとねえ」
 花「御親切さま、そんなのじゃありませんよ」
 娼「うそばかり吐(つ)いてるよ、毎日惚(のろ)けているくせに今夜に限ってさ」
 花「そんなことア情人(いろ)のうちさ、女房(にょうぼ)となれば面白くなくってよ、心配でならないわ、ホヽヽヽ」
 娼「おや、花里さんにも呆れッちまアねえ、素惚気(すのろけ)じゃア堪弁(かんべん)が出来ぬからね」
 花「ハアいゝとも、何(なん)でも御馳走するわ」
 と双方とも丸でからッきし夢中で居りますると、茲(こゝ)に一つの難儀がおこります条(くだり)は一寸(ちょっ)と一服いたして申し上げましょう。
 



 えゝー段々と進んでまいりました離魂病のお噺(はなし)で、当席にうかゞいまする処は花里が勤めの身をもって情人伊之吉に情を立てるという条(くだり)。日毎(ひごと)夜毎(よごと)に代る枕に仇浪は寄せますが、さて心の底まで許すお客は余(あん)まりないものだそうでござります。無粋(ぶすい)な私(わたくし)どもには些(ちっ)とも分りませんが、或(ある)大通(だいつう)のお客様から伺ったところでは浮気稼業をいたして居(お)る者は却(かえ)って浮気でないと仰しゃいます。成程惚れたの腫れたのといやらしき真似をいたすのが商売でげすから、余所目(よそめ)には大層もない浮気ものらしく見えましても、これが日々(にち/\)の勤めとなっては大口きいてパッ/\と致すも稼業に馴れると申すものでござりましょう。其の代り心底(しんそこ)からこの人と見込んで惚れて仕舞うと、なか/\情合は深い、素人衆の一寸(ちょい)ぼれして水でも指(さゝ)れると移り気(ぎ)がするのと訳がちがうそうで、恋の真実(まこと)は苦労人にあるとか申してございますのも其処等(そこら)を研究したものでありましょうか。花里花魁は何うした縁でございますか、あの明烏(あけがらす)の文句の通り彼(か)の人に逢うた初手から可愛さが身にしみ/″\と惚れぬいて解けて悔しき鬢(びん)の髪などと、申すような逆上(のぼ)せ方でげす。伊之吉とて同じ思いで三日にあげず通っている。すると茲(こゝ)に一つの難儀が持ちあがりました。と申すは花里を身請しようというお客が付いたんで、全体なら喜んで二つ返事をする筈であるが、そこが何うもそうすることが出来ない。伊之吉という可愛い情人(おとこ)があって、写真まで取かわせてある、その写真は延喜棚(えんぎだな)にかざって顔を見ていぬときは、何事をおいても時分時になると屹度(きっと)蔭膳(かげぜん)をすえ、自分の商売繁昌よりは情人の無事息才(そくさい)で災難をのがれますようにと祈っているほどで、泥水から足をあらって素人になるを些(ちっ)とも嬉しく思いません。身請ばなしが始まりましてから花里は欝(ふさ)ぎ切って元気がない、只だ伊之吉が来ると何かひそ/\話をするばかり、それも廊下の跫音(あしおと)にも気をおいて居ます。その身請為(し)ようという客は、欧米を航海して無事に此のごろ帰朝されました、軍艦芳野(よしの)の乗組員で少しは巾のきくお方、お名前は判然と申し上げるも憚(はゞか)りますから、仮に海上渡(うながみわたる)と申しあげて置きます、此のお方がまだ芳野へお乗(のり)こみにならぬ前、磐城(いわき)と申す軍艦にお在(いで)あそばし品川に碇泊(ていはく)なされまする折、和国楼で一夜の愉快を尽(つく)されましたときに出たのが花里で、品川では軍艦(ふね)の方が大のお花客(とくい)でげすから、花里もその頃はまだ出たてゞはございますし、人々から注意をうけて疎(おろそ)かならぬ※待(もてなし)をいたしたので、海上も始終(しょっちゅう)通って居(お)られましたが、その後(ご)芳野へお移りになって外国航海と相成りしに後髪(うしろがみ)をひかれる気はいたすものゝ、堂々たる軍人にして一婦人(いっぷじん)の為に肘(ひじ)をひかるゝは同僚の手前も面目なしとあって、綺麗に別盃(べっぱい)をお汲みなされ、後朝(きぬ/″\)のおわかれに、
 海「それでは僕は今日四時には出帆(しゅっぱん)して洋航するからね、お前も無事で、身体を大切(だいじ)に稼ぎなさい、これが別れとなるかも知れぬ、併(しか)し無事に航海を了(おわ)って帰朝するときは、お前も何時までも斯うして勤めさせては置かぬからな、当(あて)にはならぬことだがせめては楽しみに待っていてくれ、男子の一言帰朝さえすれば屹度身請してやる」
 と言葉残して芳野が吐(は)く一条(ひとすじ)の黒煙(くろけむり)をおき土産に品川を出帆されました。此方(こなた)の花里でございます。元々好いた男というでもなし、たゞ聞ながしに致して居りましたが、海上の方では一旦約束した言葉、反故(ほご)にしては男子の一分(いちぶん)たゝずと、大きに肩をお入れ遊ばして、芳野艦が恙(つゝが)なく帰朝し、先ず横須賀湾に碇泊(ていはく)になりますと直ぐ休暇をとって品川へお繰出しとなり、和国楼へおいでになって、身請の下談(したばな)しが始まりましたんで、花里は恟(びっく)りいたして一度二度は体(てい)よく瞞(ごま)かしておき、斯うなっては最(も)う振ってふって振りぬいて、先から愛憎(あいそ)をつかさせるより手段(てだて)はないと、それからというものお座敷へは出るが腹が痛むの頭痛がするのと、我儘ばかり云っても海上は身請まで為(し)ようという熱心でございますから、花里が嫌(いや)でふるとは思われませんで、これも我には心易(こゝろやす)だての我儘と自惚(うぬぼれ)が嵩(こう)じていましたから、情人(おとこ)の為に嫌われると気の注(つ)きませんで持ったもの。先ず一心に凝(こ)っていらっしゃるときは誰方(どなた)でも斯ういう塩梅なものでございましょう。いやがッて居ればその客が余計に来るもので、海上は頻(しき)りと登楼いたし、花里には延(のべ)たらに昼夜の揚代(ぎょく)がついておりますから、座敷へ入れないことは出来ぬ、まるで我(わが)部屋は貸し切りにしたような始末で、まことに都合がわるい。伊之吉が来ても何時も名代部屋で帰して仕舞わねばならぬ。訳は知っている、無理な事は云わないが、さて心の中(うち)では面白くないもので。偶(たま)には訝(おつ)に癪(しゃく)ることがあるを花里は酷(ひど)く辛く思って欝(ふさ)ぐ上にも猶ふさぐ。左様(そう)されると元々自分に真実つくしている女の心配するんですから、気の毒になって機嫌の一つも取ってやるようになる。平常(ふだん)ならそれなりに嫣然(にっこり)して他愛なくなるんですが、此の頃は優しくされるにつけて一層悲しさが増してまいり、溜息ついて苦労するのが伊之吉の身にも犇々(ひし/\)と堪(こた)えます。さア左様なるといよ/\情は濃くなって何うにも斯うにも仕ようがなくなる。今夜も伊之吉が来たが、例の通り座敷は塞(ふさ)げられている。尤(もっと)もまだ海上は来ていないが、晩には屹度来るからって約束して行ったから座敷は明けておかないじゃアすまぬ。
 花「ねえ、伊之さん、私ゃ、何うしたら宜かろう、本当(ほんと)に困っちまアわ」
 伊「いゝじゃねえか、海上さんてえのは海軍の少尉だって」
 花「まだ少尉にゃア成らないのさ、候補生とやらで航海して来たんだから、今度少尉になるんだとさ」
 伊「それじゃア少尉もおなじことよ、お前(めえ)も欲のねえ女じゃねえか、ハイと云って請出(うけだ)されて見ねえな、立派な奥様と言われてよ、小女ぐれえ使って楽にしていかれるに」
 花「またそんな事を云って、私に心配させて笑っているのかい、何うしてお前さんは情がないのだろう、私が真身(しんみ)になって相談すれば茶かして仕舞って」
 伊「ナニ茶かすんじゃアねえが、其の方がお前(めえ)の為だろうと思ってよ」
 花「なんかというと為だ/\と瞞(ごま)かして、お前さんが女房にしてやると云ったのは、ありゃ私をだましたんだね、もういゝわ、そんな水臭い」
 とツンと致しますが、眼には早や涙ぐんで居りますから、伊之吉も黙ってはいられない。
 伊「これさ、また怒(おこ)るのか、己(おい)らが言ったことが気にさわったら堪忍しなせえ、何も悪気でいったことじゃアねえんだ、己らだッて斯様(こんな)わけになってるお前(めえ)を海上に渡して仕舞うのはいゝ心持じゃねえが、これも時節だ、仕方がねえというものよ」
 花「それじゃアお前さんは何うあっても切れるてえのだね」
 伊「切れたくアねえが、切角(せっかく)お前(めえ)が身儘になるのを己らが為に身請をうんと云わねえじゃア、お部屋へ済まなかろうじゃねえか己らが、お前を身請するだけの力がありゃア、一も二もねえ、海上の鼻をあかしてひけらかして見せるが」
 とホッと溜息をつきまするも全く花里の身を思ってくれるからの真実でございます。斯うシンミリとした話になって参ると猶さらに悲しくなるもので、花里ももう堪らなくなりましたんで、伊之吉の膝にワッと泣き伏しております。此方(こちら)もたゞ腕をくんで考えるばかり、智慧どころか中々鼻血も出そうにないので、只(た)だハア/\と申して居(お)る。伊之吉は男だけに、
 伊「コウ、泣いたって仕方がねえってことよ、今夜すぐ身うけするってえんじゃアあるまいし、一寸(いっすん)のびれば尋(ひろ)ッてえこともあるんだ、左様(そう)くよ/\心配(しんぺえ)して身体でも悪くしちゃア詰らねえからなア、まさか間違ったら其の時にまた何(なん)とでも仕ようがあらアな、え、何うするって、何うでも身請されることは否(いや)だ、己(おい)らの面(つら)を潰すようなことをしては済まねえって、解ったよ」
 と元気は付けて居りますものゝ、花里の心が不愍(ふびん)でならないが、何分にも手の付けようがありません。それも自分が大芳棟梁の実子であったなら、又打明けて相談する場合もあるがと思い、伊之吉も沈んでいる。励まされて花里は顔をあげましたが、胸につかえて居ることがあるんで浮々(うき/\)は出来ません、両人(ふたり)とも無言で、ジッと顔見合(みあわ)しておりますと、廊下にバタ/\と草履の音がいたした。
 新「花里さんの花魁え、花里さんえ」
 と呼ばれますから、てっきり海上が来たのだなと、ぞくりとして総毛だちまするが、返事をしない訳にはいかないので、
 花「あい」
 新「おや花魁、此処(こゝ)にいたのですか、人がわるいよ草履までかくして、それも仕方がないわね、伊之さんが来てるんだもの、ホヽヽヽヽ、伊之さんには済まないがね花魁、何うかちょいと顔を出して来ておくんなさいよ、お部屋へ知れると喧(やか)ましくって私らまでが叱られなくっちゃアならないからね」
 花「ハア往(い)きますよ、いま直ぐ、また来たのあん畜生(ちきしょう)が」
 伊「身請でも為(し)ようてえ大事なお客様だ、早く往ってきな、畜生なんッて冥利(みょうり)が悪かろうぜ、ねえはアちゃん左様(そう)じゃねえか」
 新「伊之さん、そんな当こすりを云うもんじゃありませんよ、花魁もこの事に付いては何様(どんな)に心配しているか知れないんでほんとに可愛そうだわ」
 花「はアちゃんほんとにこの人の人情のないのには」
 新「花魁、そう心配することはありませんわ、伊之さんだッて、ねえ」
 と新造は双方を慰めて出てまいります。花里は猶往きそうにもしないから、
 伊「早く往って来ねえな、いよ/\という時になりゃア何うともなるわな」
 花「あゝ仕方がないね、まさか間違やア私ゃ死ぬより法は付かないと思っているのよ」
 伊「ハヽア、能く死ぬ/\というな、死なねばならねえ場合(ばえゝ)にゃア一人は殺さねえよ」
 花「本当(ほんと)、嘘じゃアあるまいね」
 そこは稼業でございますから、花里も嫌だと思っていましたって、まさか脹(ふく)れッ面もしていられない。座敷へ這入りますと、
 花「海上さん何うも済みません、今朝から何処(どこ)で浮気してました、何(なん)ですね、そんな耄(とぼ)けた顔をしてさ、お金(きん)どん一寸(ちょい)と御覧よ、ホヽヽヽヽ」
 と新造の方をふり向きますから、
 新「あら、花魁お可愛そうにねえ海上さん、そんなことアありゃしませんね、花魁の嫉妬(ちん/\)も余(あん)まり手放しすぎるわ」
 花「お金どんは駄目だよ、海上さんに惚れてるもんだから肩を持つのだもの」
 海「ハヽヽヽヽ何を言ってるんだ、僕はな今朝こゝを出ると青山の長官の家(とこ)へ参り、それから久しゅう行(ゆ)かんによって上野浅草附近を散歩して」
 花「それから吉原(なか)へ行ったんでしょう」
 海「イヤ/\決して参らん、花魁さえ諾(うん)といって呉れゝば、今夜にでも身請してすぐ宿(やど)の妻にする恋人があるんだもの、何うして外の色香に気がうつるもんか、ねえお金どん、左様(そう)じゃないか、ハヽヽヽヽ」
 新「海上さんはお世辞ものですよ、その口で甘(うま)く花魁を撫でこみ、血道をあげさせたんですね、ほんとに軍艦(ふね)の方は油断がならないわ」
 花「ほんとにお金どんの云う通りだよ、海上さんは口先きばかりで殺し文句をならべ、私見たいな馬鹿が正直にうけて嬉しがるのを、ねえ、蔭で見ておいでなさったら嘸(さぞ)面白いでしょうね、だけれどそんな罪を作っては良くはありませんよ、ホヽヽヽヽ」
 海「僕はお世辞なんかを云うものでない、航海前(ぜん)に約束したことがあるから、帰朝すると直ぐお前のとこへ斯うして来ておるじゃないか、僕が約束通り身請を為(し)ようといえば、何(なん)の斯(か)のとお前の方で引(ひっ)ぱっているのア、何うも変だぜ」
 花「あらまた、あんな厭味(いやみ)ッたらしいことを言ってるよ、この人は、まアお酒でもおあがりなさいな」
 と頻りに酌をいたしまするは、酔わして寐(ね)かそうと思うからでげすが、海上も花里の挨拶が※(に)えきりませんから、今夜は是非とも承知させて身請をしよう、大袈裟に身請しては余計な散り銭も出ることでげすから、成るべくは親元身請にいたし、幾分でもそこのところを安くと考えていらっしゃるんですから、中々お酒も例(いつも)のように召あがらない。新造が傍に居りますときは左様(そう)でもありませんが、差向いになると身請の相談で、ひそ/\と囁(さゝや)いているのは誠に親密らしい。斯うなってはお座敷が長く容易に引けませんので、花里は気が気ではありません、海上を寐かせておいて直ぐ伊之吉の名代(みょうだい)へ参ろうとぞんじても、これでは果しがつかないから、
 花「ねえ海上さん、こんな相談をするには緩(ゆっ)くりしなけりゃア落付かないから、あとで」
 海「ウムそれもいゝが、何をいうにもお前が全盛な花魁だから、中々ゆる/\話してることが出来ないじゃないか、少し話しかけると廻しに出ていくしさ、おばさん[#「おばさん」に傍点]が迎いに来るかとおもえば、また拍子(とき)で出られるしよ」
 花「そりゃ勤めの身だから仕方がないわ、私がいくら貴方の傍にばかり居たくッたって、お部屋で喧(やかま)しいから堪忍して下さいよ、本当(ほんと)にそれを言われるといかにも不実でもするようで済まないが、こんなものでも女房にしてやろうというお思召(ぼしめ)しがあるんだからねえ、私だッて何様(どんな)に嬉しいか知れやしませんわ、あなたが浮気ッぽいからそれが今からの取越苦労になって、末が案じられるんでねえ、海上さんとっくりお前さんの心をきいた上でなくッちゃア」
 とじろりと見ますれば、お座なりで言われているとは存じませぬ海上渡さん、熱心に花里の言葉をきいていらッしたが、道理(もっとも)とお思召したやら、うなずいてお出(いで)になるはしめたと、
 花「海上さん、まだお酒をめし上りますか、もういゝでしょう、折角話を為(し)ようと思うころにグウ/\寐られて仕舞っちゃア、ホヽヽヽヽ」
 海「ハヽヽヽヽ何うして寐られるもんか、床番させられても起きとるわ」
 花「それじゃアお引けにしましょうね」
 ポン/\と手をならしますと、新造がかけて参り、
 新「何うもすみません」
 花「お金どんお引けになりますから、海上さん便所(はゞかり)に行きませんか」
 海「あゝ行ってこようよ」
 新造はあとを片付けながら、若い衆(しゅ)に床をとおして展(の)べさせます。客と花魁が参るころにはちゃんとお支度が出来ておると云う寸法。馴れたことゝは申しながら、まことに手際なものでございます。さアねんねという一段に相成り海上はころりと転がりましたが、花里はなか/\容易には寐ません。枕元で煙草の二三服ものみました上、つッと立って今度は自分が便所(はゞかり)にまいる。この間がなか/\永いもので、漸(ようよ)う/\再びまいりましたが、また煙草をのみつゝ。
 花「海上さん、すまないがね、今一組あがったから一寸(ちょいと)顔を出してくる間まってゝ下さいよ、ほんとに為(し)ょうがないことねえ」
 海「あゝ行って来なとも、情人(いろおとこ)がきたのだろう、早くいって遣るがいゝ、ハヽヽヽ」
 花「憎らしいよ海上さんは、そんなに浮々(うわ/\)してるから、先が案じられるッてえのですわ、つめ/\しますよ」
 と肩のあたり一捻(ひとつね)りに、
 海「あいた、酷(ひど)いな」
 花「まってゝ下さいよ」
 と言葉をのこして我(わが)部屋を出(いづ)ればホッと息つきましたが、この夜(よ)は到頭寐転(ねこか)しをくわせられ不平でお帰りになり、其の次の夜(よ)も/\同じような手でうまく逃げられて、何うも身請の相談をまとめることが出来ない。それから致して考えて見ると、花里の言うことゝ行(す)ることゝ些(ちっ)とも合わないから、ハテ訝(おか)しいぞ、口では身請を喜びながら心では嬉しがらぬのだな、情夫でもあるのではないか知らん、左(さ)もなきときは、誰もかゝる稼業を好んでするものはないに、と気が注(つ)きましたから段々様子を探って見ると、伊之吉という情夫のあるので、海上さんも切歯(はがみ)をなされ、えゝ知らざりし彼(かれ)が言葉のみを信じて身請まで為(し)ようとしたは過(あやま)りであった、併(しか)し男子が一旦この女を妻にと見込みながら、情夫があるからと云ってやみ/\手を引くは愚のいたりである、貞操全き婦人というではなし、高が路傍の花、誰(た)れの手にも手折(たお)るに難(かた)からざるものだ、この上の手段(てだて)は彼女(きゃつ)を公然身請して、仮令(たとえ)三日でもよろしい我物(わがもの)にすればそれで気はすむ、最早親元身請などの吝嗇(けち)くさいことは云わぬと、妙なところに意気味(いきみ)を出されたもので、海上さんは直接に花里身請のことをお部屋へ懸合われました。お部屋では利分のつくことでございますから、二つ返事で承知いたし、花里の身代金三百五十円にて相談が極りました。これが昔でございますと、当人が何(なん)と申そうとも、楼主の圧制で身請させて仕舞うのでげすが、当今の有難さは金を出して抱えている娼妓(こども)だと云って、楼主の自由にすることは出来ません。当人が承諾しなければ自儘(じまゝ)に人身売買をしてはならん。ところでお部屋からは噛んでふくめるように花里へ説諭(せつゆ)しますが、何うしても諾(うん)とは申しません。当人はいやだといい客からは何うだ/\と催促されまするので、実はお部屋でも弱りきって持てあまし、と申して見す/\儲かるものを当人がいやだというからって其の儘にしては、後々(のち/\)他(はた)の娼妓に示しがきかぬ。脅してなりとも花里にさえ諾といわせれば、それで此方(こちら)の役目はすみ、お金にもなることゝ、慾が手伝いましては義理人情も兎角に外(そ)ッ方(ぽう)へよって仕舞うもので、お部屋からの言付けだと、伊之吉は到頭お履物(はきもの)にされまして二階をせかれ、花里は遣手(やりて)新造までにいろ/\と意見させて見ましたが、いっかな動きません。強情にも程のあったものだ、とお部屋でも今は憎しみが掛り花里は呼付けられまする。小言をきくは覚悟の前で、今日は何(なん)といって言訳をしようか、たゞ厭とばかりは申すことが出来ない、何ういい抜けをして逃(のが)れようかと心配しますれば、胸も痞(つか)えて一杯でございます。
 楼「花魁、こゝへ来なさい、何もそんなにうじ/\してることはないから」
 花「はい」
 とは申しますものゝ窃(そっ)と楼主の顔をみますれば、何(なん)となく穏(おだや)かでない、幾度(いくたび)となく身請のことを口を酸ッぱくして諭しても、花里は諾(うん)と申さないから焦(じ)れているんで。随分娼妓(こども)達には能くしてやる楼主でございますが、花里のように強情ばかり張って申すことを聞分(きゝわけ)ませんから、今は意地になって居ります。抱え娼妓(しょうぎ)に斯う我儘をされるようでは他(はた)へ示しが付かぬ、何うにでも圧(おし)つけて花里を身請させねばならぬと申す気が一杯でげすから堪りません。これを見ると花里はゾクリといたし襟元から水を打掛(ぶっか)けられるような気がする。そうすると直ぐ悲しくなって眼には涙を催してまいりますが、坐らない訳にはまいりませんから、針の筵(むしろ)にいる気で楼主の前に坐り下を向いたまゝで顔を上げない。
 楼「花魁、この間から度々(たび/\)いう事だが、お前海上さんの方へ何う御返事をする積りなのだえ、よく考えて御覧、いつまで斯(こ)んな稼業をしているが外見(みえ)ではあるまいしね、お前とて子供ではなし、それぐらいのことはよく分るだろうが、それにお前の気ではあの青二才の伊之吉と約束があって情を立てる積りだろうがね、それは大きな間違というものだ、近いところが此楼(こゝ)にいたあの綾衣(あやぎぬ)がいゝお手本だよ、あんな夢中になって初(はつ)さんのところへ行(ゆ)き、惚れた同士だから嘸(さ)ぞ中好(なかよ)く毎日暮すだろうと、楼中(うちじゅう)の羨(うらや)みものだッたは知っているだろう、それが御覧なさい、物の三日も経たないうちから喧嘩する、末はとうとう夫婦別れして綾衣は今じゃア新造衆になってるじゃないか、又瀬川(せがわ)はいやだ/\と云いながら、お前と同じように痺(しびれ)を切らした末が、海軍の方に身請されたが、今じゃアお前、横須賀で所帯をもち、奥様といわれ立派になってるよ、まア物ごとは凡(すべ)て左様(そう)いうものでね、この稼業(なか)で惚れた腫れたで一緒になったものは兎角お互に我儘が出て、末始終を添い遂げられるものでないからね、お前もよくそこのところを考えて海上さんに身請され、気楽に暮すが当世だろうぜ、え、花魁、何うだね、分ったろうね」
 花「はい」
 楼「分ったら、身請されて廃業するだろうね」
 花「旦那さんを始めとして皆さん方も、いろ/\と御親切に仰ゃって下さいますが、こればかりは御勘弁遊ばして、何うかこのまゝ」
 と申しながら、はや得(え)堪(た)えずなりましたやら、ワッと泣き伏しますので、楼主もいよ/\呆れ、強情にも程のあったものだ、其の身の為を思って意見してやるを無にして我(が)を通そうとするが面にくいといら/\として参ッたので、常にはなか/\思慮ある楼主でげすが、斯うしたときは我を忘れるもので、傍(かたわ)らにござりました延(のべ)の長煙管を取るも遅しと、花里を丁々と折檻(せっかん)いたします。これが此のごろのようにない前の花里なら楼主がそうした乱暴をする気遣いもありません。また他(はた)のものも直ぐ駈けつけ参って詫言もしてやりますが、何をいうにも伊之吉へ一心を入れて情を立てる為に飽(あく)まで強情をはり、他人(ひと)の意見を用いませんので憎がられているときでげす。誰だッて止めるものはない。花里は散々に打擲(ちょうちゃく)されて悲鳴をあげていましたところへ、ばた/\と駈けて参ッたものがございますので、楼主もハッと気が注(つ)いて手をとゞめ、
 楼「だれだえ、其処(そこ)へ来たのは」
 小「はい、私でございます」
 楼「そういう声は、小主水じゃアないか」
 小「はい、その妓(こ)のことで、旦那さんに少々おねがいがござりまして」
 楼「花里のことでおねがいだと、花魁、それは廃(よし)てくんな、こんな強情ものに口をきいてやったッても心配の仕甲斐がないからね」
 小「そうではございましょうが、もとは私の部屋から出したもの、旦那さんや皆さん方に御苦労をかけるがお気の毒、今までは出しゃばッてはと控えていましたが、もう何うも引込んでいられない今日の様子、何うか一応は私にお任せなすッては下さいますまいか、及ばずながら意見をして見ましょう、皆さんの御意見でさえ柔順(すなお)にいう事をきかないんですから何うで駄目でしょうけれど」
 と小主水が様子あり気な取なしでげすし、殊にこの花魁の言うことは、元世話になったと花里は一目も二目もおいておりますから、楼主も承知いたし、
 楼「それでは小主水の花魁、お前に預けますから、何うか意見をして遣って下さい、私(わし)もこの妓(こ)が悪(にく)うて折檻までするのではないからね」
 小「旦那さんの御親切はよく存じて居ります、花里さん何うしたんですよ、ほんとに困りますねえ、さア私と一緒にお出でなさい」
 泣き伏しております花里の手を引いて小主水は己(おの)が部屋へ帰りました。花里はよう/\にいたして涙をはらい、
 花「姉(ねえ)さん何うも済みません、とんだ御心配をかけましてねえ」
 小「済むも済まないもありゃしませんが、花里さんお前さん全体何うする気だい、この身請にどこまでも楯ついて強情を張り通すつもりかい、そりゃ伊之さんとの交情(なか)もよく知っているから、今までは他の人達が何(なん)のかのと言って意見しているのを知らず顔でいたんだがね、今日のように内所(ないしょ)で折檻されるを何うも見てはいられないから、疾(と)くとお前さんの了簡をきいた上で、ねえ、また膝とも談合というから話し敵(がたき)にもなるつもりなの、些(ちっ)とも遠慮することはないから、本当(ほんと)のところを言ってきかせて下さい、私は何でも内所のいうなりにお成りとは言わないよ、海上さんの身請が否(いや)なら、否のようにまた為(す)る仕方もあるだろうからね」
 花「有難うございます、本当に済みません」
 と又泣きくずおれまする姿を見るにつけ、其の心の中(うち)を推量致すと小主水も可愛そうになって堪りません、命までもと入揚(いりあ)げております情人(おとこ)は二階を堰(せ)かれて仕舞い、厭な客に身請されねばならぬのでげすから、我身も此様(こんな)場合にあったら矢ッ張りこの様に意地を立て、どこまでも情人の為に情を貫ぬくかも知れぬと思いますると、何うも花里に同情を寄せられるような気がいたし、胸もふさがッて参り、何(なん)とも意見の仕様がございません、暫らくはジッと見詰めていましたが、それも憐(いじ)らしくて見ていられぬ。泣ごえを立てじと忍びまする度(たび)に根のぬけた島田ががくり/\して顫(ふる)いますから、何うも身請をすゝめる事の出来ないばかりじゃアございません、感情に制せられては他人(ひと)のことで涙が浮いてまいり、横を向いて仕舞いましたが、それでも気にかゝりますので、またちょい/\と花里の泣伏す姿を見て、目を数叩(しばだた)いておりましたが、左様(そう)何時までも黙っていたとて際限がないと、
 小「ねえ花里さん、じゃア何うしても海上さんのとこへは行(ゆ)きませんね」
 花「姉さん、すまないが堪忍して下さい」
 と申したきり、また小主水も花里も無言でいましたが、花里は何(なん)と思いましたか、顔をあげて涙をはらい、
 花「姉さん、私は諦めました、いろ/\御心配をかけて、とても伊之さんと添うことは出来ますまいから」
 と云ううちにまた眼には一杯の涙がたまりましたを襦袢(じゅばん)の袖でふき、ホッと溜息つき、力なく、
 花「仕方がありません、海上さんに身請されますわ、今までいろ/\とお世話になりまして、御親切にして下すった御恩は決して忘れません、ナニ私があの人に義理さえ欠いてしまえば、それで何事もありゃアしませんわ、ほんとに姉さんの御恩は」
 と合掌しますので、小主水は花里の様子に目もはなさず見ていましたが、我知らずほろり/\と涙をこぼしているに、花里もこれに誘われましたか、また突伏(つッぷ)して仕舞いました。小主水は一層傍(そば)へすり寄って、
 小「花里さん、お前さんは、其の了簡はわるいよ、短気を起しては」
 花「いゝえ、決して」
 小「お隠しでない、お前さんが三日でも海上さんのとこへ行っていて駈出すような気なら心配はしないが、仮令(たとえ)一日でも、伊之さんへ義理立てをするんだから、諦めたと言いなさるは死ぬ気でしょう、そんな短気を起しては宜(よ)くないよ、それも無理とは思わないが、突詰めたことすれば伊之さんだったッて、あとで何様(どんな)に悲しがんなさるか知れやアしないわ、死ぬ気で、ねえ花里さん」
 花「それだから海上さんのとこへ行(ゆ)くつもり、そうすれば御内所(ごないしょ)でも」
 小「まだそんな事をいっているよ、私にまで隠して、何うでもお前さんは死ぬ気かえ、これほど為を思い、お前さんの心を察して言ってあげるのに」
 と小主水は少しくムッとして見せますれば、花里は猶更かなしくなり、摺寄って小主水の膝に獅噛付(しがみつ)きますのを、払いのけ、
 小「本当に分らないにも程があるじゃないか、私にばかり口を酸(すっ)ぱくさしてさ」
 花「姉さん、私何うしよう、姉さんに左様(そう)いわれッちまやア、仕方がないじゃありませんか」
 といよ/\突詰めた様子でげすから、小主水ももう仕方がありません、この上は打捨(うっちゃ)っておけば大騒ぎになるんですから、ます/\不愍(ふびん)は加わります。こんなに思っているんだから、せめて一日でも伊之吉に添わしてやりたいと思案にくれましたが、やがて花里の耳に口をよせ何事でございますか囁(さゝや)きます。
 花「姉さん、何うも」
 小「いけなかったらそれまで、まア遣って御覧」

        八

 エー和国楼の花里は姉と立てゝおりまする小主水の意見に従いましたことでげすから、いよ/\身請される相談が極り、今夜は海上がお金を持ってまいり、楼主に渡して引き祝いに朋輩を総仕舞にいたし、陽気に一花咲かせる事に相成りました。花里も進まぬながらそれ/″\と支度をいたせば、小主水もいろ/\に世話をやきまして、傍(わき)から注意いたして居ります。朋輩女郎(じょうろ)たちは年期で出るでなく身請ときいては羨ましいので、入り替り立かわり、花里の部屋へまいり名残を惜むもありますれば、喜びを申すもありまする。また廊下などで立話をしているをきけば、
 ○「いよ/\花里さんは、海上さんのとこへ行(ゆ)くッてねえ、今夜が身請になるんだッて、本当(ほんと)にうらやましいわ、私ゃ花里さんが出たら、あの部屋へ越そうと思ってるのよ」
 ▲「私だって覗(ねら)っているのさ、本当にあの座敷は延喜(えんぎ)がいゝからねえ、瀬川さんだってあの座敷から身請されたのだし、今度の花里さんだって矢ッ張りなのだから、それに二人とも海軍の方だものねえ」
 ×「花里さんの廃(ひ)くのは瀬川さんたア一緒にならないわ、あんなに血道をあげてる伊之さんてえ情人(ひと)があるんだから、海上さんは踏台にされるに違いないのよ、何うして花里さんが伊之さんと切れられるものかね、また無理もないから、男ぶりも好(よ)く厭味(いやみ)ッ気がないのだもの」
 △「ハクショ岡惚(おかぼ)ッてるよ、この人は」
 □「何うも憚(はゞか)りさま、花里さんが出て仕舞えば伊之さんは私が呼ぶのよ、その時にゃア屹度おごるからね、ホヽヽヽヽヽ」
 ○「馬鹿にしてるよ、本当(ほんとう)に」
 なんかんと風説(うわさ)しております、そのうちに張見世(はりみせ)の時刻になりましたが、総仕舞で八重(やえ)の揚代(ぎょく)が付いて居りまするから、張見世をするものはございません、皆海上の来るのを待っている。併(しか)し外のお客を取らないというのではありませんから、初会でも馴染でもお客のあるものはずん/\取っている。その家々(うち/\)の風(ふう)で変りはありますが、敵娼(あいかた)の義理から外の女郎(じょろう)を仕舞わせるほど馬鹿々々しいものはありますまい。それぐらいなら溝(どぶ)の中へ打捨(うっちゃ)る方が遥かましでしょう。何うも済(すみ)ませんとか有難うござるとかいう一口が揚代一本になるんですからねえ。それも仕舞ってやったお客には何の挨拶もするでなく、その娼妓が紅梅なら、紅梅の花魁へのみの会釈でげすから癪にさわるじゃありませんか。とんでもねえ鼻ッたらし扱いされるんでげすから、併しあの場所へ浮れてお出で遊ばす方はそんなことに御頓着(ごとんじゃく)はなさらぬものでな、お気に召した花魁でも参り、程のよいお世辞の一つも言われると、土砂をかけた仏様のようにお成んなさる。余事はさておき、意地を張って身請を拒みました花里も、小主水の説得に伏(ふく)していよ/\廃業すると申しますので、海上渡さんはお鼻が高うございます。意地ばって楯をつくころは女の小面(こづら)を見ても腹が立つものだそうでげすが、さて先方(さき)から折れて出れば元より憎い女でない、廃業祝(ひきいわい)には当人の顔は勿論でげすが、廃業(ひか)せるお客海上の顔にもかゝるんですから、立派にして遣らねばならぬ、立派にしてやるが青二才の職人風情に真似の出来るもんか、己と競争為(し)ようと思ったッて到底(とて)も及ぶまいと、大奮発(おおはりこみ)でございます。花魁花里が廃業祝の支度とゝのい、もう海上さんがお出でになるころと待ちうけて居ります。路傍の花いまゝでは誰彼(たれか)れの差別なしに手折(たお)ることが出来る、いよ/\花里の身があがなわれて見れば、なか/\自由にはなりません、主(ぬし)あるお庭の桜でげす。手でも付けようものなら、それこそ大変がおこるッていうような訳となりますんで。彼(か)の情人(いろ)の伊之吉でげすが、エー、花魁は決して海上になびく気遣いはない、まかり間違えば死のうとまでしたんだから、それに文(ふみ)の模様では小主水花魁が相変らず親切に真身(しんみ)になって世話をしておくんなさるてえから、大丈夫だ心配することはないが、何うも気になってたまらんよ、ゆうべ小主水花魁から届いた文のように旨くゆけばよいが、そうは問屋(といや)でおろしそうもないて、ひょっと仕損じて花里さんえ何処(どこ)へ往(ゆ)くんです、さアお座敷へお出でなさいよと云われた日にゃア仕方がない、いかに小主水の花魁でも斯うなったら何うも仕様があるまい、事がグレ蛤(はま)となった時は馬鹿を見るのが己(おい)ら一人だ、あれもいや/\海上に連れられて行(ゆ)く、イヤ/\仮令(たとえ)つれられて行けばとて無事でいる気遣いはない、花里(あれ)の性質はよッく知っているが、己らを袖にして生きてはいぬ、が、花里(あれ)とても素人じゃアなし、多くのお客に肌身をゆるし可愛(かわいゝ)のすべッたのと云う娼妓だ、いくらあゝ立派な口をきゝ、飽まで己らに情をたてると云ってゝも、フイと気が変って海上に靡(なび)かないとも限らないから、と頻(しき)りに考え込んでいるのは伊之吉でげすがね。花里が小主水の差金(さしがね)で身請を諾(だく)しますと直ぐ、伊之吉の許(もと)へ品川から使い屋が飛んでまいった。此のごろは二階を堰(せ)かれているんでげすから、折々花魁から使い屋をたてゝ文の遣取(やりと)りに心を通じている場合、何か急な用が出来て花里から使い屋をよこしたのだと思いますと、小主水からの使いで、文面を読むたびに恟(びっく)りばかりいたしましたが、親切に細々(こま/″\)書いてあるから伊之吉もその通りにいたし、身請の当夜を待ち、指図のごとく一艘の小舟を借りまして、宵の口から品川の海辺に出で汐を見ますと、丁度高潮まわりで段々と汐のさしてまいる端(はな)でげすから、伊之吉喜び勇みまして、舟を和国楼の石垣のとこへつけ、息を殺して潜んでいるのでございます。すると夜風は身にしみて肌さぶく相成り、二階ではお酒が始まり芸妓(げいしゃ)が騒ぎはじめますから、馬鹿々々しくなって堪りません。舟底にころりとやって居りましたが、気が揉めますから、首をあげて二階を見ますると、障子にヒョイ/\男や女の影法師がうつる。またはワーワッと笑いごえの致すのが、自分を嘲弄(ちょうろう)するようにも聞き取れますんで、いろ/\の考えをおこし、ムシャクシャしてまいる。左様(そう)かといって自分は忍んでいる身でございますから、うっかり頭をあげたり舟を動かすことは出来ません。若(も)しも石垣へばしゃり/\波があたって楼中で気が注(つ)かれて見ると、百日の説法も屁一つになるんでげすからな。その心配というものは容易でありません。伸びつ反(そ)りついたして楼内(うち)の様子にばかり気を配って、此処(こゝ)へ舟をつけて待っていてくれろというからは、屹度花里が忍んで出てくる手段(てだて)に違いなかろう、小主水の花魁は天晴(あっぱれ)男まさりの働きがある女だから、万に一つも遣り損じはあるまいが、何をいうにも大勢の人の目を掠(かす)めて脱(ぬ)け出させるのだから旨く行ってくれゝば宜(い)いがと、庭の方で足音でもしはせぬかと、そればかりに耳をたてゝおりますが、さっぱり足音もしない。二階ではいよ/\大騒ぎで、陽気になってまいる。すると花里々々とこえがチラリ/\と聞えるので、また一層の苦になって堪りません。エヽ詰らない馬鹿々々しいや、斯うして心配しているのに彼女(あいつ)は、あの仲間にはいって笑っているかも知れんと、水上警察の巡廻船に注意いたしつゝ、そっと首をあげまして石垣につかまり、伸びあがって楼内(うち)の様子をうかゞっていまする。と、庭は真闇(まっくら)でげすから些(ちっ)とも分りませんが、海面に向ってある裏木戸のところで、コツリガチャリという音がするので、伊之吉は恟りいたし伸した首をちゞめ、また舟の中に小さくなっている、錠でも外すような音がいよ/\耳につきますから、またそっと伸あがって木戸のあたりを透(すか)して見ますると、暗夜(やみ)で判然(はっきり)とは分りませんが、何(なん)だか白いふわり/\としたものが見えました。それから熟(よ)く耳を澄(すま)してきゝますと人の息をするようでげすな。ハテ来たなと思いますから、怖々(こわ/″\)石垣の上へあがり匍這(はらばい)になって木戸のところまで匍(は)ってまいり、様子をきゝますと内のものは外に人がいると知りません模様で、しきりに錠を外そうといたしておりますから、伊之吉も今時分こゝへ外(ほか)のものが来る筈はないとぞんじ、静かに木戸の際(わき)へ立ちよりまして、
 伊「花魁かい」
 と声をかけました。大抵なら先方(さき)でも恟りするんでげすが、そこは約束のしてあることでございます。先方でも些(ちっ)とも驚いた模様もありませんで、
 花「伊之さんですか」
 と焦(じ)れてガチリと音させ、よう/\錠をはずし木戸をひらき、出てまいりますと、只何(なん)にも言わず伊之吉に取りすがって顫(ふる)えております。伊之吉とてこんなことを遣るは臍(へそ)の緒きって始めての芸で、実は怖(おっ)かな恟りでおるんでげすが、何(なん)と云ってもそこへまいると男は男だけの度胸のあるもので、
 伊「これ、折角斯うして逃げ出したもんだから、早くこの舟に乗んねえな、ぐず/\していて見附けられた日にゃア、虻蜂とらずで詰らねえからな、エヽもうちっとだ確(しっ)かりしねえな」
 と小声で申しながら、花里の手を取って、怖(おっか)ながるをよう/\舟にのせましたので、まアと一安心いたしましたが、早くこゝを遠走(とおばし)ッて仕舞わないと大変と存じますから、花里には舟底のところに忍ばせ上から苫(とま)をかけまして、伊之吉は片肌ぬぎかなんかで櫓(ろ)を漕(こ)いで、セッセと芝浜の方へまいります。それも燈火(あかり)がなくては水上の巡廻船に咎(とが)められる恐れがありますから、漁師が夜網(よあみ)など打ちにまいるとき使う、巡査(おまわり)さんが持っていらっしゃる角燈(かくとう)のようなものまで注意して持ってきているから、それに燈火(あかし)をいれて平気で漕いでまいりました。いまは品川も遥かあとになりましたから、ホッと息をつき、
 伊「花里さん、もう些(ちっ)とだから辛抱しておいでよ、ちょいと首を出して御覧、品川はあんなに遠くなったから、此処(こゝ)まで来れば大丈夫鉄(かね)の鞋(わらじ)だ、己(おい)らは強(えら)くなったぜ」
 花「そう、本当(ほんと)にすまないことね、お前さんに此様(こんな)苦労までかけてさ、堪忍して下さいよ、これも前世からの約束ごとかも知れないわ」
 伊「何も礼をいうことアねえや、お互(たげ)えに斯うなってるんだから」
 花「今度の事には姉さんに、まアどんなに心配をかけたか知れないので」
 伊「そうよ、小主水[#「小主水」は底本では「小主人」と誤記]姉さんには本当にすまねえが、実に彼(あ)の人は両人(ふたり)が為には結ぶの神だよ」
 花「はア本当にそうですわ」
 伊「両人が落著(おちつ)いたら何うしてもこの恩を報(かえ)さねば、畜生(ちきしょう)にも劣るから、己らは」
 と跡言(いい)かけまするとき、ギイ/\と櫓壺の軋(きし)る音がして、燈火(あかし)がちらり/\とさす舟が漕ぎまいります。伊之吉は俄に花里を制し、また元の如く苫を冠(かぶ)らせてしまいました。さて和国楼でございますが、肝腎(かんじん)の花里がいま身請の酒宴(さかもり)と申す最中(もなか)に逃亡いたしたんですから、楼中の騒ぎは一通りではありません、上を下へとゴッタ返して探しましたが、中々知れそうな理由(わけ)はありません。まさか伊之吉が舟を持って来て連れていったとは知れよう筈がない。海の中にいるんでげすから陸(おか)を探したとて跡のつく気遣いなし。海上も一時はカッと怒(いか)られて、外のものに当り散らしては見たが、相手のない喧嘩は何うもはえないもので、到頭そのまゝ泣き寝入で、只(た)だ器量を下げてお引下がりになりました。併し和国楼では、花里に逃げられたから、それで宜(よ)いわと済まされませんから、それ/″\の手続きも致さねばならぬ、品川警察へ逃亡のお届けをいたし、若しや伊之吉のところへ参って居らぬかと、追手を出して探させましたが、さっぱり解らず、伊之吉は平生(つね)に変ったこともなく、此の頃では仕事場へも出まして稼いでおりますから、何うしても手懸りが付きません。品川警察へ呼出されてお調べに相成ったこともございますが、伊之吉の申し開きは立派にたち、放還になって見れば花里の行方はます/\手懸りが切れたようなもの。たゞ和国楼の庭口の木戸のあいていたというところで、海中へ身を投げて死んだのであろうと評判でございました。ナニ伊之吉がちゃんと他(わき)へ隠してあるのが知れませんは、不思議なもので、お取締りは随分厳重になって、コラお前の家(うち)には同居人はおらんか、と戸籍調べのお巡査(まわり)さんはお出(いで)遊ばしても、左様(そう)重箱の角までの世話の届くものではありません、早いところが我々どもの家でさえ嚊(かゝ)あ左衛門が、ちょいとホマチを遣るのを主人(あるじ)が知らずに居(お)ることは幾らもあります。これは、何うもはや、読者方(あなたがた)の御新造様が決して左様(さよう)なさもしいことを遊ばす気遣いは毛頭ございませんが、我々仲間の左衛門尉(さえもんのじょう)には兎角ありがちのことで、亭主に隠して焼芋でも買うお鳥目をハシけるは珍らしくないことでな。イヤこれは余計な贅言(むだごと)を申し上げ恐れ入ります。兎に角、花里花魁の行方は知れずに月日は経ちました。

        九

 神奈川在の甚兵衞夫婦をたよりてまいりました、お若伊之助でございます。甚兵衞夫婦も疾(と)く世を去り、月日はいつか二昔(ふたむかし)をすぎまして、二度目に生れた岩次と申す息子も十八歳と相成りましたくらいでげすから、お若さんも年を取りましたな。皺は一杯額に波うちますし、髪の毛は薄くなる、昔の面影はありません。それに永く田舎に燻(くす)ぶっていたんだから、まことに妙なもので、何う見ても田舎ものでげすッて、伊之助もその通りで、何事もなく暮していましたが、さて何となく気にかゝってなりませんから、お若さんも伊之助と相談いたし、兎に角伯父の高根晋齋が生きているうちに詫言(わびごと)せんと、久し振で東京へ出てまいり、まだ鳶頭(かしら)の勝五郎も生きているに違いないからッて、尋ねてまいりましたは下谷の二長町(にちょうまち)でげすが、勝五郎の住(すま)っていた長屋は矢ッ張りございますんで、お両人(ふたり)はヤレよかったと喜び、台所口からのぞいて見ると、朝のことでげすから勝五郎は火鉢のわきで楊枝をつかっている、自分の年をとったことは分りませんが、他人(ひと)の老けたのは能くわかるもので、
 若「ちょいとお前さん御覧なさい、鳶頭も大層年をとりましたことねえ」
 伊「成程すっかり胡麻塩になっちまった、己(おい)らだッて他人(ひと)から見ると、矢ッ張り爺い婆アになってるんだよ」
 若「本当(ほんと)にそうでしょうねえ、神奈川へ行ったのも昨日今日のように思ってるが、二十年(ふたむかし)にもなるんだからねえ、高根の伯父もさぞ年をとったでしょう、まさかもう頑固もいいますまいよ」
 伊「岩の手前(てめえ)も面目ねえや、ハヽヽヽそんな事を言ってたッて始まらねえ」
 と伊之助が訪(おとな)いまして、神奈川在からお若と伊之助が尋ねて参ったと申すと、楊枝を啣(くわ)えておりました勝五郎は恟りいたし、台所へ飛んでまいり両人(ふたり)の顔をしげ/\とながめましたが、急に眉毛に唾をつけますから、お若さんは、
 若「鳶頭、何うも久し振ですねえ、お前さんも相かわらず御丈夫で何よりですよ、先年はいろ/\お世話になりましてねえ、本当(ほんと)にすみませんでしたこと、今度こうして両人でお宅へまいったのは、あれを見て下さい、あのようになった息子までも出来た夫婦ですから、是非お前さんの袖にすがって伯父さんにお詫をしていたゞき、永らくかけた御苦労の御恩を返そうとおもってね、それで態々(わざ/\)来たんですから、鳶頭どうか、お前さんより外に頼むものもないんだからお願い申します」
 伊「今お若からも申すとおり、お前さんが夫婦の手引きだから、面倒でもあろうし、先頃お前さんの意見をきかなかった腹立もあろうが、ねえ鳶頭、何うか昔のことは言わずに一肌いれて下さい」
 と頼みまする様子に勝五郎はいよ/\恟りいたし、開いた口は塞(ふさ)がりません。と申すはお若さんでげす。再び伊之助と腐れ縁が結ばりまして、とんでもない事になるところを根岸の高根晋齋が家(うち)へ引取られましてから、病気で一歩(ひとあし)も外へ出たことがございません。今でも現に晋齋のところにぶら/\としているんですからね。元より大病というではありませんから今はお医師(いしゃ)にもかゝらず、たゞ気まかせにさせてあるんで、尤も最初(はじめ)のうちは晋齋も可愛そうだと思召し、せめて病気だけは癒(なお)してやろうと、いろ/\のお医者におかけなされましたが、さっぱり効験(きゝめ)がない。お医者にかけないからッてドッと悪くなるでもありませんから、二十年から欝々(うつ/\)と過しているんでげす。さア左様(そう)いう風でございますのに、また一人お若さんが出来て、子供までつれてお出(いで)なされたんですから、鳶頭の驚きまするは当然(あたりまえ)で、幾らくびを曲げ眉毛に唾をつけましても、その理由(わけ)はわかりません。こいつは不思議だぞ、さきに根岸では伊之助が二人出来た例(ためし)もある、こんどはお若さんが二人になったは不思議だ、これは何(いず)れか一人のお若さんは屹度変化(へんげ)にちがいない、併し根岸の高根晋齋先生のところにござるお若さんが、ヨモ変化である筈はないことだ、そうすると今伊之助と一緒にまいっているお若さんが訝(おか)しい、斯う考えて見ると伊之助も変化かも知れない、根岸で先生がズドーンとやった狸公(たぬこう)が、アヽそれに違いないと、ぶる/\ッと顫(ふる)えあがるのに、お若も伊之助も呆気にとられてこれも茫然(ぼんやり)いたしていましたが、何時まで睨(にら)みッこを致していたとて果(はて)しがありませんから、
 若「鳶頭、お前さんは矢ッ張りわたし等を憎んで、この願いをきいては下さらないのですか」
 勝「なに、そんなことじゃアごぜえません、が、何うもおつりきで」
 若「エ、おつりきとは、そりゃなんの事で」
 勝「なにさ、それは此方(こっち)のことで」
 と申しながら不承不承請合いまして、下谷二長町からドン/\根岸へやってまいりました。高根晋齋は庭に出て頻りに掃除をなすっていらっしゃいます。そのお座敷は南向でございますから、日が一杯にあたって誠に暖(あった)かでげすから、病人のお若さんも縁側へ出て日向(ひなた)ぼこりをいたしながら伯父さんと談(はなし)をいたしておりますところへ、書生さんがお出でになりまして、
 書「エヽ、先生、先生ッ」
 晋「なんじゃ」
 書「鳶頭の勝五郎がまいりまして、至急お目にかゝりたいと申しますが」
 晋「左様(さよう)か……こちらへ通しなさい、また何かそゝッかしやが詰らぬことに目を丸くしてまいッたと見えるな、彼(あれ)も若い時分[#「時分」は底本では「自分」と誤記]から些(ちっ)とも変らないそゝっかしい奴だが、あんな正直な人間もすくないよ、稼業柄に似合わない男だ」
 と仰ゃりながら、ポン/\と裾(すそ)をはたいて縁側へお上りになりますとき、永(なが)のお出入で晋齋先生のお気に入りでげすから、勝五郎はずか/\とおくへまいりまして、そこに出ておいでなさるお若さんを珍らしそうにながめ、何(なん)だか変挺(へんてこ)の様子で考え、まことに茫然(ぼんやり)といたして居ります。
 晋「鳶頭か、よくお出でだね、お前何か心配なことでもあるのか、大層かんがえていなさるね」
 勝「先生様、奇体(きてえ)なことがおッぱだかったんで、またね、狸公(たぬこう)がお若さんに化けてめえりやしたぜ」
 晋「オイ/\鳶頭は何うかしているよ、お前おかしな事をいうねえ、気を落付けてゆっくり物を言いな、些とも理由(わけ)が解らないじゃないか」
 勝「それがね、先生大変なんで、今狸公のお若さんが、あの伊之助野郎と一緒に私(わっち)の家(うち)へ来ているんですから、変挺じゃげえせんか」
 晋「何(なん)だと……狸のお若が伊之助と一緒にお前のところへ来た、ハヽヽヽヽ馬鹿をいいなさい、お前寝惚けているんじゃないかい、そんなことがあるものか」
 勝「ソヽヽそれがね、全くなんで、全くお若さんが伊之助をつれ、若い男までも引張って来ているに違いないんでげす、先生にお詫をしてくれッて」
 晋「ハヽヽヽいよ/\訝(おか)しいよ、お若はこゝにいるじゃないか、殊に二十年来の病気で外出したことのないものがお前の家(うち)へ行(ゆ)くわけがないよ」
 勝「さアそこだッて、それだから狸公だ、てっきり狸公にちがいないんで、よく化けあがったな、ナニようがす、先生、貴方さまが根岸でパチンとおやんなすった短銃(ピストル)はあるでしょうねえ、それを私(わっち)にかしておくんなせえまし、今度は私がパチンとやって遣るんだ」
 と急(あせ)り切って前後不揃(ぶぞろい)にお若伊之助のまいった次第を話しますので、晋齋も不審には思いますが、自分に遇(あ)って詫を為(し)ようと申すは不測(ふしぎ)な理由(わけ)、ことに子供まで出来十八九ともなっているとは解らぬ事だと、目を閉じて考えてお在(いで)になると、勝五郎は短銃を貸せ、打って仕舞うからと急(せき)たてます。晋齋は最早八十からにお成り遊ばす老人でいらっしゃるが学問もなか/\お出来になる偉いお方でございますから、先ずお若伊之助と名のるものに面会いたした上で、その者等が様子を篤(と)くと見極めてもしも変化のものなら、なんの年こそとっていれ狐狸(こり)に誑(たぶら)かされる気遣いはないと、御決心あそばしましたから、
 晋「勝五郎、まアそんなに無闇なことをいたしてはなりません、私(わし)に遇いたいと申すなら遇ってやりましょう、つれてお出でなさい」
 勝「へー、先生様は狸公にお遇いなされますか」
 晋「イヤ狸であろうと狐であろうと、遇いたいと申すものには遇ってやりましょうよ、ぐず/\言わずに伴(つ)れてお出でなさいよ」
 勝「へー、伴れて来いと仰しゃいますなら伴れてまいりますがね、若し途中で私(わっち)をばかして蚯蚓(みゝず)のおそばや、肥溜(こいだめ)の行水なんぞつかわされはしますまいか」
 晋「馬鹿を云いなさい、人間が心を臍下(さいか)に落付けていさいすれば決して狐狸に誑(ばか)されるものでないから」
 と説諭(せつゆ)されましたので、勝五郎は彼(か)の尋ねてまいったお若と伊之助、それに忰(せがれ)の岩次をつれて参りました。高根晋齋は三人の親子を奥へ請(しょう)じて対面に相成りまする。お若と伊之助は頻りに身の淫奔(いたずら)を詫び、何うかこれまでの行いはお許し下さる様にと他事(たじ)はございません。妖怪変化のものは如何によく化けますといっても、必ず耳が動くものだそうにございます。そこは畜生(ちきしょう)の悲しいところで。晋齋老人は何(なん)にも仰しゃらず、ジッと見詰めておいで遊ばすが、三人の人間に少しも怪しいところがない、殊に不思議なのはお若さんで、年配から言葉音声(おんじょう)、額によりまする小皺まで寸分かわりません、只だかわっているところはお頭髪(つむり)でげす、此家(こゝ)においでになるお若さんは病中でいらっしゃるから、お頭髪なんかにお構いなさらないんで、櫛にくる/\とまいてありますが、今勝五郎のつれて来たお若さんは丸髷に結っていらっしゃる。それとお衣類(なり)にちがったとこがあるばかりでございます。晋齋老人もこの場の様子が不思議に思召す。何うもお若さんが二人になってる理由(わけ)がお解りになりません。成程これでは勝五郎が恟りするも無理でない、乃公(おれ)も八十年から生きて世間のあらゆる事には当って来ているし、随分経験もあるが、こんな訝(おか)しなことはない、根岸で伊之助が二人あったことはあるが、あれは一方が変化のものということの認めがついて、短銃でパチンとやッつけたが、今度のは怪しいところが些(ちっ)ともないから無暗(むやみ)なことは出来ぬ、とじろり/\お若さんを見ては考えていらっしゃる、先刻(さっき)からいくら経っても伯父さんからお言葉が出ないので、
 若「伯父さん、私が重々不調法のだんはお詫いたします、何うか御勘弁あそばして、こゝへ伴(つ)れてまいったは岩次と申し、この人と神奈川におりますうち産みました子で、岩次、これがかね/″\お前にも話した根岸の伯父さんッてえので、お前には大伯父さんだから、よく御挨拶をなさい、柄ばかり大きゅうございますが、田舎で育ったんですから行儀も知りませんし、カラ意気地(いくじ)がありませんよ、伯父さん/\」
 と申しますから、言葉を交さない訳にはまいりませんので、晋齋老人も一通りの挨拶をよう/\なさいました。それから両人(ふたり)の身の上についていろ/\お聞きなされ、その間は少しでも油断なく御注意あそばしましたが、何うしても狐狸なんかでないようでげすから、ます/\不審であるから、これは病人でいるお若に遇わし二人を並べて置いての詮議より仕方がない、と御決心あそばし、
 晋「お若や、ちょいと此処(こゝ)へお出で、伊之助が尋ねてまいったから」
 と仰しゃると、一緒に参っているお若さんは平気できいている。只だ莞爾(にっこり)したばかりで不審らしい顔もしません。やがて奥から嬉しそうにして出てまいった病人のお若さん、これもたゞ莞爾いたして伊之助の傍(そば)へぴったり坐り、別に挨拶をするでもなく澄している。おどろきました伊之助、きょろ/\と両人(りょうにん)のお若さんを見まわし呆気にとられる。息子の岩次も俄にお母様(っかさん)が二人出来たのでげすから、これもボーッといたしています。晋齋老人は流石(さすが)に博識な方でげすから、二人のお若さんに目もはなさず御覧になっている。するとお若さんの形こそ両(ふた)つになっておりますが、その様子におきましては両人(ふたり)とも同じことです。一方のお若さんが物を言いかけますれば、言葉は発しませんが一方でも口をムグ/\いたしておる。また一方でお頭髪(つむり)をおかきになれば一方でもお櫛でお頭(つむり)をおかきなさる、そのさまが実に不思議でげす。そう斯ういたして居りますと高根さんの門外で容易ならぬ人ごえがするんで、晋齋老人耳をお立てなされ、縁側へお出(で)遊ばして生垣の外を御覧になると、若い男女(なんにょ)を三四人の男が引立てようといたしている。そのうちに女は何うすり脱(ぬ)けましたかバタ/\と晋齋の邸内へ逃込みました。窮鳥懐にいるときは猟夫も之れを射ずとか申すこともあり、晋齋はもとより慈悲深い方でいらっしゃるから、お内に二人のお若さんが現れてごた/\いたしている中でげすが、何うも見捨(みすて)ておくことがお出来なさらない。直ぐ書生さんにお命じなされ、兎も角もと門外の男もまた男女(ふたり)を引立(ひったて)ようといたす若いものも共にお呼込みに相成りました。さて、段々と様子をおきゝに成りますと、引立(ひきたて)られようと致した男女(ふたり)は品川の和国楼から逃亡した花里と伊之吉でございます。晋齋老人は眉をひそめ、これは怪(け)しからんことである、娼妓などを連れて逃亡するとは怪しからん。伊之吉といえば勝五郎の世話で深川の大芳棟梁のとこへ養子にやったお若の双児(ふたご)であるなと思召しますから、いよ/\恟りなされて左の眼のふちの黒痣(ほくろ)にお眼をお注(つ)けあそばしますと、あり/\正(まさ)にございますので、あゝ困ったものだ、併し不思議のこともある、親知らずに遣った伊之吉が、母のお若がいる家(うち)の前で品川の貸座敷の若いもの等においこまれ、己(おれ)の家へ来るというも因縁であると、何気なく花里の顔を御覧になると、これにも左の眼のふちに黒痣があって男女(なんにょ)差別こそありますが、貌(かお)だちから丈(せい)恰好がよく似ている、これはとまた恟りなさいまして、花里に親の名をお尋ねなさると、大阪で越前屋佐兵衞と申しましたが商業(しょうばい)の失敗で零落いたし、親の為め苦海(くがい)に身を沈めましたと、恥かしそうに物がたりますを晋齋老人とくとお聞きなされ、それではお前さんはお米といいましょうと仰しゃいます、花里も呆れいるところへ、奥の間から二人のお若さんがワッと泣きながら転げ出で、
 若「これ伊之吉やお米、お前の母は私ですよ」
 と意外の言葉に伊之吉とお米もびっくり致し、たゞじろり/\顔をながめるばかりでございます。晋齋老人は目をつぶッていらっしゃいましたが、あゝ怖しいものは因果だ、この親子は何うして斯うも幸ないであろうと、伊之吉お米が双児でありしことをお談(はな)しになってお嘆きあそばす。この両人(ふたり)もこれをきゝますと呆れるばかりで物がいわれません。やがて伊之助も岩次も出てまいり、親子兄弟不思議な邂逅(めぐりあ)いにたゞ/\奇異のおもいでござります。晋齋老人は花里のお米が身に付く借金を和国楼へ償却いたすことに相成り、この一埓(いちらつ)はつきました。さて伊之吉とお米でげすが双児兄妹(きょうだい)ときゝては、お互いに身を恥じ何うも添遂げることが出来ません。そこが因果で別れることも出来ないところから、この両人(ふたり)はその夜(よ)のうち窃(ひそか)に根岸を脱出(ぬけだ)し、綾瀬川へ身を投げて心中した。死骸が翌朝(よくあさ)千住大橋際へ漂着いたしました。
 こゝに又二人のお若さんでげすが、何うも解らずに其の晩はお休みになった晋齋老人、いろ/\お考えになるとフイと思いあたられましたは離魂病という病で、この病は人間の身体が分身するもので、わかれている間は双方ともに何事もなく生きておれど、その分身した身体が一つ所に集(あつま)るときは二十四時(とき)のうちに一方の身体は消えてしまい、一方の身体はそのまゝ死ぬものと古い本などに書いてあることを思い出され、いよ/\おどろいてお在(い)でなさると、果して伊之助と一緒に来たお若さんの身体が二十四時たつと見えなくなって、間もなく病人のお若さんの息が絶えました。伊之助も恟りいたして騒ぐをいろ/\お諭(さと)しなされましたが、これも因果と諦らめ、遂にその夜のうちに首をくゝって相果てました。わずか二日のうちに二(ふた)夫婦と影法師のお若さんが亡(なく)なり、晋齋老人の家(うち)は大さわぎでげす。これも因縁だ因果だと思召すから、それ/″\葬りのこと懇(ねんご)ろになされました。四人の死骸(なきがら)は谷中へ埋葬いたし、老人も落胆(がっかり)遊ばしていると、跡にとり残された岩次でございますが、まだ年も若いにいろ/\奇異のことを目前(めのまえ)に見きゝいたし、両親に別れたんですから現世(このよ)を味気(あじき)なくぞんじ、また両親や兄(あに)姉(あね)の冥福を弔(とむら)わんために因果塚を建立(こんりゅう)したいから、仏門に入れてくれと晋齋にせまります。老人も至極道理(もっとも)のことゝ、ある住職にたのみ、岩次を仏門に帰依いたさせますると、それから因果塚建立という文字(もんじ)を染ぬきました浅黄(あさぎ)の幟(のぼり)を杖にいたし、二年余も勧化(かんげ)にあるき、一文二文の浄財をあつめまして漸(ようよ)う谷中へ一基の塚をたてました。扨(さ)て永々続きました因果塚の由来のお話もこれで終りと致します。
 

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