落語「千早振る」の舞台を歩く
   

 

 先代柳家小さんの噺、「千早振る」(ちはやふる)

 
 
 

 金さんの娘連中は百人一首のカルタ取りをしている。取るだけでは面白くないから歌の内容を調べてみようと言うことになった。
 家の娘は業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川からくれないに水くぐるとは」、と言う解釈を調べるのだが、私に聞くので、忙しいから帰ったら教えてやるとごまかした。帰っても家の娘だからズーッといるでしょうから、そのまま隠居のところに教えてくれと聞きに来た。

 隠居は業平はイイ男で、美女は小野小町しかいない。その業平だろう、「千早ふる神代も聞かずたつた川からくれないに水くぐるとは」だろう。「”千早ふる神代も聞かず”だろ、すると”竜田川からくれないに”となって、続いて”水くぐるとは”になるんだ」、「ダメだよ切れ切れに言っただけじゃ無いか」。隠居は2~3回読み直しているとひらめいてきた。

 「竜田川・・・、金さん、この竜田川は何だと思う」、「何だと言われても」、「川が付くから何処かの川だと思うかい。違うんだな、竜田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」。と断言した。こうなると隠居の一人舞台になった。


 「竜田川は大関まで取った立派な相撲取りだった。田舎から出てきて江戸で修行して、強くなりたいと神信心をして、女を絶って大関を目指した。5年経って立派な大関になった。願ほどきをして女房が持てる身体になった。ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。
 丁度その時、花魁道中に出くわした。その中でも全盛の千早太夫に出くわした。「この時竜田川はブルブルと震えたな」、「マラリヤですか」、「バカだな、違うよ。太夫に一目惚れ」。お客さんに聞くと、太夫は売り物、買い物、茶屋に上がって話を通すと『私は相撲取りは嫌でアリンス』と振られてしまった。しかたがないので、妹女郎の神代太夫に口をかけると、これまた『姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤでアリンス』とまた振られてしまった」。

 つくづく相撲取りが嫌になった竜田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。「なんで大関の相撲取りが豆腐屋になるんです」、「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。お前がつべこべ言うことは無いんだ。親の家業が豆腐屋だったんだ」、「それなら・・・」。
 家に戻るとボロボロの店だった。両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで5年後。店も立派になった秋の夕暮れ。竜田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女乞食が竹の杖につかまって一人立っていた。「3日3晩何も食べていません。オカラを恵んで下さい」、気の毒に思い、大きな手でグッとつかんで渡そうと思うと、なんとこれが千早太夫のなれの果て。「おかしいよ。そんな立派な太夫が乞食だなんて」、「乞食には一番なりやすいんだ。だったらお前もなってみるか」。
 女は真っ赤な顔をして、逃げるところを、肩口を捕まえてダ~んと突いたね。突いたのは元大関、突かれたのは何も食べていない軽い女、弾みで飛んで、その先の土手にぶつかり、跳ね返ってきた。女は店先の柳の木につかまってハラハラと涙を流し、そこにある井戸に身を投げてしまった。「死んじゃったよ」、「井戸から『うらめしや~』とかなんとか言って、幽霊になったんだ」、「ならない」、「これだけおもしろい話は、因縁話になって続くのでしょ」、「続かない。おわり。しつこいな」。

 「初めが、千早振るだろ」、「あ!これは歌の話?」、「そうだよ。ぼんやり聞いていちゃーダメだよ」、「あんまり長い話だから、忘れちゃったよ」、「千早に振られたから”千早ふる”、神代も言うことを聞かないから”神代も聞かず竜田川”だ」、「後は?」、「5年経ってオカラをくれと言ったがやらなかっただろ、だから”からくれないに”なるだろ」、「それは無いでしょ。まるで判じ物だ。”水くぐる”ってえのは?」、「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」、「そうか、どんな軽くても水をくぐるな。・・・でもおかしいじゃないか。”水くぐる”なら水くぐると終われば良いじゃないか、”水くぐるとは”と言って”とは”が付いているが、”とは”とは何ですか」、「お前もウルサい奴だな。そのぐらい負けておけ」、「負けられません」、
「後でよ~く調べたら千早の本名だった」。

 

似顔絵;山藤章二画「小さん」

 



1.竜田川
 竜田川は、奈良県生駒郡斑鳩町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。


                                                                         ↓↓拡大図


竜田川駅(たつたがわえき)は、奈良県生駒郡平群町西宮にある、近畿日本鉄道(近鉄)生駒線の駅。

 12月上旬、奈良県生駒郡斑鳩町の竜田川
 竜田川(たつたがわ)は、大和川水系の支流で奈良県を流れる一級河川。上流を生駒川(いこまがわ)、中流を平群川(へぐりがわ)とも称する。 写真;ウイキペディアより

  「ちはやぶる神代も聞かず龍田川 からくれなゐに水くくるとは」 (古今和歌集 在原業平朝臣)

本来の意味は、

 神々が住み、不思議なことが当たり前のように起こっていた、いにしえの神代でさえも、こんな不思議で美しいことは起きなかったに違いない。
 奈良の竜田川の流れが、舞い落ちる紅葉を川面に映し、鮮やかな唐紅の紅でくくり染め(=しぼり染め)になっているなんて。

 この歌は「屏風歌」です。屏風歌とは、屏風に描かれた絵に合わせて、その脇に和歌を付けたものです。
 古今集の詞書には「二条(にでう)の后(きさい)の春宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)と申しける時に、御屏風(みびゃうぶ)に竜田川に紅葉流れたる形(かた)を描きけるを」と前書きにあります。
 二条の后とは、藤原長良(ながら)の娘の高子(たかいこ)のことで、清和天皇の女御(にょうご=天皇の側室)でした。その二条の后が、春宮(皇太子)の御息所(=皇子を生んだ女御)だった頃、后の屏風に竜田川に紅葉が流れている絵が描かれているのを、作者の在原業平が見て、付けた歌だと言われます。

右写真;広重描く六十余集名所図会 大和立田町 「龍田川」

 

2.言葉
■在原業平と小野小町
(ありわらのなりひら_おののこまち);代表的な美男美女

 

「在原業平朝臣」 狩野探幽画(画帳)           「小野小町」 角倉素庵歌仙絵

百人一首(ひゃくにんいっしゅ);百人の歌人の和歌1首ずつを撰集したもの。藤原定家が京都・小倉山の時雨亭で撰といわれる小倉百人一首が最もよく行われ、のち、これを模倣したものも多い。
それをカルタにして、カルタ取りをするようになった。

大関(おおぜき);江戸時代、相撲の番付の最高位。また、その力士。本来は称号であった「横綱」が、地位として考えられるようになって、現在は横綱に次ぐ地位とされる。大関が将軍の前で御前相撲を取るときは横綱と呼称した。しかし雷電為右衛門はそのチャンスがなく、強かったが称号は付与されずに大関のままで終わった。

 「谷風、小野川 引き分け之図」 勝川春英画 寛政3年(1791) 相撲博物館蔵

「関取道中之図」三代歌川豊国画 相撲博物館蔵 左から剣山、小柳、秀ノ山

吉原の夜桜(よしわらのよざくら);遊廓吉原の夜桜見物のこと。その日のためにわざわざ見ごろとなる桜を植え、終われば抜いて、明年、新に植えるという手の込んだものであったいう。

 「北廓月の夜桜」 歌川国貞画 吉原大門から仲ノ町の桜並木を見る。

「吉原遊廓の桜」絵葉書 

花魁道中(おいらんどうちゅう);太夫は、吉原の遊廓で最も格の高い遊女で張り店を行わないため、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。太夫がいなくなると全て花魁と言われ、吉原のイベントの時に真似事で吉原を練り歩いた。
右写真;2012年4月撮影 浅草・花魁道中

太夫(だゆう・たゆう);江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。

マラリア;ハマダラカの媒介するマラリア原虫の血球内寄生による伝染病。赤血球内で増殖・分裂して血球を破壊する時期に発熱。隔日に高熱を発する三日熱、最初の発作から2日平温があって4日目に高熱を発する四日熱、および不規則な熱帯熱(悪性マラリア)に分れる。瘧(オコリ)。黒水熱。

オカラ;豆腐製造の際、豆汁(ゴ)を漉して搾って豆乳とかすに分け、そのかす。食用のほか餌料・肥料などに用いる。きらず。卯の花=うのはな。

豆腐屋(とうふや);前ページ、第281話・落語「伽羅の下駄」参照。

 


 

 舞台の業平・両国を歩く

 

 墨田区業平は在原業平から、地名が出ています。南蔵院(移転後;葛飾区東水元2-28-25)「縛られ地蔵尊」(下記写真)の名で有名で、そのいわれを、
 夏の暑い日、さる呉服屋の手代が、大八車に反物を積んで南蔵院の前にさしかかった。暑さのため一服をしていると、ウトウトと寝てしまい、気が付くと車ごと無くなっていたので、奉行所に届け出た。大岡越前の調べで「寺の門前に居ながら、泥棒を黙って見逃すとは同罪なり」と、地蔵をグルグル巻きにして市中引き回しの上、奉行所に引き立てた。それを見た野次馬連中が奉行所に押し掛けて成り行きを見守った。門を閉めて「お白州に乱入するとは不届き至極、科料として反物一反を申し付ける」。その反物の山から盗品が出て、大盗賊団が一網打尽になった。越前守は地蔵の霊験に感謝し、お堂を建立し縄ほどきの供養を行った。
 以来「しばられ地蔵」として、願い事をする時は縄で地蔵を縛るようになった。大晦日に縄ほどきをして、裸のお地蔵さんを拝見する事が出来ます。落語「七面堂」より。

 そして、両国は相撲の街で、現在国技館やちゃんこ鍋料理屋、相撲部屋が多くあります。

 

 業平地区に建った、ときょうSkyTreeの面白い数字

■634(m);「ムサシ」の語呂ですっかりおなじみとなった東京スカイツリーの高さです。
これは地上から、頂部にある長さ約2mの避雷針の先端までの高さです。

■32,000(t);某携帯電話のCMでも紹介されましたが、タワー本体の地上部分の鉄骨重量です。
高さ300mのエッフェル塔の鉄骨重量は約7,000tで約4.5倍の重さですが、これは、使用している鉄の種類や厚さ、また、敷地など諸条件の違いがあることで、タワーの高さと重さは一概に比例しないのですね。

■約1,000(m);東京スカイツリーを中心とした街区は外周に歩行者空間を整備しますが、その全周距離が約1,000mです。
パリ・オペラ通りなど世界の有名なプロムナードの延長が同じくらいの距離です。周辺を含めて楽しい散策ができそうです。

■2,900(人);展望台の最大収容人数合計です。
第1展望台が2,000人、第2展望台は900人という内訳です。

■114(m);第2展望台の外周部にぐるりと取り付く「空中回廊」の延べ長さです。
子どもさんは駆け回っちゃうかもしれませんね。

■28,000(m);東京スカイツリーの設計に先立ち、上空の風を調査するために打ち上げた観測気球(ラジオゾンデ)の最高到達高さです。
タワーの高さの約40倍、なんと、11km〜50kmと言われている成層圏内に到達していました。

■6,000(種類);東京スカイツリーの鋼管接合部(仕口といいます)の種類の数です。
塔体は「そり」と「むくり」をもつ形で、場所ごとに鋼管の接合部が違っているため、こんなに沢山でてきます。
接合部は構造上、大事な部分ですから、一つひとつ全てに安全性の検証を行っています。

■40/60(cm);東京スカイツリーの中央で制振システムとして、また避難階段室となっている「心柱」の厚さです。地上から高さ100mまでが40cm、高さ100mから高さ375mまでが60cmです。
心柱の厚さが途中で変わっているのは、制振システムの錘として機能するように固有周期を調整した結果によるもので、緻密な解析、シミュレーションに基づいているのです。

■48+48(mm);東京スカイツリーの第一展望台には下を覗けるガラス床が一部にあり、そのガラスの厚さ。
下部外装面は対風圧性能も含めて合計48mm上部床面は耐荷重性や耐火性から合計48mmのガラスを設置しています。
万が一の火災が展望台床で起きたときを想定して、実際にガラス床を耐火炉に入れて実証実験をしています。

■2,523(段);1階から東京スカイツリー第2展望台までの非常階段の段数です。途中には一時待機場所も設けています。

■0.2(度);ライトアップ用投光器の照射角度の精度です。
タワーは長大ですから、照射角度が少し変わるだけでその照明効果に大きな差が生まれてしまいます。
デザイン通りの照明効果を実現するためには長距離照射の超狭角投光照明のライトアップ投光器にこのレベルの精度が必要となります。

■約700、000(polygon);東京スカイツリー設計に際して作成した3Dモデルを構成する要素(面)の数です。
実物に比べ多いと見るか少ないとみるかは、東京スカイツリーのかたちを「シンプルだけど実は複雑」とみるか
「複雑だけど実はシンプル」とみるかの表裏でしょうか。

■2008.7.14;工事の着工日です。
ちなみに・・・、
2009.08.07  高さ100m超え
2009.11.10  高さ200m超え
2010.02.16  高さ300m超え
2010.07.30  高さ400m超え
2010.12.01  高さ500m超え
2011.03.01  高さ600m超え
2011.03.18  最高高さ634m到達
2012.02.28  竣工
2012.05.22  グランドオープンです。

以上SkyTreeの公式ホームページより

 

地図


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写真


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業平橋(墨田区横十間川に架かる橋)
 最初の橋は、本所開拓で開削された横川に、寛文2年(1662)に架けられました。長さ7間、幅2間の板橋です。嬌名は、すぐ西にあった南蔵院境内に「伊勢物語」の悲運の主人公、在原業平の作とされる衣冠の木座像をご神体とする業平天神社があったことによります。
 「東下り」に因み舟形の業平の塚もあったとされています。南蔵院は大岡裁きの「しばられ地蔵」で有名ですが、現在は葛飾区東水元に移転しています。江戸の頃はこの辺りで採れた業平シジミが美味で特産品とされていました。墨田区の説明板より
 この橋の右側に、志ん生が住んだナメクジ長屋がありました。

ときょうスカイツリー駅(墨田区押上一丁目)
 SkyTreeが出来るまでは、業平橋駅と呼ばれていたのが、タワーが完成して、ときょうスカイツリー駅と名前を変え、この路線も東武スカイツリーラインと名を変えています。

SkyTree(墨田区押上一丁目)
 駅の前の路地から見上げるSkyTreeです。下過ぎて全景が見られません。

 

SkyTree東側(墨田区押上一丁目)
 
第1展望台は3層構造をしています。東京スカイツリーの第1展望台は350m、345m、340mという3つのフロアを備えています。
350mにはカフェ、345mにはレストランとオフィシャルショップ、340mにはカフェと関東平野を一望しながら、お食事やショッピングを楽しめます。エレベータは、地上から350mに展望台までを約50秒で結ぶのですが、40人乗りで分速600m(時速36km)は国内最速のエレベータです。もちろん揺れも少なく快適な仕様となっています。左のイーストビルの屋上から間近にタワーを見る事が出来ます。

旧国技館跡(墨田区両国二丁目)
 両国京葉道路に面した所に、回向院山門が有ります(写真右側)。その左にはマンションや商業施設が有り、そこに初代国技館がありました。江戸時代にはこの回向院の境内の仮設土俵で相撲が取られました。

国技館(墨田区横網(よこあみ)一丁目3)
 現在の国技館。上記両国の国技館が老朽化したので、蔵前に引っ越しし、現在の地に戻ってきました。JR両国駅の北側で交通の便は非常に良いとこです。相撲の資料は、ここ相撲博物館でもらえますし、隣の江戸東京博物館では江戸から昭和に掛けての資料が一杯です。

横綱像(墨田区両国二丁目回向院前)
  両国駅から回向院に向かう歩道上に設置されています。台座には有名な横綱の手形が張り付けられています。相撲の街を印象付けられます。

                                                           2014年2月記

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