落語「松田加賀」の舞台を歩く
   

 

 
 林家彦六の噺、「松田加賀」(まつだかが)より。別名「頓知の籐兵衛」。
 


 「本郷も”かねやす”までは江戸のうち」とうたわれた、その本郷通りの雑踏で、年端もいかない小僧按摩(あんま)が、同じ盲人に突き当たった。

こういう場合の常で、互いに杖をまさぐり合い、相手は按摩の最高位である検校(けんぎょう)とわかったから、さあ大変。相手は、公家や大名とも対等に話ができる身分。
 がたがた震えて、「ごめんくださいまし。ご無礼いたしました」という謝罪の言葉が出てこず、ひたすらペコペコ頭を下げるだけ。こやつ、平の按摩の分際であいさつもしないと、検校、怒って杖で小坊主をめった打ち。これから惣録屋敷に連れていき、おまえの師匠に掛け合うと、大変な剣幕。

周りは十重二十重の野次馬。

「おい、年寄りの按摩さん。かわいそうじゃねえか。よしなよッ」
「なに、わしはただの按摩ではない。検校だ」
「それなら、家に帰ってボウフラでも食え」
「何だ?」
「金魚」
「金魚じゃない。けんぎょお」。

大変な騒ぎになった。

そこへ通り合わせたのが、神道者で長年このあたりに住む、松田加賀という男。話を聞いて、自分が一つ口を聞いてやろうと、「もしもし、そこな検校殿。あなたに突き当たった小坊主、年がいかないから度を失って、わびの言葉が出てこない。仲人は時の氏神、と申します。
ここは私に任して、円く納まってはくださいますまいか」と、丁重に持ちかけた。

検校は「これはこれは、あなたは物のよくおわかりになる。お任せはしましょうが、ご覧の通り、わたくしは晴眼の方とは違います。あなたのお顔、なり形などは皆目わからない。仲人をなさいますあなた様の、お所お名前ぐらいは承りたい」と言うので、
「これは失礼いたしました。私はこの本郷に住んでいる、松田加賀と申します」と正直に返事をしたが、興奮が冷めない検校、本郷のマツダをマエダと聞き違えて、これはすぐ近くに上屋敷がある、加賀百万石のご太守と勘違い。

「加賀さま・・・うへッ」と、杖を放り捨ててその場に平伏。
加賀も、もう引っ込みがつかないから、威厳を作って「いかにも加賀である」

「うへーッ」
「検校、そちは身分のある者じゃな。下々の者は哀れんでやれ。けんか口論は見苦しいぞ」
「へへー。前田侯のお通り先とも存じませず、ご無礼の段は平にお許しを」
検校がまだ這いつくばっている間に、加賀はさっさと先へ行くと、「高天原に神留まりまします」と、門付けの御祓いをやりはじめた。
 そうとは知らない検校、「ええ、以後は決して喧嘩口論はいたしません。ご重役方にも、よろしくお取りなしのほどを」と、さっきとは大違いで、ひたすらペコペコ。
 野次馬連中、喜んでわっと笑うので、検校、膝をたたき、
「さすがは百万石のお大名だ、たいしたお供揃え」。

 



1.検校
(けんぎょう)
 盲人の最上級の官名。 
 座頭は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼称としても用いられた。
  当道座(盲人の官位をつかさどり、その職業を保護する組合)は元々、平曲(日本中世の語り物のひとつで、平家物語を曲節を付けて琵琶の伴奏で語るもの。平家琵琶)を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来する。
  古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。
  江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。当道に対する保護は、明治元年(1868年)まで続いた。
  専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。
 米山検校(銀一);勝海舟、男谷信友の曽祖父。男谷検校とも
 塙検校(保己一、はなわほきいち);学者として活躍し『和学講談所』を設立。「群書類従」「続群書類従」の編者 。落語「石返し」に詳しい。
  検校の権限は大きく、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。視覚障害は世襲とはほとんど関係なく、江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。
 落語「三味線栗毛」より孫引き

惣録屋敷(そうろくやしき);江戸時代、江戸にあって関八州とその周辺の座頭を支配した、検校の座順の最古参の者。執行機関として惣録役所が置かれた。関東総録(惣録)と言いその屋敷。元禄5年(1692)本所一つ目に土地を拝領、杉山和一検校が取り仕切った。下図;明治東京名所図会より

 

2.加賀百万石(かがひゃくまんごく)
 加賀国石川郡にある金沢城(金沢市)に居城。明治2年(1869年)版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。 藩主は前田氏。外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍の偏諱を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領し、極官も従三位参議と他の大名よりも高く、伺候席も徳川御三家や越前松平家などの御家門が詰める大廊下である(他の外様の国持大名は大広間)など御三家に準ずる待遇であった他、一国一城令が布告された後に小松城の再築が許されて「一国二城」となるなど、他の大名とは別格の扱いであった。

  江戸藩邸は本郷五丁目に上屋敷(現在の東京大学本郷キャンパス)、染井に中屋敷、深川と板橋に下屋敷があった。また、江戸における菩提寺は文京区向丘日蓮宗高耀山長元寺、下谷の臨済宗大徳寺派円満山広徳寺で支藩の富山藩や大聖寺藩はもちろん、会津藩の保科松平氏や谷田部藩の細川氏なども同寺を江戸での菩提寺にしていた。なお、支藩でも七日市藩は諏訪山吉祥寺を江戸における菩提寺としていた。本郷の江戸藩邸については、264話落語「粗忽の使者」に詳しい。

 その江戸藩邸道筋での噺。

 

3.本郷もかねやすまでは江戸のうち
 
「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)で、京都で口中医をしていた。口中医というのは現代でいう歯医者である。
 徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、口中医をしていた。 元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡越前忠相であった。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。
 その後、芝の店は廃業した。 享保15年(1730
)、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。
 なお、文政元年(1818)に江戸の範囲を示す朱引が定められたが、これはかねやすよりはるか北側に引かれた。 東京(江戸)という都市部において度重なる大火や地震、戦災を経ても同一店舗が400年にわたって存在するのは珍しい事例である。なお、現在のかねやす(文京区本郷二丁目40)は7階建てのビルとなっており、2階以上にはテナントが入居している。

 上写真;「かねやす」暖簾(実物)。下;「かねやす店先」職人尽絵 兼康祐悦蔵 上下とも文京ふるさと歴史館蔵。
落語「成田小僧」より孫引き

 

4.言葉
十重二十重(とえはたえ);幾重にも多くかさなるさま。何重にも。

野次馬(やじうま);煮ても焼いても食えない連中。自分に関係のない事を人の後についてわけもなく騒ぎ回ること。また、そういう人。

神道者(しんとうしゃ);(もと、自然の理法、神のはたらきの意) わが国に発生した民族信仰。祖先神や自然神への尊崇を中心とする古来の民間信仰が、外来思想である仏教・儒教などの影響を受けつつ理論化されたもの。平安時代には神仏習合・本地垂迹(ホンジスイジヤク)があらわれ、両部神道・山王一実神道が成立、中世には伊勢神道・吉田神道、江戸時代には垂加神道・吉川神道などが流行した。明治以降は神社神道と教派神道(神道十三派)とに分れ、前者は太平洋戦争終了まで政府の大きな保護を受けた。かんながらの道。その信仰者。

晴眼(せいがん);はっきり見える眼。盲目に対していう。

門付け(かどづけ);人家の門口に立ち、音曲を奏したり芸能を演じたりして金品を貰い歩くこと。また、その人。

 


 

 舞台の本郷を歩く

 

 東大構内は加賀前田家の上屋敷跡です。屋敷跡として赤門や構内中央に三四郎池があります。夏目漱石が小説「三四郎」で主人公の三四郎が訪ねていた池だから、その名前が池の名前になってしまいました。寛永3年(1626)前田家三代利常の時に、三代将軍家光訪問の内命を受け、殿舎、庭園の造成にかかり3年を要し完成させた。外様大名として誠意を示す必要があった。このとき完成した回遊式庭園が育徳園と呼ばれ、池を心字池といった。池を中心に自然がいっぱいの庭園になっています。カワセミが遊び、青大将がノンビリと散歩しています。
落語「粗忽の使者」に詳しく載せています。

 街は学生相手の本屋だったり、食堂が有ったりと学生街を醸し出しています。しかし、都会の中ですから車の往来も激しく、そう、ノンビリとはしていられません。
 ここで、喧嘩三昧をしていれば、今でも、直ぐに人だかりがするでしょう。今では神道者も見掛けなくなり、仲裁者も出て来ないでしょうが、近くの交番から警察官が飛んでくるでしょう。

 本郷三丁目のかねやすは、私が行く時はどうして何時も定休日なのでしょうか。ここまでが江戸の内と言いますが、江戸市内の線引きをした時には、そのズーッと北の駒込辺りまで市内でした。当然、加賀のお屋敷も江戸の内です。

上図;加賀屋敷 江戸切り絵図(落語「粗忽の使者」より孫引き) 左下の本郷三丁目と記されているところが、現本郷三丁目でかねやすが有るところです。

 

地図


  地図をクリックすると大きな地図になります。 

 本郷通りに有った地図より。左が北になります。

 

写真

 


  それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
 

かねやす文京区本郷二丁目40
 享保年間(1716~1736)に、現在の本郷三丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出した。これが当たり店が繁盛していたという。
 享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。
 一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、
「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた。

本郷三丁目交差点(文京区本郷三丁目)
 江戸時代の町名では六丁目だった。本郷通りと春日通りの交差点。写真右から左に本郷通りが走り、左方向に加賀前田屋敷が有ります。それに交差するのは春日通りで、手前には後楽園、前方には湯島から御徒町。

本郷薬師 (文京区本郷四丁目2と37との間)
 この地は、富元山真光寺(戦災にあい世田谷に移転)の境内であった。伝えによれば、寛文十年(1670)ここに薬師堂が建立された。
当時御府内に奇病猖獗し、病にたおれる者数知れず出たためこの薬師像に祈願して病気が治まったといわれている。本来薬師如来は人間の病苦をいやし、苦悩を除く仏とされている。以来人々に深く信仰された。

本郷菊坂(文京区四丁目と五丁目の境の坂)
 菊坂下道路地の樋口一葉旧居は今も時計が止まったかの様な静寂を保つ。一葉はこの通りの路地内でも転居し二つの家に暮らしたと言われる。後に浅草竜泉寺(町)に越した。宮沢賢治もここで暮らした。
 道はだらだらとここから下り坂になっている。

赤門(文京区本郷東大の門)
 東大の正門より有名な赤門。旧加賀前田家の上屋敷跡の御守殿門。

本郷通り(文京区四丁目と五丁目の境を走る)
  赤門辺りから南を見ています。本郷三丁目を越えて、二丁目、一丁目、お茶の水から万世橋に至ります。

江島杉山神社(墨田区千歳一丁目8)
 鍼術の神様・杉山和一(1610-1694)が五代将軍綱吉から、本所一つ目に1万2千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、綱吉の「扶持検校」となった。邸内で江ノ島の弁財天を祀っていたので、現在弁財天と杉山検校を祀った神社になった。
 綱吉が何か一つ所望の物が無いかと尋ねられた時「一つ目が欲しい」と言ったので、本所一つ目に土地を拝領した。



                                                        2013年12月記


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