■二人の戒名;戒名は儀山信操居士(鞠信)、貞山美操信女(須賀)二つの小さい墓が並んでいる。と圓朝は噺の最期に言っていますが・・・。この噺は翻訳ですから、その事実もありませんし、当然戒名も墓も創作です。
■村松町(むらまつちょう。中央区東日本橋一丁目1〜3、横山町の近所);刀屋の店舗が多かった所と、志ん生も落語「おせつ徳三郎・下」(=刀屋)で言っています。村松町、両国、橘町が一緒になって今は東日本橋になってしまった。どこを探しても刀屋は有りません。横山町が近いせいか、衣料関係の業種が多く集まって商っています。その後にはマンションの新築ラッシュです。
右図;「江戸庶民風俗図絵・刀屋」三谷一馬画
■根岸(ねぎし);最期の踊りを舞う料理屋があった所。
台東区根岸一〜五丁目。JR鶯谷駅東側一帯。落語「悋気の火の玉」、「茶の湯」を参照。
4.言葉
■常盤御前(ときわごぜん);常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいを懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。これが俗に言う「操捨てて操を立てる」の言葉のでどころ。
■巴御前(ともえごぜん);須賀が舞い踊った題名。巴御前は木曾四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(*注)を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。
義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首をねじ切って捨てた。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた。
*注;
便女(びんじょ)というのは、文字通り「便利な女」の意味で、戦場では男と同等に戦い、本陣では武将の側で身の回りの世話をする(性的奉仕を含む)召使いの女。当時それらの役割は「寵童」と呼ばれる見た目の良い少年にさせる事が多かった。便女も見た目のよい女性が就く場合が多く、便女=美女という解説がなされる場合もある。
■大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろう_らん);天保8年(1837)に、大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱。
前年の天保7年(1836)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。明治維新をさかのぼること30年前の出来事であった。
大塩の乱の後、一般民衆の中には「大塩残党」を名乗る越後(新潟県)柏崎の生田万の乱、備後(広島県)三原の一揆、摂津(大阪府)能勢の山田屋大助の騒動など、各地で大規模な騒動が続発した。一方、幕政担当者は、江戸日本橋に建てられた大塩平八郎らの捨て札(処刑者の罪状を書いて日本橋のたもとに建てておく札のこと)は重罪人であることを強調するためか厳めしい造りであったといわれている。しかも、大阪での処刑者の捨て札が江戸に建てられることは、この事件が初めてである。これは大塩に対する同情・共感がかなりあったためといわれており、それゆえその罪状を周知徹底させる必要があったため厳めしい造りの捨て札が江戸に建てられたのだといわれている。
■吟味与力(ぎんみよりき);民事裁判・刑事裁判の審理と裁判を行い、結審にむけた事務処理もおこなう。玄関左側の3ヵ所ある詮議所で詮議した。死刑以上の犯罪容疑者で自白しないときに奉行に拷問を申請、老中から拷問許可がおりると吟味与力が直接牢屋敷まで出張して牢問から拷問の執行の監督をおこなった。拷問の執行は牢屋奉行所の同心である。罪状明白なのに自白しない容疑者に関しては、察斗詰という自白無しでも証拠十分であるという理由での結審・刑罰執行の許可申請を行った。一事件一担当与力制度で、起訴から結審・判決そして刑罰執行の立会人まで担当与力が1人で受け持ったが、まれに交替させられるときもあった。定員は10人で、本役4人・助役4人・見習2人の内訳である。元々、御詮議役与力・吟味詰番と呼ばれていた。
右写真;町奉行所与力都築十左衛門所用の朱房付き十手(都築家伝来)。与力・同心は朱の房緒をつけた。江戸東京博物館蔵。
■船宿(ふなやど);遊船または釣漁などに貸船を仕立てるのを業とする家。船が出るまでの休息または宿泊をさせる出船業者。その後、酒を飲ませ芸者を呼ぶことも出来、男女の密会の場としても提供された。
右写真;深川江戸資料館、「船宿」の前には和船がつながれている。
■正宗の脇差(まさむねのわきざし);刀工・正宗が打った脇差し。
正宗は、鎌倉後期の刀工、岡崎正宗のこと。名は五郎。初代行光の子という。鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた。義弘・兼光らはその弟子という。三作(鎌倉時代の藤四郎吉光・五郎正宗・郷義弘の三人)の一人。正宗の鍛えた刀。転じて、名刀。
脇差しは、長い打刀(ウチガタナ)に添えて脇に差す小刀(チイサガタナ)。「差添(サシゾエ)の刀」ともいい、江戸時代に、いわゆる大小の小となった刀。脇差は刃渡り1尺(30cm)以上2尺(60cm)未満の物。
写真左;「短刀 相州正宗」重文 東京国立博物館蔵
■寮(りょう);根岸の料理屋の別荘。また、数寄屋。茶寮。
■しごき;扱き帯の略。女の腰帯のひとつ。一幅(ヒトハバ。並幅の布で幅30〜36cm)の布を適当な長さに切り、しごいて用いる帯。抱え帯。江戸時代、武家や大店の商家の女性は引きずりの着物を着ていたので、外に出るとき、しごきを取って引きずりを持ち上げ、しめ直した。
■目利(めきき);器物・刀剣・書画などの良否・真贋を見分けること。鑑定。また、その人。
■匕首(あいくち);合口とも。鍔(ツバ)がなく、柄口(ツカグチ)と鞘口(サヤグチ)とがよく合うように造った短刀。九寸五分(クスンゴブ)。小刀(しょうとう)より刃渡りが短い。
右写真;星梅鉢紋散合口拵(ほしうめばちもんちらしあいくちこしらえ)、中身:短刀 銘備州長船住清光 江戸末期 江戸東京博物館蔵。
舞台の根岸から谷中・南泉寺を歩く
根岸は上記解説でも触れましたが、また改めて歩きます。
JR鶯谷駅は上野駅の北側に有って洒落た駅名が付いていますが、今は駅前からラブホテル街になっていて、昼間の私でも歩くのに躊躇します。そのホテル街を女性が一人歩きしていると、何か別の意味合いがあって歩いているのじゃ無いかと深読みしてしまいます。しょうが無いですよね、駅までの道なんですから、誰でも通りますがが子連れでは歩きたくない、そんな駅前です。それより肩からカメラをぶら下げた変なオジサンが歩いている方がよっぽど違和感があるかも知れません。そのど真ん中に、「元三島神社」(根岸一丁目7)が有ります。昭和51年4月に新築された本殿をもつ歴史は古いがピカピカの神社です。下谷七福神の寿老人を祀る神社で正月は忙しい所でしょうが、時期が外れているので参拝者はチラホラとしかいません。
早々にホテル街から脱出して言問通りの鶯谷駅前交差点に出ます。立体交差の上部は左のJRの線路をまたぐ寛永寺陸橋を渡って寛永寺がある上野の山に入って行きますが、今回は下を抜けて尾久橋通りに向かいます。右側に根岸小学校が有りその手前に「庚申塚」が有ります。その正面側通りを渡った所に「笹の雪」という豆腐料理やさんが有ります。フルコース食べても腹持ちせず、その後に焼肉を食べに行くとは・・・。この角を左に曲がります。
先程の駅前は根岸一丁目、これから西に根岸二丁目になります。間もなく左にYの字に入る小路が有って入ると先代三平さんが住んでいた屋敷が有ります。息子・現三平も住んでいますが、そこが資料館の「三平堂」です。本日は定休日ですから素通りして、その一本西側の並行した路地に出ますと、俳句で明治を引っ張った正岡子規の住居跡があります。子規の歌、
「梅もたぬ根岸の家はなかりけり」
「垣低し番傘通る春の雨」
子規保存会が管理していて、街中に子規庵に来るまでに沢山の地図と子規の句が張り出されています(上写真)。「子規庵」(根岸二丁目5)と言っても、二軒長屋の片方を借りていたので、平屋建ての小さな家ですが、庭も付いた小洒落た造りです。明治35年子規はここで亡くなり、まだ34才でした。昭和2年、母八重もここで83才で亡くなり、妹の律も昭和16年ここで七十一まで生き、兄、子規の元へ旅だった。関東大震災後、大家から買い取ったが空襲で焼け、焼失前のように再建され友人達の力で維持された。
その先に中村不折(なかむらふせつ。画家、書道家)邸だった所を、新しく「書道博物館」(根岸二丁目10)として再建されています。この前の小径をうぐいす横町と言います。ここから日暮里に向けて歩きますと、「御院殿跡」(根岸二丁目19)の根岸薬師寺が現れます。これは裏(いや、実は表)の寛永寺門主の心休める別邸があった所で、明治の初め彰義隊との戦があって、全て戦火の中で焼失してしまいました。今はその当時の面影は全くありません。
日暮里駅に向かう途中に「羽二重団子」屋さんが有り、お茶と団子で一息。名物に旨いもの・・・、と悪口が聞こえてきますが、旨い物も有るようです。
諏方台通りを日暮里から西日暮里に向かって入って行きます。ここも過日落語「心中時雨傘」で、歩いたとこです。ここに二度来るとは思ってもいませんでした。前回のおさらいのような感じで歩いています。この路は尾根路になっていて、右側はJRの線路が崖下を走っています。また左側は住宅もありますが、尾根の坂上までお寺さんとその墓地が並んでいます。その左手の崖を下りる急な坂路が、富士見坂と言われ、東京で富士山が見えることで有名な坂でしたが、残念ながらあれから4年の内に、その手前にマンションが建ってしまい、富士山を目隠ししてしまいました。地元の人は数年前の富士山の遠景写真を張りだしていますが、遺影のように思われてなりません。
坂を下りて突き当たり右手側には花見寺の「修称院」と「青雲寺」がありますが、今回は左に曲がって「南泉寺」(西日暮里三丁目8)を訪ねます。曲がって法光寺隣二つ目のお寺さんが南泉寺。山門の入口脇に建つ石柱に「ろくあみだみち」と刻まれています。(右写真)
庫裡の呼び鈴を押して、奥様に鞠信と須賀のことを聞きましたが、「過去帳があるので調べることは出来ますが、本名と亡くなった年号が分からないと、調べようが無い」と言われ、墓が有るとも無いとも何とも言えないという返事。過去にこの様な質問を受けたことがなく、やはり、この部分は噺の中のフィクションなのでしょう。裏の墓地は尾根に張り付くような広大さで、私も調べようがありません。手入れが行き届いた前庭と、本堂の雨戸は綺麗に磨かれてキリリとしたお寺さんです。
そうでした、原作が西洋の「トスカ」を翻案したのですから、そんなにピッタリの話が日本に有るわけが無く、舞台や人間は後からはめ込んだものです。聞きに行った私がバカでした。
その時は後ろ髪引かれる思いで、門を出て左に曲がり日暮里方向に向かいます。出た商店街がTV、週刊誌で紹介される「谷中ぎんざ」で、古今亭親子が良く買い物に来ていた商店街です。惣菜や魚、衣料品、花屋さん、どれも廉価で、私ですら買って帰ろうかと思ったほどです。
刀屋が有ると言われた「村松町」に出掛けます。現在は東日本橋一丁目の中に吸収されてしまいましたが、江戸時代は刀が欲しいときはここに来れば、どんな刀でも揃うと言われた所です。行かなくても分かるのですが、現在は刀屋や古道具屋は一軒もありません。その代わり衣料関係の店が軒を並べています。そうです、ここの北側には衣料品問屋が手をつないでいますし、プロが集まる横山町や馬喰町の問屋街を控えています。
噺の中では、村松町物と言えば安物の刀を指すと言います。花器でも、軸でも、絵画、彫刻、書でもどんな物でも、一級品は店には置かず、主人がその道の好事家に直接持ち込み商談を成立させます。どうしても、それ以外の物(刀剣)が店に残り展示され販売されます。美術品関係の国宝級は例え有ったとしても、店から見えない奥にしまわれているでしょう。財力がある好事家に裏から裏に流れていきます。
古道具屋さんに行って、見ていると正宗の大刀が10万円以下で売っています。本物だったら数千万円を下らないでしょうから、当然偽物。よくよく見ると”正宗造り”とか”正宗風”とか書かれていて、居合いや飾りに使うという刃がついて無い刀です。警察の刀剣所持がいらない、偽物ではなく模造刀だと言います。そんな刀風のニセ刀ではなく、本物の刀でも畳に押しつけると曲がったり、女の力で折れてしまう刀も有ったのでしょう。ま、こういう手合いは外装の造りが誠に立派だから騙されてしまいます。
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