落語「犬の目」の舞台を歩く
   

 

 
 三代目(現)桂米朝の噺、「犬の目」(いぬのめ)より


 

 目がうずいて痛いと言うので、寅さんに診てもらった。寅さんだから「トラホーム」だと言う。寅さんが言うんだから、まんざら違ってもいないだろうと思う。その上「この目は雨が降っている」、「どうして?」、「目が曇っている」。
 それだったら俺が診てやる「曇ってはいない。日和(ひより)だ。星が出ている」。

 彼(池田)さんに紹介された目医者に行くと、丁重に診察室に通された。
 「良くこれまで我慢をしていましたな。これはヒドい」、助手に器具の用意をさせて「この器を目の下に置いて・・・」、「洗うのですね」、「違う。目をくり抜くのじゃ。大丈夫たこ焼きの要領だから。ホラ取れた。この汚い目を見てみなさい」。「先生、目がないので見えません」、「目玉の方が君を見ている。(助手に向かって)これを薬に漬けなさい」、「先生、目を抜かれると、この辺が寂しく感じますな」、「そんな事は無いよ。目抜きの場所だから賑やかだろ。薬に漬けてある目玉をよこしなさい。綺麗になったな。それでは入れてあげよう」、どうしても元には入らない。「薬に漬けすぎてふやけて大きくなりすぎたんだ。日陰に干しておけば大丈夫」。

 助手が目を離したスキに、大事な目玉がなくなってしまった。「いつも言っているだろう、木戸を開けておくから犬が入ってきて、食べてしまったんだ。困ったな。・・・大丈夫だ。この犬をしっかり押さえておけよ」。そのスキに犬の目玉をもらってしまった。丁度良いサイズであった。
 犬が可愛そうです。「犬の腹に目玉が入ったから、春になったら芽(目)を出すだろう。5月になればメーデーと言って目が出るよ」。犬の目を男に入れるとピッタリ、しかし何も見えない。「どれどれ、目が裏返しだ」。入れ直すとハッキリと見えた。お礼で頭を下げると目が落ちるから、今晩も上を向いて寝なさいと注意された。明後日に来なさい。経過を見たいから・・・。

 「先生アリガトウございました。今まで以上に遠目がよく見えます。そして、今までより良くなりました。しかも、夜も昼間のようによく見えます」。
 「何か変わったことでもありますか」、「寝付きがもともと悪いのですが、目をつむるとスッと寝られるんです。でも、何か音がするとパッと目が開くんです」、「用心が良いから、良かったな」、「でも一つ困ったことがあります」。「それは何だ?」、
 「電柱を見ると小便がしたくなるのです」。

 



 橘ノ円都*がよくやっていた噺は、

 「
目が悪くなって、医者に駆け込んだ。かかった医者がヘボンの弟子でシャボンという先生。ところが、その大先生が留守で、その弟子というのが診察する。「これは手遅れなので、くり抜かなくては治らない」。さっさと目玉をひっこ抜き、洗ってもとに戻そうとすると、水でふやけてはめ込めない。困って、縮むまで陰干しにしておくと、犬が目玉を食ってしまった。そこで、犬の目を入れた・・・。
 今までのより、遠目が利いてよかったが、「先生、ダメです。これじゃ外に出られません」、 「なぜ?」、
「小便する時、自然に足が持ち上がります」。

 この噺を大阪の桂米朝がまとめ直したのが概略の噺です。舞台を横浜に戻して、舞台を歩きます。
すいません。私のライブラリーに円都の音源がないので米朝の軽く楽しい噺になりました。東京では九代目桂文治(高安留吉)さんがよくやっていました。

* 橘ノ圓都(たちばなの_えんと、1883年3月3日~1972年8月20日)は、神戸出身の上方噺家。本名:池田豊次郎。享年89。出囃子は『薮入り』。東西の落語家を問わず良く稽古を付けていた。

 原話があって安永2年(1773)江戸板『聞上手』という小咄集の第三編にある「眼玉」だという。
長崎よりオランダ流の目医者下り、奇妙の治療をしてことのほか流行る。ある人来たりて療治を頼む。医者様これを見て「これは目の玉をくり出して洗って進ずれば、元のように良くなります。すこしもいたむ事ではござらぬ」とサジにてまぶたを動かして、目の玉をくり出し、病人をば寝かしおき、かの目玉を薬にてよくよく洗い、縁側に出してかわかして置きける間に、鳶がさらって持って行く。「これは大事」と思えどせん方なく、庭に寝ている犬の目玉を抜いてとり、かの病人の目へ入れてやりければ、「これは奇妙、よう見えまする」とことのほか悦び、礼を言って帰りぬ。
 その後かの人、医者の方に来たり、「先日はかたじけのうござりました。お陰で目はようござりますが、替わったことで、紙くず拾いをみますると、どうも吠えとうてなりませぬ」
 CD「特選米朝落語全集第二十六集解説」から。上記米朝の写真も。

 

1.ヘボン
 ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn、1815年3月13日~1911年9月21日)は、米国長老派教会系医療伝道宣教師であり、ヘボン式ローマ字の創始者。医師。ペンシルベニア州ミルトン出身。幕末に訪日した。
 明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設、初代総
理に就任した。
 アカデミー賞女優キャサリン・ヘプバーンはヘボンと同じ「Hepburn」一族の一人です。

 日本に来て、医療を武器に信用を獲得していった。専門は眼科で、当時眼病が多かった日本で名声を博したという。日本人の弟子を取って教育していたが、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になった。博士のラウリー博士宛ての手紙によると、計3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回を行った。白内障の手術も1回を除いて皆うまくいったという(1861年9月8日の手紙)。また、名優澤村田之助の脱疽を起こした足を切断する手術もしている。その時は麻酔剤を使っている。一度目は慶応3年であるがその後も切断を行っている。(横浜毎日新聞1874,6,11日付)。専門が眼科であることを考慮すると足の切断術は見事であると荒井保男は述べている。

教え子;文久3年(1863)横浜居留地39番のヘボン邸内で、英学塾「ヘボン塾」が始まった。
 ここで学んだ林董(ただす)は、幕府留学生として英国に渡り、のちに明治政府に仕えて英国大使、外務大臣、逓信大臣を歴任した。林とほぼ同時代の塾生には、総理大臣・大蔵大臣を務めた高橋是清、三井物産の創始者である益田孝、東京・横浜毎日新聞社社長の沼間守一、日本最初の医学博士となった三宅秀などがいる。やがてヘボン塾はJ.C.バラに引き継がれて「バラ学校」となった。その後も学校の合流の度に名を変えたが、明治19年(1886)「明治学院」という校名を得て、翌年には白金の地に移り現在に至る。

 その弟子”シャボン”;そんな名前の弟子は居ませんでした。

日本での生活;安政6年(1859)日本に到着し、神奈川宿にあった成仏寺本堂に住んだ。さっそく近くの宗興寺で施療を開始したが、幕府から中止を命ぜられたため、もっぱら日本語の研究と和英辞書の編集につとめた。文久3年(1863)横浜居留地39番のヘボン邸に移り、施療所も併設して日本人を無料で診療するとともに、邸内で夫人と共に「ヘボン塾」を開いた。
写真右;成仏寺(横浜市神奈川区神奈川本町10-10)落語「宿屋の仇討ち」参照。クリックすると大きくなります。

晩年;明治7年(1874)ヘボン邸で18人の信徒により横浜第一長老公会が開設された。その後、ヘボンは自費で住吉町教会(横浜指路教会の前身)という木造の教会堂を建て、さらに時を経て明治25年(1892)横浜指路教会を建てた。ヘボンはこの時すでに高齢となり、指路教会の建設を最後の仕事と決心していたのか、教会が完成した年に、夫人とともに横浜から船に乗り帰国した。晩年はニュージャージー州イースト・オレンジ住宅を建て、静かな余生を送ったが、明治44年(1911)9月21日、天に召された。96歳。この日の早朝、明治学院のヘボン館が焼失した。

ヘボンの三大功績
日本最初の和英辞典の編纂
聖書の日本語への翻訳
医師としての日本での医療事業

以上、横浜開港記念館「宣教医ヘボン展」による

 

2.横浜居留地(よこはま_きょりゅうち)

「増補再刻・御開港横浜之全図」橋本玉蘭斎画 慶応2年(1866) 横浜市歴史博物館蔵
クリックすると大きな図と説明が見られます。

 諸外国と締結した修好条約では開港場は神奈川となっていたが、東海道筋の宿場町である神奈川宿では日本人との紛争が多発すると懸念した幕府は、勝手に街道筋から離れた辺鄙な横浜村に開港場を変更してしまった。オールコックら英米外交団は条約の規定と違うと強硬に抗議したが、幕府は横浜も神奈川の一部であると押し通した。

「横浜鈍宅(どんたく)之図」 五雲亭貞秀図 居留地で楽団を見る。

 横浜港は、1859年7月4日正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が4年で完成した。横浜居留地は幕府が勝手に造成したため当初は日本風の造りであったが、1866年の大火”豚屋火事”の後、洋風に改められた。この復興工事は幕府から明治政府が引き継いだ。居留地は掘割で仕切られていて、入り口にある橋のたもとには関所が設置されていたので、関内居留地とも呼ばれる。その後外国人人口がさらに増加したので、1867年には南側に山手居留地も増設された。山下居留地は主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となり、山手居留地は外国人住宅地となった。現在観光コースになっている山手本通り沿いにある数棟の西洋館は、旧イギリス7番館(1922年)を除けば、すべて観光資源として昭和時代以降に建築されたものか他所から移築されたものである。

豚屋火事;旧暦の慶応2年10月21日午前8時頃、港崎遊郭の南(現・神奈川県横浜市中区末広町)にあった豚肉屋鉄五郎宅から出火。港崎遊郭へ燃え広がり、遊女400人以上が焼死、更に外国人居留地や日本人町も焼き尽くし、午後10時頃鎮火した。この大火により、遊郭跡地は避難場所も兼ねた洋式公園(現・横浜公園)となり、町屋は洋風石造へと建て替えられて、関内は欧風の近代都市へ改造されていった。

 ゾウの鼻;横浜居留地に作られた防波堤付きの港。写真中央、その防波堤をゾウの鼻と呼んでいます。右側に大きく突きだしているのが大桟橋。上部中央に赤レンガ倉庫が2棟。中央下部に山下公園の一部が見えます。
NHK撮影の上空からの写真より

 1862年夏、川崎大師見物のため乗馬していた横浜居留地の英人男女4人が生麦村(現・横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列に切りつけられる生麦事件が起こり、幕府を震撼させた。居留地周辺は、幕末には攘夷浪人も出没して外国人殺傷事件がしばしば起こる物騒な地域であった。居留民保護のため1875年までは英仏軍隊も駐留していた(英仏横浜駐屯軍)。
 1872年には、英人エドモンド・モレルの指導により新橋-横浜間に鉄道が開通した。当時の横浜停車場(後に桜木町駅となる)は居留地を出てすぐの所であり、新橋停車場(後に汐留貨物駅となる)は築地居留地の外縁にあった。つまり、日本最初の一般営業鉄道は横浜居留地と築地居留地をつなぐものだった。
 横浜居留地は1877年に日本側の行政権が完全に回復した。山下の居留地完成から14年後、山手の居留地増設から僅か10年後のことである。なお、返還自体は他都市と同様に1899年7月17日である。
ウイキペディアより抜粋

 横浜港遊廓岩亀楼、居留地外に遊廓が作られ一番有名だった岩亀楼を描く。一川芳員画

 「力士力競」日本側は力士を集め、米俵を運ばせ大力を相手側に印象付けた。ペリーの日記にもその怪力に驚いたと記されている。

ヘボン邸跡案内板によると;開港とともに来日した宣教師の一人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬横浜居留地39番(現・横浜市中区山下町37番地9号横浜地方合同庁舎)に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書の翻訳、和英辞典の編纂、医術の普及などがそれである。
右写真;昭和24年(1949) 10月記念碑が邸跡に建てられた。
 ヘボン邸内は邸宅、施療所、教会、学校の機能を持つ建物群からなっています。ヘボン邸は入母屋づくりの大きな三角屋根が特徴。ヘボン塾はヘボン邸内に建てた礼拝堂で1863年から始まり、女子部をフェリス女学院(横浜市中区山手町)に分けた後、1875年バラ学校へと発展し、東京・築地居留地のミッションスクールとなり、東京・白金の明治学院(港区白金台一丁目2)へ続きます。


3.言葉
■日和
(ひより);よい天候。晴天。また、ある事をするのにふさわしい天候。

目抜き(めぬき);著しくぬきんでたこと。また、そのもの、ところ。めぼしいもの。めぼしい所。「―の場所に店を出す」。また 市街で最も人通りの多い道路、繁華街を目抜き通りという。


 

 舞台の横浜を歩く

 

 JR横浜駅の東口を出て歩きます。桜木町先の大桟橋前の入口にある「横浜開港資料館」で開催中の”宣教医ヘボン展”を見に行きます。それだったら、みなとみらい線の終点「元町・中華街」で下りれば、直近なのですが温かい小春日和の日差しに誘われて、海沿いの公園を伝って横浜を見て歩くことにしました。平日ですから人の動きは駅を出た途端に途切れます。勿体ないくらい静かな海沿いの海岸を廻ってゆっくりと散歩がてらに歩いています。海と言ってもここは横浜湾の一部ですから海は静かで、時折通る大きな船によって波が立つくらいです。その海岸で釣り糸を垂れる人も居ますが、釣果は今ひとつのようです。
 船の帆をイメージした横浜グランドインターコンチネンタルホテル、若者に人気の高い赤レンガ倉庫跡、高層ビルの横浜ランドマークタワー、その道先にはお客が乗っていない観覧車が廻っています。その先にゾウの鼻公園があって、車止め代わり(?)に漫画チックなゾウが迎えてくれます。この先に見える船泊(ふなどまり)、いえ小さな港が明治始めに諸外国にOKを出した港の一つで、その防波堤がゾウの鼻のように湾曲して波を防いでいます。
 その風景の先には大型客船が停泊できる、横浜港の第一の名所大桟橋があります。大桟橋の屋根の部分はデッキになっていて出入りが自由です。ここから横浜港が一望に見渡せます。

 話が長くなってしまいましたが、早い話(?)、この大桟橋の根元の部分に「横浜開港資料館」があり、目医者だったというヘボン先生が33年間横浜に住んだという事と、宣教師でローマ字ヘボン式を作り、日本最初の和英辞典編纂に取り組み、和英語林集成と、聖書の翻訳を完成させた。また、フェリス女学院大学や明治学院の設立に発展する種を蒔きました。
 ここで、目を皿のようにして探したのですが、ついにシャボンという弟子の解説はどこにも見つけることが出来ませんでした。泡のように消えて無くなってしまったようです。

 ここを出て、山下公園に出たのですが、さすが横浜の名勝地、先程までの公園と違って、人が大勢楽しんでいます。この山下公園というのは、関東大震災で、東京とならび激しい振動と一昼夜に渡る火災に見舞われ約2万6千人の犠牲者を出しました。そのガレキで埋め立てられた地が山下公園に生まれ変わったのです。かえって関東大震災のことを知らなかった方が楽しめたかも知れません。その山下公園には氷川丸がつながれていて、定番の観光スポットです。
 その山下公園を出て通りを渡ったところが、マリンタワー、ここも定番の観光スポットです。その隣、ヘボンが住んでいたところと海との間にグランドホテルが有りましたが、ここも関東大震災で壊滅し現在はホテルニューグランドとして歴史を感じさせながら盛業中です。その裏にヘボン邸住居跡があります。
 裏が、横浜一と言われる繁華街、中華街が有ります。美食に触れられますよ。
 

地図


  地図をクリックすると大きな地図になります。 横浜案内図より

写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

ヘボン邸ジオラマ(横浜開港資料館蔵)
 居留地39番地にあったヘボン邸のジオラマ。下の写真と見比べてください。

ヘボン邸(堀川の河口)
 海側奥の大きな2階建てがグランドホテル、現在のホテルニューグランド。左手に見える三角形の屋根を持つヘボン邸。その奥に礼拝堂の建物が見えます。ここでヘボン塾が開かれた。横浜開港資料館蔵。

ヘボン邸跡の碑(神奈川県横浜市中区元町1-11-3)
 居留地39番地のヘボン邸は、みなとみらい線「元町・中華街」駅と人形の家の間にありました。今この場所は横浜地方合同庁舎の入口前にヘボン博士のレリーフが存在します。

大桟橋から氷川丸(山下公園)
 定番になっている山下公園の氷川丸です。大桟橋から望んでいます。

ゾウの鼻公園(ゾウの鼻公園)
 ゾウの鼻という防波堤の脇にある公園がゾウの鼻パーク。それぞれ違う小さなゾウのオブジェが何ヶ所にも置かれています。

ゾウの鼻(開港時の港部分)
 外側に防波堤が築かれていて、その部分をゾウの鼻と言われています。しかし港は、以外と小さなスペースです。

MM21地区(港未来21世紀を予感させる一帯)
 左に高層ビルの横浜ランドマークタワー、中央にクイーンズスケアー横浜、右側にヨットの帆をデザインしたホテル・横浜グランドインターコンチネンタルホテルが異彩を放っています。その手前に赤レンガ倉庫が建っています。

MM21地区夜景(上記の夜景)
 夜景が綺麗なので、カップルが大勢楽しんでいます。横浜の夜景は綺麗です。
 

明治学院大学 (港区白金台1−2)
 ヘボンの思想が今でも活きている明治学院。ボランティア、海外でのフィールドワーク、長期の協定留学、就業インターンシップなどの講座やイベントが充実している。共学の四年制大学にもかかわらず女子在籍率が70%近くあります。純文系の大学となって、理系学部・学科は有していない。

                                                           2014年1月記

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