落語「鍋草履」の舞台を歩く
「歌舞伎」という芸能名の由来は、「傾く(かぶく)」という動詞にあります。この動詞には、並外れている、常軌を逸しているという意味があります。
花道が付いた江戸後期の劇場風景 歌川豊国画(踊形容江戸絵栄より)
このような経緯から、上演作品は、一口に歌舞伎の作品といっても、その成り立ちと内容はバラエティーに富んでいます。
■江戸時代の有名な3人の戯作者; 近松門左衛門 ちかまつもんざえもん [1653年~1724年] 元禄時代に活躍した近松は、人形浄瑠璃の作者としてスタートしましたが、元禄8年(1695)からの10年間、上方の名優初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)のために『傾城仏の原(けいせいほとけのはら)』をはじめとする約30作の歌舞伎を書きました。近松のこの時期の活躍により、歌舞伎における作者の職業としての地位が確立されました。
藤十郎が衰え始めたこともあって人形浄瑠璃の作者に戻った近松は、多くの名作を残します。その中でも『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』・『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』・『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』・『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』・『平家女護島(へいけにょごのしま)』などの作品は、後の改作なども含めて歌舞伎にも取り入れられ、現在でも上演されています。 文化・文政年間(1804年~1830年)を中心に活躍した作者です。20年余りの下積み時代が続いた後、文化元年(1804)の『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』が大ヒットし、世に出ました。 以降25年間に渡り、作者の第一人者として活躍しました。亡霊などが活躍する奇抜な趣向や「生世話(きぜわ)」とよばれる当時の庶民生活をリアルに描いた作風が、特徴として挙げられます。現在でも『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』、『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』、『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』[一般的には『時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)』のタイトルで上演]などの作品が上演され、中でも『東海道四谷怪談』は代表作として有名です。
幕末から明治時代を代表する作者です。幕末には4代目市川小團次(いちかわこだんじ)と組んで「白浪物(しらなみもの)」とよばれる泥棒が登場する作品を書き、明治以降には、9代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)・5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)を中心に作品を提供しました。 江戸の庶民生活をリアルに描きながらも、七五調のせりふや清元(きよもと)などを効果的に織り込んだ音楽的にも優れた作風に特徴があります。約50年間の作者生活の中で、舞踊劇も含めて350作品以上を残し、その作品群は、現在の歌舞伎のレパートリーにおいて大きな割合を占めています。代表作として、白浪物の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』[通称『白浪五人男(しらなみごにんおとこ)』]、『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』、『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』、舞踊劇『土蜘(つちぐも)』などが挙げられます。
また、河竹黙阿弥は、三遊亭圓朝の親友で、「鰍沢」の連作を作ったりした仲で、なんといっても圓朝作の、「牡丹燈籠」、「真景累ケ淵」、「乳房榎」、「塩原多助」を菊五郎などに書き、春錦亭柳桜の「梅雨小袖娘八丈」(通称「髪結新三」)を歌舞伎の舞台へのせ、落語と歌舞伎の素晴らしいコラボレーションを見せた劇作家です。
2.浅草・猿若町(あさくさ・さるわかちょう)
これらの幕府による命令に、歌舞伎界は大きな衝撃を受けます。浅草に移転した芝居小屋の周辺は、猿若町(さるわかまち・さるわかちょう)と名づけられますが、当初は立地が悪いこともあり、観客もなかなか集まりませんでした。
「中村座正面図」 豊国画 江戸東京博物館蔵
河原崎座の移転が完了した直後に、幕府では水野が失脚、天保の改革は頓挫する。そして水野の目論見とは裏腹に、猿若町では三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実した。また城下では常に頭を悩まされていた火災類焼による被害もこの町外れでは稀で、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損益も激減した。そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになった。浅草界隈は吉原を含め、こうして江戸随一の娯楽の場へと発展していく。
この猿若町に軒を連ねた中村座・市村座・森田座(または河原崎座)の三座を、猿若町三座(さるわかまちさんざ)という。
伝菱川師宣画 「歌舞伎図屏風」 屏風絵で六曲一双の右側の部分。 元禄の猿若町時代の中村座。東京国立博物館蔵 右側が入口で、舞台では『大おどり』の場面です。 14.01追記 ■中村座(なかむらざ);江戸にあった歌舞伎劇場で江戸三座(中村座・市村座・河原崎座)のひとつ。座元は中村勘三郎代々。控櫓は都座。
「中村座の平面図」 右側が舞台で回り舞台があります。その裏が楽屋。中央に枡席があって、左が正面です。左右の高い所が2階席です。
枡席の周りは二階席になっていて、左図は入口側、右図は舞台側です。3図共、江戸東京博物館蔵模型 中村座の定式幕は、左から「黒」「白」「柿色」の引き幕だった。「白」の使用は中村座に限って幕府から特別に許された色であった。現在は十八代目中村勘三郎の襲名興行や平成中村座の公演などで使用されている。 ■市村座;寛永11年(1634)に村山又三郎が興した村山座に始まり、承応元年(1652)、市村羽左衛門が興行権を買い取り市村座とした。当初、日本橋葺屋町(現・日本橋人形町3丁目)にあったが、天保13年(1842)、前年の火災と天保の改革の一環により浅草猿若町(現・台東区浅草6丁目)へ移転した。 ■森田座・守田座;(河原崎座)万治3年(1660)、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が木挽町五丁目(現在の中央区銀座6丁目、昭和通り西側)に森田座を開場した。
3.言葉
■ガリを食う(がりをくう);叱られて苦い思いをする。
■公演中は食べ物禁止;ホールや芝居、映画も一部の寄席も客席では食べ物禁止になっていますが、スポーツ観戦はいまだOKです。野球はビールを飲みながら観戦しますし、特に相撲は食べながら飲みながらが常識です。東京・歌舞伎座も客席での飲食は可能で、ビールや弁当を客席で食べてもOKです。
■櫓(やぐら);芝居櫓、正面入口上の破風のうえに上がった櫓。芝居小屋の櫓は、人ひとりが乗れるほどの籠のような骨組みに、2本の梵天と5本の槍を組み合わせ、それを座の定紋を染め抜いた幕で囲った構築物で、これを木戸(入口)の上方に取り付け、かつてはそこで人寄せの太鼓を叩いた。この櫓をあげていることが官許の芝居小屋であることの証だった。明治以降も建築様式として引継がれ、歌舞伎を上演する常設の劇場ではその興行の際に櫓が上がった。
舞台の猿若町を歩く
浅草寺の北側を東西に走る言問通りを東に進むと、隅田川に架かる言問橋になります。その手前北側の浅草六丁目の大部分が、旧名・猿若町と言い、現在もその名前に戻してくれと運動をしています。南から旧猿若町に入って行きますが、入口には猿若町の旗が立っていますし、自分たちで作った看板、石碑が建っています。
今年4月に全面建て替えられた、銀座の歌舞伎座では顔見世興行として、仮名手本忠臣蔵通し狂言を興行しています。全て新しい歌舞伎座ですから、お客さんも華やいだ雰囲気を持っています。四段目判官切腹の場、中村仲蔵が新しく考案して演出した五段目山崎街道の場、等は落語と対比して見る楽しさもあります。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2013年12月記 |
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