
「水門を破る」
圓朝作「後開榛名の梅が香」冊子の挿絵から 朝香楼芳春(よしはる=歌川芳春)画 国立国会図書館蔵
2.安中
安中市(あんなかし)は群馬県南西部にある人口約6万人の市。江戸時代に板鼻・安中・松井田・坂本が中山道の宿場町として栄え、また、江戸時代には安中藩の城下町であった。
右図;安中市中心部(中山道安中宿)周辺の空中写真。
1975年撮影の4枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。ウイキペディアより
■安中宿(あんなかしゅく);中山道六十九次のうち江戸から数えて15番目の宿場。
現在の群馬県安中市、JR東日本安中駅の真西方向、碓氷川と九十九川に挟まれた台地上に安中宿があった。また、駅北東側・碓氷川南岸にも安中中宿と呼ばれる宿場町が存在していた。
天保14年(1843)の『中山道宿村大概帳』によれば、安中宿の宿内家数は64軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒で宿内人口は348人の小さな宿であった。
右図;木曾海道六拾九次の内 「案仲」(安中) 歌川広重画
安中宿の江戸よりは「板鼻宿(いたはなしゅく)」と言い、中山道上州七宿の中でも一番の大きな宿。中山道でも1,2を争う大きな宿であった。また、安中宿の隣、京よりは「松井田宿(まついだしゅく)」です。その次の「坂本宿(さかもとしゅく)」を含めて、4宿とも現在の安中市になります。坂本宿は中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたります。
■神田三河町(かんだ みかわちょう);木瀬川成瀬と言う剣術の道場があった。通常神田は付けず三河町と言う。千代田区神田司町から南に、内神田一丁目の東側の町で南北に長かった。
■土浦の御城下町(つちうら−);土浦は茨城県・霞ヶ浦湖岸の低地に築かれた城下町を起源としています。
城郭は土屋氏九万五千石の居城であり、湖水を引き込んだ堀が縦横に走る水城として知られていました。当時は何重もの掘り割りの中の本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことから「亀城」と呼ばれるようになりました。
明治に入っても発展を続け、昭和60年代まで茨城県南部の中心都市として機能してきましたが、最近はつくば市にその地位を奪われ、都市としては停滞しているようです。土浦駅が旧城下町の南東約1kmの位置に設けられたため、市街地は城から駅周辺の大和町、桜町、川口などの霞ヶ浦方向に拡大することとなり、北と西には農地のままとなっています。
■下谷三枚橋(したや さんまいばし);上野不忍池から東に流れ出た忍川が上野広小路に架かる三橋(みはし)を通り、アメ横、JRの線路を抜けて、三枚橋を抜けると昭和通りに一枚橋があった。JRと昭和通りに抜ける中程に有った橋。ここに江戸の名医が住んでいた。しかし、三枚橋と三橋を混同している節があります。三枚橋の廻りは御徒衆の屋敷で一般人はこの近くには住むことが出来ません。寛永寺前の三橋周辺は上野広小路になっていて商家や町屋になっていました。
落語「猫怪談」参照
■上州水沢(じょうしゅう みずさわ);半三郎が身を隠した地。上州は上野(コウズケ)国の別称で群馬県に合致。
水沢は北群馬郡伊香保町(いかほまち)の一部で、群馬県のほぼ中央、渋川市にあった町。伊香保、湯中子(ゆなかご)、水沢の3村が合併して伊香保町が明治に発足した。水澤寺(みずさわでら=水沢観音)があり、本尊は十一面千手観音で、坂東三十三箇所第十六番札所。渋川から山道を西に入ると、伊香保温泉との中間に山の中にある町。
伊香保温泉は東京周辺の人々の行楽地として名高い。また、名物に水沢うどんなどがある。
■伊香保(いかほ);湯治にでも来ていたのでしょうか、江戸の名医が来ているところ。半三郎が身を隠した水沢とは一山越えたところ。群馬県渋川市伊香保町(旧国名上野国)にある温泉。草津温泉と並んで県を代表する名湯。

伊香保温泉。明治20年代(1896)の伊香保温泉石段街。伊香保温泉ホームページより。
急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねている。365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれる。石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されている。石段の上には伊香保神社が存在し、石段の途中には共同浴場「石段の湯」も存在する。
■伝馬町(でんまちょう);江戸日本橋小伝馬町にある牢屋敷。



「後開榛名の梅が香・破牢の場」三枚続き 豊原国周(とよはら_くにちか)画 早稲田大学 演劇博物館蔵
左から 安中草三郎 <五代目> 尾上菊五郎と、妻おうた <五代目> 尾上栄三郎。 中、草三、<四代目> 尾上松助。 右、無宿白蔵、<五代目> 尾上菊五郎。
3.言葉
■土屋能登守(つちや のとのかみ);土屋采女正(うねめのかみ)、大坂御城代。禄高9万5千石、土浦藩主。寛文2年(1662)、徳川家光に仕えて若年寄に任ぜられた土屋数直が1万石の大名となり土浦城に入ります。その子政直の時には、一旦駿河田中に国替えとなり、松平(大河内)信興が藩主となりますが、5年後には再び土浦藩主となり、徳川綱吉・家宣・家継・吉宗の四代にわたって老中として仕え、所領は九万五千石まで拡大しました。
土浦は、茨城県霞ヶ浦の西端にある城下町で、常
陸国(茨城県)では水戸藩に次ぐ大藩の城下町として栄え、以降、土屋氏が十代世襲して明治を迎えます。
右上写真;土浦城址(土浦市中央一丁目13)。
右下、霞ヶ浦の帆曳船。土浦市ホームページより
江戸上屋敷は千代田区神田小川町三丁目、駿河台下交差点三省堂書店の靖国通りを渡ったところ7200坪。ここから柳生道場の三河町までは直線で1km程です。上屋敷から半三郎を通わせたのでしょう。
下屋敷は港区南麻布三丁目南12000坪と、小名木川沿いの江東区森下四丁目南部から五丁目墨田工業高校までの17000坪。
■十石二人扶持(10こく2にんぶち);石は耕地の生産高で、支給される玄米の量で表示される。十石は百姓の収穫高で、通常四公六民で手取り4石(40斗=10俵)にしかならない。豊凶作があるので出来高には変動がある。一人扶持は別途に1日玄米5合の給与、二人扶持で二倍の給付(年3石6斗。約9俵)があったが、家来の俸禄をここから支給するとなると、これでは生きていくだけでも大変です。大変どころか、両方合わせて年収約50万円位、生きていくなと言う俸給です。
武士をあざけって言う言葉にサンピンが有りますが、これが最低の俸給(年収)で、3両一人扶持の事。それよりチョット良いだけで、似たり寄ったりの俸給です。
■柳生流(やぎゅうりゅう);戦国時代、上泉秀綱に学んだ柳生宗厳(ムネヨシ)の流派。新陰流は柔術の体さばきなどをその術理に取り入れており、素手で相手の刀を取る「無刀取り」は柔術の技とも言える。そのため宗厳や宗矩の門下から起倒流、柳生心眼流、小栗流などの柔術諸流派を生んでいる。
■免許皆伝(めんきょかいでん);『兵法家伝書』(へいほうかでんしょ)は、江戸時代初期の剣豪・柳生宗矩によって寛永9年(1632)に著された兵法(剣術:柳生新陰流)の伝書であり、またその代表的著作でもある。
同世代の剣豪・宮本武蔵の著した『五輪書』と共に、近世武道書の二大巨峰といわれる。流儀を極めた者に対し、相伝の印として授ける目録。通常口伝で伝わるので、原本は数少ない。
■手内職(てないしょく);手先を働かしてする内職。本職のほかに家計の補助などのためにする仕事。また、主婦などが家事のあいまにする賃仕事。低賃金の代表のような職。
江戸時代の下級武士は皆内職をしていました。敷地を貸したり、敷地で野菜を作ったり、植木、花、金魚、鈴虫、竹カゴ、傘張り、提灯張、手習い所などをして食いつないだ。
■妻の不義(つまのふぎ);男女の道義にはずれた関係。姦通。不義密通。江戸時代は発見したら二つに重ねて四つにしても良いと言われたが、これでは命が幾つあっても足りない(?)ので、7両2分で解決させた。
おりえは半三郎の子供を宿しているが、それが久保田の子だという手紙をしたためておけば、妻が不義を働いたので相手の男もろとも斬ったということで、面目が立つというのだ。しかし、これでは、おりえさんにも手を掛けなくてはならない。
■妙義無宿(みょうぎむしゅく);上州妙義山周辺の無宿人。江戸時代の戸籍簿を人別帳とよび、当初キリシタン吟味のために設けたが、享保(1716〜1736)以後人口調査の目的で6年ごとに作成。これに記載されない者は無宿者とされた。無宿、江戸時代、人別帳からはずされた者。無宿者。真っ当な人からは相手にされず、それでも生活しなければならないので、自然と悪に走った。
右写真;岩山だらけの妙義山
舞台の江戸内を歩く
主人公達は群馬県内が主な活動の舞台です。三遊亭圓朝は安中や伊香保温泉に行って取材し、この噺をまとめました。申し訳ありませんが、私は軟弱なものですから、江戸の中の舞台になった所を歩きます。
先ずは、神田・三河町に出掛けます。昭和22年(1947)、神田区と麹町区が合併して千代田区となりました。その時、神田区の人々は新しい町名の頭に神田という名称を乗せたのです。神田司町は一丁目が無くて二丁目だけの町で、都内ではここだけの珍事です。ここから南に内神田の一丁目の東部までの一本道が三河町なのですが、今では三河町と言っても若い人達は誰も判らないでしょう。判らなくて当然で、その必要性も無く、サラリーマンの町ですから夜間人口は激減してしまいます。ここには木瀬川成瀬と言う剣術の道場があった所ですが、先程も言ったようにサラリーマンの町ですから、どこにもその様な道場はありません。
三枚橋跡に行きます。上野駅の一つ南側の駅が御徒町(おかちまち)駅です。御徒衆が住んでいる屋敷が集まっていたのでこの様に言われますが、御徒衆とは何でしょう。江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことで、江戸幕府における徒歩組(かちぐみ)は、徳川家康が慶長8年(1603)に9組をもって成立した。以後、人員・組数を増やし、幕府安定期には20組が徒歩頭(徒頭とも。若年寄管轄)の下にあり、各組毎に2人の組頭(徒組頭とも)が、その下に各組28人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は70俵5人扶持。家格は当初抱席(かかえぜき)だったが、文久2年(1862)に譜代となった。
話を戻して、御徒衆の屋敷町だった所で、一般人が住めるような場所ではありません。その屋敷町の真ん中に南北に走る道に架かっていたのが、三枚橋です。忍川の下流には現・昭和通りに一枚橋が架かっていました。現在は暗渠になっていて、どこにもその様子は分かりません。現在はJRの西側にはアメ横が有り、この東側には貴石や輸入時計、ブランド品を扱う店が並んで活気と人出が多いので有名です。三橋跡はJRのガードをくぐり中央通りに出た所の、落語のメッカ鈴本演芸場の隣の三叉路の交差点にありました。ここには店舗や遊興の見世が多く有り、岡場所としても栄えていました。やっぱり、一般人が住むのでしたらこちらでしょう。もしかして鈴本演芸場だったかも。それより、不忍池前の鰻屋・伊豆栄かも。
噺の中で伝馬町と言われているのは、牢屋敷があった小伝馬町の事で、ここも外周は堀で囲まれていました。現在は堀も無く、日本橋小伝馬町と呼ばれ、3〜5番地に有り、南東には処刑所があって、その地には菩提を弔う大安楽寺があります。西側の公園は整備が進んで8月には公開されると言います。その左側は老人ホームが建設中で間もなく完成だと言います。また、その左は旧十思(じゅっし)小学校の3階建ての校舎が有り、東京都選定歴史的建造物に指定され、十思スクエアとして利用されています。牢屋敷跡の現在は、思いっ切り福祉関係に利用されています。
土屋能登守上屋敷跡に行きます。靖国通りの駿河台下交差点の北側の地に7200坪の屋敷を持っていました。また、下屋敷では南麻布三丁目南1万2千坪にはパスをして、小名木川沿いの江東区森下四丁目南部から五丁目墨田工業高校までの1万7千坪に行ってみました。典型的な下町の中を流れる小名木川に面して、下屋敷はあります。ここは川に面しているので、舟の運航に便利ですから蔵屋敷の性格も持っていたのでしょう。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
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神田三河町(千代田区神田司町から内神田一丁目東部)
司町から南の内神田を見る。その終端までが三河町になります。 |
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三河町(千代田区内神田一丁目部分)
北の方から歩いてきて、南の内神田に入っています。一方通行の狭い道の両側が三河町と呼ばれた所。方向的にはこの先東京駅がある丸の内になりその右方向が皇居(江戸城)です。現在は三河町のどこにも道場はありません。 |
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三枚橋跡(台東区上野六丁目2番地北西角)
御徒町のJRガードの東側にあります。止まれと書かれた交差点で男の人が立っている位置、川は右から左に流れていました。そこに架かった橋。この道幅からすると小橋だったようで、下記の三橋とは大違い。
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三橋跡(みはし。不忍池から台東区上野四丁目に抜ける所に有った橋)
こちらは三橋が有った所。左側の緑が多い所が不忍池でこの表通り(御成通り。現中央通り)に流れ出た忍川に架かっていた三本の橋の総称。写真右突き当たりが上野公園で、当時は寛永寺境内であった。この周辺は町屋で、三枚橋周辺は御徒衆の屋敷地であって武士以外住めない。 |
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アメ横(台東区上野四丁目JRガード沿い)
上野近辺では一番の繁華街。暮れには年越しの買い物客で賑わうので、TV中継されることでも有名。この下を横断してガードを抜けて三枚橋に至ります。 |
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伝馬町(中央区小伝馬町)
牢屋敷があったところで、その中の処刑場があったところに大安楽寺が建立され、ここで処刑された人々の冥福を祈っています。 |
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小伝馬町(中央区小伝馬町3〜5番地)
上記大安楽寺の西側に獄舎があったところは、公園になっていて、子供連れの家族が遊んでいます。その左側には旧十思(じゅっし)小学校を再利用した区の多角的な施設、十思スクエアが入っています。 |
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土屋能登守上屋敷跡(千代田区神田小川町三丁目)
靖国道路が東西に走り、南北に走る明治大学からお茶の水駅に行く交差点が駿河台下交差点。その両側、写真に写っている部分が上屋敷跡です。 |
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土屋能登守下屋敷跡(江東区森下四丁目南部から五丁目西部まで)
小名木川に架かる大富橋から見た北岸に接する地が下屋敷跡です。橋を渡る大通りは三ツ目通りと言い、この左右に並ぶ深川一中や、消防署、墨田工業高校等があります。 |
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2014年5月記
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