落語「盃の殿様」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、「盃の殿様」(さかずきのとのさま)
新吉原
山谷堀跡の公園に立てられた掲示板より
■遊女(ゆうじょ);遊女とは傾城(けいせい)・傾国(けいこく=美人が色香で城や国を傾け滅ぼす意)・流れの人ともいい、情けをひさぐ(売る)もの。近世では、特に太夫を指す。(円生説)
■花魁(おいらん);(妹分の女郎や禿などが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという)
江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。
上図;左から右に「當時全盛美人揃」 丁子屋内 雛鶴、越前屋 唐土(もろこし)、玉屋内 花紫、 瀧川、
■冷やかし;素見(すけん)。ぞめき。遊里をひやかして歩くだけで、登楼しないこと。また、その人=地回り。落語「蛙の女郎買い」に詳しい。広辞苑では、張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと。また、その人。素見。とあり、「冷かす」で、(「嬉遊笑覧」によれば、浅草山谷の紙漉業者が紙料の冷えるまで吉原を見物して来たことに出た詞)登楼せずに張見世の遊女を見歩く。と載っています。
■大門(おおもん);吉原の出入口はここだけ、「だいもん」とは読みません。江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日大震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。
「北廓月の夜桜」 香蝶楼国貞画 大門を入ると仲之町の左右に引手茶屋が有り、仲之町にこの時期だけ桜を植えて季節を楽しんだ。
■お茶屋(おちゃや);引手茶屋の事。大見世に揚がるには、茶屋を通さなければ揚がれません。お客はまずここに揚がり、遊女を指名し、遊女の空くまでここで芸者・幇間をあげて飲みながら待ちます。遊女が空くと迎えが来て、揃って見世に行きます。見世でも宴席を設け騒ぎ、朝、そうです朝になりましたら、お茶屋の者が見世に迎えに来て、ここに戻り軽い朝食を食べて会計を済ませ帰ります。見世に揚がらず芸者幇間と遊んで帰るのを茶屋遊びと言いました。
「通人いろは短歌」北尾政演原画 三谷一馬筆 お茶屋の風景。右側黒羽織の客を送り出すところ。左隣は扇屋の遊女が見世に帰るところ。茶屋ではすだれを内側から押し出してくの字型に吊す。
■腰掛けて一息入れて;茶屋前の毛氈を敷いた床几の上に腰掛けて客を待ち、ここで客と出会ったので、江戸町の角を”待合の辻”と言った。ここで花扇が一息入れていたと思ったのは、実は客引きだった。
■すががき;清搔と書きます。暮れ六つ(午後6時)になると御内所の縁起棚の鈴を見世の者が鳴らします。同時に内芸者、居ない時は新造が見世すがきと言う三味線だけのお囃子を弾きました。曲は見世によって一様ではなく、上手な弾き手も居れば、ただ三味線を鳴らしているだけの者も居ました。これに合わせて女郎達が張り見世に居並びます。
■扇屋(おおぎや);江戸町一丁目にあった大見世で五明楼と屋号を変えて営業していた。
「吉原妓楼扇屋の図」 北斎画 店の内部の様子 クリックすると大きな図になります。
右図;「當時全盛似顔揃」より扇屋内 四代目花扇 歌麿画
■花魁の布団(おいらんのふとん);初会及び裏を返した時、上座に敷かれる花魁用の座布団。しとね(褥・茵)といい、畳の上に敷いた綿入の敷物。3尺角余、表は唐綾もしくは固織物などに広さ4~5寸の赤地錦の縁を四方にさし回し、裏は濃打絹などを用いた。花魁専用のざぶとん。
■新造が3人;振り袖新造、留袖新造、番頭新造の3人。
■禿(かむろ);七,八才で遊女屋に売られてきた女子で、決まった遊女に付いて、その遊女の下で雑用を勤めました。費用は全てその遊女が持ちました。また、十三四になると禿を卒業して新造になり、そのお披露目を新造出しと言います。この時、楼主と花魁が相談して、昼三、附廻しか、座敷持ち、部屋持ちかが決まります。女の子はやはり器量好しを一番としたのです。
■若い衆(わかいし);歳に関係なく若い者または若い衆と言った。見世の男衆で、店番、客引き、客の案内、布団敷き、(料理の)台運び、行灯の油差しなど力仕事は彼らの仕事でした。江戸初期は遊興費の足りない客の集金も自宅まで連れ添って付け馬の仕事までしました。衆は”し”と読み、”しゅう”とは読まない。
■おばさん;遣(や)り手。遣り手は客室2階の遊女の総取締役。上がってきた客の相棒を世話するのも、料金の交渉も遣り手の仕事。部屋は階段の上がり口にあり遊女の行動、客の善し悪しを見張りました。
■銀の煙管(きせる)にたばこを点けて;長キセルは花魁の客に対する小道具でした。たばこに火を点けて、それを客に渡すのです。今で言う間接キスのようで喜ばれた。男ってバカですね。
■初会(しょかい)、裏を返す(うらをかえす)、馴染み(なじみ);客が遊所で遊ぶ時の心得の一つ。初めて見世に揚がった時は”初会”といい、2回目を”裏を返す”と言います。大見世の見識のある所では、揚代は普通通り払っても挨拶をするだけで花魁は席を立ってしまいます。いつまで待っても帰ってきません。そして3回目になって”馴染み”となると箸が名入りのものになり、初めて帯を解いてくれます。あまりも煩雑な手続きで有ったので、小見世や中見世では、最初から対応してくれました。現在の飲み屋さんでも1~2回しか行っていないのに、大きな顔をして、「ここは馴染みの店だ」なんて言ってはいけません。
■数百金(すうひゃくきん);金とは金貨の事。数百両もする、という品です。
■打ち掛け(うちかけ);着物の上から羽織る、着物より大きめの帯無しの着物。結婚式に着る羽二重の白無垢の上に豪華な打ち掛けは見ますが、金糸銀糸の入った錦(にしき)の生地に刺繍の入った打ち掛けなら数百金はするでしょうか。
■おとがめもなく1年;幕府は倹約令を度々出していた。この殿様のようにハデに遊び歩いていると、お家没収までは行かなくても、藩主交代で隠居させられたり、蟄居させられたりした。
■後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ);遊廓での朝の別れ。良い響きの言葉です。この時遊女は見世先または大門まで送り出してくれて、甘い言葉で、「浮気は駄目よ」とか「次は何時来てくんなます」などと甘い言葉を耳元でつぶやきます。
2.東海道(とうかいどう)
■300里の路を10日で;この殿様の国が江戸から300里(約1200km)離れているという。約九州の入口辺りの福岡県辺りであろう。早足の東作はこの距離を10日で走り抜けるという。1日120km走るとはマラソンコースを1日に3回走り、その連続で10日間走る事です。当然夜は寝て食事も取って。ふ~~。
■箱根山(はこねやま);見ず知らずの殿様が、大盃で酒を飲む宴を開いたところ。東海道では最大の坂があった峠で、その急坂のため越せなかった江戸っ子は引き返して来たとの話もあります。箱根の頂上部、芦ノ湖の湖畔には関所が設けられていました。
3.言葉
■鬱(うつ);気のふさぐこと。「憂鬱・沈鬱」
■供先(ともさき);武家の供まわりの先手。大名行列の先頭。
■お国入り(おくにいり);大名が江戸参勤を終えて帰国すること。
■お留守居(おるすい);江戸時代、諸藩の江戸屋敷に置かれた職名。幕府・他藩との連絡にあたった江戸藩邸の外交官。
■いっさん(一盞);一つの盃。また、盃1杯の酒。
舞台の吉原を歩く
取材している時はソメイヨシノが満開。
スタンドの右側を入ります。その道が五十間茶屋道、別名衣紋坂(えもんざか)、S字に曲がっていて見返り柳の表通りからは直接廓中が見えないようになっています。今は坂も無く、衣紋を直す事もせず、道が真っ直ぐになったところが、大門跡です。ここから先が吉原遊廓。右側の大きなマンションが松葉屋跡でその下には交番があります。その右側の道が鉄漿(お歯黒)ドブの跡です。
鉄漿(お歯黒)ドブがある時代は、この交差点のすぐ先に鉄漿ドブが横切っていて吉原はここで終点になります。その場所を水戸尻(みとじり=水道尻)と言われ外界から隔離されていましたが、今は道が繋がってお酉様の熊手で有名な鷲(おおとり)神社がある国際通りに出る事が出来ます。吉原は肋骨の先にも鉄漿ドブが有って外界から孤立していましたが、今は全て外界と繋がっています。また、鉄漿ドブ自体が埋め立てられて道路に変身しています。北側の千束三丁目には樋口一葉が住んでいて、そこは一葉記念館になっています。
話変わって、
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2014年5月記 |
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