落語「大名房五郎」の舞台を歩く
宇野信夫作
右図;岩佐又兵衛の自画像。MOA美術館蔵
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年・天正7年(1579)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ狩野内膳という説があるが、よくわかっていない。俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿(もっけい)や梁楷(りょうかい=南宋の画家)風の水墨画や、狩野派、海北派、土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今日では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合しており、その成果を見ることが出来る。人物表現にもっとも又兵衛の特色が現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。相貌は豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分独自のスタイルとしている。
2.下谷車坂(したや
くるまざか)
■新寺町(しんでらまち);正式名称でなく俗里に浅草新寺町という。吝嗇の質両替屋の万屋万右衛門が住んでいた。現在の台東区東上野四丁目、五丁目、六丁目の北部。四丁目の北部には落語界の名所「下谷山崎町」(黄金餅の舞台)が有りますので、そこを除いた地で、清洲橋通りとかっぱ橋通りとの交差点を含む広い地。
■坂本(さかもと);現在の中央区兜町7~13番地で、東京証券取引所の南側。現在で言えば一等地ですが、そんな所にも餓死者がいたのです。とは言っても、江戸時代と現在では大違い。
■下谷(したや);旧名で下谷区と言われた地。台東区の、おおざっぱに上野を中心にした地。
■浅草(あさくさ);旧名で浅草区と言われた地。台東区の、おおざっぱに浅草寺を中心に南側。
3.言葉
■火の車(ひのくるま);生計のきわめて苦しいこと。江戸っ子は「ひ」と「し」が言い分けられないので、ひの車をしの車と違和感なく発音する。
■大工の棟梁(だいこのとうりょう);江戸っ子は”とうりゅう”と発音していた。大工さんのリーダー。
■茶席(ちゃせき);茶をたてる座席。茶座敷。茶室。
■九代目の市村羽左衛門(いちむら うざえもん);享保9年〈1724〉 - 天明5年8月25日〈1785年9月28日〉、享保の初期から天明初期にかけて活躍した歌舞伎役者。 屋号菊屋、俳名は家橘。享年62才。
右図;九代目市村羽左衛門の武蔵坊弁慶。勝川春章画。
十五代目市村羽左衛門;1874年(明治7年)11月5日 - 1945年(昭和20年)5月6日は、大正から戦前昭和の歌舞伎を代表する役者の一人。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。来日していた外交官のルジャンドルは松平春嶽の庶子である池田絲との間に一男二女をもうけた。長男は四歳で十四代目市村羽左衛門に養子に出され、その子が十五代目市村羽左衛門となった。美男だけではなく、芸も素晴らしく、オーラが立ち上り、舞台では光り輝いていたという。
■十一代将軍徳川家斉(いえなり);(在任:1787年 - 1837年)安永2年(1773)10月5日、御三卿の一橋家の当主一橋治済の長男として生まれる。安永8年(1779)に第10代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、父と田沼意次の後継工作、並びに家治に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も病弱で子供がいなかったことから、天明元年(1781)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。
天明6年(1786)家治(50歳)の急死を受け、天明7年(1787)4月15日に15歳で第11代将軍に就任した。
家斉は特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。徳川歴代将軍の中で子作りに精を出した将軍として名を残した。その為、ノシを付けて各大名に押しつけた。
右図;「徳川家斉像」 徳川記念財団蔵
■天明の大飢饉(だいききん);江戸時代中期の天明2年(1782)から天明8年(1788)にかけて発生した飢饉。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。
天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死した。被害は特に陸奥で酷く、弘前藩(津軽藩)の例を取れば死者が十数万人に達したとも伝えられており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓と共に疫病も流行し、全国的には1780~86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされる。全国的には農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安の悪化が進行した。
■吝嗇(りんしょく);過度にものおしみすること。けち。
■けんもほろろ;(「けん」も「ほろろ」もキジの鳴き声。それと「けんどん(慳貪=なさけ心のないこと。むごいこと。愛想がないこと。邪慳)」を掛けたものか)
無愛想に人の相談などを拒絶するさま。取りつくすべもないさま。
■橫谷宗珉作牡丹の目貫;橫谷宗珉(よこやそうみん)は寛文10年(1670)に生まれ、享保18年(1733)に没した。63歳(83歳で没したともいう)。
伝えていう、宝永の頃に、紀伊国屋文左衛門が、宗珉に牡丹の目貫を頼んで、手付金10両を贈ったが、3年経っても、まだ彫ろうともしなかった。紀文は待ちわびて、しきりに催促したところが、その仕方が気に食わぬといって、手付けを返し、その後やや過ぎて彫り上げたのを、当時紀文と肩を並べていた富家の某に与えた。某は喜んで50両をもって謝礼とした。以後宗珉は、一輪牡丹を彫らなかった。それでその目貫は、世に一品の名物となったという。 ☆落語「浜野矩随」に腰元彫りの説明と腰元彫りの写真あり。
■足下を見る(あしもとをみる);
駕籠かきなどが、旅行者の足の疲れぐあいを見て、料金をふきかける。一般に、弱みにつけこむ。
舞台の浅草新寺町・下谷車坂を歩く
JR上野駅の東側、下谷車坂。現在駅前ですから繁華街になっていますが、通常の繁華街のようにショッピング街は無く、ホテルやバイクショップ、飲み屋さんが集まっています。今でも垢抜けした町だと誰も言いません。昔は寺町で、静かな所だったのでしょう。噺の中では房五郎が居を構えていました。
その東、新寺町。下谷車坂と新寺町の間には、落語「黄金餅」の舞台、乞食坊主の西念が住んでいた裏長屋があった所です。ここはバブル時代が終焉した時、土地の買い上げで虫食い状態の土地になっていた所ですが、今は洒落たビルが建ち並んで、当時の面影はありません。
都内では地下鉄の踏切はここに一ヶ所有るだけの貴重(?)な場所ですが、地下鉄銀座線が来るのはいつだか分かりませんので、貴重な一瞬に立ち会えました。
はい、お待たせしました。寄り道はこの辺にして、本題の浅草新寺町に入ります。と言っても、そこはただただ極普通の街並みですから、なんて説明したら良いのでしょう。江戸時代はここから東の浅草寺まで、約1kmず~っとお寺さんの密集地で、お寺さんの門前に猫の額ほどの門前町として、わずかの町屋があっただけです。現在は、そのお寺さんも数を減らし町屋としての街の顔が見えてきますが、他地区から比べればお寺さんが絶滅したわけではありませんので、多くのお寺さんが今でも歴史を刻んでいます。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2013年11月記 |
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