落語「錦の舞衣」の舞台を歩く
   

 

 柳家喬太郎の噺、「錦の舞衣・下」(にしきのまいぎぬ)によると
 

 
 
 
絵師としての道を誠実一路に突き進む、狩野毬信(かのう_まりのぶ)。踊りの名人として名が高い坂東須賀(ばんどう_すが)。二人がお互いの才能・将来性に惚れ込み、三々九度の杯を交わしているが、お互いの芸道に障ってはいかぬと、新婚ではあるものの、別居生活をしていた。

 毬信のもとへ、毬信が上方へ修行へ行っていた際に世話になっていた、宮脇家の子息・宮脇数馬が来宅した。数馬は、大坂で起きた、大塩平八郎の乱の残党として追われていたが、江戸にいる母へ手紙を持って、毬信のもとへやってきたのであった。世話になった恩人のご子息。謀反をした残党であるとはいえ、ここは恩義を返さねばと、数馬をかくまう。
 そこへ吟味与力・金谷東太郎の手下が匂いを嗅ぎつける。部屋にずかずかと入り込んでくる手下たち。毬信が止めるのも聞かず、探しに探しまわり、数馬のいる場所を突き止めた時には、数馬はこの窮地を察し自ら腹を切って命を絶っていた。そこで、謀反に加わった残党をかくまったとして、毬信が捕らえられた。その取り調べの激しいこと、須賀は裏から手を回して嘆願したが無駄である以上に拷問の厳しさが加わった。
 悲しみに打ちひしがれ、踊る気力が絶たれた須賀。その須賀に十二三年前より岡惚れしていた、毬信を捕らえた、与力・金谷東太郎(かなや_とうたろう)である。いつか須賀を自分のものにしたい、その下心で須賀の一番大事な夫を奪ったのだ。
 牢に入れられてから数日後、須賀は船宿へ来いと金谷に呼ばれ、しぶしぶ船宿へ行った須賀。金谷の手下が言うには「常盤御前のように、敵の大将になびけば子供達は助かり、成長後清盛を倒すことが出来た。これが操を捨てて操を立てると言うんだ」と、強く言い渡された。好きな女に酌をしてもらい、上機嫌の金谷。脇で控えていた手下が心決まらない須賀を次の間へ呼び、「今宵、旦那の脇差しは金谷家代々に伝わる、真の正宗である。その宝を惚れた女がいる場に差してくる。これこそ、武士の真心。遊びではなく、真心からお前に惚れておるということだ。なぁに、たった一晩で構わないんだ。たった一晩、旦那と枕を交わせば、お前の大事な旦那は釈放されるだろう」と、手下から耳打ちされた。金谷と枕を交わすなど、もってのほか。しかしながら、一刻も早く毬信を助け出したい。だが、自分は名人となる絵師・毬信の妻。操を守らねばならない。須賀は、金谷の脇差しについて問う。金谷は、手下が言った通り、これぞ世に幾つとない、金谷家代々に伝わる、本物の正宗である。これぞ、武士の真心なのだ、と。夫を助けたいという思いから、須賀は金谷から刀を預かり、「操を捨てて操を立てる。操を立てて亭主が救われなければ意味が無い」と、言われ強引に一晩、枕を交わすことに。

 だが、幾ら日が経っても、夫は釈放されない。それどころか、金谷からの誘いはしつこくなる一方。 そして、ついに狩野毬信は獄中にて酷く責められ、志半ばにして絶命してしまう。悲しみに打ちひしがれる須賀。鞠信の遺体は大坂送りのところ谷中南泉寺にかろうじて埋葬。
 そこは芸道一心に貫いてきた気丈な須賀。少しずつ、踊ろうと心を前向きに持とうとしていたところへ、以前より懇意にしている道具屋が訪れた。利発な須賀は、信頼できる、この道具屋に金谷から預かった脇差しの目利きをしてもらう。「師匠。これを正宗と申されましたな。これを本物の正宗と言うのであれば、世の中の刀全てが正宗。なにせ、この正宗・・・畳に切っ先をつけ、グッと押しやると、曲がるんでございますよ。安物で村松町でも一番の安物です」との答え。青ざめる須賀。どうにかして、この悔しさを晴らしたい。名人への階段を昇り始めていた、最愛の夫・毬信の無念を、自らの手で晴らし、真の供養をしたい。そう思った須賀は、一つの決心をし、自分の母、そして、世話になった人達を呼び、贔屓にしている根岸の料理屋で、好きな三味線方を招き、文字通り、一世一代の「巴御前」を舞った。踊り終えた須賀は、翌日使う寮を女将に頼んでおいた。

 金谷と落ち合う為、料理屋へ向かう須賀。須賀は珍しく自ら金谷へ酌を進める。これでもかというほど上機嫌に飲んだくれた金谷の様子を見て、須賀は預かっていた正宗についての話をし始めた。「武士の真心というものは、これほどまでに軽いものなのですか? 目利きの良い道具屋に見てもらいました。これが正宗であれば、それはたいそう貴重なものである、と。なんでも、この正宗は、畳につけて押しやると、曲がるんでございますね」。膝下に刃先を入れて曲げると脇差しは女の力でも折れてしまった。嘘であったことがバレて、焦る金谷。須賀は今こそ、毬信の恨み!との思いで、泥酔した金谷の脇腹を、背中を斬りつけていく。苦しみもがき、息絶えた金谷の背中に馬乗りになって、怨念を込めてメッタ刺し、金谷の生首を風呂敷に何重にも包み、それを愛する毬信の墓前へ差し出す。「操を守りきれず、申し訳ございませんでした。これで本当の供養ができました」と毬信に語りかけ、須賀はしごきを取ってヒザを硬く縛り、懐に入れてきた匕首(あいくち)で自分の命を絶ってしまった。

 調べていくと金谷の悪事が露見、金谷家は断絶。須賀は鞠信の墓に入れられ、今でも二人は谷中南泉寺に眠っているという。
 これは圓朝作「名人比べ錦の舞衣。板東須賀、狩野鞠信」のお噺、読み終わりでございます。

 

絵図;原本”錦の舞衣”圓朝作の挿絵に使われている「巴御前」。国立国会図書館蔵
Top写真;TBS-TVより、この噺をする「柳家喬太郎」

 



1.オペラ「トスカ」を翻案した圓朝作品
 19世紀末ヨーロッパで大変な評判を得ていた、 ヴィクトリアン・サルドゥー書き下ろしの戯曲「ラ・トスカ」。 これを1890年にプッチーニがミラノで観劇し、台本をもらい下げ、オペラ「トスカ」として新たに世に誕生させた。一方、日本ではその約10年前、ジャーナリストとして渡欧していた福地桜痴からサルドゥーの「ラ・トスカ」の話をきいた、落語の中興の祖と言われる、三遊亭圓朝が明治22年(1889)にコレを翻案し、人物の名前も原作の人物名を巧く邦名に変え、江戸を舞台として、人情噺として世に送り出した。 (公演パンフレットより一部抜粋・参照)

 国立国会図書館にこの本があります。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/891418/4 

■歌劇「トスカ」要約  http://www.geocities.jp/wakaru_opera/tosca.html (わかる!オペラ情報館)

【時と場所】;1800年6月17日、ローマ
【登場人物】
トスカ(S): 歌手 (噺では踊りの坂東須賀)
カヴァラドッシ(T): トスカの恋人、画家 (噺では狩野毬信)
スカルピア(Br): ローマの警視総監 (噺では与力・金谷東太郎)
アンジェロッティ(Bs): 政治犯、共和主義者 (噺では宮脇数馬)

【第1幕】
時は1800年6月、舞台はローマ。このときローマは共和制が崩壊していて、王制のもとで恐怖政治が行われていました。王制側の警視総監スカルピアは、共和主義者を次々と投獄していましたが、そのひとりアンジェロッティは脱獄に成功して、聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会に身を隠します。そこで出会ったのが、この教会でマリアの絵を描いていた画家で、共和主義の同志だったカヴァラドッシです。カヴァラドッシは、脱獄してきたアンジェロッティを自分の隠れ家に案内します。
一方、アンジェロッティを追ってきて教会を捜索していた警視総監スカルピアは、そこでローマの歌姫トスカを見つけます。彼は、トスカが恋人カヴァラドッシの家に行くようにうまく仕向けて、その後を手下に尾行させることにしました。
このときスカルピアには、王制側の軍が共和制を掲げるナポレオン軍を破ったという知らせが入っていました。
 
【第2幕】
その夜、ファルネーゼ宮殿の自室にいたスカルピアは、手下からアンジェロッティは見つからなかったが、カヴァラドッシを連れてきたと聞き、彼を拷問にかけて居場所を聞き出そうとします。彼が口を割らないので、スカルピアはトスカを呼びつけ、恋人が拷問されているのを見せます。トスカはそれに耐えられず隠れ家の場所を教えてしまいました。
ちょうどそのときです。王制側の軍が勝ったというのは間違いで、ナポレオン軍が勝利したという一報が入ります。王制による恐怖政治はこれでおしまいだと喜ぶカヴァラドッシを、怒ったスカルピアは死刑にすることとしました。
トスカは彼の命を助けてほしいとスカルピアに頼みます。スカルピアはトスカが体を自分に捧げるなら助けてやると約束します。そして、スカルピアが彼女の体に手を触れようとした瞬間、トスカはそこにあったナイフでスカルピアを刺し殺してしまいました。
 
【第3幕】
トスカはその足で、サン・タンジェロ城の牢屋に捕らわれているカヴァラドッシのもとに駆けつけます。彼女は一部始終を彼に話して、銃殺刑は空砲で見せかけのもので、その後いっしょに逃げられることを伝えます。
しかし、処刑が執行されて、トスカがカヴァラドッシに近寄ってみると、彼は死んでいます。スカルピアとの約束が嘘だったことにトスカは初めて気が付きました。ちょうどスカルピア殺害を発見した兵士が追ってきたとき、トスカは城壁から身を投げて自らの命を絶ってしまった。

 

2.三遊亭圓朝
 江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、小圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決める。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。 

 

3.谷中・南泉寺 (やなか・なんせんじ。荒川区西日暮里三丁目8)
 
臨済宗妙心寺派の南泉寺は瑞応山と称します。元和2年(1616)徳川家から境内3200余坪を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享3年(1686)朱印地30石を賜った。
 本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家紋、「遠山家 息心菴本尊、正観音菩薩、安政四年丁巳星七月十日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が加えられているが、鎌倉期の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。境内には、菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。(荒川区教育委員会掲示より)

二人の戒名;戒名は儀山信操居士(鞠信)、貞山美操信女(須賀)二つの小さい墓が並んでいる。と圓朝は噺の最期に言っていますが・・・。この噺は翻訳ですから、その事実もありませんし、当然戒名も墓も創作です。

村松町(むらまつちょう。中央区東日本橋一丁目1〜3、横山町の近所);刀屋の店舗が多かった所と、志ん生も落語「おせつ徳三郎・下」(=刀屋)で言っています。村松町、両国、橘町が一緒になって今は東日本橋になってしまった。どこを探しても刀屋は有りません。横山町が近いせいか、衣料関係の業種が多く集まって商っています。その後にはマンションの新築ラッシュです。

右図;「江戸庶民風俗図絵・刀屋」三谷一馬画

根岸(ねぎし);最期の踊りを舞う料理屋があった所。
 台東区根岸一〜五丁目。JR鶯谷駅東側一帯。落語「悋気の火の玉」、「茶の湯」を参照。

 

4.言葉
■常盤御前
(ときわごぜん);常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいを懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。これが俗に言う「操捨てて操を立てる」の言葉のでどころ。

巴御前(ともえごぜん);須賀が舞い踊った題名。巴御前は木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(*注)を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。
 義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首をねじ切って捨てた。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた。

*注; 便女(びんじょ)というのは、文字通り「便利な女」の意味で、戦場では男と同等に戦い、本陣では武将の側で身の回りの世話をする(性的奉仕を含む)召使いの女。当時それらの役割は「寵童」と呼ばれる見た目の良い少年にさせる事が多かった。便女も見た目のよい女性が就く場合が多く、便女=美女という解説がなされる場合もある。

大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろう_らん);天保8年(1837)に、大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱。
 前年の天保7年(1836)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。明治維新をさかのぼること30年前の出来事であった。

 大塩の乱の後、一般民衆の中には「大塩残党」を名乗る越後(新潟県)柏崎の生田万の乱、備後(広島県)三原の一揆、摂津(大阪府)能勢の山田屋大助の騒動など、各地で大規模な騒動が続発した。一方、幕政担当者は、江戸日本橋に建てられた大塩平八郎らの捨て札(処刑者の罪状を書いて日本橋のたもとに建てておく札のこと)は重罪人であることを強調するためか厳めしい造りであったといわれている。しかも、大阪での処刑者の捨て札が江戸に建てられることは、この事件が初めてである。これは大塩に対する同情・共感がかなりあったためといわれており、それゆえその罪状を周知徹底させる必要があったため厳めしい造りの捨て札が江戸に建てられたのだといわれている。 

吟味与力(ぎんみよりき);民事裁判・刑事裁判の審理と裁判を行い、結審にむけた事務処理もおこなう。玄関左側の3ヵ所ある詮議所で詮議した。死刑以上の犯罪容疑者で自白しないときに奉行に拷問を申請、老中から拷問許可がおりると吟味与力が直接牢屋敷まで出張して牢問から拷問の執行の監督をおこなった。拷問の執行は牢屋奉行所の同心である。罪状明白なのに自白しない容疑者に関しては、察斗詰という自白無しでも証拠十分であるという理由での結審・刑罰執行の許可申請を行った。一事件一担当与力制度で、起訴から結審・判決そして刑罰執行の立会人まで担当与力が1人で受け持ったが、まれに交替させられるときもあった。定員は10人で、本役4人・助役4人・見習2人の内訳である。元々、御詮議役与力・吟味詰番と呼ばれていた。
 右写真;町奉行所与力都築十左衛門所用の朱房付き十手(都築家伝来)。与力・同心は朱の房緒をつけた。江戸東京博物館蔵。

船宿(ふなやど);遊船または釣漁などに貸船を仕立てるのを業とする家。船が出るまでの休息または宿泊をさせる出船業者。その後、酒を飲ませ芸者を呼ぶことも出来、男女の密会の場としても提供された。
 右写真;深川江戸資料館、「船宿」の前には和船がつながれている。

正宗の脇差(まさむねのわきざし);刀工・正宗が打った脇差し。
 正宗は、鎌倉後期の刀工、岡崎正宗のこと。名は五郎。初代行光の子という。鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた。義弘・兼光らはその弟子という。三作(鎌倉時代の藤四郎吉光・五郎正宗・郷義弘の三人)の一人。正宗の鍛えた刀。転じて、名刀。
 脇差しは、長い打刀(ウチガタナ)に添えて脇に差す小刀(チイサガタナ)。「差添(サシゾエ)の刀」ともいい、江戸時代に、いわゆる大小の小となった刀。脇差は刃渡り1尺(30cm)以上2尺(60cm)未満の物。

写真左;「短刀 相州正宗」重文 東京国立博物館蔵

(りょう);根岸の料理屋の別荘。また、数寄屋。茶寮。

しごき;扱き帯の略。女の腰帯のひとつ。一幅(ヒトハバ。並幅の布で幅30〜36cm)の布を適当な長さに切り、しごいて用いる帯。抱え帯。江戸時代、武家や大店の商家の女性は引きずりの着物を着ていたので、外に出るとき、しごきを取って引きずりを持ち上げ、しめ直した。

目利(めきき);器物・刀剣・書画などの良否・真贋を見分けること。鑑定。また、その人。

匕首(あいくち);合口とも。鍔(ツバ)がなく、柄口(ツカグチ)と鞘口(サヤグチ)とがよく合うように造った短刀。九寸五分(クスンゴブ)。小刀(しょうとう)より刃渡りが短い。

右写真;星梅鉢紋散合口拵(ほしうめばちもんちらしあいくちこしらえ)、中身:短刀 銘備州長船住清光 江戸末期 江戸東京博物館蔵。


 

 舞台の根岸から谷中・南泉寺を歩く

 

 根岸は上記解説でも触れましたが、また改めて歩きます。

 JR鶯谷駅は上野駅の北側に有って洒落た駅名が付いていますが、今は駅前からラブホテル街になっていて、昼間の私でも歩くのに躊躇します。そのホテル街を女性が一人歩きしていると、何か別の意味合いがあって歩いているのじゃ無いかと深読みしてしまいます。しょうが無いですよね、駅までの道なんですから、誰でも通りますがが子連れでは歩きたくない、そんな駅前です。それより肩からカメラをぶら下げた変なオジサンが歩いている方がよっぽど違和感があるかも知れません。そのど真ん中に、「元三島神社」(根岸一丁目7)が有ります。昭和51年4月に新築された本殿をもつ歴史は古いがピカピカの神社です。下谷七福神の寿老人を祀る神社で正月は忙しい所でしょうが、時期が外れているので参拝者はチラホラとしかいません。

 早々にホテル街から脱出して言問通りの鶯谷駅前交差点に出ます。立体交差の上部は左のJRの線路をまたぐ寛永寺陸橋を渡って寛永寺がある上野の山に入って行きますが、今回は下を抜けて尾久橋通りに向かいます。右側に根岸小学校が有りその手前に「庚申塚」が有ります。その正面側通りを渡った所に「笹の雪」という豆腐料理やさんが有ります。フルコース食べても腹持ちせず、その後に焼肉を食べに行くとは・・・。この角を左に曲がります。

 先程の駅前は根岸一丁目、これから西に根岸二丁目になります。間もなく左にYの字に入る小路が有って入ると先代三平さんが住んでいた屋敷が有ります。息子・現三平も住んでいますが、そこが資料館の「三平堂」です。本日は定休日ですから素通りして、その一本西側の並行した路地に出ますと、俳句で明治を引っ張った正岡子規の住居跡があります。子規の歌、

「梅もたぬ根岸の家はなかりけり」

「垣低し番傘通る春の雨」

 子規保存会が管理していて、街中に子規庵に来るまでに沢山の地図と子規の句が張り出されています(上写真)。「子規庵」(根岸二丁目5)と言っても、二軒長屋の片方を借りていたので、平屋建ての小さな家ですが、庭も付いた小洒落た造りです。明治35年子規はここで亡くなり、まだ34才でした。昭和2年、母八重もここで83才で亡くなり、妹の律も昭和16年ここで七十一まで生き、兄、子規の元へ旅だった。関東大震災後、大家から買い取ったが空襲で焼け、焼失前のように再建され友人達の力で維持された。
 その先に中村不折(なかむらふせつ。画家、書道家)邸だった所を、新しく「書道博物館」(根岸二丁目10)として再建されています。この前の小径をうぐいす横町と言います。ここから日暮里に向けて歩きますと、「御院殿跡」(根岸二丁目19)の根岸薬師寺が現れます。これは裏(いや、実は表)の寛永寺門主の心休める別邸があった所で、明治の初め彰義隊との戦があって、全て戦火の中で焼失してしまいました。今はその当時の面影は全くありません。
 日暮里駅に向かう途中に「羽二重団子」屋さんが有り、お茶と団子で一息。名物に旨いもの・・・、と悪口が聞こえてきますが、旨い物も有るようです。

 諏方台通りを日暮里から西日暮里に向かって入って行きます。ここも過日落語「心中時雨傘」で、歩いたとこです。ここに二度来るとは思ってもいませんでした。前回のおさらいのような感じで歩いています。この路は尾根路になっていて、右側はJRの線路が崖下を走っています。また左側は住宅もありますが、尾根の坂上までお寺さんとその墓地が並んでいます。その左手の崖を下りる急な坂路が、富士見坂と言われ、東京で富士山が見えることで有名な坂でしたが、残念ながらあれから4年の内に、その手前にマンションが建ってしまい、富士山を目隠ししてしまいました。地元の人は数年前の富士山の遠景写真を張りだしていますが、遺影のように思われてなりません。
 坂を下りて突き当たり右手側には花見寺の「修称院」と「青雲寺」がありますが、今回は左に曲がって「南泉寺」(西日暮里三丁目8)を訪ねます。曲がって法光寺隣二つ目のお寺さんが南泉寺。山門の入口脇に建つ石柱に「ろくあみだみち」と刻まれています。(右写真)
 庫裡の呼び鈴を押して、奥様に鞠信と須賀のことを聞きましたが、「過去帳があるので調べることは出来ますが、本名と亡くなった年号が分からないと、調べようが無い」と言われ、墓が有るとも無いとも何とも言えないという返事。過去にこの様な質問を受けたことがなく、やはり、この部分は噺の中のフィクションなのでしょう。裏の墓地は尾根に張り付くような広大さで、私も調べようがありません。手入れが行き届いた前庭と、本堂の雨戸は綺麗に磨かれてキリリとしたお寺さんです。
 そうでした、原作が西洋の「トスカ」を翻案したのですから、そんなにピッタリの話が日本に有るわけが無く、舞台や人間は後からはめ込んだものです。聞きに行った私がバカでした。
 その時は後ろ髪引かれる思いで、門を出て左に曲がり日暮里方向に向かいます。出た商店街がTV、週刊誌で紹介される「谷中ぎんざ」で、古今亭親子が良く買い物に来ていた商店街です。惣菜や魚、衣料品、花屋さん、どれも廉価で、私ですら買って帰ろうかと思ったほどです。

 刀屋が有ると言われた「村松町」に出掛けます。現在は東日本橋一丁目の中に吸収されてしまいましたが、江戸時代は刀が欲しいときはここに来れば、どんな刀でも揃うと言われた所です。行かなくても分かるのですが、現在は刀屋や古道具屋は一軒もありません。その代わり衣料関係の店が軒を並べています。そうです、ここの北側には衣料品問屋が手をつないでいますし、プロが集まる横山町や馬喰町の問屋街を控えています。
 噺の中では、村松町物と言えば安物の刀を指すと言います。花器でも、軸でも、絵画、彫刻、書でもどんな物でも、一級品は店には置かず、主人がその道の好事家に直接持ち込み商談を成立させます。どうしても、それ以外の物(刀剣)が店に残り展示され販売されます。美術品関係の国宝級は例え有ったとしても、店から見えない奥にしまわれているでしょう。財力がある好事家に裏から裏に流れていきます。
 古道具屋さんに行って、見ていると正宗の大刀が10万円以下で売っています。本物だったら数千万円を下らないでしょうから、当然偽物。よくよく見ると”正宗造り”とか”正宗風”とか書かれていて、居合いや飾りに使うという刃がついて無い刀です。警察の刀剣所持がいらない、偽物ではなく模造刀だと言います。そんな刀風のニセ刀ではなく、本物の刀でも畳に押しつけると曲がったり、女の力で折れてしまう刀も有ったのでしょう。ま、こういう手合いは外装の造りが誠に立派だから騙されてしまいます。

 

地図


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写真


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元三島神社(台東区根岸1-7)
 境内には子規の句碑が建っていて、「木槿(ムクゲ)咲く絵師の家問ふ三嶋前」。絵師とは子規庵前にある中村不折のことで、子規との往来は多かったと言います。彼の家が現在は書道博物館になっています。

ねぎし三平堂(台東区根岸2−10)
 ご存じ先代林家三平の住まいを改造して2階部分を彼の資料室として一般開放しているものです。

子規庵(台東区根岸2−5)
 根岸二丁目では中村不折でも林家三平でもなく、正岡子規が中心になっています。ヘチマ棚の見える部屋で子規は晩年床をしつらえ過ごしました。「痰一斗糸瓜(ヘチマ)の水も間にあはず」、「土一塊牡丹生けたるその下に」、「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 」 絶筆三句。

子規庵庭
 友人から贈られたガラス窓から見る雑草が生い茂る庭。子規も晩年このガラス越しに庭を楽しんだ。そこにメジロが飛んで来て、お客の一人が「ウグイスだ!」と叫んでいたら、保存会の人にメジロだと説明を受けていた。(ウグイス谷にいますから)。結構、野鳥が飛んできます。

書道博物館(台東区根岸2−10)
 中村不折邸跡に建った区立書道博物館です。彼の絵画を初め、蒐集された書が1万6千点あり、重文12点、重要美術品5点が含まれる。昭和18年亡くなるまで30年間根岸に住んだ。

御隠殿跡台東区根岸2−19)
 寛永寺には天皇家の親族が天台座主に就いていた。その座主が休息のためにここを利用した。敷地3千数百坪の敷地に老松が生い茂り、池を持つ庭園が有り、ここから眺める月は美しかったという。明治の初め彰義隊の戦(上野戦争)で焼失し、現在はその面影も無い。

富士見坂 (西日暮里三丁目8北側の坂)
 4年前に落語「心中時雨傘」の取材で来たときには、まだ富士山を望むことが出来た坂であった。しかし、今来てみるとポールの富士山の位置にマンションが建って、生の富士山が見えなくなってしまった。残念と言う他無し。東京から富士山がだんだん見えなくなってきた。坂を下った左2軒目が下記南泉寺です。

南泉寺(西日暮里三丁目8)
 臨済宗妙心寺派寺院の南泉寺は瑞応山と号します。大愚(寛文9年1669年寂)が開山となり元和2年(1616)に創建、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享3年(1686)寺領30石の朱印状を拝領したといいます。大愚は東久留米米津寺を開山した臨済宗の名僧です。

南泉寺庭
 西南戦争別働第三旅団四番小隊の戦病死者、横田貞永(鹿児島県士)、岡田惟頼(旧幕臣)、青木萬亀雄(茨城県士)、三名の招魂碑「戦死之墓」が本堂入口の右側にある。 その奥が本堂前にある庭園で、冬枯れの中でも品の良さが伝わってくる。

 

谷中ぎんざ(荒川区西日暮里三丁目14北側の路)
 夕焼けだんだんと名付けられた階段坂を下ると谷中ぎんざ商店街が始まります。
 谷中銀座商店街振興組合は、JR日暮里駅西口・地下鉄千代田線千駄木駅(道灌山ロ)より徒歩3分のところにあります。台東区の西北端に位置し、台東区谷中3丁目と荒川区西日暮里3丁目にまたがる近隣型商店街です。小さな、でも活気にあふれた商店街で、どこかで見たことのあるような、懐かしい雰囲気がお客さんを待っています。

村松町(中央区東日本橋一丁目1〜3)
 小さな町角の一角に昭和の中程まで町名があった、村松町です。写真は清澄通りの歩道橋の上から隅田川方向を俯瞰しています。左側の手前から真ん中辺りのビルまでが村松町で、交差点を左に曲がってもすぐ街からはみ出してしまうほど小さな一角です。ここに江戸時代は刀屋が集まっていたと言います。しかし、今は・・・。  

                                                           2014年3月記

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