落語「御家安とその妹」の舞台を歩く
古今亭志ん生の噺、「御家安とその妹」(ごけやすとそのいもうと)
1.東城左近太夫氏勝(とうじょう さこんのだゆう うじかつ)
御家安の小笠原安次郎と、妹の踊りの師匠東春江(あずま_はるえ)が中心になって噺が進みますが、人情話でもこんな悪党を主人公にしているというのは、後味が悪い噺です。春江の最後は語られませんが、男連中ともども最期は命を落としますが・・・。長講の話でテープから起こしていますので、固有名詞の漢字表記は間違っているかも知れません。ただ、圓朝が残した原本と志ん生の噺では違っていますから、その辺はご了承下さい。
2.舞台
■小揚(こあげ);福蔵の住まいで女房を寝取った所。浅草の国際通りと厩橋で渡す春日通り交差点、寿三丁目交差点付近。台東区蔵前四丁目北。
■本所割り下水(ほんじょ_わりげすい);墨田区を東西に走っている割堀が2本。北側を北割り下水と言い、今の春日通りの本所2丁目から大横川、今は埋め立てられて、大横川親水河川公園までの割堀です。
■附木店(つけぎだな);寝取ったおかめを連れて居候をした所。俗称で本郷三丁目交差点北の菊坂を下った北側辺り。文京区本郷五丁目22辺り。
■吉原(よしわら);現在台東区千束三・四丁目の内。新吉原と呼ばれ、江戸町、揚屋町、角町、京町、伏見町から出来ていた。古くは元和元年(1617)日本橋近くの葭原(葭町=よしちょう)に有ったのが、江戸の町の中心になってしまったので、明暦3年(1657)明暦の大火直前に、この地に移転してきた。『どの町よりか煌びやかで、陰気さは微塵もなく、明るく別天地であったと、言われ<さんざめく>との形容が合っている』と、先代円楽は言っていた。私の子供の頃、300年続いた歴史も、昭和33年3月31日(実際は一月早い2月28日)に消滅した。江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだ吉原だが、今はソープランド中心の性産業のメッカです。
■ごみ坂(ごみざか);文京区湯島二丁目6の嬬恋坂から南北に走る坂。立爪坂。芥坂。
■青石横町(あおいし_よこちょう);金持ちのおかまという芸者が住んでいた。「そこんところにタタミ二畳くらいの大きな石があって、雨が降って泥がどんどん流れちまうと、下から青いその石があらわれてくる。明治の初め頃まであった」、と志ん生。台東区上野三丁目~上野五丁目、松坂屋の南角を入って昭和通りに抜ける道。
■播州(ばんしゅう);播磨の国名。今の兵庫県の南西部。
■神奈川の新羽屋(にっぱや);落語「御神酒徳利」で失せ物を探し出した旅籠。新羽屋旅籠は神奈川(横浜)宿の、本陣・石井のソバにありました。
■鈴ヶ森(すずがもり);(品川区南大井2-5大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
■中ノ郷(なかのごう);本所区と言われた北側辺りに有った地名。現墨田区北十間川の南部地域。
3.言葉
■亀の甲煎餅(かめのこうせんべい);神奈川宿(今の横浜)の名物煎餅。私が落語「宿屋の仇討ち」で歩いたときには既に店は無かった。
「横浜市神奈川区
神奈川宿歴史の道」 http://www.natsuzora.com/may/town/kanagawa-aoki.html より
■搗米屋(つきごめや);店を構え臼をしつらえ、玄米を臼で挽いて、その精白した米を売る、お米屋さん。落語「搗屋無間」に詳しい。
■疱瘡(ほうそう);天然痘の俗称。または、種痘およびその痕のこと。いもがさ。もがさ。
■通し駕籠(とおしかご);目的地まで同じ駕籠を雇いづめにして、継ぎ替えずに乗り通すこと。また,その駕籠。立て駕籠。通し。11日で江戸に下るのは早い、通常は約2週間かかる道程です。
■100両(100りょう);ここではお金の話が出てきますので、現在と比べます。1両を8万円とすると、100両は800万円。この金は青石横町のおかまという芸者を騙すための元金。取った金が800両=6400万円。寝取ったおかめを新宿に売った金額が3年契約で40両X3年=120両=960万円。身請けせず、この金も懐に。1両の米代なんて端金。殿様から受け取った手切れ金が200両=1600万円。1千両以上の実入りがあったのに、ピイピイ貧乏暮らし。働かず、飲む打つ買うの、なんて金のかかることか。
■鶴(つる);江戸時代にツルの類はそれほど珍しくなく、江戸でも目に触れることができたようです。江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた。 タンチョウは毎年10月から3月にかけて見られたという。幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた。 給餌の際はささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという。 近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという。
こうした“鶴御飼附場”では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた。とらえられたツルは、昼夜兼行で京都の朝廷へ送った。街道筋ではこれを「御鶴様のお通り」といった。このツルの肉は新年三が日の朝供御の吸物になった。もう1羽は将軍に差し出され、同じく鶴の吸い物として供された。しかし、丹頂の肉は、かたくてあまり美味しく無かったと言われる。
御家安が妹と別れ江戸に舞い戻って、大森の小料理屋さんで悪友の福蔵と出会います。
「小揚町」の江戸と現在の地図です。大きな地図は下記の地図の中にあります(以下同じ)
厩(うまや)橋を渡って、現在は行けますが、江戸時代は橋が有りませんから、”厩の渡し”で対岸に渡ります。そこから東に下水が走っていて、そこを北割り下水と当時は言いましたが、現在は暗渠になって春日通りと名を変えて車の流れがある幹線通りです。
「本郷・附木店」の江戸と現在の地図です。江戸図は右が北。
地下鉄大江戸線の両国駅から本郷三丁目駅まで行きます。この交差点を出ると有名な、「本郷もかねやすまでが江戸の内」で有名なかねやすが有ります。交番のある北側に渡りその裏にある”本郷薬師”(本郷四丁目2)を見ます。戦前は大きな敷地を持った真光寺の境内にあった御堂ですが、本体が世田谷に移転したためにここに取り残されてしまいました。四代将軍家綱(1663)の頃マラリヤが大流行して江戸中大変なことになっていました。その時、この薬師様のお告げによると「草藪を焼き払い、ドブさらいをして綺麗な水が流れるようにして、街中の用水桶の水を取り替え、薬師様をお迎えするのに線香をどんどん焚きなさい」。すなわち、ヤブ蚊を退治したことで流行病は収束に向かい、その後お薬師さまの御利益に感謝し、末永く護られてきました。現在でも都心の公園では蚊に刺されて、デング熱が広がっています。それもヤブ蚊のヒトスジシマカを退治しないと収まりませんね。
「ごみ坂」の江戸と現在の地図です。江戸図は右が北。
ごみ坂、又の名を芥坂(あくたざか)、立爪坂とも言います。上記本郷三丁目から本郷通りを南に道なりに下ります。5~600mも進むとYの字になって左側の蔵前橋通りを進み清水坂下交差点に出ます。左に曲がると清水坂で、今までずっと緩い下り坂だったのが、急な上り坂になります。最初の角を右に入ると、そこは”妻恋坂”です。下り坂になっていますが、直ぐ左の石垣の上に、坂の名前になった妻恋神社が有ります。
「青石横町」の明治8年東京区分絵図と現在の地図です。地図中のブルーの路地が青石横町。
御徒町駅前の松坂屋デパートの南側を入る横町が青石横町と呼ばれていました。松坂屋側が御成街道、この横町が終わるのが和泉橋に至る道で、現在は昭和通りと呼ばれています。当時はJRの高架もありませんから障害物無しに昭和通りまで抜けられたでしょう。現在、JR高架までの西半分は松坂屋や新築なった吉池が並んでいて、おすましの買い物の雰囲気があります。JR高架を過ぎると、貴金属やダイアモンドの宝飾品、輸入高級時計屋さんが並び、それらの買い取り店もあり、ブルーの石を売る店も有ります。その上、ラーメン屋や回転寿司、韓国料理、中華料理、喫茶、一杯飲み屋等が並んだ、高額商品から胃袋満腹商売まで雑多です。そこが御徒町のおもしろさで有り、魅力と力強さなのでしょう。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
2014年11月記 |
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||