三遊亭圓朝作の原題「後開榛名の梅が香」(おくれざきはるなのうめがか)より
安中草三郎(あんなか そうざぶろう、生没年不詳)は、江戸時代の盗賊である。上州安中の生まれとも信州の生まれとも言われるが、実在しなかったとされる。三遊亭圓朝創作で落語、講談などに登場する。よって以下は巷談であり、史実とは異なる場合もある。
「久保田伝之進に付け届」 「身代わりを申し出る」「草三を吟味」 「駕籠屋の闇討ち」 「水門を破る」 圓朝作「後開榛名の梅が香」冊子の挿絵から 朝香楼芳春(よしはる=歌川芳春)画 国立国会図書館蔵
右図;安中市中心部(中山道安中宿)周辺の空中写真。
1975年撮影の4枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。ウイキペディアより
■安中宿(あんなかしゅく);中山道六十九次のうち江戸から数えて15番目の宿場。
現在の群馬県安中市、JR東日本安中駅の真西方向、碓氷川と九十九川に挟まれた台地上に安中宿があった。また、駅北東側・碓氷川南岸にも安中中宿と呼ばれる宿場町が存在していた。
右図;木曾海道六拾九次の内 「案仲」(安中) 歌川広重画 ■神田三河町(かんだ みかわちょう);木瀬川成瀬と言う剣術の道場があった。通常神田は付けず三河町と言う。千代田区神田司町から南に、内神田一丁目の東側の町で南北に長かった。
■土浦の御城下町(つちうら−);土浦は茨城県・霞ヶ浦湖岸の低地に築かれた城下町を起源としています。
■下谷三枚橋(したや さんまいばし);上野不忍池から東に流れ出た忍川が上野広小路に架かる三橋(みはし)を通り、アメ横、JRの線路を抜けて、三枚橋を抜けると昭和通りに一枚橋があった。JRと昭和通りに抜ける中程に有った橋。ここに江戸の名医が住んでいた。しかし、三枚橋と三橋を混同している節があります。三枚橋の廻りは御徒衆の屋敷で一般人はこの近くには住むことが出来ません。寛永寺前の三橋周辺は上野広小路になっていて商家や町屋になっていました。
■上州水沢(じょうしゅう みずさわ);半三郎が身を隠した地。上州は上野(コウズケ)国の別称で群馬県に合致。
■伊香保(いかほ);湯治にでも来ていたのでしょうか、江戸の名医が来ているところ。半三郎が身を隠した水沢とは一山越えたところ。群馬県渋川市伊香保町(旧国名上野国)にある温泉。草津温泉と並んで県を代表する名湯。 ■伝馬町(でんまちょう);江戸日本橋小伝馬町にある牢屋敷。
「後開榛名の梅が香・破牢の場」三枚続き 豊原国周(とよはら_くにちか)画 早稲田大学 演劇博物館蔵
3.言葉
■十石二人扶持(10こく2にんぶち);石は耕地の生産高で、支給される玄米の量で表示される。十石は百姓の収穫高で、通常四公六民で手取り4石(40斗=10俵)にしかならない。豊凶作があるので出来高には変動がある。一人扶持は別途に1日玄米5合の給与、二人扶持で二倍の給付(年3石6斗。約9俵)があったが、家来の俸禄をここから支給するとなると、これでは生きていくだけでも大変です。大変どころか、両方合わせて年収約50万円位、生きていくなと言う俸給です。 ■柳生流(やぎゅうりゅう);戦国時代、上泉秀綱に学んだ柳生宗厳(ムネヨシ)の流派。新陰流は柔術の体さばきなどをその術理に取り入れており、素手で相手の刀を取る「無刀取り」は柔術の技とも言える。そのため宗厳や宗矩の門下から起倒流、柳生心眼流、小栗流などの柔術諸流派を生んでいる。 ■免許皆伝(めんきょかいでん);『兵法家伝書』(へいほうかでんしょ)は、江戸時代初期の剣豪・柳生宗矩によって寛永9年(1632)に著された兵法(剣術:柳生新陰流)の伝書であり、またその代表的著作でもある。 同世代の剣豪・宮本武蔵の著した『五輪書』と共に、近世武道書の二大巨峰といわれる。流儀を極めた者に対し、相伝の印として授ける目録。通常口伝で伝わるので、原本は数少ない。
■手内職(てないしょく);手先を働かしてする内職。本職のほかに家計の補助などのためにする仕事。また、主婦などが家事のあいまにする賃仕事。低賃金の代表のような職。
■妻の不義(つまのふぎ);男女の道義にはずれた関係。姦通。不義密通。江戸時代は発見したら二つに重ねて四つにしても良いと言われたが、これでは命が幾つあっても足りない(?)ので、7両2分で解決させた。
■妙義無宿(みょうぎむしゅく);上州妙義山周辺の無宿人。江戸時代の戸籍簿を人別帳とよび、当初キリシタン吟味のために設けたが、享保(1716〜1736)以後人口調査の目的で6年ごとに作成。これに記載されない者は無宿者とされた。無宿、江戸時代、人別帳からはずされた者。無宿者。真っ当な人からは相手にされず、それでも生活しなければならないので、自然と悪に走った。
主人公達は群馬県内が主な活動の舞台です。三遊亭圓朝は安中や伊香保温泉に行って取材し、この噺をまとめました。申し訳ありませんが、私は軟弱なものですから、江戸の中の舞台になった所を歩きます。 先ずは、神田・三河町に出掛けます。昭和22年(1947)、神田区と麹町区が合併して千代田区となりました。その時、神田区の人々は新しい町名の頭に神田という名称を乗せたのです。神田司町は一丁目が無くて二丁目だけの町で、都内ではここだけの珍事です。ここから南に内神田の一丁目の東部までの一本道が三河町なのですが、今では三河町と言っても若い人達は誰も判らないでしょう。判らなくて当然で、その必要性も無く、サラリーマンの町ですから夜間人口は激減してしまいます。ここには木瀬川成瀬と言う剣術の道場があった所ですが、先程も言ったようにサラリーマンの町ですから、どこにもその様な道場はありません。
三枚橋跡に行きます。上野駅の一つ南側の駅が御徒町(おかちまち)駅です。御徒衆が住んでいる屋敷が集まっていたのでこの様に言われますが、御徒衆とは何でしょう。江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことで、江戸幕府における徒歩組(かちぐみ)は、徳川家康が慶長8年(1603)に9組をもって成立した。以後、人員・組数を増やし、幕府安定期には20組が徒歩頭(徒頭とも。若年寄管轄)の下にあり、各組毎に2人の組頭(徒組頭とも)が、その下に各組28人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は70俵5人扶持。家格は当初抱席(かかえぜき)だったが、文久2年(1862)に譜代となった。 噺の中で伝馬町と言われているのは、牢屋敷があった小伝馬町の事で、ここも外周は堀で囲まれていました。現在は堀も無く、日本橋小伝馬町と呼ばれ、3〜5番地に有り、南東には処刑所があって、その地には菩提を弔う大安楽寺があります。西側の公園は整備が進んで8月には公開されると言います。その左側は老人ホームが建設中で間もなく完成だと言います。また、その左は旧十思(じゅっし)小学校の3階建ての校舎が有り、東京都選定歴史的建造物に指定され、十思スクエアとして利用されています。牢屋敷跡の現在は、思いっ切り福祉関係に利用されています。 土屋能登守上屋敷跡に行きます。靖国通りの駿河台下交差点の北側の地に7200坪の屋敷を持っていました。また、下屋敷では南麻布三丁目南1万2千坪にはパスをして、小名木川沿いの江東区森下四丁目南部から五丁目墨田工業高校までの1万7千坪に行ってみました。典型的な下町の中を流れる小名木川に面して、下屋敷はあります。ここは川に面しているので、舟の運航に便利ですから蔵屋敷の性格も持っていたのでしょう。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。 2014年5月記
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