落語「犬の目」の舞台を歩く
この噺を大阪の桂米朝がまとめ直したのが概略の噺です。舞台を横浜に戻して、舞台を歩きます。
* 橘ノ圓都(たちばなの_えんと、1883年3月3日~1972年8月20日)は、神戸出身の上方噺家。本名:池田豊次郎。享年89。出囃子は『薮入り』。東西の落語家を問わず良く稽古を付けていた。
原話があって安永2年(1773)江戸板『聞上手』という小咄集の第三編にある「眼玉」だという。
1.ヘボン
日本に来て、医療を武器に信用を獲得していった。専門は眼科で、当時眼病が多かった日本で名声を博したという。日本人の弟子を取って教育していたが、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になった。博士のラウリー博士宛ての手紙によると、計3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回を行った。白内障の手術も1回を除いて皆うまくいったという(1861年9月8日の手紙)。また、名優澤村田之助の脱疽を起こした足を切断する手術もしている。その時は麻酔剤を使っている。一度目は慶応3年であるがその後も切断を行っている。(横浜毎日新聞1874,6,11日付)。専門が眼科であることを考慮すると足の切断術は見事であると荒井保男は述べている。
■教え子;文久3年(1863)横浜居留地39番のヘボン邸内で、英学塾「ヘボン塾」が始まった。
その弟子”シャボン”;そんな名前の弟子は居ませんでした。
■日本での生活;安政6年(1859)日本に到着し、神奈川宿にあった成仏寺本堂に住んだ。さっそく近くの宗興寺で施療を開始したが、幕府から中止を命ぜられたため、もっぱら日本語の研究と和英辞書の編集につとめた。文久3年(1863)横浜居留地39番のヘボン邸に移り、施療所も併設して日本人を無料で診療するとともに、邸内で夫人と共に「ヘボン塾」を開いた。
■晩年;明治7年(1874)ヘボン邸で18人の信徒により横浜第一長老公会が開設された。その後、ヘボンは自費で住吉町教会(横浜指路教会の前身)という木造の教会堂を建て、さらに時を経て明治25年(1892)横浜指路教会を建てた。ヘボンはこの時すでに高齢となり、指路教会の建設を最後の仕事と決心していたのか、教会が完成した年に、夫人とともに横浜から船に乗り帰国した。晩年はニュージャージー州イースト・オレンジ住宅を建て、静かな余生を送ったが、明治44年(1911)9月21日、天に召された。96歳。この日の早朝、明治学院のヘボン館が焼失した。
■ヘボンの三大功績
以上、横浜開港記念館「宣教医ヘボン展」による
「増補再刻・御開港横浜之全図」橋本玉蘭斎画 慶応2年(1866) 横浜市歴史博物館蔵
「横浜鈍宅(どんたく)之図」 五雲亭貞秀図 居留地で楽団を見る。
豚屋火事;旧暦の慶応2年10月21日午前8時頃、港崎遊郭の南(現・神奈川県横浜市中区末広町)にあった豚肉屋鉄五郎宅から出火。港崎遊郭へ燃え広がり、遊女400人以上が焼死、更に外国人居留地や日本人町も焼き尽くし、午後10時頃鎮火した。この大火により、遊郭跡地は避難場所も兼ねた洋式公園(現・横浜公園)となり、町屋は洋風石造へと建て替えられて、関内は欧風の近代都市へ改造されていった。
ゾウの鼻;横浜居留地に作られた防波堤付きの港。写真中央、その防波堤をゾウの鼻と呼んでいます。右側に大きく突きだしているのが大桟橋。上部中央に赤レンガ倉庫が2棟。中央下部に山下公園の一部が見えます。
横浜港遊廓岩亀楼、居留地外に遊廓が作られ一番有名だった岩亀楼を描く。一川芳員画
「力士力競」日本側は力士を集め、米俵を運ばせ大力を相手側に印象付けた。ペリーの日記にもその怪力に驚いたと記されている。
■ヘボン邸跡案内板によると;開港とともに来日した宣教師の一人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬横浜居留地39番(現・横浜市中区山下町37番地9号横浜地方合同庁舎)に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書の翻訳、和英辞典の編纂、医術の普及などがそれである。
3.言葉
■目抜き(めぬき);著しくぬきんでたこと。また、そのもの、ところ。めぼしいもの。めぼしい所。「―の場所に店を出す」。また
市街で最も人通りの多い道路、繁華街を目抜き通りという。
舞台の横浜を歩く
JR横浜駅の東口を出て歩きます。桜木町先の大桟橋前の入口にある「横浜開港資料館」で開催中の”宣教医ヘボン展”を見に行きます。それだったら、みなとみらい線の終点「元町・中華街」で下りれば、直近なのですが温かい小春日和の日差しに誘われて、海沿いの公園を伝って横浜を見て歩くことにしました。平日ですから人の動きは駅を出た途端に途切れます。勿体ないくらい静かな海沿いの海岸を廻ってゆっくりと散歩がてらに歩いています。海と言ってもここは横浜湾の一部ですから海は静かで、時折通る大きな船によって波が立つくらいです。その海岸で釣り糸を垂れる人も居ますが、釣果は今ひとつのようです。
話が長くなってしまいましたが、早い話(?)、この大桟橋の根元の部分に「横浜開港資料館」があり、目医者だったというヘボン先生が33年間横浜に住んだという事と、宣教師でローマ字ヘボン式を作り、日本最初の和英辞典編纂に取り組み、和英語林集成と、聖書の翻訳を完成させた。また、フェリス女学院大学や明治学院の設立に発展する種を蒔きました。
ここを出て、山下公園に出たのですが、さすが横浜の名勝地、先程までの公園と違って、人が大勢楽しんでいます。この山下公園というのは、関東大震災で、東京とならび激しい振動と一昼夜に渡る火災に見舞われ約2万6千人の犠牲者を出しました。そのガレキで埋め立てられた地が山下公園に生まれ変わったのです。かえって関東大震災のことを知らなかった方が楽しめたかも知れません。その山下公園には氷川丸がつながれていて、定番の観光スポットです。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
ヘボン邸ジオラマ(横浜開港資料館蔵)
ヘボン邸(堀川の河口) ヘボン邸跡の碑(神奈川県横浜市中区元町1-11-3)
大桟橋から氷川丸(山下公園)
ゾウの鼻公園(ゾウの鼻公園)
ゾウの鼻(開港時の港部分)
MM21地区(港未来21世紀を予感させる一帯)
MM21地区夜景(上記の夜景)
明治学院大学
(港区白金台1−2) 2014年1月記 |
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