落語「大名房五郎」の舞台を歩く
   

 

 宇野信夫作
 三遊亭円生の噺、「大名房五郎」(だいみょうふさごろう)より
 


  房五郎と言うのは、下谷車坂に住む大工の棟梁。茶席を作らせると、この人の右に出る者が無いと言う。仕事も上手いが、今で言う、設計も優れておりまして、頭がいい。歳は二十九で、九代目の市村羽左衛門に生き写しと言う、誠にいい男です。まだ、女房を持ちませんで、お大名や旗本のいいお得意はあるので、かなりの収入はあったが、年中火(し)の車と言う。それは、居候を置きまして「ま、い~やな、俺ンとこへ来ていろ」と、年がら年中貧乏すると言う誠に変わった人でございます。
 余技に書画骨董の目が利いておりまして、見ると「こりゃこう言うもんでございます」とはっきり断定した。目利きの天才でございました。「あれはどうも普通の人間じゃァないね、大名の落とし子かじゃないか」なんてぇ事を言う。そこで「大名房五郎」と言う渾名(あだな)が付きました。
 十一代将軍家斉が、天明七年三月に、将軍職に就きましたが、その五月から、大変な飢饉がありました。昔は小判を持って行き倒れていたなんと言う話がありました。人間何が苦しいと言っても、あの腹の減ると言うのは実に辛いもので、『ひもじさと、寒さと恋を比ぶれば、恥ずかしながらひもじさが、先』と言う。ま、人間お腹の空くと言うのは一番嫌なものです。

 「今帰ってきたが、暑いのは我慢が出来るが、坂本で親子の餓死者を見たが悲惨ですね」、「米の値段は上がるし、居候が増えて大変だ」。
 「新寺町で吝嗇の質両替屋の万屋万右衛門から茶席を作る話があったが、親方は請けないだろうな」、と話をしていると房五郎が帰ってきて仕事はするという。金が無ければ施しも出来ないし、居候も置けないという。それにどうせ万屋に行くなら、母親の形見の最後に残った掛け軸を買ってもらうと持ち出した。万屋は大変ケチであったが、古美術品の収集癖があった。良いものは楽しんだ後に高く売れるから損が無いという。

 最後まで持っていた形見の軸は、岩佐又兵衛の絵で、遠山が在ってその下に橋が架かって、傘を提げた人が描かれている、さっぱりとした風景画であった。
 「手放したくは無いが、50両で如何ですか。その金で、二人の連盟で施しをしたい」、「私はヤダね。昔から施しと塩辛が大嫌いだ」、「それと茶席も結構なもので、小切れを使って、驚くようなものを造って見せます」、「お前さんに生き方について、どうこう言われたくない。食う物も無かった時から一代で築いた私だ。人の恩はいただかないし、恩を掛けたことも無い」、「いえ、人は持ちつ持たれつと言いますから」、「この掛け軸は高くは無いが、この位の物は蔵にいっぱい転がっているから今回は要らない。それから茶席も木っ端で造られたら、たまらないから造らない」、けんもほろろに追い返されてしまった。
 帰ってきた房五郎は悔しくて我慢が出来なかった。

 半月程経った時に、ある屋敷から橫谷宗珉作牡丹の目貫の鑑定を依頼された。
 弟子に万屋に行って、橫谷宗珉作牡丹の目貫が有りますから、明日返すので、涼風の出る頃お越し下さいと言い付けた。
 「今日は夕立があるだろうな」。
 万屋は好きな物は別物、大変喜んで出掛けて来た。
 小さな庭を持った部屋に通されたが、そこには先日ケチをつけた、橋の上の人が傘を提げている軸が架かっていた。橫谷宗珉作牡丹の目貫を惚れ惚れしながら見ていたが、稲妻が走って夕立になった。万右衛門、厠から帰ってくると先程の掛け軸の傘を提げた人が傘を差していた。周りの景色も雨に濡れているように見えた。黙って観ていたが、急いで軸をグルグルと巻いて箱に納め、売りたくないという物を強引に「言い値で買うから」と、雨の中逃げるように持ち帰った。

 ビショビショになって戻ると、弟子が追いかけ訪ねてきた。「売り物では無いので、お返し下さい」、「言い値の50両に10両付けて60両で買いたいと、棟梁に聞いてきてくれ」。
 「ダメなんです。売り物では無いのでお返し下さい」、「それではもう10両付けて70両ではどうか、聞いてきてくれ」。
 「やはり、ダメなんです」、「それでは・・・」。80両が90両になって、100両になった。
 戻ってきた弟子が「それでは200両で、びた一文欠けてもダメだと言います。『200両だったら買わない』と言うだろうから、もらって帰って来いと言われました」、値切りに値切ったがダメで「足下を見やがったな」。渋々200両渡して弟子を返した。
 良くできた絵は、魂が入って絵から飛び出すこともある。橋を渡る人間が傘を提げていたが、雨が降ると傘を差すという素晴らしい絵で、この噂を聞いた大名が買いに来るだろうから、値が上がって1万両となる。と皮算用をしていると雨が遠退いてきた。番頭達を呼んで、急いで長屋の者を料理付きで接待した。この噂が広まるための撒き餌であった。

 岩佐又兵衛の絵が傘をつぼめる。外の天気と連動して・・・、「そろそろですよ」、「外は明るくなりましたが・・・」、いっこうに変化が無い、「外は雨も上がって、セミが鳴いています」、万右衛門、泣きべそを搔きながら、今に閉じると言い張るのだが・・・。
 そこに房五郎が現れ、「200両でどうしても買いたいと言った絵は偽物で、2ヶ月ばかり居候をしていた絵師が又兵衛そっくりに作った物。本物はここに有りますから差し上げます。金の使い方が分からない旦那に教えるにはチョットきつかったかもしれない」。
 「雨が降った時はそれを掛け、晴れの日はこちらを掛けて楽しんで下さい。あの200両で下谷、浅草の貧乏人に施してやったらたいそう喜んでた。旦那も気分が良いでしょう」。「大儲けしようと思ったが、あの金は全部米になったのか」、
「ははは、旦那があんまりにも欲が深いから、貴方の金を食い物にしました」。

 



1.岩佐又兵衛
 岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい)」。
享年73才。

 右図;岩佐又兵衛の自画像。MOA美術館蔵

 摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年・天正7年(1579)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
 成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
 大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。
 寛永14年(1637)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終える。

  
  「婦女遊楽図」 岩佐又兵衛作 ( 右隻 ・ 国宝 重要美術品 ) 大和文華館 所蔵  

 絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ狩野内膳という説があるが、よくわかっていない。俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿(もっけい)や梁楷(りょうかい=南宋の画家)風の水墨画や、狩野派、海北派、土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今日では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合しており、その成果を見ることが出来る。人物表現にもっとも又兵衛の特色が現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。相貌は豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分独自のスタイルとしている。
 古典的な題材が多いが、劇的なタッチとエネルギッシュな表現が特色のその作品は、しばしば浮世絵の源流といわれる。 代表作としては川越市喜多院の「三十六歌仙」の額絵、肉筆「職人尽」が挙げられる。初期風俗画の先駆者の一人であった。歌舞伎や文楽の人気演目である「傾城反魂香」の主人公「吃又(どのまた)」は浮世又兵衛のモデルとされる。
 ウイキペディアより


 「小栗判官絵巻」(全15巻 総長約324m)第2巻より龍(大蛇)  岩佐又兵衛作 宮内庁三の丸尚蔵館蔵


 「三十六歌仙図屏風」部分 岩佐又兵衛作 円立寺(えんりゅうじ)蔵
豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される、高貴な風貌を表現。

 

2.下谷車坂(したや くるまざか)
 下谷車坂町、現在の台東区東上野七丁目1~7番地。及び14の地。JR上野駅東側と昭和通りに挟まれた地。主人公、大名房五郎と弟子2人が暮らしていた。添付した地図には2ヶ所有るようになっていますが、全体は一ヶ所なのでしょうが寺や武家地が有るので、切り裂かれています。

新寺町(しんでらまち);正式名称でなく俗里に浅草新寺町という。吝嗇の質両替屋の万屋万右衛門が住んでいた。現在の台東区東上野四丁目、五丁目、六丁目の北部。四丁目の北部には落語界の名所「下谷山崎町」(黄金餅の舞台)が有りますので、そこを除いた地で、清洲橋通りとかっぱ橋通りとの交差点を含む広い地。
 また、元浅草二丁目の東半分にも同名の町があった。またまた、浅草寺の西側、現在の国際通りに面した街並みも同名の名前を持っていた。東西に走る浅草通りを仏壇通りと言うぐらい仏具の需要が多いところ、言い換えれば通りの左右はお寺さんで満員です。

坂本(さかもと);現在の中央区兜町7~13番地で、東京証券取引所の南側。現在で言えば一等地ですが、そんな所にも餓死者がいたのです。とは言っても、江戸時代と現在では大違い。
 その北側の東京証券取引所が有る北側に架かる橋は鎧(よろい)橋。江戸時代は鎧の渡しと言われ、源義家が奥州征伐の時、ここを渡る時暴風雨に出合い、鎧を沈めて龍神に祈ったら無事渡ることができた。その帰路、近くに塚を築き神を祀った故事から町名になった。株取引の中心地だから株(兜)町というのではありません。

下谷(したや);旧名で下谷区と言われた地。台東区の、おおざっぱに上野を中心にした地。

浅草(あさくさ);旧名で浅草区と言われた地。台東区の、おおざっぱに浅草寺を中心に南側。

 

3.言葉
■目利き
(めきき);器物・刀剣・書画などの良否・真贋を見分けること。鑑定。

火の車(ひのくるま);生計のきわめて苦しいこと。江戸っ子は「ひ」と「し」が言い分けられないので、ひの車をしの車と違和感なく発音する。

大工の棟梁(だいこのとうりょう);江戸っ子は”とうりゅう”と発音していた。大工さんのリーダー。

茶席(ちゃせき);茶をたてる座席。茶座敷。茶室。

九代目の市村羽左衛門(いちむら うざえもん);享保9年〈1724〉 - 天明5年8月25日〈1785年9月28日〉、享保の初期から天明初期にかけて活躍した歌舞伎役者。 屋号菊屋、俳名は家橘。享年62才。
 宝暦12年(1762)、父八代目羽左衛門の死去により市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかしその後火事や先代からの借金に苦しめられ、天明4年(1784)にはついに市村座は倒産閉場し、控櫓の桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、そのなかで猿まわしの猿に扮し『娘道成寺』の所作事を演じた。同年8月に没す。
 若いころは魚のような顔つきだと評され荒事ばかりを演じていたが、のちに和事や実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず幅広い芸風を誇った。特に所作事においては名人との評判を得ている。

右図;九代目市村羽左衛門の武蔵坊弁慶。勝川春章画。
ウイキペディアより
 九代目の市村羽左衛門の生き写しのようにイイ男と言われるが、若い時に似ていたら可愛そうに。教訓・残念ながら役者は全てイイ男とは限らない。

十五代目市村羽左衛門;1874年(明治7年)11月5日 - 1945年(昭和20年)5月6日は、大正から戦前昭和の歌舞伎を代表する役者の一人。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。来日していた外交官のルジャンドルは松平春嶽の庶子である池田絲との間に一男二女をもうけた。長男は四歳で十四代目市村羽左衛門に養子に出され、その子が十五代目市村羽左衛門となった。美男だけではなく、芸も素晴らしく、オーラが立ち上り、舞台では光り輝いていたという。
 二枚目や若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。時代を代表する美男子で、そのあまりもの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。

十一代将軍徳川家斉(いえなり);(在任:1787年 - 1837年)安永2年(1773)10月5日、御三卿の一橋家の当主一橋治済の長男として生まれる。安永8年(1779)に第10代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、父と田沼意次の後継工作、並びに家治に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も病弱で子供がいなかったことから、天明元年(1781)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。 天明6年(1786)家治(50歳)の急死を受け、天明7年(1787)4月15日に15歳で第11代将軍に就任した。

 家斉は特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。徳川歴代将軍の中で子作りに精を出した将軍として名を残した。その為、ノシを付けて各大名に押しつけた。
 本郷の加賀藩主・前田斉泰に嫁いだ溶姫は、母親が側室・お美代の方(専行院)。二十一女で、婚礼時14歳だった。 落語「粗忽の使者」より
 贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに、老家老達がいなくなったので、おごり贅沢な生活を送るようになり、これに度重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なったので、物価の騰貴などを招くことになった。

右図;「徳川家斉像」 徳川記念財団蔵

天明の大飢饉(だいききん);江戸時代中期の天明2年(1782)から天明8年(1788)にかけて発生した飢饉。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

 天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。 被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死した。被害は特に陸奥で酷く、弘前藩(津軽藩)の例を取れば死者が十数万人に達したとも伝えられており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓と共に疫病も流行し、全国的には1780~86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされる。全国的には農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安の悪化が進行した。
 江戸では天明6年に大火が有り、天明7年(1787)5月には、米価が上がり江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、その後全国各地へ打ちこわしが広がった。

吝嗇(りんしょく);過度にものおしみすること。けち。

けんもほろろ;(「けん」も「ほろろ」もキジの鳴き声。それと「けんどん(慳貪=なさけ心のないこと。むごいこと。愛想がないこと。邪慳)」を掛けたものか) 無愛想に人の相談などを拒絶するさま。取りつくすべもないさま。

橫谷宗珉作牡丹の目貫橫谷宗珉(よこやそうみん)は寛文10年(1670)に生まれ、享保18年(1733)に没した。63歳(83歳で没したともいう)。
 江戸中期の装剣金工家、橫谷家2代目。後藤殷乗(あんじょう)の門人であった橫谷宗與の子(養子とする説もある)。江戸生まれ。幼名は長二郎、のちに治兵衛、さらに父の没後に宗珉を名乗った。神田檜町に住み、はじめ父以来の御彫り物役として江戸幕府に仕えていたが、後藤家の伝統的な家風に飽き足らず辞職して町彫りとなった。狩野派をはじめ各派の画風や自由な画題を彫り技にとり入れた。また技法にも創意工夫を加え、特に片切(かたぎり)彫りに示される精妙で格調高い独自の境地は、世に絶賛され、当時の彫金界に橫谷の名を一流にした。作品は目貫(めぬき)、縁頭(ふちがしら)、小柄(こずか)など多岐にわたり、獅子牡丹、龍、虎、馬、布袋などの絵彫りを好んで表した。後年には画家・英一蝶(はなぶさ-いっちょう)との交流が知られ、彼の下絵を用いたと伝えられる。
「日本歴史人物事典」朝日新聞社編より 
右写真;「日本肖像大事典」日本図書センター発行より

 伝えていう、宝永の頃に、紀伊国屋文左衛門が、宗珉に牡丹の目貫を頼んで、手付金10両を贈ったが、3年経っても、まだ彫ろうともしなかった。紀文は待ちわびて、しきりに催促したところが、その仕方が気に食わぬといって、手付けを返し、その後やや過ぎて彫り上げたのを、当時紀文と肩を並べていた富家の某に与えた。某は喜んで50両をもって謝礼とした。以後宗珉は、一輪牡丹を彫らなかった。それでその目貫は、世に一品の名物となったという。
「人物逸話事典」下巻 森銑三編 東京堂発行より

 ☆落語「浜野矩随」に腰元彫りの説明と腰元彫りの写真あり。
 ☆落語「金明竹」にも出てくる名人です。
この項、落語「宗珉の滝」より孫引き

足下を見る(あしもとをみる); 駕籠かきなどが、旅行者の足の疲れぐあいを見て、料金をふきかける。一般に、弱みにつけこむ。

 


 

 舞台の浅草新寺町・下谷車坂を歩く

 

 JR上野駅の東側、下谷車坂。現在駅前ですから繁華街になっていますが、通常の繁華街のようにショッピング街は無く、ホテルやバイクショップ、飲み屋さんが集まっています。今でも垢抜けした町だと誰も言いません。昔は寺町で、静かな所だったのでしょう。噺の中では房五郎が居を構えていました。

 その東、新寺町。下谷車坂と新寺町の間には、落語「黄金餅」の舞台、乞食坊主の西念が住んでいた裏長屋があった所です。ここはバブル時代が終焉した時、土地の買い上げで虫食い状態の土地になっていた所ですが、今は洒落たビルが建ち並んで、当時の面影はありません。
 この地に、地下鉄銀座線の車庫が有り、そこに通じるために地上に上がってきて検査場に入っていきます。なかなか、この踏切を通過する地下鉄を見ることは出来ないのですが、運良くその出会いに立ち会うことが出来ました。地下鉄が地上に出てくると、モグラのようにまぶしくて、目がチカチカするのでは無いでしょうか。 

  

 都内では地下鉄の踏切はここに一ヶ所有るだけの貴重(?)な場所ですが、地下鉄銀座線が来るのはいつだか分かりませんので、貴重な一瞬に立ち会えました。

 はい、お待たせしました。寄り道はこの辺にして、本題の浅草新寺町に入ります。と言っても、そこはただただ極普通の街並みですから、なんて説明したら良いのでしょう。江戸時代はここから東の浅草寺まで、約1kmず~っとお寺さんの密集地で、お寺さんの門前に猫の額ほどの門前町として、わずかの町屋があっただけです。現在は、そのお寺さんも数を減らし町屋としての街の顔が見えてきますが、他地区から比べればお寺さんが絶滅したわけではありませんので、多くのお寺さんが今でも歴史を刻んでいます。
 この街中に吝嗇の万屋万右衛門の質両替屋が有ったのです。貧乏長屋が多かった下谷山崎町を抱えていたので、商売は繁盛したことでしょう。雨が降っても車坂から濡れながら走って帰れた距離ですが、残念ながら現在は一軒も質屋さんは存在しません。

 

地図


  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

下谷車坂1(台東区上野七丁目)
 道路の右側は、商店、ホテル、バイク屋、飲み屋などが、狭い地域に押し合いへし合い並んでいます。道路の左側は、JR上野駅です。江戸時代は寛永寺の子院が並んでいたところで、上野の山にあがるところに車坂門がありました。右側の街並みの中に車坂町があり、房五郎が住んでいました。

下谷車坂2(台東区上野七丁目)
 上記車坂から南に出たところが、上野駅の中央コンコースになります。人の往来は歩道橋で、駅の入口は2階部分ですから違和感はありません。この地を山下と呼んでいました。

下谷車坂3(台東区上野七丁目北)
 上記北側の地で、左側の町屋。右側は上野の山に登る急坂で、両大師橋でJRをまたいで、上野公園に入っていきます。 

下谷区(台東区の西半分の旧名)
 下谷広小路で、北側の現上野公園を見ています。正面の木々が見えるところです。道は右側に回り込んでいて、JRのガードをくぐると山下に出ます。

浅草新寺町(台東区東上野5-24)
 今は探さなくてはお寺さんは見付かりませんが、江戸時代は周り全部がお寺さんでした。写真の先に昭和通りの上を通過する高架の高速道路。その手前が下谷山崎町と言われたところです。

浅草新寺町2(台東区元浅草二丁目東半分)
 今でも多いお寺さんです。その一つ、吉祥院(元浅草2-1)です。

浅草区(台東区の東半分の旧名)
 浅草区の代表的浅草寺、その山門の雷門です。いつ行っても人でいっぱい。

坂本(中央区日本橋兜町7~13番)
  坂本のすぐ北側に有る、東京証券取引所。ここを中心に大小の証券会社が集まっています。

茶室
 畠山記念館(港区白金台二丁目20)内 茶室「毘沙門堂」。畠山記念館には、落語「井戸の茶碗」の本物が有ります。常時展示されている物では無いので、チャンスを見て出掛けましょう。そこのお庭に有る茶室です。

                                                           2013年11月記

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