落語「天災」の舞台を歩く

  
 5月16日落語界の重鎮、「柳家小さん」師が亡くなりました。
本当に寂しいばかりです。
大阪の”桂 米朝”師と”小さん”師の二人が人間国宝です。
その一人が八十七で旅立ってしまったのです。
晩年は気負いが無くなって、良い芸だったので残念です。
今、小さん師のテープを聞きながら書いています。 合掌。

 柳家小さんの噺、「天災」によると。

  私は紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)ですが、ご隠居さんのお手紙を拝見すると”おっかさん”に手を挙げるそうですが、そのような事はないでしょ。ない!蹴飛ばす。では、お話をしますと、喧嘩がお好きなようですが、柳に風のごとく、堪忍が大事。例えば、小僧が水を掛けたら・・。屋根から瓦が落ちてきたら・・。大きな原中で夕立、ずぶ濡れになったら、どこに喧嘩をウリりますか。あきらめらぁ〜。だったら、全て天災だと思ってあきらめなさい。天のせいにすれば、喧嘩をしないですむ。
 分かった!帰るけれどお茶が出ないのは天災と諦めるが、戸の開けっ放しは天災だと諦めな。

 今帰ったが、長屋が騒々しい。熊さんの所で喧嘩があって先妻との別れ話が決まらない内に、新しい女を入れたので、先妻の”おみっつぁん”が怒鳴り込んできた。やっと収まったところだから、行くのはおよし、また喧嘩が始まっちゃう。大丈夫、天災を振り回わっしゃうから。
 熊さんの所で、今聞いて来たばっかりの心学”天災”を振り回すが、本人も分からないくらいチンプンカンプンな解説で、「外を歩くと、屋根から小僧が振ってくる。大きな原に出ると、夏の雨は馬が降ら〜ぁ。夕立で、とたんに小僧が水を撒く。」仲裁にはいるが空回り。「元のおかみさんが暴れ込んで来たと思うからいけないんで、天が暴れ込んだと思え。これが天災だ!」、「い〜や、先妻の間違いだ!」。

(昭和57年・新宿末広亭にて)

 


1.離縁状
 
俗に”みくだりはん”(三行半または三下半)。夫から妻に出す離縁状の俗称で、江戸時代、簡略に離婚事由と再婚許可文言とを三行半で書いたからいう書状です。書式を書くと、

(一)弘化三年再板「手形証文」に、


  其元儀不熟ニ付離縁いたし候
  然ル上ハ向後何方江嫁し候とも
  此方ニおゐて差構無御座候為其
  如斯候以上
                 誰

(二)安政三年再刻「御家手紙の文大全」に、


 離縁状之事
  一 其元との不熟ニ付双方熟談
  之上離別致候然ル上は此後
  何方江縁付いたし候共差構
  無之為後日仍如件
  年号月日
                夫名

たれどのへ

(三)信陽望月先生撰「手紙証文早引」に、


 りゑん状之事
  一 其方事我等勝手ニ付此
  度離縁いたし候然ル上は何
  方江縁付候共毛頭差構無
  之候仍如件
                夫誰
たれどの

              〈岩波文庫〉徳川時代の文学に見えたる私法より

(四)


 離縁状之事
  一.此度其元
そこもと)殿不縁に付離別致候
  処実正也、然上者
しかなるうえは)何方江縁付被致候共
  一言之申分無之 離別状
  依而如件
(よってくだんのごとし)
                        夫誰

 なにも、何本も書いてくれと頼まれたからって、こんなに書かなくったっていいものを・・・。
これで分かる様に、離縁状は二つの項目から出来ていた。一つは本題の離縁すること。二つ目は離縁した後に、どこにでも復縁しても良いと言うこと。つまり”再婚保証書”になっていたのです。妻から亭主には認められていませんでしたが、女性が男性より極端に少ない江戸の街、”再婚保証書”をもらった女性は大いばりで、もっと良い条件の男性のところに嫁いでしまった事でしょう。
落語では無筆の亭主が相手も無筆なのだからと、三本半の線を引いて代用としたという、笑い話がありますが、やはりご隠居の所に行って書いてもらうのがベターで、時の(仲裁の)氏神様でしょう から。
 

2.三光新道(さんこうじんみち=日本橋掘留町2丁目1
 
また出てきました三光新道。第1話「百川」で、初仕事で長谷川町・三光新道に来た百兵衛さん、常磐津の師匠”歌女文字”(かめもじ)を迎えに来たはずが、外科医の”鴨池玄林”(かもじげんりん)を連れて行く。その舞台がここです。ここには「天災」の”紅羅坊名丸”心学先生、落語「派手彦」の踊りの師匠、”板東お彦”などそうそうたる文化人が住んでいた。
 場末の三業地みたいな三光稲荷神社のアーケド看板があり、入ると3〜40メートルで抜けてしまうような小径で、細い参道の奥左にこぢんまりとした社が有る。そこが三光稲荷(掘留2−1−13)で昭和39年9月に改修が施され 町の中に溶け込んでいる。参道には 左右から大きなビルがせまって、3軒ほどの小さな民家と飲み屋が有るだけで、この中に 落語界の有名人が住んでいたとは思えない。
 

3.心学
 広辞苑をひもとく(バラバラにする)と、心を修養する学問で、江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して、その教旨を平易な言葉と通俗なたとえとで説いた一種の庶民教育。修錬のためには静座などを重んじ、社会教化には道話を用いる。石田梅岩を祖とする石門心学に始まり、手島堵庵・中沢道二に伝えられ、さらに柴田鳩翁に至って大いに拡張され、一時は65ヵ国、149の講舎を所有 した。
 


  舞台の長谷川町・三光新道を歩く
 

 落語「百川」を書いてまだ2年ぐらいしか経っていないのに街の動きは早い。三光稲荷神社のアーケド看板はペンキの塗り替えが必要な位に剥げていたし、神社も貫禄が付いた。参道の中の民家も改修工事をしている。すぐ隣街の人形町にあった”元人形町末広”跡に建っていた次田ビルも取り壊しの為に仮囲いがしてある。外観からするとまだ充分に使用可能の様に見えるが、既に30年経っているのです。新しいオーナーのもとで新ビルが建設されるのです。早いですね、末広亭が閉鎖されて30年経ったのです。私も何回か通った寄席だったのに、感無量。当時は前の大通りを都電が走っていたが、今は4車線ぐらいの一方通行の道路になっています。 誰に聞いても、始めてくると広すぎて一方通行が信じられません。

 

地図

  地図をクリックすると 大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

三光新道(さんこうじんみち=日本橋掘留町2丁目1
長谷川町三光新道。この細くて短い新道(参道)を入ると三光稲荷があります。この写真でも分かりますが、路地を抜けた先が見えます。
クリックした写真は向こう側から写しています。

「旧人形町末広跡」(日本橋人形町3−9−1)
東京でも代表的な寄席のひとつだったが、昭和45年惜しくも閉鎖された。しかし、もう30年が経つのです。早いものです。

  

玄冶店跡」(げんやだな=日本橋人形町3−8)
人形町表通りにある「史跡 玄冶店」跡の碑
裏側に回ると「橘稲荷神社」があります。江戸期には新和泉町といわれ、将軍家御典医”岡本玄冶”(1587〜1645)の邸宅があったので、一帯を玄冶店と俗称された。稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだもので、町のお稲荷さんとして親しまれています。  

                                                       2002年5月記

次のページへ    落語のホームページへ戻る

 

 

広告 [PR]  再就職支援 冷え対策 わけあり商品 無料レンタルサーバー