落語「秋葉っ原」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、「秋葉っ原」(あきばっぱら)
江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はない(東京府が秋葉大権現を勧請したとする史料もあるが、当時の社会情勢からみても明らかに誤伝である)。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」、「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除地(空地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。 鎮火社はいつしか秋葉社となり、明治21年(1888)日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が現在の上野駅から秋葉原駅まで延長され、秋葉の原の土地が払い下げられたのに伴って現在地の台東区松が谷に移転した。その後昭和5年(1930)に秋葉神社と改名された。 跡地の駅を、下町訛りを知らない(敢えて無視したとも考えられる)官吏たちが「あきはばら」と名付けたことが、今日世界的に知られる電気街「秋葉原」の名の由来です。
秋葉神社御由緒及びウィキペディアより 落語「牛ほめ」より孫引き
野菊のハッカーさんの「秋葉っ原」に詳しい http://signal9.exblog.jp/6761429
●両国の薬研堀(やげんぼり);両国橋西側、中央区東日本橋、日本橋中学校あたり。薬研堀不動尊がある。両国広小路と言われた西側の一歩外側に出た所。
●神田の筋違い橋(すじかいばし);秋葉原近くの柳原土手。いまの万世橋が筋違い橋として、もう少し西側の神田川に架かっていた。川の南側が柳原土手で柳橋まで続く、JR高架の脇には柳森神社があります。
●駿河台(するがだい);神田川及びJRお茶の水駅の南側、富士見坂上台地、神田駿河台から神田小川町一帯。元和2年(1616)駿府にいた徳川家康の死後、その家臣が駿府から江戸に帰って、居住地に当てられて命名された。
●護持院が原(ごじいんがはら);千代田区神田錦町2丁目江戸城寄り。落語「試し切り」に詳しい。1690(元禄の頃)年代には護持院が有ったが、火災で焼失し、火除け地として原っぱになった。一番から三番明地まで出来て、二番明地(火除け地)が”護持院が原”と俗に呼ばれた。夜は試し切りと、夜鷹が出るほど寂しかった。
●番町(ばんちょう);江戸城西側の外堀までの町。一番町から六番町まであった。落語「大工調べ」、「石返し」に詳しい。
●四ツ谷堀端(よつやほりばた);千代田区四ツ谷駅周辺の外堀。
●牛込桜ノ馬場(うしごめさくらのばば);①桜ノ馬場(湯島昌平坂)文京区湯島一丁目東京医科歯科大学南部。
●愛宕下(あたごした);港区愛宕一~二丁目、愛宕山下の東裾の通り。落語「黄金餅」で通った道筋。
皆さん、それにしても仕事場までよく歩きますね。
左;「筋違い御門」江戸名所図会より。 左下が御成街道の筋違い御門とその橋。右下が中山道に抜ける昌平橋。
3.言葉
左;切り見世入口、手前通行の三女が夜鷹。絵本時世粧(えほんいまようすがた)豊国画。普通はこのレベルの女性。
■二十四文(24もん);江戸後期1両を5000文として、8万円の5000分の1=16円。16X24文=384円、約400円でお釣りが来る?。四宿(品川、新宿、板橋、千住)でも、400文(約6500円)であったことを見ても安い。病気のことを考えると、安物買いの銭失い。
■『吉田町女房かせぐを鼻にかけ』;鼻にかけは、自慢することと、鼻が欠けているとを掛けている。
■『鷹の名にお花お千代はきついこと』;お花お千代は、お鼻落ちよと言うこと。で、そんな名前の夜鷹は可哀相だ。
■強盗提灯(がんどうちょうちん);銅またはブリキで釣鐘形の外枠を作り、中に自由に回転するように蝋燭立てを付けた提灯。桶で外枠を作ったものもある。懐中電灯のように一方だけを照らす。遮眼灯。忍提灯(しのびちょうちん)。下右図(広辞苑より)。下中、江戸東京博物館蔵。
国芳画「忠臣蔵十一段目闇討之図」部分より右側の男が持つのが強盗提灯。
■病気(びょうき);性病の内でも淋病、梅毒等。
■豆絞り(まめしぼり);豆粒ほどの小さな円を並べあらわした絞り染。元来絞り柄のドットですが、染め型を使ったドットが大勢を占めています。手ぬぐいを豆絞り柄に染めるのが普通で、祭りなどで鉢巻きなどに用います。
舞台の夜鷹の職場を歩く
四ツ谷鮫が橋に向かいますので、中央線又は地下鉄四ツ谷駅で降り、迎賓館に向かいます。行ったことはありませんが、バッキンガム宮殿に似た門構えが、典型的な洋風の建物と門構えを見せています。この建物は外国の要人用ホテルですから我々はお金を出しても使えません。当然宴会場は付属しているので、歓迎のレセプションなどは盛大に催されますから大臣にでもなって出席が出来るでしょう。やはり門の外から、あれこれイメージを膨らませて眺めるのが最適かも知れません。
夜鷹と同じように四ツ谷堀端に行きます。ここに来るために四ツ谷の駅で降りましたが、そこに四谷御門があってその周辺は外堀伝いに今でも静かな場所です。歩いて10分もあれば着いてしまう場所です。
下町の夜鷹の巣窟と名指しされてしまった、本所吉田町に行きます。他からも出掛けた夜鷹はいましたが、ここと鮫が橋とは江戸の二大巣窟だったと、どの本を開いても出てきます。貧しかったのでしょうね。今は極ありふれた家内工業と住宅が密集した地域です。ここへの行き方ですが、JR総武線錦糸町駅から北西に歩くか、浅草始発の東武スカイツリー線(伊勢崎線)スカイツリー駅(業平駅)から南に下ってくるかですが、どちらからでも遠い。陸の孤島(?)かも知れません。
古川柳には、吉田町をからかうには絶好の対象となった。
夜鷹と同じように市中に出掛けることにしましょう。両国薬研堀は両国橋を渡った両国広小路に並んであった街です。落語「両国八景」に詳しい。両国広小路の西側に薬研堀という堀があって、それが隅田川に繋がっていた。その位置に架かった橋を元柳橋と言った。奥のL字に曲がった所には薬研堀不動尊が有ります。この街の今は繊維関係の店が多く有り、暮れには不動尊を中心に大バーゲンセールが行われます。人通りはありますが、静かという条件には現在は当てはまりません。ここの北東側(両国広小路)は柳島と言われて花柳界があり、楽しめる所でした。今の京葉道路を渡り神田川に架かった柳橋を渡ると柳橋の花柳界になります。しかし現在は残っている料亭は片手にも及びませんし、芸者さんも絶滅しています。
駿河台は今のお茶の水駅南側の台地の部分で、南に下ると靖国通りの小川町辺りまでで、下り坂が続きます。明治大学、日大大学、それにニコライ堂などがあります。学生の街で昼間は学生でごった返しています。若者がこれだけいれば商売になりそうですが、明るく賑やかでゴザを広げる所が何処にも有りません。
今では立派なビルが建ち、ホーム跡は見学が出来るガラス張りの施設になっています。
神田駅から須田町を通ってこの万世橋を渡る中央通りで秋葉原の電気街に出ます。電気街と言いましたが、今は家電製品を扱っている所は皆無で、パソコンですら探さないと見つけることが難しくなっています。では今、何がメインの街なんでしょう。そうなんです、オタクの街と言われ初めて10年以上は経つでしょうね。外国で秋葉原というと、電気ではなく、コスプレやフィギヤの街と認識されています。今は誰も電化製品をここに買いに来る人は居ません。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
2015年1月記
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