落語「安産」の舞台を歩く
   
 

 三遊亭円生の噺、「安産」(あんざん)
 

 
 女房が、子供が出来たと、亭主に耳打ち。
「そりゃありがてぇ、男か、女か」 、「生んでみなきゃ分からないやね」。
「いつ生まれるんだ、二、三日うちにか」、「そんなに早く行かないやね。来月が五月(いつつき)だから、おばあさんに頼んで、帯を締めてもらおうと思って」。

 五月の戌(いぬ)の日を選んで、腹帯を締める。犬のお産は軽いから、それにあやかって、戌の日を選ぶんだそうで。足を達者にしたければ午の日締めても、家にとぐろを巻かせておきたければ巳の日に締めてもかまいませんが、月が経つに従い、お腹がふくれて来て、反対にお尻が後ろにせり出すと言う、横から見ると英語の「S」ってぇ字みたいになっちまう。

 臨月になって、虫がかぶってくると、「ええ、生まれそうなのかい?すぐ、取り上げ婆さんの所に行って来るから」。と、急いで迎えに行った。
「・・・お~い、婆さん、いるかい?!」 
「はい。どなたでございますか」 、「うちのカカァが生まれそうなんだ、すぐ来ておくれ」 、「これは、八っつぁんでございますか。まあ、それはそれは、おめでとうございます。こう言う事は、急いては事をし損じると申しますから、潮時を見て」。

 ”初産に亭主まごつく釜の前”とは良く言ったもんで、湯を湧かそうとして、薪と間違えて、ゴボウを火にくべたり、大騒ぎ。お婆さんの方は、潮時を心得てますから、落ち着いたもので、一町歩いては腰を伸ばしながら、休み休みやって来る。

 「はい、ごめんなさい。もう、私が来たからには、親船に乗った気で」、「あぶねぇ親船だな。なに、何か持って来た?」 、「これは、今を去ること六十三年前、私が十八の年、奥州塩釜様安産のお札。これは水天宮様、戌の年戌の月戌の日のお札。梅の宮さまのお砂。成田山は身代わりの木札。これは能勢の黒札。これは寄席の木戸札」、「変なもの、持って来ちゃいけねえ」。

 苦しい時の神頼みと言うやつで、亭主は一生懸命拝んでおります。
「南無塩釜様、粂野平内濡仏様、金刀比羅様、天神様、道陸神様、お稲荷様、何でもかまわねぇ良い神様、どうぞかかぁが安産をいたしますように、安産いたしましたら、お礼として、金無垢の鳥居を一対差し上げます」。
ビックリした女房は「ちょいとお婆さん、止めてくださいよ。金無垢の鳥居なんて・・・」、「よけいな心配をしなくても良いんだよ。こういう時は、いくらかはったりをかまさなきゃぇいけねぇ。金無垢の鳥居がもらえるとなれば、向こうだってご利益を授けらぁ、上手く生んで、後はしらばっくれる」。

 ひどいヤツがあるもので、
そのうちに「おぎゃ~!」と言う産声で、生まれたのは男の子。
「ええ、男かい、ありがてぇなぁ。ちょいと歩かせろい!」 って、歩くわけはございません。
安産と言う、おめでたいお噺でございます。


鳥居写真;根津神社(文京区根津1-28)の鳥居。乙女稲荷神社への道には、社殿両側には奉納された鳥居が立ち並ぶ。



1.安産祈願の神々
 
塩釜大明神;宮城県塩釜市の鹽竃神社(しおがま_じんじゃ)。境内に志波彦神社(しわひこ_じんじゃ)が鎮座。両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「塩竈桜」。 鹽竈神社は、全国にある鹽竈神社の総本社。古来、航海安全・安産の神として名高い。
 両社は、仙台市の東北約16km、塩竈市一森山(海抜50m)に両社をお祀りしています。 境内の広さは約28ヘクタール(27町歩)で成り立っています。 歴史の古さを物語る針葉樹・広葉樹の混合三層林に囲まれた荘厳な境内からは遠く牡鹿半島・金華山近くは松島湾の島々が望まれ、景勝の地として名高い。

梅の宮さま;梅宮大社。京都市右京区梅津にある元・官幣中社。祭神は酒解神(サカドケノカミ)・大若子神(オオワクゴノカミ)・小若子神(コワクゴノカミ)・酒解子神(サカドケゴノカミ)。橘氏の祖神で、諸兄(モロエ)の母が初めて祭った。酒造の神、子授け・安産の神として信仰されている。二十二社のひとつ。
 お砂はお土砂(どしゃ)のことで、密教の修法のひとつで、加持祈祷で清めた土砂。この土砂を死体や墓所にまくと、死者の罪障を除くことができ、生命を蘇らせる力があるとされます。
 二十二社=大小神社の首班に列し、国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社。1037年(長暦3)後朱雀天皇の制定。伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神(オオミワ)・石上(イソノカミ)・大和(オオヤマト)・広瀬・竜田・住吉・日吉(ヒエ)・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・丹生・貴船の各社。

粂野平内濡仏;久米平内・粂平内(くめのへいない、1615?~1683)享年六十八。右図:粂野平内、豊国画 クリックすると大きくなります。
 江戸前期の伝説的武芸者。本名、兵藤長守。通称、平内兵衛。九州出身の浪人で、剛勇の名があり、江戸赤坂に住して千人斬りの素願を起したが、悔い改めて鈴木正三(シヨウサン)の門に入り二王禅の法を修めた。その罪業のつぐないに自らの石像を刻んで浅草寺仁王門外に置き通行人に踏み付けさせたという。のち踏付を文付と解し、願掛の文を奉納する者が多くなり、縁結びともされ、平内堂に祠られた。
 濡仏は、そのそばにある雨ざらしの観音・勢至両菩薩像。

尻食らえ観音(しりくらえ_かんのん);尻暗観音=六観音の縁日は陰暦18日から23日までで、その後はだんだん闇夜になる意からという。暗い夜。暗夜。六観音:六道の世界に輪廻する衆生を済度する6種の観世音菩薩。日本の天台宗で伝える密教では聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・不空羂索(ケンジヤク)観音・如意輪観音の諸菩薩。空海を祖とし、東寺を本山とする真言密教では不空羂索のかわりに准胝(ジユンデイ)観音を挙げる。
 尻暗観音が転じて、「尻食らい観音」と書き、窮する時には観音を念ずるが、よくなると、その時の気持を忘れて「尻食らえ」と観音をののしる意。恩を忘れて、あとはかまわないこと。ただ、普通、「尻を食らえ!」と言う場合は、「クソ食らえ」と同義で、痛烈な罵言、捨てゼリフになります。

■成田山(なりたさん);成田山新勝寺(なりたさん_しんしょうじ)。千葉県成田市にある真言宗智山派の寺であり、同派の大本山のひとつ。本尊は不動明王。関東地方では有数の参詣人を集める著名寺院で、家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷のために訪れる人も多い。不動明王信仰の寺院のひとつであり、寺名は一般には「成田不動」あるいは単に「成田山」と呼ばれることが多い。初詣客数は2006年では275万人、2007年は約290万人と、明治神宮に次ぐ全国二位。
 「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から兵士や近衛兵たちが武運長久を祈願、お札を身につけていた。
落語「寝床」に詳しい。東京別院については落語「成田小僧」に詳しい。

■水天宮様;福岡県久留米市瀬下町にある元県社。舟人の守護神として尊信が篤い。全国の水天宮の総本社。東京では日本橋蠣殻町二丁目4・水天宮前交差点角(現在改築中で中央区日本橋浜町二丁目30に移転)にある神社。文政元年(1818)久留米藩主有馬頼徳が前記の分社として勧請したのに始まる。安産・子授け・七五三・初宮・芸能祈願・水難除けなどのご利益で知られています。
 江戸っ子たちの間で篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が後を絶たず、ついに毎月五の日には参拝を願う江戸庶民のため門戸を開放した。それが「どうでありまの水天宮」とうたわれ、安産の願いを叶えてくれるという評判で、有馬家と「情け深い」ことを掛けて「情けありまの水天宮」との洒落た言い習わしが広まり、「恐れ入谷の鬼子母神」と共に江戸の二大流行語となりました。

 明治東京名所図会「水天宮」 山本松谷画

■能勢の黒札;(東京都墨田区本所四丁目6)能勢妙見堂。日蓮宗大坂能勢妙見山の能勢妙見堂(のせみょうけんどう)の別院が、安永3年(1774)に能勢氏の江戸の下屋敷に建立され、魔除け札である「能勢の黒札」は江戸の町で大いに流行した。これは、災厄を防ぎ、福運を招く霊験があるとされ、毎年4月15日にだけ授与されるお守札「魔除けの黒札」は、身に着ける事で厄災から逃れられるといわれています。 ただし、妙見堂が直接出す札ではなく、山門を入った左にある「鷗(カモメ)稲荷大善神」が出す小さな黒く塗られた札です。財布や手帳に入れて肌身離さず持ち歩くと御利益が有ると言われている。(住職談)

 

 2月15日に能勢妙見堂で行われる「正中山大荒行僧出仕水行」 寒中に行われる荒行。

道陸神(どうろくじん);道祖神。道路の悪霊を防いで行人を守護する神。江戸っ子は女房を卑下して「家の道陸神は・・・」と使うが、女房も負けずに「家の宿六は・・・」等と使います。

金刀比羅様(こんぴらさま。ことひらさま);仏法の守護神のひとつ。もとガンジス河にすむ鰐(ワニ)が神格化されて、仏教に取り入れられたもの。蛇形で尾に宝玉を蔵するという。薬師十二神将の一つとしては宮毘羅(クビラ)大将または金毘羅童子にあたる。香川県の金刀比羅宮のこと。ここ金毘羅宮の参詣客のための乗合船があり、大坂などから丸亀・多度津の間を往来した。東京分社が、東京都文京区本郷一丁目5 水道橋駅下車徒歩3分位の所にある。
落語「みそ豆」に詳しい。

天神様(てんじんさま);大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。道真が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立された。また、949年には勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。平安時代末期から鎌倉時代ごろには、怨霊として恐れられることは少くなった。江戸時代には、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになった。北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位です。
落語「怪談・阿三(おさん)の森」、「初天神」に詳しい。

お稲荷様(おいなりさま);稲荷神社(いなりじんじゃ)。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社。朱い鳥居と、神使の白い狐がシンボルとなっている神社。稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天(だきにてん)と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる。
 日本の神社の内で稲荷神社は、2970社(主祭神として)、3万2千社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。江戸の町の至る所で見かけられ、名物となった「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで言わるようになった。本来は穀物・農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている。

 関東の総鎮守と言われる王子稲荷(北区王子岸町一丁目12。右写真)で、毎年行われる王子の狐の行列」が有ります。 Web ブラウザ、Internet Explorer 等の戻るボタンでここに戻ってきてください。

 

2.安産
 

 江戸東京博物館にて出産後の情景。江戸時代の出産は、一般的に座産で産婦は天井から吊り下げた綱や介添人を支えにして子供を産んだ。生まれた子供には産湯を使わせるが、このとき産婆はタライの前に腰掛け、赤子をうつ伏せにして両足に乗せ沐浴させた。これはヘソの緒の切り口に湯がかかるのを防ぐためと、背中は五臓を宿す大切な所であるという中国の説に従った。一方、産婦の方も、頭に血が上らないようにとの俗説から、産後も産椅(さんい)や積み重ねた布団によりかかり、座ったままで七日七夜過ごさなければならなかった。そのため健康をそこねることも少なくなかった。(状況解説版より)

 安産とは無事に子を生むこと。その為に現在のように医学が進んでいない時には、神に頼ることしかなかった。
子どもは神様からの授かりもの。そのわが子が、無事に生まれ、健やかに育つようにとの願いは、今も昔も変わらぬ親の願い。安産祈願は、安産はもちろん、出産後も母子共に健やかに過ごせるようにと神様にお祈りするものです。

 「大名の出産」 黒崎修斎画 出産に臨んでは僧侶に加持祈祷を行わせ安産を願う。新生児は産着に包み、お付きの者が湯殿で産湯をつかわす。裏長屋でも大名でも、神信心で安産を願うドタバタは同じです。

人間の平均寿命・平均余命
 人口統計では、定常な(対象となる年の各年齢の死亡率が今後も維持されると仮想した)個体群について平均寿命を求めている。つまり、平均寿命とは0歳の平均余命のこと。平均寿命は、年齢別の推計人口と死亡率のデータを使い、各年齢ごとの死亡率を割り出す。このデータを基にして平均的に何歳までに寿命を迎えるかを出す。日本の厚生労働省が発表している日本人の平均寿命は、ある程度以上の年齢のデータについては除外して計算している。これは、あまりに少数の高齢の人物のデータを算入すると、その生死によって寿命の統計が大きく影響を受けてしまうからである。データ除外の基準は年度によって異なり、2009年度の調査では98歳以上の男性と103歳以上の女性に関するデータは取り除いている。つまり、日本では平均寿命は実態より短めに計算されていることになる。
 長寿命化は、乳幼児の死亡率が格段に低くなったので、平均の寿命が数字上延びたことになります。その意味では、母親の産後の日だちと、乳児の死亡率が低くなったことは、神頼みに終わっていた時代とは違い、医学の進歩が貢献しています。出産は自宅ではせず、設備の整った病院で医者立ち会いで分娩が行われます。
 江戸時代の平均死亡年齢を男子45.5歳、女子40.6歳と推定しています。女性の寿命が短いのは、産後の日だちが悪い為です。日本人の出生時平均余命が50歳を越えたのは1947年です。江戸初期の平均寿命は30歳くらいと推測されています。実際は乳幼児が大量に死ぬことで平均を大きく引き下げてるだけです。

 

3.言葉
■戌の日を選んで、腹帯を締める
;一般的な風習では、妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)の日にお祓いを済ませた腹帯を巻くと安産で良いといういわれがあり、生まれてくる子が岩のように丈夫に育ちますようにとの意味の込められた岩田帯を締めます。着帯する日を戌の日に選ぶ理由は、犬が多産・安産であり、それにあやかる為にこの日を吉日と定めたとされますが地域により諸説あります。

取り上げ婆さん;お産婆さん。助産婦。助産師=厚生労働大臣の免許を受けて、助産又は妊婦、じよく婦もしくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子。看護師免許取得者が、助産師学校などの養成機関で1年以上の専門教育と実習(直接介助10件、間接介助5件が目安)を受け、それぞれの国家試験に合格すると、助産師の資格が与えられる。

鳥居(とりい);神社の参道入口に立てて神域を示す一種の門。左右2本の柱の上に笠木をわたし、その下に柱を連結する貫(ヌキ)を入れたもの。伊勢神宮や鹿島神宮の神明鳥居を基本として、明神鳥居・山王鳥居・三輪鳥居・両部鳥居などがある。
 その鳥居を金無垢で奉納する、だなんて・・・豪儀なことでしょう。
写真;広島・厳島神社の両部鳥居。

虫がかぶる;臨月になって産気づくこと。



 舞台の願掛けに歩く

 

 毎回伺う浅草寺です。いつもは脇から入って本堂前に出るのですが、今回は修学旅行生や観光客に混じって正面の雷門から入ります。入ったところが仲見世商店街で、お土産屋さんや、アイスクリーム屋、お団子屋さん、江戸文化を伝えるような、扇子屋、江戸手ぬぐい、浮世絵、着物、等の商店が並んで、観光客を引きつけています。今回も脇から入れば良かったと反省しながら、流れに引っかかりながらやっと、仁王門(宝蔵門)まで行き着きました。くぐれば正面が浅草寺本堂です。本堂に入れば手前半分が石畳のお詣りスペース。その奥に畳敷きの中央に、御神輿の大きいような金ピカな御宮殿があり、内にはご秘仏本尊聖観世音菩薩、その前には慈覚大師作のお前立ご本尊が祀られていると言いますが、まだ見たことがありません。でも、話によると前立ち観音は、本尊に似せて作られた物だと言いますので、大きさは手に乗るような金無垢ではなく、高さ30cm位の木製だと思われます。その前立ち観音も文化庁で修復されていますが、本尊は・・・。

 いえいえ、その話ではなく、粂野平内堂が目的です。先程くぐった宝蔵門の、雷門から来て右側の所に小さな御堂が有ります。粂野平内堂と書かれた幡がなければ、キョロキョロと探し回らなければならないぐらい小さな御堂で、何回か来ている境内ですが、初めてマジマジと見つめ直す私です。境内には色々な仏様や御堂や記念碑が多く存在し、全てを見ていたわけでは無いことが分かります。いわれを見ないとその意義も分かりませんが、私もひとつ勉強になりました。しかし、参拝者の大部分は見向きもせずに通過していきます。しょうがないでしょうね。
 その隣に、濡れ仏があります。金銅坐像は「二尊仏」と言って、観音・勢至二菩薩の露天にむき出しの座像です。盗まれることは無いでしょうが、雨に濡れて雨だれの筋が付いています。石像ならいざ知らず、金属製の菩薩さんを濡れ鼠にしたままなんて、あまりにも可哀相な気がします。

 ここから、日本橋蛎殻町の水天宮に向かいます。しかし、本当にしかしです。私の女房や妹の妊娠中には御札をもらいに来たものですから、その所在地は良く分かっていますが、どこにもその神社がありません。工事中の看板に日本橋浜町二丁目30に移転していると知らせが入っています。その看板には、昭和42年に竣工された御宮ですが、大きな地震を想定していない旧耐震基準で建設されていたので、耐震性に難があり、また、参拝の中心である妊婦さんに待合環境が、夏季・冬季を中心に厳しいものがあり懸念されていました。江戸鎮座200年を迎える平成30年までに、免震構造の新社殿に生まれ変わるのを目的に工事に入っています。平成28年2月完成と表示されています。
 浜町二丁目の新仮殿は平屋造りのごくシンプルな社殿が浜町公園の導入路の脇に鎮座しています。その道の反対側にはお芝居の明治座があります。

 能勢妙見堂に行きます。本所の表通りから入った所に有りますから、わざわざ来た人しか参拝していきません。江戸末期幕臣勝小吉が愛息麟太郎のちの海舟の怪我の治癒を水垢離をとって祈願した場所でもあります。寒の最中には水垢離の行がありますし、4月の15日には、境内に魔よけの御守として江戸時代より能勢の黒札として有名な鴎大善神もあります。
 子母澤寛の小説「父子鷹」では、勝海舟こと幼き勝麟太郎が九つの時、狂犬に襲われ、睾丸の片方を食いちぎられ、医師さえ諦めた、生死を彷徨う息子を、父、勝小吉が能勢妙見堂で水垢離をして祈り、三日三晩抱きしめて、体温を上げ続けて、どうにか助けたとあります。が、これは小説で実態は少し違うようです。

 文京区本郷一丁目5の金比羅宮に行きます。JR水道橋で下りて都立工芸高校の裏にある能楽堂、その隣にあるのが金比羅宮東京分社。街中の小さな神社とみれば大きくは間違いないでしょう。良く言えばこじんまりとした境内には参道とお花や植栽がなされ自然の中の御宮さんという風情が伝わります。奥の本殿前から振り向くと、前のビルの肩越しに後楽園ドームホテルやドーム遊園地の遊具が見えます。

 

地図

 


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写真


 

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粂野平内堂 (浅草寺宝蔵門東側、くめのへいないどう
 久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり明らかではない。平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。平内堂は、昭和20年(1945)3月の戦災で焼失した。現在のお堂は昭和53年(1978)10月に浅草寺開創1350年記念として再建されたもの。
 平成18年(2006)3月 台東区教育委員会

粂野平内濡仏(台東区浅草二丁目3、宝蔵門東)
 観音(右)・勢至(左)二菩薩の金銅坐像は「二尊仏」(にそんぶつ)、一般には「濡れ仏」(ぬれぼとけ)で知られ、信仰されている。蓮台も含めて4.5mの像高を誇り、江戸初期を代表する優れた仏像である。 江戸時代前期の貞享4年(1687)、現在の群馬県館林の高瀬善兵衛(たかせぜんべえ)が願主となって建立した。善兵衛は江戸日本橋の米問屋に奉公し、のちにその主家への報恩と菩提を弔う為に造立した。 



観音(台東区浅草二丁目3浅草寺)
 昭和33年(1958)10月、再建された現本堂は、鉄筋コンクリート、チタン瓦葺であり、昭和20年(1945)3月10日に惜しくも戦災で焼失した旧本堂(国宝、3代将軍徳川家光建立)と同形態である。一見して感じる特徴は屋根の勾配が非常に急で、従って棟が他寺院と比較してすこぶる高く、相当遠方からでも望見できる。お堂は南に面し、350坪の堂内は畳敷の内陣、コンクリート敷の外陣とに分けられており、内陣中央には御本尊・聖観世音菩薩を奉安する御宮殿(ごくうでん)がある。御宮殿内には、ご秘仏本尊聖観世音菩薩、慈覚大師作のお前立ご本尊(12月13日お開扉)の他、徳川家康、徳川家光、公遵法親王などの護持仏であった観音像が奉安されている。御宮殿の左右には梵天・帝釈天の二天がまつられ、またご本尊の脇侍(きょうじ・わきじ)としては内陣右奥に不動明王、左奥には愛染(あいぜん)明王がまつられている。

水天宮(中央区日本橋浜町二丁目30、明治座隣)
 江戸っ子たちの間で篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が後を絶たず、ついに毎月五の日には参拝を願う江戸庶民のため門戸を開放しました。 それが「どうでありまの水天宮」とうたわれ、安産の願いを叶えてくれるという評判で、有馬家と「情け深い」ことを掛けて「情けありまの水天宮」との洒落た言い習わしが広まった。
 現在、耐震強度が不備なのと妊産婦の参拝に優しさが無いと言うことで、日本橋浜町に仮本殿を作り、移動、現在工事中。

能勢妙見堂 (墨田区本所四丁目6)
 妙見山別院は父子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことで有名です。そのため、山内には勝ゆかりの品が多く所蔵されており、勝の筆による掛け軸や写真などは今も現存しています。「魔除けの黒札」を出すのは鷗(カモメ)稲荷大善神です。山門を入って直ぐ左にあります。

金比羅宮 (文京区本郷一丁目5)
 古くから「さぬきのこんぴらさん」として親しまれている海の神様です。参道の長い石段は有名で、本宮まで785段、奥社までの合計は1368段にも及びます。参道から奥社までの石段沿いには大門、五人百姓、国の重要文化財「書院」。広い境内には重要文化財「旭社」など由緒ある御社や御堂が点在するほか、宝物館などには第一級の美術品や文化財が陳列されています。 参道の両脇には土産物やうどんの店などが並び、周辺には、旧金毘羅大芝居(金丸座)や高灯籠など見どころも数多くあります。その香川県の東京分社。

天神様 (江東区亀戸三丁目6、亀戸天神)
 東京都江東区亀戸にある神社(天神社)です。菅原道真を祀り、学問の神様として親しまれていて、特に1、2月の受験シーズン土曜・日曜には、道真の加護を求めて絵馬を奉納する受験生で境内が溢れます。また、梅の時期や藤の季節には多くの観光客で賑わいます。
 今は道真の怨念こもる恐いイメージは全くありません。

 

稲荷神社(中央区銀座四丁目12)
  新築なって1年が経った築地新歌舞伎座の稲荷です。正面入口の脇にあって「歌舞伎稲荷大明神」と言われます。外人が来て、楽しそうに鈴のヒモにつかまって記念撮影です。
 お稲荷さんはあまりにも多く、どこにするかで悩みますが、一番(?)新しい社のお稲荷さんに白羽の矢を立てました。

                                                           2014年7月記

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