落語「御家安とその妹」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「御家安とその妹」(ごけやすとそのいもうと)
 圓朝作とされる「鶴殺疾刃庖刀」(つるころしねたばのほうちょう)で2時間近くの大口演です。
 

 10万石の大名・東城左近太夫氏勝は歳三十四で文武両道に達して和歌の道に精通し、家来からも慕われ、奥方との仲も良かった。親戚に呼ばれ大坂見物の最中、道頓堀でかぶっていた笠を風に飛ばされ川に落としてしまった。船の中からそれを拾い上げたのが歳が十九で絶世の美人。名前も所も告げずに立ち去ってしまった。
 気になってしょうが無い殿様が、どんなことがあっても探し出せとの鶴の一言。大坂で一番の料理屋に行って江戸の娘で身のこなしが良い十九位の美女を聞き出した。踊りの師匠で東春江と分かり、早速座敷に呼んだ。もしその気があるなら、殿様の側めにならないかという。春江は、「私どもは元御家人でしたが、兄は腕が立つので悪さの仕放題になり、飲む打つ買うの三道楽の悪に染まって、御家人株も売り、借金だらけで江戸に居られなくなり、大坂で兄妹二人で暮らしています。その為私がお屋敷に入っても、金をせびりに来るでしょう。手切れ金を渡して、兄妹の縁を切ってからにします。その金200両を渡したいと思っています」。と打ち明けた。3日後に会う約束をして別れた。
 春江が家に帰ると、御家安が負けてもう帰っていた。今までの話をすると200両で縁切りを許してくれた。結果を相手に伝えると、300両出してくれて、残りの100両で借金を返し衣装を整えて屋敷に上がった。美人で頭が切れるので、殿様はお春、お春と何でも言うことを聞いていたが、その内、ワガママになってきた。意に沿わない家来がいると、殿に告げ口をして暇を取らせたり切腹させたり、周りの者は恐くて近づけなかった。
 神奈川の亀の甲煎餅が食べたいと、江戸屋敷から神奈川まで深夜買いにやらせた。馬の名手に遅いと難癖を付けて、「もう、食べない」と駄々をこねた。買いに行った家来は下がって切腹だと騒ぎ、お春は「殿とは話をしない」とプイと脇に行ってしまった。女のワガママは困ったものです。 (序・完)

 御家安は200両で遊びほおけていたが、金も少なくなり自分も江戸にと、通し駕籠で11日目に江戸の大森に着いた。小料理屋で飲んでいると、昔の悪仲間、福蔵に出合った。福蔵の小揚の家に居候に入ったが、金をちゃんと払うのでペコペコ等していない。文化の2年夏、へべれけになって帰って来た。姉さんは吉原で勤めをした二十七才の女ですが、色が白く小股の切れ上がった男好きのするイイ女であった。力任せに姉さんを組臥してしまった。翌朝、福蔵が帰ってくると、女房から泣きながら話しを聞かされ、御家安に出て行けと言ったが、屁理屈を言って動かないどころか、力の差があるからそれ以上は言えなかった。少し待てという福蔵だったが、吉原通いは止まらず、今日も四つ(午後10時頃)を過ぎていた。姉さんは二階に上がり御家安の蚊帳の中で、腰抜けの福蔵に愛想が尽きて、「10日ほど前に私に言ったね。ご新造さんと呼ばれて5~6人の女中や家来を使って女房然とさせたいと。私はご新造さんと呼ばれたくなったんだよ」。蚊帳から動かない姉さん。
 翌朝、二人は手に手を取って逃げた。
 本所の割り下水に昔の御家人仲間・田地見多次郎が居たが引っ越して居ない。聞いてみると本郷の附木店にいるのが分かり訪ねる。女房おかめを紹介すると、女は吉原で見ているから良く知っているという。それに福蔵の女だと分っているので、全部訳を話した。居候しても良いと許しは出たが、この家も貧乏で何にも無い。御家安の持ち金を全部はたいたが、それでも追いつかなかった。1両で米を6斗5升買えるので算段すると言い出した。
 本郷のゴミ坂に大きな搗米屋があった。そこにおかめが現れ1両の米を買い求め、家まで持ってきてと頼んで店を出た。おもちゃ屋に入って、親類の子供が疱瘡でお見舞いにダルマが欲しいが、中っ位の大きさで良いと受け取り外に。滅多にかかる病気ではないので、大きい方がイイだろうと、米屋の小僧に差額を持たせ取り替えにやらせた。小僧が戻ってみると、米もご新造も居なかった。店に戻った小僧は、ご主人にお金がないからダルマをよこしたんだ。ダルマには、おあしが無い。(その二・完)

 御家安と言われていた、元は御家人の小笠原安三郎は、次の悪事を思い立った。100両の元金がいるので、女房になったおかめに頼み込んだ。新宿の見世に3年契約で120両作り出した。
 下谷の青石横町におかまという芸者が居た。芸が出来て、女が良くて、物持ちがよく、着物からお金まで沢山持っていた。母親と女中の3人で暮らしていたが、ただ一つお金を無性に欲しがった強欲女で、お金のない客には鼻も引っかけなかった。着物、布団は勿論、現金で800両持っていた。
 暮れの雪が降る時期、この家の前で腹を押さえて苦しがっている旦那と番頭が居た。その200両はお屋敷に届けるように話しているのを聞いて、おかまの部屋の中に寝床を作り、旦那を休ませ、至れり尽くせりの看病をした。番頭がお屋敷まで行って帰ってくると、旦那は痛みが去って、女中に、母親に、おかまに金包みを渡した。その晩はお酒を頂いて寝込んだが夜中に起きるとおかまが枕元に居た。無礼をわびて同じ布団で朝を迎えた。
 旦那は御家安で、番頭は田地見であった。明日もう一度お礼に伺って、10両の金を置いた。おっ母さんに5両、女中に2両くれた。料理屋では他の客に聞かれるとまずいので、この家が気に入ったので会合に貸して欲しいと了解を取った。翌日、おかまとおっ母さんは早々にお芝居に、女中さんだけ置いて数人が集まり、軽くやって帰って行った。女中さんにも芝居に行くようにと、駕籠代も持たせ一幕見て来るように言いつけた。三人は大喜び。
 「ただいま~。旦那ぁ」と帰ってみたが、九つの箪笥が全て空っぽになり、金ダンスの錠前が破られ、中の800両は無く、立派な布団まで無くなっていた。   (その三・完)

 島野という武士が2人のところに訪ねてきた。「東城左近太夫氏勝という殿様はお前の妹が嫁いでいたよな。悪い人間ばかりが廻りを固め、ご乱行を止める者が居ない。若い田宮という忠義者が閉門中だが、殿様の兄さんが播州にいるので、御注進に旅立った。骨も有り、腕も立つので二人で追いかけて行って箱根辺りで討ち取って欲しい。その報酬に300両出すし、路銀として50両別に出すから、頼む」と言うことで、2人は1日遅れで後を追った。
 足が速いので、箱根でも見失い、その先で合流した。仲間の田地見は切られてしまい、自分も切られそうになったので、刀を投げ捨てその場から逃げ出して、山を下りて府中(静岡)の悪友の所で半年ほど遊んでから、江戸に向かった。
 神奈川の新羽屋で女房を寝取られた福蔵が仇討ちだと御家安を探していた。仲間の知らせで御家安が丸腰で駕籠に乗ったという。3挺の駕籠を仕立て追い抜いて鈴ヶ森のお仕置き場で待ち伏せた。駕籠を襲って滅多斬りにして海に放り込んだ。駕籠屋にも口止め料を払ってその場は済んだが、何処からか、この事実が漏れた。福蔵は役人に捕まり、仇討ちにはならないと、処刑されてしまった。
 東城左近太夫氏勝はお春の方の影響で暴君になっていた。春の花見の陣を下屋敷の中ノ郷に開いて、花見や鬼ごっこや相撲を取って楽しんでいたとき、鶴が舞い降りてきた。吉兆な鳥だと喜んでいたがお春の方が生け捕って庭で飼いたいと言い出した。鳥の羽だけ撃って落とせば生け捕ることが出来るという。氏勝が弓をつがえて撃とうとすると、鶴も危険を感じたものか飛び立ったので、放った矢は身体を射貫き殺してしまった。鶴を射落としたら町人では磔、大名でもお家没収。氏勝は切腹の上お家没収となってしまった。女は恐い。
 三遊亭圓朝の鶴殺疾刃庖刀の一席でした。     (完)

 


 

1.東城左近太夫氏勝(とうじょう さこんのだゆう うじかつ)
 10万石の大名 東城左近太夫氏勝とは弘化の初年より安政年間にいたり河内国に2万石の所領を授かっていた実在の大名であったが、末裔が生活しているので東城左近太夫氏勝と仮名にしている。(圓朝筆記より)

 御家安の小笠原安次郎と、妹の踊りの師匠東春江(あずま_はるえ)が中心になって噺が進みますが、人情話でもこんな悪党を主人公にしているというのは、後味が悪い噺です。春江の最後は語られませんが、男連中ともども最期は命を落としますが・・・。長講の話でテープから起こしていますので、固有名詞の漢字表記は間違っているかも知れません。ただ、圓朝が残した原本と志ん生の噺では違っていますから、その辺はご了承下さい。

 

2.舞台
大森(おおもり);最初の居候先の福蔵と出合った所。多摩川の渡しを渡り、鈴ヶ森の刑場の手前の町。大田区大森。

小揚(こあげ);福蔵の住まいで女房を寝取った所。浅草の国際通りと厩橋で渡す春日通り交差点、寿三丁目交差点付近。台東区蔵前四丁目北。

本所割り下水(ほんじょ_わりげすい);墨田区を東西に走っている割堀が2本。北側を北割り下水と言い、今の春日通りの本所2丁目から大横川、今は埋め立てられて、大横川親水河川公園までの割堀です。
  南側を南割り下水と言い、今の亀沢1丁目から大横川までがそうですが、どちらも大横川から東の横十間川まで繋がっていました。横十間川は今でも水をたたえていますが、両割り下水は既に埋め立てられて道になっています。既に言いましたが北割り下水は”春日通り”となっていますし、南割り下水はJRの北側、葛飾北斎が生まれた所なので”北斎通り”と呼ばれています。 落語「化け物使い」より

附木店(つけぎだな);寝取ったおかめを連れて居候をした所。俗称で本郷三丁目交差点北の菊坂を下った北側辺り。文京区本郷五丁目22辺り。
附木;右写真(江戸東京博物館蔵)。スギやヒノキの薄片の一端に硫黄を塗りつけたもの。火を他の物に移すのに用いた。いおうぎ。火付け木。その業者が多く住んでいたので、附木店と言った。

吉原(よしわら);現在台東区千束三・四丁目の内。新吉原と呼ばれ、江戸町、揚屋町、角町、京町、伏見町から出来ていた。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有ったのが、江戸の町の中心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転してきた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと、言われ<さんざめく>との形容が合っている』と、先代円楽は言っていた。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(実際は一月早い2月28日)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ吉原だが、今はソープランド中心の性産業のメッカです。

ごみ坂(ごみざか);文京区湯島二丁目6の嬬恋坂から南北に走る坂。立爪坂。芥坂。

青石横町(あおいし_よこちょう);金持ちのおかまという芸者が住んでいた。「そこんところにタタミ二畳くらいの大きな石があって、雨が降って泥がどんどん流れちまうと、下から青いその石があらわれてくる。明治の初め頃まであった」、と志ん生。台東区上野三丁目~上野五丁目、松坂屋の南角を入って昭和通りに抜ける道。

播州(ばんしゅう);播磨の国名。今の兵庫県の南西部。

神奈川の新羽屋(にっぱや);落語「御神酒徳利」で失せ物を探し出した旅籠。新羽屋旅籠は神奈川(横浜)宿の、本陣・石井のソバにありました。

鈴ヶ森(すずがもり);(品川区南大井2-5大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
 『寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された。検地では、間口四十間(74m)、奥行き九間(16.2m)であったという。
 大経寺境内には火あぶりや、磔(はりつけ)に使用したという土台石が残っている。
 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、白井権八(落語「鈴ヶ森」)、天一坊(落語「棒鱈」)、八百屋お七(落語「くしゃみ講釈」)、白木屋お駒(落語「髪結新三」、また「城木屋」)などは演劇などによって、よく知られている。

 江戸のお仕置き場(公開処刑場)は千住にある小塚原と、鈴ヶ森の2ヶ所に有った。落語「鈴ヶ森」に詳しい。

中ノ郷(なかのごう);本所区と言われた北側辺りに有った地名。現墨田区北十間川の南部地域。

 

3.言葉
御家人(ごけにん);江戸幕府将軍直参の武士のうち、将軍にお目見する資格のないもの。御家人。
御家人株
;江戸時代、御家人がその家格を農民・商人などに売った場合(表面上は養子縁組の形式)の家格。

亀の甲煎餅(かめのこうせんべい);神奈川宿(今の横浜)の名物煎餅。私が落語「宿屋の仇討ち」で歩いたときには既に店は無かった。



青木橋の手前宮前商店街を少し進むと左手に「浦志満」という老舗らしい佇まいの菓子店がある。昔から神奈川宿の名物とされてきた「亀の甲せんべい」を今も販売している店だ。「亀の甲せんべい」は浦島伝説にあやかって亀の甲羅の形状にしたお菓子で、1717年(享保2年)に「若菜屋」が売り出したものだという。街道を行き交う旅人が買い求めたのはもちろん、参勤交代の諸大名の御用達にもなったものであるらしい。「若菜屋」は1989年(平成元年)に閉店、「浦志満」がその後を受けて「亀の甲せんべい」の味を引き継いでいるのだという。


「浦志満」に立ち寄り、「亀の甲せんべい」と「神奈川せんべい」を買い求めた。「神奈川せんべい」は表面に安藤広重が「東海道五十三次」の中で描いた「神奈川宿」の絵柄をあしらったものだ。応対してくださった女性は「手伝わせて頂いている」とおっしゃっていたので「浦志満」の方ではないようだったが、「この土地に生まれ育って七十年(ご自身の談)」ということで、いろいろと面白い話も聞かせて頂いた。昔は街道沿いに並ぶ家々のすべてに井戸があったそうで、それらのほとんどは関東大震災で埋まるなどして今は無くなってしまったという。また「滝の橋」のことを「かねのはし」と呼んでおられたのも印象に残る。

店構えの写真を撮らせて頂いてもいいだろうかと訊ねると、奥で作業中のご主人にわざわざ確かめてくださった。「亀の甲せんべい」はぱりぱりとした食感とほのかな甘さの素朴なお菓子で、その素朴さが長い伝統を感じさせてくれるようでもある。昔気質のご主人はあまり宣伝をなさらないそうだが、最近は雑誌などの取材を受けられることも少なくないという。神奈川宿の面影を訪ねての散策の際には買い求めてみるとよいだろう。
追記 2011年春に宮前商店街を訪ねたとき、菓子店「浦志満」の姿がなかった。どうやら2005年(平成17年)に閉店してしまったらしい。「亀の甲せんべい」もついに途絶えてしまった。残念である。

「横浜市神奈川区 神奈川宿歴史の道」  http://www.natsuzora.com/may/town/kanagawa-aoki.html より

■搗米屋(つきごめや);店を構え臼をしつらえ、玄米を臼で挽いて、その精白した米を売る、お米屋さん。落語「搗屋無間」に詳しい。

■疱瘡(ほうそう);天然痘の俗称。または、種痘およびその痕のこと。いもがさ。もがさ。

通し駕籠(とおしかご);目的地まで同じ駕籠を雇いづめにして、継ぎ替えずに乗り通すこと。また,その駕籠。立て駕籠。通し。11日で江戸に下るのは早い、通常は約2週間かかる道程です。

100両(100りょう);ここではお金の話が出てきますので、現在と比べます。1両を8万円とすると、100両は800万円。この金は青石横町のおかまという芸者を騙すための元金。取った金が800両=6400万円。寝取ったおかめを新宿に売った金額が3年契約で40両X3年=120両=960万円。身請けせず、この金も懐に。1両の米代なんて端金。殿様から受け取った手切れ金が200両=1600万円。1千両以上の実入りがあったのに、ピイピイ貧乏暮らし。働かず、飲む打つ買うの、なんて金のかかることか。

■鶴(つる);江戸時代にツルの類はそれほど珍しくなく、江戸でも目に触れることができたようです。江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた。 タンチョウは毎年10月から3月にかけて見られたという。幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた。 給餌の際はささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという。 近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという。 こうした“鶴御飼附場”では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた。とらえられたツルは、昼夜兼行で京都の朝廷へ送った。街道筋ではこれを「御鶴様のお通り」といった。このツルの肉は新年三が日の朝供御の吸物になった。もう1羽は将軍に差し出され、同じく鶴の吸い物として供された。しかし、丹頂の肉は、かたくてあまり美味しく無かったと言われる。
 江戸幕府が滅び、この制度もなくなると、誰でもが鶴を捕獲する時代が到来し、20年で丹頂鶴は壊滅的打撃を受けたと伝えられている。
 上図;広重は『名所江戸百景』「蓑輪金杉三河島」の中で江戸に飛来していたタンチョウを描いている。




 舞台の御家安が動き回った所を歩く

 

 御家安が妹と別れ江戸に舞い戻って、大森の小料理屋さんで悪友の福蔵と出会います。
 福蔵の家に押しかけ居候に入ります。居候は何時の時でも押しかけですが・・・。その家が小揚(こあげ)です。小揚は浅草の南、隅田川に架かる厩橋(うまやばし)を渡す、春日通りの寿三丁目交差点西南側の地です。落語「蔵前駕籠」で訪ねた榧寺(かやでら)の前の道で、その地下には都営大江戸線が走り、蔵前駅が有ります。そこから100m程西に見える交差点が寿三丁目。街の中は住宅と中小企業が雑多に入り交じり、碁盤の目のように整備された町を形ち作っています。ここから御家安も逃げてしまったので、逃げた先の本所割り下水に行きます。

 

 「小揚町」の江戸と現在の地図です。大きな地図は下記の地図の中にあります(以下同じ)

 厩(うまや)橋を渡って、現在は行けますが、江戸時代は橋が有りませんから、”厩の渡し”で対岸に渡ります。そこから東に下水が走っていて、そこを北割り下水と当時は言いましたが、現在は暗渠になって春日通りと名を変えて車の流れがある幹線通りです。
 ここから南に現在風に言えば、蔵前橋通りを横切り、関東大震災で公園ごと火に包まれ数万人が焼け死んだ被服廠跡の横網(よこあみ)公園です。慰霊堂が建ち、無料で入れる記念資料館が当時の資料を展示しています。その南には青物市場跡に出来た江戸東京博物館が有ります。はい、よく利用させていただいております。その正面に東から来た道が突き当たっています。その道を北斎通りと言い葛飾北斎が生まれ、引っ越ししながらこの地に住んでいたので、その名が付いています。この道が南割り下水で、割り下水と単に言ったときはここを指します。現在は200m位先に”緑公園”が有って、その一画に北斎記念館が建つと言われています。ここには悪友が既に引っ越して居ないというので、女房になった”おかめ”を連れて、本郷・附木店(つけぎだな)に向かいます。

 

 「本郷・附木店」の江戸と現在の地図です。江戸図は右が北。

 地下鉄大江戸線の両国駅から本郷三丁目駅まで行きます。この交差点を出ると有名な、「本郷もかねやすまでが江戸の内」で有名なかねやすが有ります。交番のある北側に渡りその裏にある”本郷薬師”(本郷四丁目2)を見ます。戦前は大きな敷地を持った真光寺の境内にあった御堂ですが、本体が世田谷に移転したためにここに取り残されてしまいました。四代将軍家綱(1663)の頃マラリヤが大流行して江戸中大変なことになっていました。その時、この薬師様のお告げによると「草藪を焼き払い、ドブさらいをして綺麗な水が流れるようにして、街中の用水桶の水を取り替え、薬師様をお迎えするのに線香をどんどん焚きなさい」。すなわち、ヤブ蚊を退治したことで流行病は収束に向かい、その後お薬師さまの御利益に感謝し、末永く護られてきました。現在でも都心の公園では蚊に刺されて、デング熱が広がっています。それもヤブ蚊のヒトスジシマカを退治しないと収まりませんね。
 チョット寄り道をしてしまいました。その先の”菊坂”に行きます。この本郷通りが入口で、ここから緩い下り道が続きます。この道筋には有名人の”宮沢賢治”、”樋口一葉”、”夏目漱石”、”石川啄木”、”徳田秋声”、”金田一京助”などの蒼々たる人達が住んでいました。又利用したという質屋さんや理容店があり、一葉の告別式には伊勢屋質店のご主人が参列していたと言います。
 話戻して、200m位菊坂を下った右側にあるミニスーパー・シナノヤさんが有ります。ここのご主人が作った近隣の地図をわけてくれます。主人曰く、「昭和の中頃まで、そこに附木屋さんが1軒残っていたが、今は民家になってしまった。その民家に聞いても分からないでしょう」といいます。丁度このスーパーの裏側に当たります。裏側に行くと金魚屋さんが有って、子供達が金魚釣りをしています。その界隈が附木店と呼ばれ、最期まで残った附木屋さんもそこに有ったのでしょう。表通りの本郷通りに出ると、その角にミヤタ花屋さんが有ります(右写真、クリックすると大きくなります)。写真の路地を入って、最初の路地の右側です。
 この附木店にくすぶる悪友達は米屋を騙しにごみ坂に向かいます。

 

 「ごみ坂」の江戸と現在の地図です。江戸図は右が北。

 ごみ坂、又の名を芥坂(あくたざか)、立爪坂とも言います。上記本郷三丁目から本郷通りを南に道なりに下ります。5~600mも進むとYの字になって左側の蔵前橋通りを進み清水坂下交差点に出ます。左に曲がると清水坂で、今までずっと緩い下り坂だったのが、急な上り坂になります。最初の角を右に入ると、そこは”妻恋坂”です。下り坂になっていますが、直ぐ左の石垣の上に、坂の名前になった妻恋神社が有ります。
 妻恋神社(文京区湯島三丁目2。右写真)は日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、三浦半島から房総に渡るとき、暴風に遭い妃の弟橘媛命(おとたちばなのひめ)が海に身を投げて海神を鎮め、一行を救った。帰途、一行が湯島に滞在した折、郷民は尊が姫を慕われる心を哀れんで、姫と尊を祀ったのが始まりという。
 妻恋神社の先、入口が階段になった上り坂が現れます。短い坂ですが、登り切るところに又階段があります。上がり切った所には、直角に左の曲がる道があるだけです。曲がらないと崖になっていて、フェンスで囲まれています。坂の途中は静かな落ち着いた雰囲気がある、民家が並んでいて、引っ越しや急病人が出たときには、車が入れませんのでどうするのでしょう。
 この近辺は、住宅や、病院、マンション、中小企業の事務所が並んでいて、お米屋なんて何処にも有りません。

 

 「青石横町」の明治8年東京区分絵図と現在の地図です。地図中のブルーの路地が青石横町。

 御徒町駅前の松坂屋デパートの南側を入る横町が青石横町と呼ばれていました。松坂屋側が御成街道、この横町が終わるのが和泉橋に至る道で、現在は昭和通りと呼ばれています。当時はJRの高架もありませんから障害物無しに昭和通りまで抜けられたでしょう。現在、JR高架までの西半分は松坂屋や新築なった吉池が並んでいて、おすましの買い物の雰囲気があります。JR高架を過ぎると、貴金属やダイアモンドの宝飾品、輸入高級時計屋さんが並び、それらの買い取り店もあり、ブルーの石を売る店も有ります。その上、ラーメン屋や回転寿司、韓国料理、中華料理、喫茶、一杯飲み屋等が並んだ、高額商品から胃袋満腹商売まで雑多です。そこが御徒町のおもしろさで有り、魅力と力強さなのでしょう。

 

地図



  本郷の地図をクリックすると、それぞれの地図になります。 

 

写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

小揚(台東区蔵前四丁目北)
 春日通りの寿三丁目交差点先の左側。通りの前方には御徒町駅が見える。

本所割り下水(墨田区・北斎通り。総武線の北側を走る道)
 江戸東京博物館を背中に、北斎通りを眺めています。割り下水には三遊亭圓朝、葛飾北斎、河竹黙阿弥が住んでいた。

附木店(文京区本郷五丁目22辺り)
 本郷通りの花屋さんから入って行って、最初の路地から右側が附木店と言われた地で、写真のこの角に最期の1軒が残っていた。坂を上がった路地は突き当たり、道の反対側には金魚屋さんが有り、その脇の細い道を下ると菊坂に出ます。

ごみ坂(文京区湯島二丁目6)
 嬬恋坂から南北に走る坂。下から見上げる坂。

ごみ坂(同)
 上から見下ろす坂。

青石横町(台東区上野三丁目~上野五丁目)
 松坂屋の南角を入って昭和通りに抜ける道。 写真は中央通りから左に松坂屋を見ながら入った路地。正面にJR御徒町駅が見えます。

青石横町(同)
 写真は中央通りから左に松坂屋を見ながら入り、JRのガードをくぐった先の路地。高級輸入時計屋や貴金属店が並び、上記の雰囲気とはがらりと変わります。
 

中ノ郷(墨田区十間川の南の広域地帯)
 写真は隅田川越しに、左側のアサヒビールや東京スカイツリーを見回した地域を中の郷と言った。江戸時代は畑が連なり、下屋敷で鶴が見られた。 

                                                           2014年11月記

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