落語「穴釣り三次」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「穴釣り三次」(あなづりさんじ)によると。

 

 上野・不忍池は夜、寂しいところであった。そこから流れ出た所に小さな滝が有りどんどんと呼ばれていた。その流れが忍川となって、下谷に入り、下流には下谷の三味線堀があり、その先に三筋町が有った。
 三筋町には紙問屋「甲州屋」があり、ここの主人が亡くなった後、奥様が店を支えていた。一人娘のお梅さんがいたが、歳が十七で、実にイイ女であった。この店に子飼いから面倒を見ている十九になる、頭も切れるが、これも惚れ惚れするようなイイ男で手代の粂之助(くめのすけ)がいた。二人は人目を忍んで逢うような仲になっていた。
 母親が気づいたときには、手遅れであった。鳥越の頭(かしら)に話しをしてもらうことにし、粂之助を頭の自宅に行かし話をしてもらった。番頭は話が分からないから、このままだと店がもめて、暖簾に傷が付くので、ほとぼりが冷めるまで実の兄・玄道が住職をしている谷中の龍泉寺に預けることにした。お袋さんは話が分かる人で、時期を見てどこかの養子にしてお梅の婿に迎えようという。その為には寺を飛び出したり、勝手な振る舞いはしないように言いつけられた。

 ヒマが出てみんなに挨拶して店を出たが、お梅だけには周りの目があって経緯も挨拶も出来なかった。娘のお梅は粂之助から返事が無かったので、逢いたさ一途に50両の金を持ち出し四つ時分(夜10時頃)、三筋町の店を抜け出し、上野山下からどんどんに差しかかった。真っ暗闇の中、谷中の龍泉寺を探したが分からなかった。どんどんの暗い中に出ていた屋台のおでん屋を見つけ、聞くと分からないという。髪も乱れ、着物も汚れているが、誰が見てもいい所のお嬢様という姿。店の片隅にいた職人姿の男が声を掛けた。時々抜け出して穴釣りをしているので、穴釣り三次というあだ名の目付きの鋭い男。粂之助と一緒に寺で門番をしているとの触れ込みで、お梅を信用させ、三次の後について行ったお梅。弁天島の脇から穴の稲荷の下まで来ると、豆絞りの手ぬぐいをキューッと絞り、お梅の後ろへ回る。
 さて、いかがありなりますか、引き続き申し上げます。(上完) 

 翌日昼頃、お寺で掃除をしている粂之助に若い男が訪ねてきた。住職が留守なもので本堂に上げて用件を聞くと、
 夜、男の家に訪ねてきたお梅さんは粂之助の間に立って欲しいと願ったが、乳母で曲がったことが嫌いな母親は家に帰れとつれないが、夜も深いので朝まで家で預かり帰した。お梅さんの所に養子が来ることになった。それが嫌さで飛び出してきた。どんなことがあっても粂之助と一緒になりたいとお嬢さんが言う。粂之助も同じ考えだった。三次は続けて言う。上州高崎に親切な知り合いが居るので、そこに二人で行って暮らすとイイ。それには旅費や当座の資金や店を出す金が要る。どのくらい用意が出来ますか。本堂修繕の費用として集まっている80両という金が有るのを聞き出し、金を持って出てくるように進言。我が家に来てお嬢さんと一緒に高崎に行く手はずを整えましょう。
 根津七軒町の植木屋九兵衞(くへえ)という者だから直ぐ分かるという。
若い男が帰って行った後に、お嬢さんの持っていた巾着が残っていた。そこには3両入っていて、これに80両の金を入れて持って来いという事だと合点し、兄が仕舞っておいた修繕預かり金80両を懐にしまい出ようとしたとき、兄が帰ってきて、用事が出来てなかなか寺を出ることが出来なかった。

 その頃、甲州屋では、お嬢さんが不忍池で死体となって見付かった。店は大騒動。役人は殺して金を取って池に投げ込んだ、と言う。
 番頭は粂之助が殺して金を盗んだと言い張る。頭は粂之助を迎えに行った。寺の門を出る所で粂之助と出合った。初めてお嬢さんが殺されたことを知らされ、その上に自分が犯人だという。店に戻って釈明しなければならない。兄も同道することになった。
 番頭に犯人の嫌疑を掛けられ、番頭に組み付いていくとお嬢さんの巾着を落とし、なおさら犯人扱いに。中を調べると50両では無く80両が出てきた。嫌疑は晴れたが、兄に追求され80両は寺の金で兄にも迷惑が掛かる。
 静かな離れを借りて兄弟二人で話をすると、我が家族は、元は武士だったが、長男である自分は僧侶となり、次男が行方不明、末の粂之助がしっかりしなければならない。なのに女に狂って寺の大事な金を持ち出すとは・・・。次男の三次郎は手癖が悪く父親に勘当され行方知れずになっている。兄弟二人がしかりしなければならない。
 黙って聞いていた粂之助だったが、脇差しを抜いて自害しようとするところに、障子が開いて男が入ってきた。「粂、死ななくてイイのだ」。その男は、朝、訪ねてきた高飛びを勧めた植木屋であった。「植木屋とはヨタだ。お嬢さんを殺めたのは俺で、金も取った。兄さん、老けたね」、「お前は誰だ」、「お前さんと兄弟の、次男三次郎だ。まだ粂からユスレると思って甲州屋の裏手に回ったらこの話しが聞こえて、飛び込んだと言うことだ。嫁になる女を殺し、実の弟を殺すところだった。店の者を呼んで奉行所に突きだしてくれ」。三次は全てを告白し、死罪になって当然と奉行所に名乗って出る。

 さて、三次は死罪を許され三宅島送りとなった。数年後、戻ってからは兄の元で仏道修行に励み、立派な住職になる。粂之助は甲州屋の養子となり、後を継ぎ、古着屋の紺田屋の娘をもらい夫婦して母親に孝行した。 (完)

 


 
 春陽堂版「圓朝全集」の編纂に当たった鈴木行三氏によれば、「これは圓朝がもと「穴釣三次」といって高座で演じていた話を、圓朝の没後弟子の誰かが口演したか、或いは何人かが書いたかして圓朝の名で公にしたものと思われます。「闇夜の梅」という題もその時に付けたものでありましょう。圓朝の作にあるという「忍ヶ岡恋の釣穴」というのは、この「穴釣三次」の事であろうとの事であります」と言う。(小林繁雄)
 この噺、上下二部構成で進んでいきます。約1時間の長講です。

 

1.谷中の龍泉寺(台東区谷中五丁目9)
 下総国真間弘法寺末寺 谷中不唱小名 長光山龍泉寺 境内拝領地953坪。
 起立元和7年ニ御座候。宝永6年迄89年之間、下谷辺に罷在。同年当所へ引越申候。但旧地名所相知不申候。 開山禅智院日感上人、寛永6年3月8日入寂。
 本堂間口6間奥行4間4尺、向拝2間2.9尺。本尊宗法之通、諸尊安置。 以上丙戊書上。 往古道泉坊と申塔頭有之候処、当時廃し申候。 旧地ハ下谷坂本本辺のよし。龍泉寺村、龍泉寺町の名ハ、当寺の所在によりて起こりしにやと云。(御府内寺社備考より)

上野広小路(うえのひろこうじ);上野寛永寺南前に突き当たる、御成街道には火除けのために、街道を広く取っていた地。下谷広小路とも。江戸三大繁華街、両国広小路、浅草広小路、と並ぶ広小路の一つ。

池之端(いけのはた);寛永寺の池で、不忍池の南端の町。江戸時代ここを通って湯島天神から本郷に抜ける幹線で有り繁華街。

不忍池(しのばずのいけ);中央に弁天島があり、夜は暗くて歩けなかった。池の東側、上野山内の登り口に花園神社、別名穴の稲荷があります。落語「心中時雨傘」の舞台でもあります。

どんどん;不忍池の南側に池の水が溢れて滝のようになっていて、そこを俗に”どんどん”と言った。三橋の側にあった不忍池の水の落口。

 「忍川は根津の方から来て池の周りを回り、揚出し(料理屋)の横に三尺幅の板が渡してあり、それをドンドンと言ってました。歩くとそんな音がしたからでしょうか。大水になると、根津には金魚屋が多く有り、その金魚が流されてくるので、四つ手網ですくったもんです」。 古老がつづる台東区の明治大正より

 洋画家の小絲源太郎はこのように書き残しています。
 「揚出しの下に、俗にどんどんといった三尺ほどの高さから滝形になって落ちていた。元来川と言うほどで無いのだが、大雨でも降ると驚くほどに水量が増す。そうなると、鯉や鰻が流れ出す。それを捕る群衆が、その川いっぱいになって大騒ぎをする。大水で流されてくる鰻が、石垣の間に住み着いてしまうらしい。鰻とりは傘の骨ほどの竹の先へ鉤を付けた釣り竿を、穴に差し込んでは釣り出す。一晩やっていると明け方には、魚籠いっぱいに鰻を持って帰った」。
*揚出し;どんどんの石垣の上にあった料理屋で、朝早く上野駅に着く旅客は、蒸気機関車の時代ですから、ここで風呂に入り、ススや汚れを流し身綺麗になって軽い食事をした。また、火葬場帰りの団体はここで精進落としをして帰って行った。このどんどんの上(かみ)に龍門橋が架かっていた(写真「龍門橋」跡の碑)。

忍川(しのぶがわ)の流れ;どんどんから流れ出た川は、忍ヶ丘(上野の山)下を廻って、広小路を三橋で渡し、佐竹が原(佐竹右京大夫屋敷)を通って、三味線堀に入った。

三味線堀(しゃみせんぼり);三味線の形をしていた、南北に長い堀。現在の台東区小島一丁目5〜6辺り。

三筋町(みすじまち);三味線堀の東隣には下谷三筋町があった。現在の台東区三筋二丁目の内。落語ではあの綺麗なお嬢さんが居た、紙問屋「甲州屋」があった。
 北側には落語「富久」で有名な火事見舞いに行く、太鼓持ち久蔵さんが住んでいた阿部川町の貧乏長屋があります。現在の元浅草三.四丁目約東側半分。

■根津七軒町(ねずしちけんちょう);その様な名前の町名は江戸にはない。七軒町と言えば下谷七軒町で、三味線堀の西側を走る道に面した町。原文だと千駄木と言っている。千駄木は不忍池の北側、根津神社の北側の町。ここに近いところと言えば池之端七軒町。現在の不忍池西北の地で根津神社の南側。落語「阿武松」で、根津七軒町の親方、錣(しころ)山喜平次の部屋があり、阿武松が改めて入門した所。

生駒(いこま);三味線の弦に対して駒が有った。駒とは台東二丁目と三丁目に掛かる生駒主殿屋敷の事。

鳥越(とりごえ);三筋町の南にある町で、鳥越神社があるので有名。ここに鳶の頭が住んでいた。

上州高崎(じょうしゅう_たかさき);上野国の別称=今の群馬県の高崎市。群馬県南部で、中山道から三国街道が分岐する古くからの交通の要地。

 

2.結婚事情
 江戸の武士は大名から足軽まで、結婚は全て許可制であった。武家諸法度には「私に婚姻を結ぶべからず」。勝手に婚姻を結ぶと幕府に敵対の勢力を認めることにもなり、また、朝廷にも近づかせなかった。婚姻は同クラスの者同士が一緒になり、旗本は旗本どうし、御家人は御家人どうし結婚した。その為、五千石の旗本が70俵の娘を貰うことは無く、百姓や町人の娘を貰うことも無かった。側室として女房以外の女性を置くのは構わなかった。
 これとは変わって、庶民は身軽であって、武士のような拘束は無かった。好きな者同士、気の合った者同士が一緒になることは構わなかったし、長屋の熊さん、八つぁんは一晩、同衾して夫婦になった。大店では当然お見合いや許嫁(いいなづけ)で一緒になる者も居た。長屋でも大家の紹介で結婚が決まったり、お仲人などが良い相手を連れてくることもあった。この噺のように、主人の娘などに手を付けるのは御法度だったのは当たり前であった。

ここに面白い噺がある、
三人の娘が話し合っています。
 「お花ちゃん、貴女の家は良いわね、お菓子屋さんでしょう。何でも好きな甘い物が食べられるじゃない」、「だめなのよ。お母さんが言うの。商売ものに手を付けてはいけないって」。
 「おミツちゃん、貴女の家の方が良いわヨ、着物屋さんでしょう。好きなものを何でも着られるじゃない」、「だめなのよ。お母さんが言うの。商売ものに手を付けてはいけないって」。
  「おカヨちゃん、貴女の家だって良いわよね〜、お湯屋さんでしょう。いつも男の人を見られるじゃない」、「だめなのよ。お母さんが言うの。商売ものに手を付けてはいけないって」。

そうなんです。商売物や主人のモノには、手を付けては絶対イケマセン。

 

3.言葉
穴釣り(あなずり);魚のひそんでいる穴などへ釣糸に付けた餌を差し込んで釣ること。ウナギ釣りなどに用いる。上記どんどんを参照。

手代(てだい);番頭の代理をなす者。江戸時代の商家では番頭と小僧との中間に位する身分であった。

(かしら);一群の人の長。特に、鳶゙職・左官などの親方。大工の長は棟梁(とうりょう。江戸弁でとうりゅう)という。

50両(50りょう);1両を8万円として、約400万円。寺の修理費用として80両は、約640〜50万円。

巾着(きんちゃく);布・革などでつくり、口をひもでくくり、中に金銭などを入れて携帯する袋。右写真

奉行所(ぶぎょうしょ);江戸幕府では旗本から登用し、老中の支配下に置き、行政・司法・警察等をつかさどり、特に町政を管轄し訴訟を吟味し裁決をした。単に町奉行といえば江戸町奉行を指す。江戸には北と南町奉行所が有り、1ヶ月おきに交互に門を開き活動した。

 


 

 舞台の下谷を歩く

 

 志ん生も噺のマクラで言っているように、この噺の下谷を中心に歩きます。ところで下谷って何処なの。
下谷とは、東京都台東区のおよそ西半分の範囲。 概ね東京旧市内で、高台に比べ低地を多く占める旧区分を下町としている。そのため旧下谷区に属する下谷地域は下町にあたる。 浅草区との合併後も住居表示導入以前は「下谷○○町」と旧下谷区内大半の町が下谷を冠称していた。今はその下谷の表示も無くなった。

 お梅さんが夜中に店を抜け出した道順を現代に直して歩きましょう。その前に粂之助が店から南の隣町、鳥越神社のある鳥越に住む、頭(かしら)の家に行きます。職人や中小企業や住宅が混在した町で、三筋二丁目も鳥越も特徴の有る町ではありませんので、どうのこうのと説明する街並みもありません。極普通の東京下町にある街の顔をしています。その普通の町に普通の頭が住んでいたことになり、普通の話しの中から粂之助は納得して店に戻ってきます。その日の内に谷中の龍泉寺に向かいます。

 話戻って、お梅さんが家出した道は、大まかには街の北側を東西に走る春日通りを御徒町方向に西に向かって歩きます。その隣町は小島町で、その西側に有った三味線堀を左手に見ながら、と言っても夜中には何も見えなかったでしょう。その先は江戸時代佐竹屋敷が有って、これも塀伝いに真っ暗な中を、粂之助に逢いたさに必死で歩いたのでしょう。今は春日通りの下には、地下鉄都営大江戸線の新御徒町駅が有って、その南には佐竹商店街が南に走る、入口があります。遅くになって、ちっとも寂しいことはありません。目の先には昭和通りが交差し、その上には首都高速道路が走っています。当時は武家屋敷や御徒衆の屋敷が建ち並んで、夜道は真っ暗で寂しい所だったはずですが、今はJR御徒町駅周辺の繁華街とアメ横の商店街があって上野駅に掛けては人通りが切れません。ガードをくぐると左には江戸時代から有った、松坂屋があって、この交差点は上野広小路と言います。賑やかさは落語「吉原綺談」をご覧下さい。今でこそ終電まで町中活気が溢れていますが、当時は真っ暗な御成街道(中央通り)を右に曲がって、上野山下の前に架かる三橋を左に曲がり、どんどんから右に曲がって不忍池湖畔に入って行きます。
 どんどんがあった前の道は不忍通りと言いますが、その道を渡った所に鰻屋の老舗、伊豆栄が有ります。どんどんで捕れた鰻をさばいて調理したのが始まりでしょうか?

 そう、ここまで来たお梅さんは、ホコリにまみれて、島田に結った髪も崩れ、疲れ切っていますが、心は粂之助に逢えるという気持ちでイッパイです。やはり深窓育ちのお嬢さんですから、谷中の龍泉寺までの道順は分かりません。そこに出ていた屋台のおでん屋で道を尋ねたのですが、けんもほろろに分からないと言います。店の隅にいた、悪の三次が服装から金を持っていそうなお嬢さんだと目星を付けて、声を掛けます。いけない、いけない、真夜中に目付きの悪い男に声を掛けられて、俺と一緒なら安心だと真逆のことを平気で言います。
 お梅さんの店からここまでと、ここから谷中の龍泉寺までとは丁度中程です。昼間でも今まで歩いた道とは比べようが無く寂しく、何処まで歩いても寺町で、お寺さんの塀伝いに進むようなものです。女性一人で歩くには心細い真っ暗な道です。それも、見ず知らずの男に付いていくなんて、世間知らずです。夜はオオカミだらけです。落語「心中時雨傘」でも、オオカミに狙われる事件が出てきます。どのくらい寂しいかは落語「猫怪談」をご覧下さい。
 私がお嬢さんだったら、まず、手紙を出します。その手紙も住職に握りつぶされて、返事が無かったら、初めて出掛けますが、それも朝方に抜け出し、寛永寺の東側、今のJR東側を通って日暮里駅を抜けて、行くでしょう。明るい内に駕籠に乗って。

 おでん屋の屋台をあとに、真っ暗な不忍池を左に、右側は上野寛永寺の山です。私だって終電が無くなる前に電車に飛び乗りたいのに、見ず知らずの男に付いて、不忍池の中央にある弁天島から、右側の穴の稲荷(花園稲荷神社)の辺りに来ると、男がお嬢さんの後ろに回ります。

 

地図

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写真

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谷中龍泉寺台東区谷中五丁目9
 谷中霊園の西北に有り、斜前には朝倉彫塑館があります。入口には大きな石柱で出来た「龍泉寺」の標柱があります。清楚なお寺で、戦災や震災で焼けなかったのでしょう、木造建築の本堂や庫裡が見事です。山門から境内まで、丁寧に掃き清められています。

三橋跡(中央通りの台東区上野四丁目交差点)
 春日通りから御徒町駅のガードをくぐり、中央通りを右に曲がると、突き当たりが上野公園の森です。その手前上野四丁目交差点に流れ出た忍川に架かった三橋がありました。三本の橋が有って、左は庶民が、中央は将軍が、右端は罪人が通りました。左の森が不忍池です。

どんどん(台東区上野二丁目13)
 上記三橋を曲がってくると、不忍池の入口で、ここにどんどんという小さな滝状の関が有ったのでしょう。ここに有る、区立下町風俗資料館の学芸委員に聞いても分からないと言います。自分の庭の不忍池のことぐらいは調べておけよな。

弁天島(台東区上野公園不忍池)
 周囲は約2km、全体で約11万m2の池。その中央に弁財天を祀る弁天島(中之島)を配している。不忍池はかつて古石神井川が武蔵野台地の東端を割って海ぞいの低地へと注ぎ出ていた開口部に位置し、川の東岸にあたる上野台地や西岸にあたる本郷台地、南は神田山(駿河台)とくらべると、10m以上も標高の低い谷あいとなっている。天然の湾が閉じ込められて、池となってしまった。

穴稲荷への道(台東区上野公園・花園神社下)
 不忍池の東側の道を奥(北)に進むと右側の上野の山に上がる坂が出てきます。その坂を登ると下記花園稲荷神社と五条天神社が斜面に張り付くように並んで建っています。昼でも人通りが途絶え、街灯もないと真っ暗で女性の一人歩きは無理でしょう。紳士(?)の私が言うのですからホント。でも、この奥に高校があるのですが。

穴稲荷(台東区上野公園四丁目17。花園稲荷神社)
 忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称ですが、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていました。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られています。 後、明治六年に再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も造営され神苑も一新されました。(旧社殿は俗称お穴様の処です)

佐竹商店街(台東区台東3丁目〜四丁目清洲橋通り西)
 台東区の新御徒町駅 本当に古そうな商店街が 佐竹商店街という日本で2番目に古い商店街とのこと。
この地は江戸時代出羽国久保田(秋田)藩佐竹氏の上屋敷だった。明治になって武家屋敷が撤去されると、佐竹っ原と呼ばれ、見世物小屋や寄席が出来て大いに賑わった。屋敷跡に出来たのが佐竹商店街です。

三味線堀跡(台東区小島一丁目西端)
 不忍池から流れ出た忍川が南北に長い、三味線に似た三味線堀に落ちた。ここから流れ出る川を鳥越川と言い、隅田川に流れ込んでいたので、物資等が運ばれ船着き場もあった。そこに現在都営住宅が建っています。西側に清洲橋道路が走り、前方にビル数5〜6棟がその跡です。

三筋町(台東区)
 噺の中では、あの綺麗なお嬢さんが居た、紙問屋「甲州屋」があった。写真は東西に走る春日通りの御徒町方向を見ています。左側の町が三筋町二丁目。その先が三味線堀がある小島町。その先が佐竹上屋敷跡。

鳥越神社(台東区鳥越二丁目4)
 白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、例年6月に開催される。この街に頭が住んでいた。

                                                    2014年10月記

 

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