落語「五月雨坊主」の舞台を歩く
   
 

 村上元三作
 八代目林家彦六の噺、「五月雨坊主」(さみだれぼうず)
 

 

 神田・橋本町に願人坊主が多く住んでいた。文政6年、江戸も爛熟していたが、五月雨が降り続き、あちこちで出水し隅田川に架かる橋も危ないという噂も出始めた。

 両国米沢町二丁目に薬種問屋・茨城屋勘兵衛の店は立派であった。そこに願人坊主が入ってきた。鉄願という町内には明るい馴染み坊主であったが、店内の異様な空気を感じ取った。旦那様が手代と木曽路に旅立って1ヶ月。行方知れずになっているが、それが見付かったのかと尋ねた。見付からないが、話は出来ないから帰れと言うが、お嬢様の具合が悪く寝込んでいるのか聞いたが、帰れの一点ばり。その時奥から後添いのおたねと言う粋な女が縦暖簾から顔を出して勝手口に回るように言いつけた。鉄願は裏に回るとおたねさんは既に来ていて、顔を近づけるとおたねさんは一歩引いて袖屏風で話し始めた。薬研小町と言われたお駒は寝たきりであったが、ある日居なくなってしまった。そこで江戸中を歩く鉄願に頼んで、見付かったら教えて欲しいと頼まれた。それにはとお金を渡されたが、そんな大金受け取れないと拒んでいると、奥から庄太郎という者が出てきて教えて欲しいことがあると二人で奥に戻った。庄太郎はおかみさんの兄弟で一月ほど前に住み始めた男だと教えてもらったが、鉄願が三宅島に流されているとき一緒にモッコを担いでいた野州無宿の直助だ。向は気がつかなかったが、おかみさんの弟だと言うが、何かお嬢さんの家出と関係がありそうだと思うし、旦那の行方知れずも何か絡んでいそうだと、雨の中番傘を広げて駆け出した。

 鉄願はお寺の出ではなく、気がついたら青年になっていて、賭場で喧嘩になり相手を半殺しにしたため島送りになっていた。5年の刑期を終わって帰ってきたら、捕縛した同心に、このままだともっとヒドい刑になるからと、無理矢理願人坊主にさせられていた。最初はふてくされていたが、身体を動かして銭を稼ぐと様になってきた。
 雨の帰り道、柳原の柳森神社の灯明の明かりに気がついた。幽霊のように若い娘がそこに居た。よく見ると茨城屋のお嬢さんだった。声を掛けると傘の内に入ってきて、貴方のお寺に連れて行ってと言い、尼になりたいという。このまま家に帰ったら大変だからと、棟割り長屋に連れて行った。隣に住む尼さんにお願いし濡れた着物を着替えさせ、落ち着いた所で聞くと、ここは駒込の吉祥寺だという。鉄願を阿弥陀様だと言い、少し気が違っているのが分かった。家を抜け出したのも天人が導いてくれたし、父親は庄太郎に殺されたと天人に教えてもらった。杯を交わしましょうのと言われたので、酒は無いが湯呑みを出すと、お父つぁんが見ているからイケマセン。その方向を見ると二人の影がちらちらと動いている、「旦那様私はやましいことは何もいたしません。お嬢さんをただ守るだけです」といって、一晩中お嬢様の話し相手を務めた。

 翌朝、雨もあがったのでお嬢様の手を取って米沢町の茨城屋の店の前に立った。大声で「野州無宿の直助出て来い」と怒鳴ったところに鉄願を世話した捕り物の同心が現れた。前々からおかしいと踏んでいたので、ここで見張っていた。鉄願に先を越されたが、二人を縛り上げてきた。調べると二人は兄弟では無く、昔の悪の仲間で、茨城屋乗っ取りを画策してのことであった。
 木曽路に調べに行くと、旦那と手代は川に突き落とされて居たが、木こりの家に助けられ、医者に診せると傷は負っていたが元気になった。

 娘の婚礼が開かれた。立派な式で、木曽に行った手代を婿に結婚式が開かれていたが、正客として式に招かれていた鉄願ではあったが、坊主は晴の式には似合わないと、旅姿で庭の片隅に控えていた。旅に出て手に職付けて帰ってきますが、門出のご祝儀に贈る物もありませんのでと、住吉踊りを踊った。
 鉄願の頬を伝うのは雨ばかりでは無く、涙も含まれていた。

 



1.願人坊主
 人に代って願かけの修行・水垢離などをした乞食僧。これにもピンキリがあって、坊主の格好をして、賽銭をたかるものから、門口に立って宗旨を見極め、その宗旨のお題目を唱える者も居る。芸が出来る者になると街頭で住吉踊りやカッポレを踊り、観客からお布施をもらう者も居た。代参をするとか、鐘を奉納するとか、お寺の修繕金だとかの名目で寄付を集めたが、そんな事をする者は無く、みんな自分の食い扶持になった。坊主の格好をした乞食ですから、衣服も汚く、湯にも行かないから臭かった。
 主人公の願人坊主は、片方の手に釣り鐘建立という小さな幡を持ちその手に数珠を提げ、反対の手には番傘を提げ、頭はイガグリで髭が生えて垢だらけで、衣は破れていて縄のタスキを掛けじんじんばしょり*をした、どう見ても威勢の良い形では無かった。
 願人坊主は他の落語の中にも登場します。「藁人形」の主人公西念が、千住の若松で板頭を張っているお熊に騙されます。また、「黄金餅」の、下谷・山崎町に住んでいる西念(名前が同じです)は貯めた金を餅に包んで飲んで死んだ。その職業が貧乏坊主と言いますが、これは願人坊主。「らくだ」では、らくだの死骸を落としたので拾いに行くと、道に穴を掘って裸で寝ていた願人坊主を拾い上げてきた。

*;(ヂヂイバシヲリ(爺端折)の転訛) 背縫いの裾から7~8寸上をつまんで、帯の結び目の下に挟むこと。

上図;「願人坊主」 江戸職人歌合より。2015.05.追記

 

2.神田橋本町(かんだ_はしもとちょう)
 橋本町=千代田区東神田一丁目の一部。願人坊主が多く住んでいたという。

両国米沢町(りょうごく_よねざわちょう);米沢町=中央区東日本橋二丁目の一部。両国橋の西側、両国広小路と言われた地。薬種問屋・茨城屋勘兵衛の店があった。落語「四つ目屋」の四ツ目屋さんや、「幾代餅」の元花魁・幾世が店を出していた御餅屋さんや、「お藤松五郎」では草加屋というお茶屋が有ったりした繁華街。

隅田川(すみだがわ);江戸を東西に分ける川。大川とも呼ばれ、北から南に吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋が架かっていた。

薬研小町(やげんこまち);薬研堀(薬研の形、すなわちV字形になった底の狭い堀)が現在の両国橋西側にあった。ここには薬研堀不動院があって、この地域の小町(美人)だと言われていた。

三宅島(みやけじま);東京の南海上175km、伊豆大島の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした伊豆七島のひとつで、東京都三宅島村。江戸時代、島流し、遠島の地で、江戸や京の文化が流入したので、他島より文化水準が高くなった。火山島なので2000年の噴火によって全島民が島外へ避難し、2005年2月1日に避難解除された。伊豆半島南部からは伊豆大島を含めて、三宅島も見ることが出来ます。今は流刑の島では無く観光の島です。

柳原の柳森神社(やなぎはら やなぎもりじんじゃ);神田川(外濠)の南岸で、浅草橋から西に筋違い御門(今の万世橋先)までの土手の地。ここには古着屋または既製品の着物屋が集まっているので有名だった。
その万世橋手前に現在でも地域の中心として、柳原富士として有名だった柳森神社(柳森稲荷=千代田区神田須田町二丁目25)があります。
 

 「柳森神社と古着市」新撰東京名所図絵 明治後半 右側の鳥居とその先の塀内が柳森神社。

駒込の吉祥寺(こまごめ きちじょうじ);落語家さんは「きっしょうじ」と言いますが「きちじょうじ」が正式名。文京区本駒込三丁目19にある曹洞宗の寺院。大きな敷地を持ち、江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん=落語「鈴振り」に詳しい)が作られ、幕府の学問所「昌平黌」(しょうへいこう)と並んで漢学の一大研究地となった。また、お芝居で有名になった八百屋お七の比翼塚がある。お七の墓は近くの円乗寺(文京区白山一丁目34)にあります。

 

3.言葉
縦暖簾(たてのれん);歌舞伎世話物大道具で使われる定型で、
店の正面にしつらえられた押入れと鼠壁とに挟まれた、奥に続く出入口に掛けられた暖簾。 下図の舞台写真が典型的な間取り。

五月雨(さみだれ);陰暦5月頃(現在の6~7月の梅雨時)に降る長雨。また、その時期。さつきあめ。梅雨。
 「五月雨をあつめて早し最上川」奥の細道の松尾芭蕉

文政6年(ぶんせい6ねん);1823年、江戸幕府が終焉するまで約50年弱。十二代将軍徳川家斉の時世。
 「武江年表」には、「五月十九日より、近在に出水、大川筋 大水…両国橋危うく、新大橋は半ばくぼみたり。小塚原地蔵尊膝の上まで水あり」と記されています。
また、この年は水害が多く、文政6年7月。翌月の8月17~18日江戸に風水害、大津波起こる。このため、幕府より白米3升、銭300文が支給された。
翌年、文政7年8月江戸にまたも大風雨、隅田川出水、関東・奥羽でも被害を出す。

薬種問屋(やくしゅどんや);薬の材料。薬材。主として、生薬(キグスリ)をいう。それを扱う問屋。

手代(てだい);上に立つ人の代理をなす者。江戸時代の商家では番頭と小僧との中間に位する身分であった。

袖屏風(そでびょうぶ);袖几帳。袖を挙げて顔をおおいかくすこと。右図

お金(おかね);小判と金を含有したその少額貨幣。1両小判(現在の8万円)と1分金(同2万円)、1朱金(同5千円)を指し、庶民では金額が大きすぎて銭を使った。文政の頃、銭5000文が約1両。

野州無宿(やしゅうむしゅく);江戸時代、野州生まれの無宿人。野州は「下野(しもつけ)国」の略称で、今の栃木県一帯。無宿は、現在の戸籍台帳と呼べる宗門人別改帳から除外された者。悪事を重ねた者や困窮した農家からはみ出した者等を家族に累が及ぶのを恐れ、親族から除外し勘当すること。

棟割り長屋(むねわりながや);棟の下で両側に割り、それぞれの側を数戸に仕切った長屋。分かりやすく言うと、屋根の一番高い所を棟と言い、棟にそって壁を作り、左右も壁を作って仕切り、その間を一所帯の部屋とした。普通の長屋は裏に抜けられるのですが、この長屋は裏も両隣も壁で、その向こうには他人が住んでいた。

正客(しょうきゃく);主賓。上座に座る上客。

住吉踊り(すみよしおどり);大阪住吉神社の御田植神事に行われる踊り。縁に鏡幕をつけた菅笠を冠り、白の着付に墨の腰衣、白の手甲・脚絆、茜(アカネ)色の前垂、白布で口を覆い、一人が長柄の傘の上に御幣をつけたものの柄を右手の割竹で打ちながら唄を歌い、踊子がうちわを持ってその周囲をめぐって踊る。願人坊主によって流布され、のち川崎音頭・かっぽれとなる。
右図;東海道五十三次より「日本橋・朝の景」広重画 日本橋に描かれている、傘を持った一行が住吉踊りの一団です。軒付けで生計を立てています。
かっぽれ;「カッポレカッポレ甘茶でカッポレ」という囃子言葉からの名。江戸末期、住吉踊から出た大道芸のひとつ。
 現在、寄席の舞台で芸人が揃って踊ることが有り、志ん朝も亡くなる前、仲間と踊った。

 「かっぽれ」 伝統江戸芸かっぽれ寿々慶会 深川江戸資料館にて

 



 舞台の柳原土手を歩く

 

 浅草橋は神田川に架かる浅草橋御門が有った地で、江戸の見附では厳重を極めた。日本橋からここを通って浅草から水戸街道につながる要衝の地でした。その橋際には郡代屋敷が有り、訴訟を持ち込む訴人は皆隣の馬喰町で宿泊した。その馬喰町の東側に米沢町があった。

 米沢町は両国橋の西詰めで、俗に両国広小路と言われ、見世物小屋や水茶屋が軒を並べ、江戸の大繁華街を形成していた、そのキワの町です。茶屋や料理屋、芸者も呼べる料亭がひしめき、小さな店では四ツ目屋や幾代餅屋までありました。
 現在は中小の事務所や食べ物屋等が並んだ、変哲も無い極普通の街並みと街の活気を感じます。この米沢町の奥に薬研堀不動院があり、薬研堀が有ったことからこの名が付いています。この辺り一帯を俗に薬研堀と言い、この地の美女を土地の名を取って薬研堀小町と言った。現在でもいるのでしょうかね、いるとしても病的に寝込んでいたら逢えません。

 馬喰町を挟んで西側には橋本町が有りました。噺では願人坊主が多く住んでいたと言いますが、今は何処にも長屋も願人坊主も見掛けません。横山町、馬喰町は衣料品問屋が集中している所で、表通りには大きな店舗を構えていますが、この橋本町はその問屋の倉庫とか駐車場ピルが建ち並んだ街になっています。
 この噺の舞台は橋本町を中心に5~600mを行動範囲にしていたのでしょうか、東に先程の両国橋から、西は柳原土手の柳森神社までそっくり鉄願のテリトリーに納まります。

 橋本町の北には神田川(外濠)が流れていて、南側の土手を柳原土手と言いました。この柳原土手には古着屋さんが軒を並べていました。着物は反物で買い、それを仕立てに出したり、自分で仕立てました。それ以外の着物の買い方は全て古着の範疇に入りました。人が手を通した物は当然古着ですが、今で言う既製品で仕立てられた着物は古着の範疇でした。現在で言う自動車でも、全く人の手に渡っていなくて、ディーラー登録された物は新古車と言われ、新車とは区別されています。着物も反物以外は古着屋さんが扱いました。
 柳原土手を西に進むと筋違い橋が有って、これも見附でしたが、現在は無くなってもっと手前に万世橋が架かっています。浅草橋から筋違い御門までが柳原土手で、万世橋手前にはJRの線路が神田川を渡っていますし、その手前に並行して新幹線が走っています。その手前に土手の川よりの斜面に江戸三森の一つ、柳森神社が有ります。

 柳森神社は、太田道潅が江戸城を築いた際、現在の神田佐久間町辺りに柳を植えて鬼門除けとした。万治2年(1659)、神田川の築堤のため現社地に奉遷。新橋の烏森(からすもり)神社・日本橋堀留町の椙森(すぎのもり)神社とともに江戸三森と称された。 境内社の福寿社は五代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像を祀る。狸に「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして信仰を集める。
 柳森神社の灯明の明かりに気がついた鉄願であったが、雨の帰り道暗い中で、今の神社には灯明で明かりが漏れる所はありません。灯明で無く灯籠なら一基ありますので、灯籠の明かりの中に幽霊のようなお嬢さんが立っていたのでしょう。
 ここには薬研堀小町は居ませんが、石で作られた御タヌキ様はいますし、野良猫がここの主のような顔をして参拝者の品定めをしています。

 

地図



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写真


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米沢町(中央区東日本橋二丁目)
 両国橋上から見る米沢町跡。江戸時代は両国橋はもう少し南側(写真左側)に架かっていました。右側のビル辺りは両国広小路といって火除け地になっていたが、緊急の時は壊すと言うことで茶屋や、見世物小屋、床店、寄席などが並んだ繁華街になっていました。その左側の街。

薬研堀不動院参道 (中央区東日本橋二丁目)
 上記写真の奥に不動院が有り、両国橋から入る道が参道として賑わっています。賑わっているといっても門前町では無く、服飾関係の店が多く並んでいます。写真は不動院を出て、両国橋方向を見ています。この通りの右側が米沢町。

薬研堀不動院(中央区東日本橋二丁目6)
 米沢町の奥が薬研堀不動院です。この不動院は川崎大師の別院で、厄除け不動とも商売繁盛の不動とも言われます。また、毎月28日は無料で講談を聞くことが出来ます。

橋本町(千代田区東神田一丁目)
 馬喰町の西隣の街で、ここも衣料品問屋の関連ビルが建ち並んでいます。また、都立一橋高校があります。写真の靖国道路に架かる歩道橋の右側一帯が橋本町跡です。

柳原土手(神田川南土手道)
 浅草橋から続く元土手道には、柳が並木として植えられています。写真の右側が今は平坦になりましたが柳原土手でした。

柳森神社前(千代田区神田須田町二丁目25)
 表通りは昔ながらの土手上ですが、周りの地盤と同じ高さです。神社は神田川に下る土手の斜面に建っています。ですから、鳥居をくぐると階段を下りて境内には入ります。

柳森神社・富士塚
 江戸切り絵図にも富士塚の絵が入っています。土手下ですから頂上が土手と同じぐらいになっていたのかも知れません。その遺構や碑が残っています。

柳森神社・灯籠
 お灯明の明かりに照らし出されたお嬢さんが居た、と言いますが、雨の夜中に本殿の灯りは消えているでしょうから、この灯籠に灯が入っていたのでしょう。今でも周りは夜になると真っ暗になります。

柳森神社・神田川面
 社殿の裏側は土手を下って神田川に接しています。今はコンクリートの壁のような土手になっていて、その風情はありません。

吉祥寺(文京区本駒込三丁目19)
 二宮尊徳、榎本武揚などのお墓が有り、八百屋お七と吉三郎の比翼塚があります。焼けなかった山門が往時の格式を誇っています。

                                                           2013年8月記

 

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