落語「鍋草履」の舞台を歩く
   

 

 
 桂歌丸の噺、「鍋草履」(なべぞうり)より


 

 幕が開いているのに、食べ物を食べているお客がいると、せっかく演者が一生懸命に演じているのに失礼になるでしょう。しかし、その昔にはお芝居を観ながら自宅から作ってきたお弁当や、芝居茶屋で誂えた食べ物を客席まで持ってこさせた時代があったものです。

 ある芝居小屋で若い衆が客の注文で、鍋を提げて幕が終わったら持って行こうと持ってきたが、ヒョッイと階段に鍋を置いて幕の終わるのをボーッと待っていた。馴れた若い衆だと幕が下りることだけを考えているのだが、まだ馴れないものだからボーッとしていた。幕が閉まると2階のお客さんが活きよいよく階段を下りてきた。下に鍋が有るのが分からず、片足を突っ込んでしまった。
 お客さんは怒って若い衆を叩いた。そこに先輩が入って事なきを得たが、鍋を注文した客は気が短く、幕が閉まったら直ぐに持って来いとの言付け。今更作り直している時間は無い。
「じゃ~、持って行って食わっしゃいなよ」、「そうは言っても、足が入ってしまったんですよ」、「鍋がひっくり返ったのならダメだが、片足だけだからフタを直して持って行け。大丈夫だよ。これから作り直していたらガリ食うのはお前だよ。大丈夫、見ぬ物清しと昔から言うだろ」、「では、持って行きます」。

 「おまちどおさま」、「馬鹿野郎、あれだけ早く持って来いと言ったのに、遅いじゃ無いか。幕が開いちゃうよ。だけど誉めるところは誉めようじゃ無いか。冷めないようにと鍋で持ってきたのは関心だ」、「知らぬは仏、見ぬ事きよし。どうぞ」、「芝居小屋の料理は旨いものは無いが、繫ぎとして腹に入れておいて、芝居が跳ねたら、外で旨い物を食べましょう。どんな物を食べさせるか、まずは私がお毒味を。乙な物を持ってきましたよ、『崩し豆腐』。魚も崩れていますよ。良い味がしますよ。時々ジャリッとしますが。硬いな、かみ切れない豆腐がありますよ」。
 そこに最前の男が後ろに現れた。驚いた茶屋の若い衆「お客さんに食べさせているところですから、向こうに行って下さい」、「忘れものをしたんだ」、「何を忘れたんですか」、
「鍋ん中に草履を片っぽ忘れたんだ」。

 



1.歌舞伎

歌舞伎の由来

 「歌舞伎」という芸能名の由来は、「傾く(かぶく)」という動詞にあります。この動詞には、並外れている、常軌を逸しているという意味があります。
 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、当時の流行の最先端を行く奇抜な服装や髪型をし、世間の秩序に反して行動する人々は、「かぶき者」とよばれました。歌舞伎の歴史は、出雲の阿国(いずものおくに)の「かぶき踊り」にまでさかのぼることができますが、このよび名は当時を象徴する最先端の「かぶき者」の扮装を舞台上でまねたことによります。ここから、「かぶき」とよばれるようになったのです。
 歌舞伎は、この発祥時の精神を受け継ぎ、約400年の歴史の中で、さまざまな時代の困難を乗り越えながら、他の芸能やそのときどきの流行などを貪欲(どんよく)に取り入れ、たくましくまた柔軟に発展してきました。その結果、歌舞伎は、演劇・舞踊・音楽の各要素を備えた「総合芸術」として現在に受け継がれています。

花道が付いた江戸後期の劇場風景 歌川豊国画(踊形容江戸絵栄より)

 このような経緯から、上演作品は、一口に歌舞伎の作品といっても、その成り立ちと内容はバラエティーに富んでいます。
 現在、上演される歌舞伎の作品数は、およそ400本といわれています。この中には、歌舞伎が他の芸能から取り入れた作品も多く存在します。これらの作品のうち、最も数が多いのは、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の作品を歌舞伎化した「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」です。また歌舞伎のためにかかれた作品の中にも、能や狂言に取材した「松羽目物(まつばめもの)」とよばれる舞踊作品や、落語や講談、当時の流行小説を取り入れた作品が存在します。
 また歌舞伎の作品は、その内容から大きく「時代物(じだいもの)」と「世話物(せわもの)」に分類できます。「時代物」は、「軍記物(ぐんきもの)」とよばれる合戦を描いた物語や、各地に伝わるさまざまな伝説などから着想して作られました。一方、江戸時代の町人の世界を描いた「世話物」は、おもに当時起こった殺人・心中・強盗などの事件を脚色して作られました。
 そしてこれらの多様な作品の内容を「それらしく」表現するため、さまざまな演技や演出が工夫されていきました。

独立行政法人日本芸術文化振興会(国立劇場)ホームページより

 

江戸時代の有名な3人の戯作者

近松門左衛門 ちかまつもんざえもん [1653年~1724年]

 元禄時代に活躍した近松は、人形浄瑠璃の作者としてスタートしましたが、元禄8年1695)からの10年間、上方の名優初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)のために『傾城仏の原(けいせいほとけのはら)』をはじめとする約30作の歌舞伎を書きました。近松のこの時期の活躍により、歌舞伎における作者の職業としての地位が確立されました。 

 藤十郎が衰え始めたこともあって人形浄瑠璃の作者に戻った近松は、多くの名作を残します。その中でも『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』・『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』・『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』・『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』・『平家女護島(へいけにょごのしま)』などの作品は、後の改作なども含めて歌舞伎にも取り入れられ、現在でも上演されています。

 

  四代目鶴屋南北 つるやなんぼく [1755年~1829年]

 文化・文政年間(1804年~1830年)を中心に活躍した作者です。20年余りの下積み時代が続いた後、文化元年(1804)の『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』が大ヒットし、世に出ました。

 以降25年間に渡り、作者の第一人者として活躍しました。亡霊などが活躍する奇抜な趣向や「生世話(きぜわ)」とよばれる当時の庶民生活をリアルに描いた作風が、特徴として挙げられます。現在でも『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』、『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』、『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』[一般的には『時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)』のタイトルで上演]などの作品が上演され、中でも『東海道四谷怪談』は代表作として有名です。

 

  河竹黙阿弥 かわたけもくあみ [1816年~1893年]

 幕末から明治時代を代表する作者です。幕末には4代目市川小團次(いちかわこだんじ)と組んで「白浪物(しらなみもの)」とよばれる泥棒が登場する作品を書き、明治以降には、9代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)・5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)を中心に作品を提供しました。

 江戸の庶民生活をリアルに描きながらも、七五調のせりふや清元(きよもと)などを効果的に織り込んだ音楽的にも優れた作風に特徴があります。約50年間の作者生活の中で、舞踊劇も含めて350作品以上を残し、その作品群は、現在の歌舞伎のレパートリーにおいて大きな割合を占めています。代表作として、白浪物の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』[通称『白浪五人男(しらなみごにんおとこ)』]、『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』、『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』、舞踊劇『土蜘(つちぐも)』などが挙げられます。

 独立行政法人日本芸術文化振興会(国立劇場)ホームページより

 また、河竹黙阿弥は、三遊亭圓朝の親友で、「鰍沢」の連作を作ったりした仲で、なんといっても圓朝作の、「牡丹燈籠」、「真景累ケ淵」、「乳房榎」、「塩原多助」を菊五郎などに書き、春錦亭柳桜の「梅雨小袖娘八丈」(通称「髪結新三」)を歌舞伎の舞台へのせ、落語と歌舞伎の素晴らしいコラボレーションを見せた劇作家です。
 墨田区亀沢2-11に「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建っています。明治26年1月死去、享年七十八。通りの向かい側には三遊亭圓朝が住んでいました。

 

2.浅草・猿若町(あさくさ・さるわかちょう)
 天保12年(1841)、文化・文政年間(1804~1830年)に緩んだ風紀を引き締め、幕府を立て直すことを目的として、老中の水野忠邦(みずのただくに)は天保の改革(てんぽうのかいかく)を開始します。
 庶民の娯楽の代表であった歌舞伎も、その取締りの対象となりました。水野は歌舞伎の廃止まで検討しましたが、最終的には、天保13年(1842)、市街地にあった官許の芝居小屋[中村座・市村座・河原崎座]に対し、郊外の浅草への移転を命じます。同時に、俳優をはじめとする芝居関係者も芝居小屋周辺に住むことを命じました。また当時を代表する俳優5代目市川海老蔵(いちかわえびぞう)前名7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)は、贅沢な小道具や衣裳など使用したことなどを咎められ、江戸から追放を命じられました。

賑わう猿若町の様子(『東都名所芝居町繁栄之図』)

 これらの幕府による命令に、歌舞伎界は大きな衝撃を受けます。浅草に移転した芝居小屋の周辺は、猿若町(さるわかまち・さるわかちょう)と名づけられますが、当初は立地が悪いこともあり、観客もなかなか集まりませんでした。
 しかし水野忠邦が失脚すると徐々に改革の空気も緩みはじめ、猿若町も賑わいを見せ始めます。この猿若町に芝居小屋がおかれた幕末の約30年間は、「猿若町時代」とよばれています。
独立行政法人日本芸術文化振興会(国立劇場)ホームページより

「中村座正面図」 豊国画 江戸東京博物館蔵

 河原崎座の移転が完了した直後に、幕府では水野が失脚、天保の改革は頓挫する。そして水野の目論見とは裏腹に、猿若町では三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実した。また城下では常に頭を悩まされていた火災類焼による被害もこの町外れでは稀で、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損益も激減した。そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになった。浅草界隈は吉原を含め、こうして江戸随一の娯楽の場へと発展していく。

 この猿若町に軒を連ねた中村座・市村座・森田座(または河原崎座)の三座を、猿若町三座(さるわかまちさんざ)という。
 明治5年(1873)になると場所の不便さがひびき、守田座が新富町(中央区新富=八丁堀の南)に移り、他の二座も明治25年までに鳥越町(台東区鳥越=蔵前橋通りの北)、下谷ニ長町(台東一丁目5凸版印刷ビル=鳥越の西)へと移っており芝居町としての役目を約30年で終えてしまった。

伝菱川師宣画 「歌舞伎図屏風」 屏風絵で六曲一双の右側の部分。 元禄の猿若町時代の中村座。東京国立博物館蔵 右側が入口で、舞台では『大おどり』の場面です。 14.01追記

中村座(なかむらざ);江戸にあった歌舞伎劇場で江戸三座(中村座・市村座・河原崎座)のひとつ。座元は中村勘三郎代々。控櫓は都座。
 猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりである。当初猿若座と称し、その後、中村座と改称された。寛永9年(1632)、江戸城に近いという理由でここから禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目あたり)へ移転、慶安4年1651)には堺町(現・日本橋人形町3丁目)へ移転した。
 天保12年1841)12月、中村座からの出火により葺屋町の市村座ともに焼失、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられた。この地には歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が建てられ、町名は初代勘三郎に因んで猿若町と命名された。
 明治17年1884)11月、浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)へ移転し、猿若座と改称されたが、明治26年1893)1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となった。


「中村座の平面図」 右側が舞台で回り舞台があります。その裏が楽屋。中央に枡席があって、左が正面です。左右の高い所が2階席です。

 

枡席の周りは二階席になっていて、左図は入口側、右図は舞台側です。3図共、江戸東京博物館蔵模型

 中村座の定式幕は、左から「黒」「白」「柿色」の引き幕だった。「白」の使用は中村座に限って幕府から特別に許された色であった。現在は十八代目中村勘三郎の襲名興行や平成中村座の公演などで使用されている。

市村座寛永11年1634)に村山又三郎が興した村山座に始まり、承応元年1652)、市村羽左衛門が興行権を買い取り市村座とした。当初、日本橋葺屋町(現・日本橋人形町3丁目)にあったが、天保13年(1842)、前年の火災と天保の改革の一環により浅草猿若町(現・台東区浅草6丁目)へ移転した。
 明治5年(1872)、14代羽左衛門のとき、負債のため村山座と改称。のち再び市村座に改称。明治25年(1892)、猿若町から下谷二長町(現・台東区台東1丁目)に移転した。
 1908年以降、田村成義が経営権を取得。田村は若手俳優の6代目尾上菊五郎や初代中村吉右衛門らを育て、大正に入ると歌舞伎座や帝国劇場に対抗して市村座全盛期を迎えた。「菊吉時代」「二長町時代」と呼ばれたのはこの頃である。田村の逝去(1920年)後は、看板俳優の吉右衛門が脱退、経営を引き継いだ田村寿二郎・岡村柿紅の相次ぐ逝去などの不運も重なり、次第に衰退に向かった。
 関東大震災で焼失し、仮建築(バラック)で復興した。1927年、市村座を支えてきた菊五郎に負債が重なり、ついに裁判沙汰となったため、菊五郎は松竹に入り、松竹が市村座を借上げることになった。昭和6年(1931)には4代目河原崎長十郎の劇団前進座の旗揚げ公演が行われた。翌年、1932年に楽屋からの失火で焼失した後は再建されず、寛永の時代から櫓を上げ続けていた市村座の歴史はここに終った。
 市村座の定式幕は、左から「黒」「萌葱」「柿色」の引き幕だった。現在は東京国立劇場や大阪新歌舞伎座が使用している。 

森田座・守田座;(河原崎座)万治3年(1660)、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が木挽町五丁目(現在の中央区銀座6丁目、昭和通り西側)に森田座を開場した。
 森田座の経営は不安定で、資金繰りに行き詰まっては破綻・休座して控櫓の河原崎座に代興行権を委ねることが多く、時には20年近くにわたって河原崎座が興行していたこともあった。天保14年(1843)に天保の改革で木挽町から猿若町(現在の台東区浅草6丁目)へ移転させられた時も3度目の休座中で、実際に引っ越し一切を行ったのは河原崎座だった。安政3年(1856)5月に河原崎座が失火で全焼すると11代目森田勘彌によって森田座が再興され、その2年後には「森の下に田んぼ」では陽当たりが悪く実りが悪いのも当然で、これを「田を守る」に改めればきっと勝手口も改善するにちがいない」とのゲンをかついで名称を森田座から守田座に改称、これにともない姓の森田も守田に改めた。明治5年(1872)にはやはり「新しい富を求める」というゲンかつぎで、新富町(現在の中央区新富2丁目)へ移転し、3年後の明治8年(1875)には座名も新富座と改めている。
 守田座の定式幕は左から「黒・柿色・萌葱色」の三色の引幕だった。これが現在東京歌舞伎座や京都南座をはじめとする多くの劇場で歌舞伎上演の際に使用される定式幕の組合せとなった。

 

3.言葉
■芝居茶屋
(しばいじゃや);劇場に付属して、観客のキップ購入、案内や幕間の休憩・食事その他の世話をするための茶屋。良い席を取るにはここを通さなくては取れない。

ガリを食う(がりをくう);叱られて苦い思いをする。

公演中は食べ物禁止;ホールや芝居、映画も一部の寄席も客席では食べ物禁止になっていますが、スポーツ観戦はいまだOKです。野球はビールを飲みながら観戦しますし、特に相撲は食べながら飲みながらが常識です。東京・歌舞伎座も客席での飲食は可能で、ビールや弁当を客席で食べてもOKです。

(やぐら);芝居櫓、正面入口上の破風のうえに上がった櫓。芝居小屋の櫓は、人ひとりが乗れるほどの籠のような骨組みに、2本の梵天と5本の槍を組み合わせ、それを座の定紋を染め抜いた幕で囲った構築物で、これを木戸(入口)の上方に取り付け、かつてはそこで人寄せの太鼓を叩いた。この櫓をあげていることが官許の芝居小屋であることの証だった。明治以降も建築様式として引継がれ、歌舞伎を上演する常設の劇場ではその興行の際に櫓が上がった。


 

 舞台の猿若町を歩く

 

 浅草寺の北側を東西に走る言問通りを東に進むと、隅田川に架かる言問橋になります。その手前北側の浅草六丁目の大部分が、旧名・猿若町と言い、現在もその名前に戻してくれと運動をしています。南から旧猿若町に入って行きますが、入口には猿若町の旗が立っていますし、自分たちで作った看板、石碑が建っています。
 現在はごく普通の街並みを形成しています。ただ、大道具屋さんが残っていて、その昔の面影を残しています。町の中に入ると最初が一丁目で左側に中村座がありました。現在は中村座の碑が建っています。
 奥が二丁目で、市村座があり、三丁目には河原崎座が興行していました。そのどちらの跡にも石碑が建っています。
 猿若三座と言われたのは、江戸末期から明治にかけての約30年間だけですから、その面影が無くなってしまい、町名ですら浅草六丁目と変わってしまったくらいです。
 話は飛びますが、日本橋人形町にあった旧吉原でもそのぐらいの年数しか存在していませんでしたから、現在では全くその面影も風情もありません。ただ残ったのは大門通りという名称の道路だけです。時代の流れは速く、町そのものはどんどん変わってしまいます。猿若町も同じ事です。猿若町の読み方ですら「さるわかちょう」、「さるわかまち」と二種類のふりがなが有り、地元ですら読み方の記録が残っていないようです。 

 今年4月に全面建て替えられた、銀座の歌舞伎座では顔見世興行として、仮名手本忠臣蔵通し狂言を興行しています。全て新しい歌舞伎座ですから、お客さんも華やいだ雰囲気を持っています。四段目判官切腹の場、中村仲蔵が新しく考案して演出した五段目山崎街道の場、等は落語と対比して見る楽しさもあります。

 

地図


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写真


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猿若町(台東区浅草六丁目)
 言問通りを隅田川に架かる言問橋方向を見ています。旧猿若町中央通りの入口に幟や案内標識が立っています。写真の幟の先を左に入ると旧猿若町の中央通りです。

猿若町中村座跡(台東区浅草六丁目)
 猿若町(一丁目)にあった中村座跡の碑です。

江戸歌舞伎発祥の地碑 (中央区京橋・首都高下)
 京橋の高速道路脇に建っています。中村座がここに芝居小屋を建て、江戸で最初に興行したところです。

中村座(江戸東京博物館)
 江戸時代の中村座の原寸展示物です。中村座の紋が入った櫓(やぐら)が付いています。正面櫓の下の大看板には、右から「瀬川路考」中央のひらがなは「さるわかかんざぶろう」、左に「岩井半四郎」と書かれています。ひらがなも読めない時代になってしまいました。

歌舞伎座(中央区銀座4-12)
 新歌舞伎座というのでしょうか。歌舞伎座新開場柿葺落 吉例顔見世大歌舞伎 仮名手本忠臣蔵をやっています。落語にも出てくる歌舞伎。

歌舞伎座(緞帳)
  4枚有る緞帳(どんちょう)内の一つ。中島千波画伯は四季を意識して「春と秋」を題材にしています。ご自身が特に好んで描かれる桜、華やかな楓を素材に、そこにつがいのメジロを添え、春から秋という時の流れを表現しています。

歌舞伎座
 平成25年4月、第五期となる歌舞伎座が新開場しました。全てが新しく、白い花道を通す1階客席を見ています。定式幕が歌舞伎独特の色気を出しています。

                                                           2013年12月記

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