落語「五月雨坊主」の舞台を歩く
村上元三作
主人公の願人坊主は、片方の手に釣り鐘建立という小さな幡を持ちその手に数珠を提げ、反対の手には番傘を提げ、頭はイガグリで髭が生えて垢だらけで、衣は破れていて縄のタスキを掛けじんじんばしょり*をした、どう見ても威勢の良い形では無かった。 願人坊主は他の落語の中にも登場します。「藁人形」の主人公西念が、千住の若松で板頭を張っているお熊に騙されます。また、「黄金餅」の、下谷・山崎町に住んでいる西念(名前が同じです)は貯めた金を餅に包んで飲んで死んだ。その職業が貧乏坊主と言いますが、これは願人坊主。「らくだ」では、らくだの死骸を落としたので拾いに行くと、道に穴を掘って裸で寝ていた願人坊主を拾い上げてきた。 *;(ヂヂイバシヲリ(爺端折)の転訛) 背縫いの裾から7~8寸上をつまんで、帯の結び目の下に挟むこと。
上図;「願人坊主」 江戸職人歌合より。2015.05.追記
2.神田橋本町(かんだ_はしもとちょう)
■両国米沢町(りょうごく_よねざわちょう);米沢町=中央区東日本橋二丁目の一部。両国橋の西側、両国広小路と言われた地。薬種問屋・茨城屋勘兵衛の店があった。落語「四つ目屋」の四ツ目屋さんや、「幾代餅」の元花魁・幾世が店を出していた御餅屋さんや、「お藤松五郎」では草加屋というお茶屋が有ったりした繁華街。
■隅田川(すみだがわ);江戸を東西に分ける川。大川とも呼ばれ、北から南に吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋が架かっていた。
■薬研小町(やげんこまち);薬研堀(薬研の形、すなわちV字形になった底の狭い堀)が現在の両国橋西側にあった。ここには薬研堀不動院があって、この地域の小町(美人)だと言われていた。
■三宅島(みやけじま);東京の南海上175km、伊豆大島の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした伊豆七島のひとつで、東京都三宅島村。江戸時代、島流し、遠島の地で、江戸や京の文化が流入したので、他島より文化水準が高くなった。火山島なので2000年の噴火によって全島民が島外へ避難し、2005年2月1日に避難解除された。伊豆半島南部からは伊豆大島を含めて、三宅島も見ることが出来ます。今は流刑の島では無く観光の島です。
■柳原の柳森神社(やなぎはら やなぎもりじんじゃ);神田川(外濠)の南岸で、浅草橋から西に筋違い御門(今の万世橋先)までの土手の地。ここには古着屋または既製品の着物屋が集まっているので有名だった。
「柳森神社と古着市」新撰東京名所図絵 明治後半 右側の鳥居とその先の塀内が柳森神社。
■駒込の吉祥寺(こまごめ きちじょうじ);落語家さんは「きっしょうじ」と言いますが「きちじょうじ」が正式名。文京区本駒込三丁目19にある曹洞宗の寺院。大きな敷地を持ち、江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん=落語「鈴振り」に詳しい)が作られ、幕府の学問所「昌平黌」(しょうへいこう)と並んで漢学の一大研究地となった。また、お芝居で有名になった八百屋お七の比翼塚がある。お七の墓は近くの円乗寺(文京区白山一丁目34)にあります。
3.言葉
■五月雨(さみだれ);陰暦5月頃(現在の6~7月の梅雨時)に降る長雨。また、その時期。さつきあめ。梅雨。
■文政6年(ぶんせい6ねん);1823年、江戸幕府が終焉するまで約50年弱。十二代将軍徳川家斉の時世。
■薬種問屋(やくしゅどんや);薬の材料。薬材。主として、生薬(キグスリ)をいう。それを扱う問屋。
■手代(てだい);上に立つ人の代理をなす者。江戸時代の商家では番頭と小僧との中間に位する身分であった。
■袖屏風(そでびょうぶ);袖几帳。袖を挙げて顔をおおいかくすこと。右図
■お金(おかね);小判と金を含有したその少額貨幣。1両小判(現在の8万円)と1分金(同2万円)、1朱金(同5千円)を指し、庶民では金額が大きすぎて銭を使った。文政の頃、銭5000文が約1両。
■野州無宿(やしゅうむしゅく);江戸時代、野州生まれの無宿人。野州は「下野(しもつけ)国」の略称で、今の栃木県一帯。無宿は、現在の戸籍台帳と呼べる宗門人別改帳から除外された者。悪事を重ねた者や困窮した農家からはみ出した者等を家族に累が及ぶのを恐れ、親族から除外し勘当すること。
■棟割り長屋(むねわりながや);棟の下で両側に割り、それぞれの側を数戸に仕切った長屋。分かりやすく言うと、屋根の一番高い所を棟と言い、棟にそって壁を作り、左右も壁を作って仕切り、その間を一所帯の部屋とした。普通の長屋は裏に抜けられるのですが、この長屋は裏も両隣も壁で、その向こうには他人が住んでいた。
■正客(しょうきゃく);主賓。上座に座る上客。
■住吉踊り(すみよしおどり);大阪住吉神社の御田植神事に行われる踊り。縁に鏡幕をつけた菅笠を冠り、白の着付に墨の腰衣、白の手甲・脚絆、茜(アカネ)色の前垂、白布で口を覆い、一人が長柄の傘の上に御幣をつけたものの柄を右手の割竹で打ちながら唄を歌い、踊子がうちわを持ってその周囲をめぐって踊る。願人坊主によって流布され、のち川崎音頭・かっぽれとなる。
「かっぽれ」 伝統江戸芸かっぽれ寿々慶会 深川江戸資料館にて
浅草橋は神田川に架かる浅草橋御門が有った地で、江戸の見附では厳重を極めた。日本橋からここを通って浅草から水戸街道につながる要衝の地でした。その橋際には郡代屋敷が有り、訴訟を持ち込む訴人は皆隣の馬喰町で宿泊した。その馬喰町の東側に米沢町があった。
米沢町は両国橋の西詰めで、俗に両国広小路と言われ、見世物小屋や水茶屋が軒を並べ、江戸の大繁華街を形成していた、そのキワの町です。茶屋や料理屋、芸者も呼べる料亭がひしめき、小さな店では四ツ目屋や幾代餅屋までありました。
馬喰町を挟んで西側には橋本町が有りました。噺では願人坊主が多く住んでいたと言いますが、今は何処にも長屋も願人坊主も見掛けません。横山町、馬喰町は衣料品問屋が集中している所で、表通りには大きな店舗を構えていますが、この橋本町はその問屋の倉庫とか駐車場ピルが建ち並んだ街になっています。
橋本町の北には神田川(外濠)が流れていて、南側の土手を柳原土手と言いました。この柳原土手には古着屋さんが軒を並べていました。着物は反物で買い、それを仕立てに出したり、自分で仕立てました。それ以外の着物の買い方は全て古着の範疇に入りました。人が手を通した物は当然古着ですが、今で言う既製品で仕立てられた着物は古着の範疇でした。現在で言う自動車でも、全く人の手に渡っていなくて、ディーラー登録された物は新古車と言われ、新車とは区別されています。着物も反物以外は古着屋さんが扱いました。
柳森神社は、太田道潅が江戸城を築いた際、現在の神田佐久間町辺りに柳を植えて鬼門除けとした。万治2年(1659)、神田川の築堤のため現社地に奉遷。新橋の烏森(からすもり)神社・日本橋堀留町の椙森(すぎのもり)神社とともに江戸三森と称された。
境内社の福寿社は五代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像を祀る。狸に「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして信仰を集める。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2013年8月記 |
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